【hpのための補注】
1995年春の地下鉄での有毒物質散布事件をはじめとしたオウム真理教のテロ事件から30年近くが過ぎた。教団は解散命令を受け、経済的にも破産し、麻原彰晃(本名:松本智津夫)を頂点とした最高指導部と散布テロ実行部隊は大半が逮捕され、2018年7月には、麻原ほか早川紀代秀・井上嘉浩・新実智光・土谷正実・中川智正・遠藤誠一らが死刑を執行された。刑事的にはオウム真理教集団の非道な犯行として決着が付いている。
しかしながら、健康ヨガの研究集団から宗教団体となり政治団体となり、陰謀を重ねた彼らをもてはやしたのはテレビであり、週刊誌であり各種メディアであり、一部の哲学者や宗教学者である。宗教団体としてお墨付きを与えたのはお役所である。オウム増長の片棒をかついだそれらの団体は今は知らぬ顔をしている。
事件当時は私は東京にいて内勤ながら事件を取材・報道していた。都営浅草線、銀座線、日比谷線で銀座の職場に通っており、地下鉄事件の日の朝も出勤していた。絵に描いたような凶悪犯行が行われ、それをハルマゲドンのように煽り、警察と対立する姿は誠に怪しい物語だった。オウム集団が関与していることは間違いないにしろ、広範なオウムシンパの若者。知識層の存在がある一方、裏腹に北朝鮮、ロシア、右翼、左翼の人脈と膨大なカネがちらつく動向に、常識では考えられない深く暗い闇のネットワークが存在するように思えた。
この落ちつきの悪さはオウム集団の中軸が殲滅された今でも変わらない。反共を掲げるカルト集団は自民党に食い込み、彼らの資金は敵対するはずの北朝鮮に提供され、核開発を支えているという風評もある。魑魅魍魎の世界である。
95年当時、私はオウムの犯罪を、オウムであってオウムでない何か(凶悪な謀略)が進めていると感じていた。だから、直截なオウム批判にはいたらず、常に出来事に懐疑的に接していた。そうした態度に不満な向きも多いかもしれないが、そんな雰囲気を知る資料として割り引いて参考にしていただければ幸いだ。
オウム真理教騒動が続いていた1995年。私は何を考えていたのか? 以下へ。
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某月某日
オウム真理教を巡って、世間は風雲急である。
地下鉄での有毒物質散布事件に始まって、時をおかずしての毒ガスに備えての大がかりな体制を取っての山梨県上九一色村の施設群と東京都内のビル捜索、さらに警察庁長官・国松への銃撃など疑惑は留まることをことを知らない。
今回の事件の発端は、妹がオウム真理教に入信し私財を召し上げられることに反発していた目黒の公証役場の事務長の拉致、監禁容疑だが、これより前にオウム真理教とのトラブルを抱えていた坂本弁護士の誘拐、失踪事件も謎のまま残っている。
もちろん、今回の一連の事件に関して、オウム集団が限りなくクロに近いことは否定しようもないが、反面、状況証拠があまりにも多すぎることが、なんとも出来過ぎのきらいがある。これは全く想像の領域に属するが、オウムはどこかで名前と存在を利用されているだけで、内部もしくは外部にオウムを利用して,カタストロフィー状況を作り出して行こうとする目的意識的な組織が二重に存在しているようにも思われてくる。かつてダーティー・ハリーが「正義」の観念に憑かれ、勝手に私刑を繰り返す若手警官グループと対決する映画があったが、どこかでそうした権力に似せて自己を動かしている部分が、一連の犯罪には関係しているようにも思えてくる。
