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批評断想IDEA

 愛と疑似体験は文学を救えるか  1991

 問題は《現在》である。私達は今何処にあり、何処に行こうとしているのか。時代が大きく変わろうとしていることだけは良くわかっているのに、自分のいる場所がよくわからない。テレビや新聞はまるで目撃者のように世界の出来事を伝えているのに、自分にはそれが実感として納得できるものは何もない。希薄になっていく体験領域と肥大化する情報世界との落差の前で、表現は何を選び何を描こうとしているのか。突き詰めてしまえば、私に課せられた問いは、それだけである。批評家はそのことに意識的に対峙しているのに対して、表現者は全く無意識にくぐり抜けようとしている。どちらが、より困難に挑んでいるかなどとは言うまい。要するに怠惰なものたちの没落を無慈悲にも踏み越えて、私達は新しい年も進んでいくことにしよう。そして謙虚に私達が保持してきた概念に限界があるならば、そのことを確認し、新たな血路はいかにして展望されるかを探求しよう。

 俵万智の『サラダ記念日』に始まり、村上春樹『ノルウェイの森』、吉本ばなな『キッチン』と続いた純愛ベストセラー路線に九十年は二谷友利恵『愛される理由』が加わった。時代がハイブリッドになっていけばいくほど、この「シンプル」で「ピュア」なものへの憧れは否定すべくもなく強まっていく。単層的な農耕社会が近代的なものへと、工業と情報を軸に転換し、錯綜しもつれていくほど、一筆書きのようなエコロジカルな世界観が増幅したように、時代の表層には単純なものを求める傾向が浮上してくる。このことはよいとかわるいとかの判断を超えて不可避の精神力学である。私達の社会が今後も発展していくと考えるなら、「シンプル イズ ベスト」というイデオロギーは依然として一つの支配的思想として存在し続けるだろう。まことに愛は不滅であり、新しい装いを凝らしただけの物語が無意識的にベストセラーを重ねていくことだろう。それが多分、誰も信じていないのに、そうありたい、と見せかける神話的世界へと通じているとすれば、九十年のもうひとつのベストセラー物語、礼宮と川島紀子を巡る「キャンパスの恋」、平成ロイヤル・シンデレラストーリーがまさしくその中心にあったことも不思議ではないはずである。プリンセスは、3DKの質素な(シンプルな)暮らし。しかし、けなげで賢くボランティアとして真心あふれ、しかも笑顔が汚れなく(ピュアで)美しい(ビューティフルなのだ)。その娘が信号待ちの交差点で、初恋の人に愛を告げられ、そして結ばれる。しかもその人は高貴な家柄のプリンスだった――。こんな出来すぎた物語を誰が信じるだろうか。しかし、表層において人々はこれを信じ、他人事でしかない二人の愛のセレモニーを共に味わったのである。これほど見事に消費された物語を、私達はしばらく見たことがない。私達の体験は全くこの物語とコミットしていない。にもかかわらず、ひとつの現実的体験のようにたち現われている。その不思議さ。ここで私達は呟いてみなければならない。「疑似体験は体験を超えているのか」と。

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 春樹やばななのように日の当たる場所を歩いているわけではないが、現代の若い表現者たちはテレビゲームに代表される疑似体験の世界に作品を依拠させることを通じて現在を表現しようとしているように見える。   
 ここでは島田雅彦、川西蘭、太田健一という三人の作家を取り上げてみたい。
 まず、挑発的であることによって自らの正体を誤らせてきた島田雅彦の『ロココ町』に目を向けてみよう。私達はそこに巧妙に仕組まれた探偵物語を楽しみながらいつしか危ない世界に誘いこまれてしまう。
 物語は、大学時代に同じメディア研究会に所属していたコンピュタープログラマーの友人が失踪したため、主人公が彼を探すため、ロココ町に足を踏み入れる。そこは現実の世界と良く似ているが、しかし、現実にみせかけた虚構都市であり、友人を尋ねるうちに主人公もまた快楽に満ちたそのロココ町の住人になってしまうというようなものだ。
 疑似体験はここではテレビゲームではなく、遊園地での快楽に擬せられている。

