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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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リポート <60年と70年−戦後史に刻まれた2つの安保闘争>

《戦後大衆運動の頂点》
 戦後最大の大衆運動は何か?と問われれば、誰もが60年安保闘争と答えるのではなかろうか。それほどに1960年(昭和35年)の安保条約改定阻止闘争は国論を二分し日本の針路を決めた戦後史を画する歴史の転換点であった。
 1951年9月8日、サンフランシスコで対日平和条約(講和条約)と同時に締結された日米安保条約(旧安保条約)は、日本には米国への基地提供の義務はあるが、米国が日本を守る義務が明記されていない片務性など多くの矛盾を孕んでいた。このため、政府は「独立国の本質に関わるもの」として58年秋から旧安保条約を改定しようと動いていた。
 この背景には、日本の自衛力(軍事力)増強と日米経済協力をテコに片務性を解消しようとした日本側の意志と、基地紛争などで反米感情が悪化している中で両国関係を改善し、駐日米軍基地の安定を図りたい米国側の狙いがあった。
 これに対して、野党・労働団体を中心にして新安保条約はアジア諸国への緊張関係を生む「日米軍事同盟」であり、日本国内の治安体制を強化し新たな軍国主義(帝国主義化)へ踏み出すものとして強い反発があり、改定阻止は大きな政治闘争になった。
 58年の警職法改悪反対闘争の盛り上がりを受けて、革新陣営は59年3月28日に安保改定阻止国民会議を結成した。社会党、総評、中立労連など13団体が幹事団体を構成し、共産党はオブザーバーとして参加。また幹事団体の青年学生共闘会議の下には、やがて60年安保の主役となる全学連が参加していた。国民会議は統一行動の中央組織であるが、各都道府県にも草の根的に共闘組織が拡大して、その数は最終的には2000を超えたといわれる。
 国民会議による統一行動は59年4月15日の第1次から60年10月20日の第23次まで展開された。また、安保改定批判の声明を出していた知識人たちは7月に安保問題研究会、11月には「安保批判の会」などを結成、運動は政党・労働団体のみにとどまらず学生、婦人、商店員、農民など国民諸階層に広がった。
 北海道では、地方共闘組織として全国最初、しかも中央の統一組織より2日早く59年3月26日、「安保体制打破道民会議」(今村成和会長)が全道労協、平和委員会、社会党など35団体で結成された。5月には北海道独自の反安保中央集会を開いたほか、炭労、北教組などの主要単産闘争と結合して闘争意識も次第に高揚していった。10月11日には美唄で安保改定、炭鉱合理化反対の道拠点地区総決起集会が開かれた。同30日には函館の学芸大生による安保阻止デモが警官隊と激突、逮捕者を出している。さらに11月7日の総評北海道拠点総決起大会では8000人が参加するデモが敢行された。
 安保闘争が最初のヤマ場を迎えるのは59年11月27日の第8次統一行動である。北海道内で約8万人、全国では50万労働者の時限ストを軸に350万人が参加した。早朝のベトナム賠償協定の強行採決が怒りを呼び、国会周辺には6万から10万人のデモ隊が集まり、このうち全学連主流派と東京地評、全金などの労働者部隊2万人が警官隊の厚いバリケードを突破して国会内に突入した。全学連主流派は共産党を批判して結成された共産主義者同盟(ブント)が指導しており、59年6月の全学連大会で、函館生まれの北大生・唐牛健太郎が委員長に就任していた。この国会突入闘争を契機に「ゼンガクレン」は一躍、60年安保闘争を象徴する主役に躍り出た。この日、北海道でも道学連デモ隊が警官隊と衝突、2人が逮捕された。
 年が明けた60年1月6日、安保改定の日米間の交渉が妥結。ワシントンでの調印を前に岸首相を首席とする全権団は16日に羽田空港から米国に出発することになった。これに対して第11次統一行動が設定された。北海道では札幌で1200人規模の「おとむらいデモ」、旭川でも約250人の集会がもたれた。中央では全学連主流派が岸渡米阻止をかけ、15日夕方から700人が空港ロビーに座り込んだ。しかし、16日未明には警官隊が抵抗する学生たちを排除、唐牛委員長ら77人が逮捕された。氷雨の中、学生部隊は早朝再び空港突入を図ったが、岸全権団は空港ビルには入らず、滑走路の出発機に直接乗り込んだ。
 結局、新安保条約は19日に調印され、国会での承認手続きを残すだけになった。