そもそも、オウム真理教の麻原教祖が説いている原始仏教への傾斜、ヨガの実践、出家による脱俗―などはオレには別段、特異でもなんでもない。お布施の召し上げかたがあくどい、というがオレは不幸にましてお布施を召し上げない宗教をみたことがない。スローガンなどに「真善利」を掲げて現世利益を称揚し、その成果を様々な形で召し上げているところが多いのは常識ではないか。葬式仏教たるわが浄土真宗すら、寺を建て替えるなどといっては、大枚を召し上げているのは田舎では常識である。
彼らの思想が仏教に依拠しているのであれば、若干疑問なのは終末論か。あれはどちらかと言えば耶蘇教が本家だ。とはいえ末法を語るのは仏教も同じだし、「災い近し」の予言も、かの日蓮すらも国難を救おうとドタバタしており、宗教家の常套手段だ。
宗教的オカルト集団が、今回大量に押収された化学物質からパソコンまでを駆使していたことに象徴されるところが、極めて彼らの特異性であるように思える。つまり、昔は修行でハイ(悟り)になっていたのが、彼らは薬でハイになっていたのではないかという点がすこぶる現代的に見える。
オレの知り合いの「幸福の科学」の会員にして元民青、ブントシンパだった男は「麻原はカリスマの役割を負っているのだろうが、回りにはいかにも悪そうな連中がまとわりついている」と、坂本弁護士一家失踪事件の直後に話していたことがある。もちろん、きやつによれば、犯行は麻原の知らぬところで集団関係者が決行したとの推論だ。
もし、オウム集団が何らかの形で一連の凶悪事件に絡んでいるとすれば、彼らは多分、集団の内部で同様な体験を経ているような気がしている。つまり、連合赤軍のアナロジーで言えば、彼らは権力との銃撃戦の地平を開いたが、その前に十六の墓標をたてざるを得なかった。オウムもまた、本当の死かどうかはともかくそのような過程を通過せずには、今回の事件に関係できないように思える。
実体論のレベルでは「あいまいな」ことだらけである。しかし、思想のレベルでいえば明確である。誰がコメントしていたのか失念したが、まさにポスト冷戦の「世紀末」状況の中で「透き通った悪」(ボードリヤール)が露出してきたのである。
まさに「未だ/既に」である。
某月某日
オウム真理教というのはつくづく不思議な連中だと、思う。彼らが犯罪に関与しているかどうかは限りなくよくわからないが、その「反権力」感覚ってのには、驚かされる。かつて、武装共産党や新左翼は随分反権力・反警察を叫んだものだが、彼らオウムのレベルはちょっと常軌を超えている。
手元に「警察国家に反対する会」が街頭でばらまいたタブロイド8頁のビラがある。1面には白抜きベタ黒で、「暴かれた警察国家の野望」と度肝を抜く大きさで記されている。
以下各面で「1・隠された真犯人」「2・動機 それは国家権力のみにあり!」「3・『警察の広報係』マスコミ」「4・国家のみに可能な犯行!」「5・次なる彼らの計画はこれだ!」と展開されている。そしてマルチン・ニーメラーの有名な文章「ナチスが共産主義者を攻撃したとき、自分は少し不安であったが、(中略)何も行動にでなかった。」そして社会主義者、学校、新聞、ユダヤ人と攻撃が拡大し、最後に教会を攻撃されたとき、「そのときはすでにおそすぎた」というものが載せられているを見て、うなってしまったのだ。こりゃ、反ナチスの左翼市民戦線側の最も引用してきた文章のひとつだ。それが、オウムによってリフレインされるとは!