 遊園地と都市はいくつものアナロジーによって結びつけられる。都市は境界のない拡大された遊園地であると見ることはできないだろうか。アパートや学校、会社、そして様々な職業を持った住人を抱える遊園地、無数の出入口を持ち、誰でも自由に往来する開放された遊園地、大人も子供も、男も女も、老人も若者も楽しめるレジャー施設が無数に配備された巨大な遊園地こそ今日の都市の姿ではないだろうか。

 この都市=遊園地論は別段目新しいものではないかもしれない。ちょっと考えれば、思い浮かぶ凡庸な比喩かもしれない。島田の独創はこの遊園地の進化を考えることである。「われわれは遊園地都市、特に東京に多くを学び、その機能をさらに拡大した二十一世紀の超遊園地都市を構想する時期に来ている」。ではその超遊園地都市とはどういうものか。

 超遊園地都市はネットワークそのものである。地縁や血縁を軸にした閉鎖的な空間が開放された時、近代都市ができ上がったとするならば、超遊園地都市はその近代都市をさらに開放する。

 超遊園地都市の中心には情報管理システムが置かれ、住民に関する情報を管理すると同時に、住民の教育も行なう。住民の教育はテレビやビデオ、テレビゲームなどのメディアを通じてなされるだろう。

 人間は情報ゲームの中の駒に過ぎない。しかし、人間もまた一つの情報ゲームであり、細胞が駒の役割を果たしているのである。(中略)人間は生命を持った動物である必要はなくなった。 

 そうした超遊園地都市こそロココ町である。つまらない空想だと笑うのは簡単だ。しかし、私達はもしかたらとうに近代が夢想した「自由な個人」などではなく、管理された情報の「一つの駒」になってしまっているのではないか。とすれば、私達は「一つの駒」としてどこまでゲームを楽しめるか、というところにしか希望は残されていないのではないのか、という暗い自問がよぎる。実際、この小説の中で最も美しい場面は次のように描写されているのだ。

 いま一人、ぼくが興味を持ったのは中学生と思しき女の子だった。彼女も姿の見えない誰かと話をしていた。そして、ひどく悲しそうで、時々涙声になるのだった。彼女が何を悩んでいるのか相談に乗ってやれる気がして、ぼくはそっと声を掛けてみた。
「友達と話してるの?」
 彼女はこつくりとうなずいた。
「その友達のこと話してくれるかな」
「話しても大人の人はわかってくれない」
「わかるかわからないか、話してみないと。その友達は死んじゃったのかい」
 少女はかぶりを振った。
「まだいきているけど、死にそうなの」
「今何処にいるの?」
 彼女は「ここ」といって、自分の胸に手を当てた。
 「君の心の中にいるんだね。つまり君の分身ということだ」
 少女は西陽を背にしたぼくの顔をまぶしそうに見た。
「わかるの?」
       (中略)
 ぼくは彼女を送ってゆくことにした。やがて、この少女は優秀なロココ町の住人になってゆくに違いない。分身を作る能力、夢を見る才能に恵まれた全ての者にロココ町は開かれているはずだ。

 私達は今どれほどの夢を見ることを許されているか。その絶望感の向こうに、コンピューター・ファシズムの世界は静かに口を開いて待っている。島田はロココ町という架空世界を通じて語りかけているように見える。疑似体験の世界には現実にはない快楽があふれているとすれば、私達もまたロココ町に行くべきだろうか。