《全学連の国会突入と樺美智子の死》
 安保反対闘争は一時的に中だるみを見せたが、国会では北海道選出の岡田春夫、横路節雄議員ら「安保7人衆」が極東の範囲や事前協議などをめぐって鋭く追及、政府は答弁に窮し審議は思うように進まなかった。
 国民会議は4月15日の第15次行動から、参加者ひとりひとりが国会に請願書を提出する「請願デモ」を開始、国会への直接行動を大衆化した。一方、同19日には韓国で李承晩大統領の不正投票に抗議する学生たちが決起、大統領を亡命に追い込む「4月革命」が起こるなど、体制に反逆する若い力は国際的な広がりを見せた。
 5月に入ると1日のメーデー集会には全国800ヶ所で500万人が参加。国会周辺でのデモに呼応し、北海道内でも主要単産の時限スト、順法闘争が活発に繰り広げられた。国民会議は安保反対・衆院解散を求める1000万人署名、9日から26日までの第16次行動を決めた。
 こうした中で、政府はアイゼンハワー大統領の来日予定の6月19日を新安保条約の自然成立の目標として、強攻策に転じた。5月19日夜、国会を数千人の警官隊で包囲する一方、議事堂内にも数百人の警官を配備につかせた。そして清瀬議長の入室を防ごうとした社会党、共産党議員団を排除して50日の会期延長を図り、混乱の中20日未明、衆議院本会議は新条約批准を自民党が単独採決した。散会は午前零時18分を回ったところだった。
 この非民主主義的暴挙に全国で憤怒の声が巻き起こった。20日の国会周辺には10万人がデモを展開する一方、全学連1万人は国会突入を図り阻止されたものの、約200人が首相官邸を一時占拠した。全国36都道府県で決起大会が開かれ、北海道内では40市町村で抗議集会、デモが行われ、参加者は6万7000人に達した。
 21日には86人の北海道代表をはじめ3万人の地方代表が首相官邸のある東京・南平台に押し寄せ、無届けデモは韓国の李承晩大統領退陣前夜の様相を呈したと報道されたほどであった。北海道では21日、「安保反対文化人の会」(松浦一会長)が「静かな抗議デモ」をした。26日には、札幌・大通公園の「岸内閣打倒・国会解散要求道民大会」に1万5000人の労働者・学生・市民が結集したのをはじめ、全国3300ヶ所で200万人が参加した。このころからスローガンには「安保阻止」から「民主主義を守れ」という色彩が強まり始めた。
 6月4日、総評は解散・総選挙を求め、政治ゼネストを決行した。北海道でも約30万人がこのストに参加。札幌駅では2000人のピケで列車は運行がストップした。スト参加者は全国で560万人。15都府県で約2万の商店が閉店ストを行い、「声なき声」を名乗る市民グループのデモ隊もみられた。さらに10日には全学連反主流派デモ隊が羽田でハガチー米大統領秘書を取り囲み、ハガチーがヘリコプターで脱出する事件も起きた。
 6月15日。この日は安保闘争の頂点であるとともに墓碑銘を刻んだ歴史的一日でもあった。スト参加は118単産580万人。札幌では道学連の抗議デモで、25人の負傷者を出す流血に見舞われた。梅雨の下、10数万人余が結集した国会周辺でも右翼の襲撃で多くの負傷者が出ていたが、1万人の全学連主流派は国会に突入を図り、機動隊と乱闘、東大生・樺美智子さんが命を奪われた。この後も抗議集会や激突が深夜に至るまで繰り返され、負傷者は1000人を超えた。
 高揚する闘いに、岸首相は16日、自衛隊の治安出動の可能性を打診したほどであった。しかし、17日、主要新聞7社は「議会主義を守れ」として、ジャーナリズムの独立性を放棄する異例の共同宣言を1面に掲載するなど、反対運動は次第に冷水を浴びせられ始めた。
 デモの激化をよそに、19日午前零時、新安保条約は自然成立。620万人の早朝ストが行われた翌日の23日、10年間の固定期限を持った新安保条約批准書が交換され、岸首相は退陣を表明。「民主か独裁か」と言われ、国論を分けた安保闘争も政府、反対派双方にあいまいな勝利と敗北感を残したまま終息。日本は米ソの冷戦下で、日米の軍事同盟と経済協力を両輪として進むことを国際社会に宣言したのだった。