最後にスローガンも書き留めておく。
国家の介入がますます強化されていく。破壊活動防止法は戦前の治安維持法と同じだ。
教祖逮捕・全国一斉捜査による宗教弾圧は戦前の大本教弾圧の再現だ。
マスコミと結託した世論操作は、戦前の大本営発表そのものだ。軍隊と警察の連携は戦前警察国家の復活だ。
オウム真理教への宗教弾圧を許せば、今後、国民の思想・信条・活動・行動に対し、国家の介入がますます強化されていくことは間違いない。
今、まさに日本は警察国家になろうとしている。
これって、もう完全に左翼だよな。本気でそう思っているのか、どうなのか。
イメージ的にいうと、権力の謀略論はその昔、革マルがよく内ゲバで持ち出していた論理だし、ファシズム状況を引き出し、国家権力の実体を暴露しようというのは、ブント内の一部にあった傾向ではある。
もちろん、ファシズムに対して武装しようというのはピントはずれではあれ、わからないではないが、もし地下鉄有毒物質散布事件のような無差別テロは連続企業爆破以降の左翼内部の痛苦な反省を考えると、ちょっと左翼がやるとは思えない。謎だ。
さて、オウム真理教と先鋭的に対立している宗教系団体が「LBT」なるオピニオン誌を発行したので、斜め読みしてみた。倫理主義を強制する宗派らしい。荒唐無稽は目を覆いたくなるほどだ。
わがOKRH師は「警告」するのだ。「神戸は世紀末現象の始まりである」「あらゆる天変地異の根本原因は、まず国民の民意にあり、さらには選ばれて政をしている人たちにある」などと日本の大地震を民意と結び付ける主観的観念論を振りかざし、「元凶は唯物的思想、邪教団、悪徳マスコミ」だというのだから、全く支離滅裂でつける薬はない、というべきか。
ヘア・ヌードが地震の一因だなんてマジに言うところが、性的コンプレックス丸出しだぜ。そしてオウム憎しのあまり、「彼らを擁護する人たち」として、吉本隆明、島田裕巳、中沢新一の3人が槍玉にあげられている。残る2人はともかく、吉本隆明は麻原の修行における心的現象を「臨死体験」の表現として高く評価しただけである。それがどうした、という程度のことにいちゃもんをつける「KK」なる団体の方がどうかしているのだ。確かにノリとハサミで様々な「聖典」のエキスを密輸入しているだけのOを吉本隆明が評価しようがないのは当然ではないか。
某月某日
刺殺されたオウム真理教の村井秀夫科学技術省長官が出家する時、「かもめのジョナサン」のような心境になった、と言い残していたというエピソードを聞いて、急にリチャード・バックの原作を読み直してみたくなった。そこで、我が家の本棚から、くだんの本を探そうとした。ところが、マーフィーの法則じゃないが、「読みたい本に限って探そうとするとない」。なにしろ、家が狭い。そこで、その時々に買った本はだんだん雑然と下に下におしやられ、どこにあるか、わからなくなってしまうというわけだ。
たしか五木寛之が訳者だった?ような気がする、英語のタイトルは「ジョナサン・シーガル」だったな、聖なるヒッピーというのかジョナサンは七〇年代初頭のアメリカの若い世代の精神風景―戦争と管理社会からのドロップアウト、それでも本当の生き方を求めての求道的な放浪―そんなものがカモメに仮託されて、散文詩のように綴られていたな。映画もあったな。そんなことがなんとなく思い出されるのだが、肝心のディテイルが忘れられてしまっている。だからこそもう一度、読みなおして、村井氏のような僕等より、かなり若い世代が、どう受け止めたか、考えなおしてみたかったのだ。結局、「ジョナサン」は見つからず、ジョナサン村井の物語はあきらめざるを得なくなった。
こうした本を雑然と置いてあるサティアン状況をなんとかしなければ、と思うが、部屋の狭さの前ではどうにもならない。書斎など持てる暮らしではないうえ、転勤族というわけで新しい住まいに移るたびに本は決まった場所におけなくなってしまうから、「あの本はどこどこに置いてあったな」という記憶も役にたたなくなる。
考え方の問題であるが、自分の本意識を捨てて、本は図書館から借りる、というのが一番いいのかもしれない。ただ、夜中に急に読みたくなったり必要になる本もあり、そうした時には全く間に合わない。しかも図書館は身近にないので、この考えは私には実用的ではない。
次に吉本隆明さんのような最低限、必要な本のみを残して、そうでない本は適宜、古本屋に持って行くか、捨てるということも考えるが、処分した本に限って後で必死で探すという泣きをみることが少なくないのだ。学生時代、なけなしの金で買った多くの本を毎日リュックサックに入れて、売りに行っては、3000円くらいをもらいそれを自動車学校の教習費にあてて過ごしたことがある。本棚で2つか3つぶんが消えてしまったが、後で平田清明の「市民社会と社会主義」や森秀人の「甘薯伐採期の思想−沖縄怨歌 崩壊への出発」といった名著を読みなおそうとして、見つからず古本屋を駆け回ったことがある。くだんの「かもめのジョナサン」にしたって、一度読んだら売られて当然の本のひとつに入っている可能性が高い。