 島田雅彦が一種のパラレル・ワールドを想像力によって作りだしたとすれば、川西蘭の『港が見える丘』はテレビゲームそのものを道具として物語を作っている。病気の少女は自らの経験するはずの物語をコンピューターにプログラムし、コンピューターマニアのぼくはそのプログラムの中にいつしか引き込まれ関わりを持つてしまう。そして物語は現実とゲームの境界を超えて確実なリアリティーを持って展開していく。         
 川西のモチーフは文中で端的に示されている。

 われわれは最近の依頼及びその処理状況を分析した結果、ひとつの特殊なコンピュータ・ゲームの存在を知った。われわれが取り扱ったケースの八割にこのコンピュータ・ゲームが関係していた。このコンピュータ・ゲームの特殊性は、一度ゲームを始めると、日常的な事柄にはまったく関心を示さなくなるところにある。彼らプレイヤーはあたかもコンピュータ・ゲームの世界が唯一の世界であるかのように振る舞っている。このコンピュータ・ゲームについての詳しい分析が欲しい。破壊もしくは除去の方法も含めて検討されたい。コンピュータ・ゲームの名称は「港が見える丘」。各種ネットワークに移植され、増殖している。

 主人公の「ぼく」もまた、いつしかゲームと現実の境界を忘れて少女との物語に熱中してしまうことはいうまでもない。ラストシーンの少し前の描写。

 ぼくは少女の顔を引き寄せ、額にキスをした。少女の頬は涙で濡れ、唇はかすかに震え続けていた。
「十年後にわたしはあなたに会える」と少女は呪文のように言った。「でも、今のわたしは二度とあなたに会うことはできない」
 少女の部屋のドアが開いた。
 少女の姿が少しずつ薄れていく。陽炎のようにゆらめきながら、彼女は消えていく。
「アンナは”白い自転車”に乗ってやって来る」
 少女の声だけが響く。港が見える丘にある部屋であなたはアンナと暮らし始める。
 ぼくは窓を開け放ち、腕組みをして、マンションの入り口に続く道を見ていた。陽が傾き始め、空気が少し冷たくなった。
 遠くでキラリと金属が光った。目を凝らして、光りを見る。それは白い自転車のようにも見える。

 引用の前半がコンピューター・ゲームの世界とすれば、後半は多分現実の世界である。しかし、この物語の中では虚構も現実も境目を失ってつながっている。それが不自然でないところに、作者の力量が発揮されているのだが、実はそうした試みが不自然でないところに現代が浮き彫りになっているというべきなのだ。
 少し前、連続少女誘拐殺人事件があって、Mというビデオマニアの青年が逮捕された。私はこの事件の全貌を知りうる立場におらず、同時に一方的に流される状況証拠によって青年が冷酷な犯罪者に仕立て挙げられていくことに嫌悪を感じた。しかし、虚構の世界のほうが現実よりもリアリティーを持ってしまうということは十分ありうることだけは間違いない。感性の喫水線は今、転覆寸前の高さに浮上しているのではないか。
 現在、私達は情報社会の中で、一種の入眠状態を強いられている。そのことに自覚的でありうるかどうかを、文学は疑似体験の物語を紡ぎだすことによって、私達に問うているように思われる。
 太田健一という人の『脳細胞日記』の中の一編「人生は疑似体験ゲーム」という作品はそのものズバリ、私達が二重の世界を生きていることをスラツプスティックなストーリー展開で鮮やかに描き出している。テレビゲーム会社に勤めている主人公は自分の会社のゲームをしているうちに壮絶な戦闘の世界に巻き込まれていく。時間を空間を自由に駆け巡れば駆け巡るほど、主人公は自分が誰であるかわからぬ、迷宮に入りこんでしまう。そして家庭や会社でも悲劇を味わった果てに、主人公は次のよう結論(感慨)に襲われるのだ。