《米国のベトナム介入と反戦市民運動》
 60年の混乱から学んだ政府・自民党は強圧的な岸政権から一転して「寛容と忍耐」をスローガンとする池田内閣のソフト路線による高度成長経済政策を登場させた。大衆意識は政治ナショナリズムから生活エコノミズムに変わり、労働界はこれに対応し、職場での賃上げ経済闘争に次第に転換した。しかし、多くの逮捕者を出した全学連主流派は立ち直れず、分裂と解体へ。西田佐知子の「アカシヤの雨に打たれてこのまま死んでしまいたい」という歌声がその虚脱感を代弁し、安中世代に愛唱された。
 米ソ冷戦構造が続く60年代。「世界の警察官」米国は南ベトナム内戦に次第にのめり込み、65年には北ベトナム空爆を本格化、67年には派遣米兵が47万人を超えた。米国占領下の沖縄もベトナム攻撃の前線基地化し始め、68年には米原子力空母エンタープライズの佐世保入港、米戦闘機の九州大学墜落事件などが起き、市民層に反戦意識が醸成されつつあった。65年にはベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)が小田実、開高健らの呼びかけで発足、全国各地に地区ベ平連や大学ベ平連が産声を挙げた。離合集散を繰り返していた学生運動も67年10月8日の佐藤首相の南ベトナムなどの歴訪に対して、ゲバ棒スタイルで羽田闘争に決起、再び興隆の気配を見せた。
 70年安保闘争はベトナム反戦運動を先駆けとして3つの柱で闘われた。第2の柱は東大と日大を軸とした全国学園闘争であり、高度成長の進行の中で資本に組み込まれる学問のありかた、大学の制度的抑圧的体質などが鋭く問われた。最後の柱は沖縄の本土復帰問題である。日本は米国の占領支配から脱したといわれながら、依然として沖縄だけが米国の統治下にあり、しかも非人道的なベトナム戦争の前線基地化していた。この復帰のあり方が沖縄独立論から奪還論までさまざまな議論を呼び鋭く問われた。そしてこれらは東京・砂川−北海道・長沼などの反基地闘争、三里塚(成田)空港建設反対の農民闘争、国労・動労を中心とした反マル生闘争、全逓、全電通などの反合理化闘争などと多様に重なり合い、10年の固定期限が切れる新安保条約をめぐる70年闘争に上り詰めていった。
 長沼闘争は、空知管内長沼町の馬追山への自衛隊ミサイル・ナイキJ基地建設計画に伴い、保安林指定解除など生活権圧迫に対して、地域住民有志が反対同盟を結成。これを労農学、市民が支援したもので、本道の反戦反基地闘争の象徴となった。