結局私は次のような結論にたどり着いた。現代のような電脳社会では、電子出版を行い出された本をデータベースとして保管・提供することは十分可能である。フェティシズムの傾向の強い人は紙の手触りがないのを不満に思うかもしれないが、それ以外のデザインなどは現在のウィンドウズなどの画像データ処理を使えば、十分に対応できる。データベースをどこがおこなうかの問題があるが、出版社と流通業者が協力すれば簡単に解決できるように思う。パソコンネットに入り、吉本隆明の名前を検索、「共同幻想論」(角川文庫)という本を見つけると、内容表示に入ると、その文章が読める。キーワードを使えば「対幻想」という言葉が出ている部分も簡単にすべて探し出せる。かくて、パソコンが一台あれば、何万冊の本も身近なものになる。出版業界は書籍データベース化を急ぐべし、というのが私の要望であり、ウサギ小屋的な日本の住宅事情、高度な知的情況への最も効果的な解決策であると思う。
某月某日
オウム真理教を巡って、依然として世間は風雲急である。
さる5月3日には教団の顧問弁護士・青山吉伸氏が名誉毀損の容疑で逮捕された。これはあきらかに別件逮捕の極みである。大体、名誉毀損の訴えを起こした(起こされた)くらいで、逮捕されるなら、これはもう警察国家以外の何者でもない。進歩派の日弁連などもこの別件逮捕を許している。冗談じゃないぜ。考えても見よ。オウムだけが特別だという客観性がどこかにあるとでもいうのか。
他山之石という言葉があるが、本当に、他人ごとだと思っていると、そのときは既に遅いのだ。もちろん、オウムが疑わしいのが悪いという、こともできる。オウムは自らファシズムを引き寄せているとしたら、彼らが、真の意味で反体制でなければ、確実に彼らが権力の膨張を許す尖兵になっている。彼らの存在自体が公安のスパイと現象している。オウムは手酷い弾圧を受けていることを否定しないが、かつての過激派とは比べようもないほど、表現の機会をマスコミによって与えられている。彼らは夢物語や胡散臭い言葉をオウム鳥のように繰り返すのではなく、明確に現在的思想路線を提示すべきなのだ。いたずらに、曖昧な姿勢を繰り返すことで、少なからず存在した国民の大衆的支持を失い、権力の反動的跳梁を許している。
オウムの武装化については未だよくわからない。
しかし、彼らが若者を中心として、それなりに浸透していった理由はよくわかる気がする。やはり、日本社会の構造変化が精神的な側面に露出してきたのだ。一つは、会社社会の崩壊であろう。
つまり、日本社会は宗教性が薄いと言われるが、近代においても、ムラ的共同性が精神的支柱になっていた。ムラは周知のように、戦後は会社共同体への帰属という形で、大衆の心理と生活の中心に置かれた。その見返りには終身雇用制と、かつての国鉄一家的な排他意識があった。だが、規制緩和、円高不況に象徴される外圧によるリストラによって、個人は会社に所詮は労働力として使われ、価値がなくなれば捨てられる存在であることが明らかにされた。そうした無意識は一方で、破局への願望(世紀末、最終戦争)や他方で、超能力への願望(オカルティズム)へと向かう。そうした二重の無意識を受け入れる共同体があるとすれば、そうだ、そこにオウム真理教があった。
もう一つ。現代が病んでいるということがある。それは比喩でもあり実体でもある。
オレはやはり十数年前、自律神経失調になってヨガの門をくぐっている。オレがもう少し思い込みが激しければ麻原のような教祖になれたのに、というのは冗談だが、逮捕された青山弁護士が通勤途中に腰を傷め、太極拳やヨガに関心を持ち、オウム真理教に入ったというのだから、危ないところだった。オレは沖正弘導師の沖ヨガの門をくぐったが、肉体的ヨガを超えたら精神的(超能力的)なレベルのヨガへと向かうのはオウムと共通である。ヨガは宗教ではないが、限りなく宗教的傾向を持っている。
オウムとはヨガの聖なる音であり、オレもよく呼吸法として繰り返したし「酵素」と称する濃縮液を飲み、宿便を取るなどという健康法も試みている。オウムは薬を使いこれをもっと極端にやったのだろう。健康ブーム的なものが、病める社会の鏡だとすれば、ここにも罠があった。
そうした現代日本の病理を乗り越える場所はどこにあるか?オレは少なくとも全共闘の近似的世代として言えば、全共闘の「オレが納得しない限りいかなる制度にも妥協しない」との強烈な自我こそが、形式的共同体が崩壊した後の唯一の可能性であった、と思っている。それこそが戦後世代のひとつの達成であった。運動が終息したあと、学習会だの勉強会だののサークルに縮小し甘んじたシコシコ・イズムの責任は大きい。
我が世代よ、ここがロドゥスだ! 跳べ!