 自分が一体誰であるにせよ、現実が一体どんなものであるにせよ、与えられたゲームをただがむしゃらにやるしかないのだ。あなたは大魔王ミノスと死闘を続けながら心の中でそう思う。自分は何故ゲームをしなければならないのか、ゲームをやることに一体どんな意味があるのか、そんなことを考える必要はないはずだ。考えたところで何ものも生み出せないし、そんなことを考える余裕があるなら、どうやって敵を倒すか、どうやってゲームに勝つかを考えた方が利口というものだ。もしそれが嫌なら、後はSUICIDEキーを入力するしか道は残されていない。

 現実と虚構の境界が消えた世界を生きることを拒むならSUICIDE=自殺しか残されていないというのは随分悲観的な結末である。
 しかし、『ロココ町』『港が見える丘』『人生は疑似体験ゲーム』と読み進むことによって、私達は風俗として捉えがちなテレビゲームが実は私達の現在と未来を暗示していることがわかるはずである。

      2
 都市と遊園地のアナロジーという島田雅彦の小説を読みながら、私が思い浮かべていたのは実は卓抜なひとつのディズニーランド論であった。                             
 ディズニーランドは、錯綜したシミュラークルのあらゆる次元を表す完璧なモデルだ。それはまず錯覚と幻影の遊びだ。海賊船、開拓の国、未来の国などのように。こんな空想世界は企画として大当りすることになっている。だが群衆を魅了するのは、実在するアメリカ、その強制と歓喜を表わす社会の縮図、宗教的快楽、ミニチュア化が、まずそこにあるからにちがいない。

 このようにディズニーランドがアメリカ的生活様式のダイジェストであり、アメリカ人的価値の賞賛であることを分析したのは、哲学者のジャン・ボードリヤールであった。彼の卓抜さは実はもう少し先にある。

 ディズニーランドとは、《実在する》国、《実在する》アメリカすべてが、ディズニーランドなんだということを隠すために、そこにあるのだ(それはまさに平凡で言いふるされたことだが、社会体こそ束縛だ、ということを隠すために監獄がある、と言うのと少々似ている)。ディズニーランドは、それ以外の場こそすべて実在だと思わせるために空想として設置された。にもかかわらずロサンゼルス全体と、それをとり囲むアメリカは、もはや実在ではなく、ハイパーリアルとシミュレーションの段階にある。(中略)
 ディズニーランドの幻想は真でも偽でもない。それは実在のフィクションをリバースショットで再生しようと演出ををもくろむ抑止の仕掛けだ。だからそこにディズニーランドの空想の弱点と、その小児的退行がある。大人は別の世界に、《実在》する世界に居る、と思い込ませるためにこの世界はできる限り子供らしく振舞う。そのうえ本物の小児性がどこにでもあるのを隠そうとして、そしてまた自己の実在する小児性をあざむこうとして、子供の真似をしにディズニーランドにやってくるのは、他ならぬ大人なのだ。
 
 つまり、ディズニーランドは私達の社会のシミュレーションではなく、私達の社会がディズニーランドであることを隠すためにディズニーランドは存在している、とボードリヤールは言うのだ。彼にならえば、監獄は私達の社会が拘束されていることを隠蔽するために存在するのだし、学校は私達の社会が教育されていることを隠すために存在する。療養所は私達の社会が病んでいることを隠すために存在するのだと言えるし、魔女狩りは私達が逸脱した存在であることを隠すために存在している。もちろんこうした分析がどこまで延長できるかは怪しいのだが。
 しかし、生が死を鏡とするように、どこかで一見対立する存在こそが、ひとつの安定を支えているように、思うことはないだろうか。ユダの逆説!背教者こそが実は信仰の殉教を支えているのでは、という疑念。
 とすれば、私達は疑似体験という言葉で語ってきたところのシミュレーションの世界に対して、認識を転回しなければならないのかもしれない。即ち、疑似体験は人生を模したのではなく、いまや人生が疑似体験になっていることを隠蔽するためにシミュレーション・ゲームは存在するのではないか、と。
 つまり若い作家達が疑似体験を描いた作品を書くことの意味も転回されなければならなくなる。彼らは決してシミュレーション社会という風俗を描いているのではなく、シミュレーションこそがもっとも現実的であるからこそ、そうした物語を描いているのである。それは多分「平成ロイヤル・シンデレラ・ストーリー」が現実的であったことと、どこかで通底している。