《大学を包む全共闘運動》
 東大では68年3月の医学部不当処分闘争をきっかけに、学生存在の幻想性を暴露する「自己否定」が提起され、7月には旧来の自治会−全学連に代わる、さまざまなサークルや個人が主体的に直接参加するスタイルの全学共闘会議(全共闘)が結成された。一方、学生運動とは無縁と思われていた日大でも使途不明金問題に端を発し、同年5月に全共闘が結成された。党派に属さない「ノンセクトラジカル」の学生を主体に産学協同路線を問い、「大衆団交」「バリケードストライキ」を戦術とする全共闘運動は全国に広がった。東大全共闘が安田講堂攻防戦を繰り広げた69年1月には闘争中の大学は70以上に及んだ。同年9月には山本義隆東大全共闘代表を議長とし、秋田明大日大全共闘議長を副議長とする全国全共闘が、全国の178大学全共闘と中核派、社学同など新左翼8派によって旗揚げされ、大学闘争と70年安保闘争を有機的に結合しようとする陣形がつくられた。
 北海道内でも大学を管理強化する大学立法と中教審路線に反発する反日共系学生が激しいストライキとデモを展開した。北大では69年にクラス反戦連合の学生らが入学式粉砕闘争を繰り広げたのをきっかけに、大学当局、共産党系学生との間で緊張が激化。同年11月8日に3000人の機動隊が導入され大学本部の封鎖を解除、学生32人が逮捕されたが、その後も散発的にストライキが続いた。このほか札医大、小樽商大、帯広畜産大、室蘭工大など主要大学で全共闘的組織が結成され、大学立法粉砕などを掲げた闘争が続発し、高校や高専でも「自主卒業式実施」などを訴えた活動が目立った。
 学園闘争は同時に反戦・反安保の街頭闘争へと往還した。東大闘争の始まった68年の「10.21国際反戦デー」では反日共系各派が新宿駅を占拠、6500人が機動隊と激突を繰り返し、騒乱罪が適用された。さらに69年、沖縄の即時全面返還を要求する「4.28沖縄デー」には全国45都道府県で集会が開かれた。東京では首都制圧を叫ぶ学生と積極的に街頭行動をする反戦青年委員会の労働者が新宿、有楽町などで国電をストップさせ、闘争を指導した中核派幹部らに破防法が適用された。
 安保条約の自動継続の方向を打ち出していた自民党は69年10月に正式に延長を決定。こうした方針を受けて、佐藤首相は同年11月訪米し、ニクソン大統領と会談し、21日に日米共同声明を発表。安保条約の堅持と72年の沖縄の「核抜き」「本土並み」返還を明らかにした。しかし、これは侵略前線基地・沖縄を固定化するものであり、同時に「本土の沖縄化」を招く軍事的危険の大きい問題として野党・労働団体・学生の反発を招いた。
 闘争中の北大周辺では1O月21日の国際反戦デーの夜、札幌駅前から北大正門にかけての電車通りで学生と機動隊が激しく衝突、付近の交通は完全にストップした。この日、全国では46万人余が集会、デモを繰り広げた。首相訪米阻止を掲げて、11月16日には42都道府県で12万2000人が抗議集会とデモをし、東京では火炎瓶が飛び交うゲリラ闘争が多発、一部では鉄パイプ爆弾も使用された。

《大衆運動の終焉》
 70年に入ると世界同時革命を叫ぶ赤軍派が3月31日、日航の「よど号」機をハイジャックし、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に入った。4月28日の沖縄デーには20万人が参加、反安保闘争は6月決戦に向けて動き出した。しかし、政府の安保条約自動延長という対応は自民党の衆院300議席という圧倒的優勢もあって国会審議は不発、野党の非力さも加わり国民各層が幅広く参加した60年のような盛り上がりを欠いた。
 6月に入ると、連日のように集会、デモが続いた。しかし、「反安保決戦」を呼号する反日共系各派も大量の逮捕者を出し、大学は機動隊導入で封鎖を解除されて拠点を喪失、過激な闘争は後退させざるを得ず、動員優先のカンパニア闘争に終始した。道内では「6.14行動」に札幌はじめ7市町で2500人が集会とデモ。自動延長本番の23日には160ヶ所で17万人を超す労働者、学生が集会・デモを繰り広げ、3万人が抗議行動をした札幌中心部はデモ隊で埋まり、随所で機動隊との激突が起きた。全国では社共両党、学生、反戦労働者らを合わせ46都道府県に77万人が大結集、ストライキを除いた集会参加数としては史上最高を記録した。
 安保条約はしかし結局、自動延長された。この後、10年の区切りがなくなり「安保条約はいつでも廃棄できる」として、政治焦点化から息の長い闘争へと方針を後景化させた野党陣営、世界同時革命を掲げたものの路線的行き詰まりと内ゲバが激化した新左翼各派の退潮で、運動は沈静化の道をたどった。
 国論を分ける大衆運動としての反安保闘争は60年の国民的大高揚、70年の全共闘−反戦青年委員会を中軸とした街頭決起を最後に実質的に幕を閉じた。軍事同盟と経済協力を両輪とした日米安保体制はその後、大きな論議もなく国民に認知されたとして、99年、政府はさらに周辺事態に対して自衛隊の海外進出を認めるところまで踏み出した。

*参考文献:「北海道年鑑」(北海道新聞社)「北海道大百科事典」(同)「新北海道史・第6巻」(北海道)「現代革命運動事典」(流動出版)「戦後労働運動史Y」(第一書林)など。

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