某月某日
オウムの麻原尊師による信者へのマインドコントロールがいろいろ指摘されている。実際、あの90年選挙のテーマソングの「ショーコーショーコー」の例のフレーズはいったん頭に入ると、ふとした時に口ずさんでいたりするので、いやになる。
さて、一方で洗脳の専門家がいるとすればには脱洗脳のプロが存在する。最近はテレビでもおなじみのオウム被害対策弁護士の滝本太郎氏の作成した脱オウムの自己暗示文書を入手した。これは信者にテープで聞かせるらしいが、読んでいて、思わず笑えるというと失礼だが、そんなおかしさがあった。
私は、私自身で考える。私は、私自身で考える。/私は、私自身で考える。私は、私自身で考える。/私は、私自身で考える。
私は、生きていてうれしいなあ。私は、生きていてうれしいなあ。/私は、生きていてうれしいなあ。
私は、生きるぞ。私は、生きるぞ。私は、生きるぞ。
私は、逃げてでも生きるぞ。私は、逃げてでも生きるぞ。私は、逃げてでも生きるぞ。
そして、私は、私自身で考えられるぞ。
私は、私自身で考えられるぞ。私は、私自身で考えられるぞ。
以上がイントロである。まあ、自分の思考能力を覚醒させよう―という呼び掛けというべきか。続いて「目的とやっていることが一致しているか」「言っていることに変化がないか」「やっていることが人に迷惑をかけていないか」の3点の確認を求める。その中で麻原尊師の言葉への疑問を示す。
たとえば、「すべての予言を確かめるぞ」「昭和63年に富士山が噴火するはずだったのに、噴火しなかったぞ」「とっくに日本は沈没しているはずだったのに、沈没していないぞ」「羽田政権は1994年までもつはずだったのに、2ヶ月で総辞職したぞ」「予言は当たってないぞ」などというふうに。そして、予言がはずれた後は、麻原師を相対化する。
麻原さんは、ダライラマと友人だといい、スリランカから仏舎利をもらったという。それがどうしたというんだ。それがどうしたというんだ。それがどうしたというんだ。そもそも仏舎利だったら、阿含宗の方が10倍も大きいのを貰っているぞ。(中略)
麻原さんの超能力は本物だろうか。
麻原さんはエスパーカードさえ実験したことがない。 (中略)
水中サマディーは、酸素21%から始まっているけど、富士山道場の酸素濃度は、標高600メートル。もともと21%じゃないぞ。(中略)麻原さんの空中浮揚、あれは本物だろうか。
週刊誌「微笑」や週刊誌「プレイボーイ」に出た写真なんて、もともと信用できないはずだった。
そして、最後に「私は生きるぞ」のリフレインで幕。
おまけ?として中島みゆきの名曲「時代」「空と君のあいだに」「ファイト」などが入っている。
みゆきの「時代」は聞きようによっては、輪廻転生の歌だし、「空」では「君が笑ってくれるなら僕は悪にでもなる」とマインドコントロール的だし、「ファイト」では「薄情もんが田舎の町にあと足で砂ばかける」と故郷を捨てる歌でもある。
マインドコントロールを解くには、入信の過程を逆にたどることが一番ということなのかもしれないが、なんとも別の洗脳のように見えてしまう。
いずれにしろ、解体した自己をいかに取り戻すか?