      3
 ここで問いは初めに戻らねばならぬ。「疑似体験は体験を超えたのか」と。
 松本孝幸という若い理論家は『やわらかな未知のものがたり−現代〈表現〉論』という本で、次のように述べている。

 さて、「待つわ」のヒットは、どのようにして可能であったか?
 それは、〈自己体験〉の新たな〈水準〉の成立によって、である。「体験」が「体験」だけでしかなく、旧来の現実的体験を基盤とした〈自己体験〉の〈水準〉を持ちえなくなる時、〈作為〉(観念)によって、あたかも現実に体験したかのように〈作為〉して、〈自己体験〉の〈水準〉が設定されるのだ。

 大変分かりにくい表現になっているが、要するに、体験が実際の体験とは別の水準で獲得(設定)されるところまで、現在の体験は広がっているということだ。その拡大と実際の体験との錯綜が「あみん」というグループの「待つわ」という歌謡曲がヒット曲として大衆的に受容されたというふうに、松本は言っているのだ。
 この松本の表現論は示唆的である。つまり、疑似体験もまた〈作為〉によって〈自己体験〉となるというのが《現在》なのだ。そのことを表現の基本と考えるならば実は他人事でしかない「平成ロイヤル・シンデレラ・ストーリー」も〈作為された自己体験〉となりうる。さらにはここまで来ると、島田雅彦や太田健一らの実験的な作品と一見対極的な位置にあるかに見える「シンプル」で「ピュア」な純愛路線がなぜベストセラーとなるのかが、改めて分かってくる。
 純愛は私達の中で〈作為された自己体験〉として存在しているのだ。そしてそこに、ボードリヤールを重ねるならば、私達は純情が偽善であり、偽善が純情であるかのようなハイパーリアルな地平にいる。打算的であるとかないとかにはなんの意味もない。ニヒリズムの海に〈作為された純愛〉は浮かんでいる。それをよしとするかどうかは別にして、それが《現在》なのだ。
 純文学とは自己を表現する文学である。その極北に、私小説と呼ばれる文学がこの国では成立したことを私達はここで思い起こすべきだろう。私小説家たちは自らのいきざまを徹底的に描き出した。放浪による生活破綻、恋愛による家庭崩壊、自我を貫くことでの社会的孤立、自己犠牲と献身による革命運動への邁進―。それらこそ、この国の私小説が切り開いた赤裸々な文学地平であつた。だが、そうした私小説が最後に辿り着いたのは、「描かれるべき特別な自己など存在しない」という痛苦な認識であった。そこから伊藤整らの「私小説意識の方法化」という問題提起も出発したのであった。
 そうした伝統の上に私達の現在を重ね合わせてみると「疑似体験」と「作為された純愛」とは、極めて正当な純文学の実験の継承者であるように私には思われる。問題はその表現がどこまでラジカルであるか、ということだけだ。       
 私達は体験に固執することで、なんらかの未来を切り開き得ると考えた時期があった。それが殊更誤っていたとは今もなお思わない。しかし、私達の社会の高度化は体験の質的制約を解き放ちつつあることだけは認めざるを得ない。「疑似体験」も「体験」も等価だ。要するにみんな同じスタートラインにいるのだ。無意識のうちに身に付けていた世代的特権意識は捨てねばならない。 
 文学について謙虚に考えることで、ようやく私はここまで来た。このことが分かってもらえるかどうかは別にして新しい文学は、静かに社会風潮を映し出す中で確実に始まろうとしている。

         (文芸同人誌「詩と創作 黎」第58号、1991年冬季号所収)

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