この問いに一般論で答えるのは本当に難しい思いだけが残った。
某月某日
オウム真理教の幹部に理工系学生あがりや研究機関に勤めていてもおかしくないような優秀なエリートが多く参加していることが、話題になっている。オレのようにエリートとは無縁の人間には「へえ、そうですか。そんなに立派な人たちが集まって、ちょっとしたベンチャービジネスなんですね。オウムって」と半畳も入れたくなるものだわさ。理工系の連中がオウム真理教にいかれたのは、文系の人間のように、思想とか哲学に対する懐疑や免疫がないからだ、との訳知り顔の説明がまかり通っているが、これは逆に科学オンチの文系ジャーナリストのやっかみのようなもんだわな。
理工系の学生は「ダサイ」「理屈っぽい」「おたく族」という若者のイメージも、また理工系の大学生活は「勉強に追われ、暗い」という意識調査の結果もまったく当たっているとおもう。わたしみたいな怠け学生でも、最小限どうしても実験の時間だけはサボることができなかった。どうしても理工系は大なり小なり「おたく族」にならざるをえないし、おたく族の傾向をもつものが理工系に進むことは免れないような気がする。
また理工系の大学教師は100%「おたく族」で、例外はない。こういう教師に教わるのだから、学生もまた「おたく族」に磨きがかかることもたしかだとおもえる。 (「科学離れということ」)
少し古いが、吉本隆明の『情況へ』(宝島社、2800円)に、そんな一節がある。
吉本さんは「おたく族」と「教養、叡智、社会的判断力はゼロ」という理工系学生のイメージをなくすため、「高度で枝葉に属する教育は無意味だ」「卒業までに漠然とじぶんは将来理工系の仕事を職業にしてゆきたい、そういう好奇心を学生に与えられたら、それでいいとおもう」との処方箋を示している。いささか牧歌的かな、とは思うが、方向性はその通りだと思った。要するに、社会に出れば、大学で習った知識(特に数学や化学)などは当面なんの意味も持たないのは誰もが経験していることだ。社会には社会のルールがある。それは実体験で学ぶしかない。大学で学ぶことがあるとすれば、そうした社会を含めた世界への徹底した懐疑である。そうしたことを考える知的興奮である。今更、人格形成的な教養主義は流行らないと思うが、そうしたモラトリアムは意味のあることだ。
私どもは学生運動を通じて、たとえばさまざまな世界観を探り、党派とのイデオロギー闘争を通じて、クラス討論会の組織を通じて自分達の可能性と限界を結果的に学んだような気がする。学生運動なき現在の危機がオウムに露出しているように思える。
もうひとつ吉本『情況』論で現在にかかわる言説を引いておこう。
それはオウム・シンパ的発言を繰り返している中沢新一批判だ。
客 この先生のチベット密教の体術とやらも、一度公開 実験してもらいてえもんだ。頭のテッペンが赤くふくらむとか、地上に浮き上がるとかいうのをさ。(中略)
主 もちろん、意識をドラッグによらずに死(デス)や瀕死(ニヤデス)の状態にもってゆくまでの体術訓練や、その過程の各段階でおこる擬幻覚現象や意識の離脱体験自体には、精神健康法以外の何の意味もないさ。日本浄土教は、仏教浄土門の思想的な集大成として、とくに親鸞によってそんなの完全に否定してしまったよ。中沢新一は800年おくれて蘇った善鸞みたいなもんさ。
オレもそう思う。外界を極度に遮断した状態で生じる意識のオートマチズム(離脱・浮遊)などになんの意味もない。オウムにいかれた連中は宗教と体術訓練の違いが全くわかっていないが、中沢新一はわかっていながらそれをフランスの最新哲学などでデコレーションした分だけ罪深いというべきだろう。
某月某日
刺殺されたオウム真理教の村井秀夫氏が「かもめのジョナサン」のような心境になった、と言い残して「オウム」に入ったとのエピソードを聴いて、かつて読んだくだんの作品のことが気になっていた。先日部屋の掃除をしたら「かもめのジョンサン」が見つかり同書を再読した。原題は「JHONATHAN LIVINGSTON
SEAGULL」であり、発行は新潮社。五木寛之の翻訳で1974年に日本では紹介されていた。
前にも書いたかもしれないが、「ジョナサン」は70年代アメリカの精神風景をヒッピー的なかたちで、表現していたと記憶していた。しかし、今回、改めて読み直してみて感じたのは、ヒッピー的というよりは、やはり宗教的であり、苦悩と解脱の過程が描かれ、その意味で、かの村井氏がオウムに入る時の心境を表した理由が分かった気がする。
作品によれば、ジョナサンは風変わりなカモメである。両親の心配をよそに、仲間からただ一人離れて、自由な飛び方に熱中している。そして、他のカモメにはできないような宙返り、緩横転、分割横転、背面きりもみ、逆落し、大車輪などの高等技術を見いだす。そうした彼を待っていたのは、群れのカモメたちの「評議集会」という裁判であった。彼は、「カモメ一族の伝統と尊厳を汚した」として《遥かなる崖》での一人暮しの流刑に処せられることになった。彼は反論する。「聞いてください、みなさん!生きることの意味や、生活のもっとも高い目的を発見してそれを行う、そのようなカモメこそ最も責任感の強いカモメじゃありませんか?千年もの間、われわれは魚の頭を追いかけ回して暮してきた。しかし、いまやわれわれは生きる目的を持つにいたったのです」。もちろん、そうした主張など受け入れられず、彼は一人、追われるが、精神力のコントロールを通じてさらに高い飛翔のレベルを獲得する。
長い時間がすぎたある日、ジョナサンの前に二羽の輝いたカモメが「わたちたちはあなたの兄弟だ」と告げる。
彼らに導かれ、「天国」へ行き、ジョナサンはさらに高いステージへと至る。そして彼は何百万というカモメから選ばれた一羽である、と知らされる。優れた達人や長老の指導で彼は瞬間移動、時間や空間を自由に飛ぶことができるようになる。「おれは完全なカモメ、無限の可能性をもったカモメ」との歓びがジョナサンを貫く。彼は天国を離れ再び地上に戻り、追放された若いカモメたちの指導者となる。「われわれ一羽一羽が、まさしく偉大なカモメの思想であり、自由という無限の思想なのだ」と彼は繰り返し語る。そして彼らは「無限」に向かってさらに進んでいくというところで物語は終わる。
翻訳者の五木寛之も「物語の底には、何か不可解なものがある」とのべ、アメリカの精神風景を象徴しているにしても、何か同感できない、ということを書いている。
選民意識には、反吐が出る。私はたとえば、こうした「無限」への渇望や「超能力」へのを除けば、アメリカがベトナム戦争を初めとした多くのスティグマを持ち、若者たちの中に大衆からの逸脱願望があったことの象徴としてジョナサンを理解していた。しかし、そうした願望は一種の結論あるいは動機づけであり、彼らが最終的に手にしたかったのは、ドラッグを使ってでも訪れてくる至福感であることがジョナサンを読んでいて分かった。その快感のために、彼らは世俗から逸脱せざるを得ないことを、作品は強調している。そして、そうした存在を選ばれたものと美化している。村井氏がジョナサンになったのは、社会がいやになったからではなく、オウム修行での快感に負けたためであろう。まさに倒錯の中で彼らの超能力は鍛えられているのであり、その果てに究極のドラッグとしてのサリンによる死が待っているとすれば、私たちは現代社会の脆弱さを思い暗澹とならざるを得ない。
(文芸同人誌「詩と創作 黎」第75号=1995年夏号収載)
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