シネマミーハーらくがき帳 1999〜2003
なんというか、映画に嵌まっていた頃があり、雑文を書きまくっていた。
シネマ・グラフィティ・ノート 2000年 その4
*44<257>「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」
ヴィム・ヴェンダース監督。ライ・クーダー。イブライム・フェレール。ルベーン・ゴンサレス。
これはメイキング・ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ・アルバム・ムービーである。もちろんドキュメンタリーを装っているが十分に計算されている。
なにしろヴィム・ヴェンダースである。「ベルリン・天使の詩」の作家である。音楽と人生のコラボレーションによって見事にドラマを生み出していく。
登場人物はいずれも老ミュージシャンだから年輪たっぷりの生き様はある。それ以上にVBSCが魅力的なのはそれらの個性が集まった時に生まれる得も言われぬ共同音楽空間である。
思うに、キューバ音楽とは労働歌が源流にあるだろう。一人の働く男が声を上げると、周囲から合いの手が入る。それが、ポリフォニーとなって広がっていく。そして、労働は洗練されると舞踊となる。それが心地いい。
背後に写るカリブ海、そしてチェ・ゲバラの看板がさびしいハバナの町。「われわれの革命は永続的だ」というスローガンのむなしさ。アムステルダム、ニューヨークのカーネギーホールの歓声の落差。それって本当にブルースだ。ちょっと泣けるぜ。
*45<258>「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」
アナンド・タッカー監督。エミリー・ワトソン。レイチェル・グリフィス。
ワシは音楽に疎い。だから、本当も嘘もジャクリーヌ・デュ・プレについて無知識。だが、人間ドラマとしては最高に面白い。というか感動した。
ジャクリーヌは天才じゃないんだね。もの凄い努力でチェロ奏者となった。だが、彼女は音楽家になることで、普通の愛と、そして健康を失っていく。それをライバル心を抱きながらも、優しく見守る姉。これは2人の葛藤と姉妹愛の物語である。病に苦しむエミリー・ワトソンの熱演、痛々しい。
オレも最近は病人には優しいのだ。
レイチェル・グリフィス。さて、今回はやや性格俳優になってしまった気がする。
*46<259>「アメリカン・ヒストリーX」
トニ・ケイ監督。エドワード・ノートン。エドワード・ファーロング。ビバリー・ダンジェロ。
泣いた。そりゃ、みんなが泣くとは思わん。だが、オレは泣いた。まず。<信>ということの難しさについて。父を黒人に殺された兄はナオナチのアジテーターとなる。だが、彼は黒人2人を殺して入獄した後、自らの誤りに気づき組織から脱会する。ところが、彼をカリスマと崇めていた組織は彼を裏切り者と糾弾する。弟もまた組織に入ってしまっていた。彼は自らの業の深さを感じるのだが、自らの力では引き戻ることができない。
オレはここに泣いた。40、50代で泣いた人間は多かったのではないか。「我が心のよくて殺さぬにはあらず」ってのが親鸞の言葉だったと思う。逆に、自分の心が悪くて殺したわけではないのだ。でも死んだ者は帰らない。すべてを決めるのは関係の絶対性だけだ。でも、事実はついて回る。オレたちは逃げられない。だから泣いた。
2つ目。<組織>というもののアポリアについて。組織は本来、人間を解放し、自己実現を助けるためにあるはずだ。しかし、いつか、組織が人間を束縛するものに変わる。オレは今なお内ゲバや内々ゲバを続けている人たちがいることに泣いた。悲しいことだ。
これはアメリカの話だろうが、それ以上に我々のもう一人の物語Xである。
*47<260>「オサムの朝(あした)」
梶間俊一監督。中村雅俊。手塚理美。石田ひかり。石橋蓮司。榎木孝明。原田隆二。
森詠の原作を奥山和由がプロデュース(たぶん)。
時は今と昭和29年。技術者としてやてきた修は突然、子会社に配転された。なんとも得心のいかない彼は子供時代を過ごした那須への旅に出る。その途中で競争社会に追われて一人旅をしている少年直樹と出会う。
修はオサムだったころの彼の少年時代を語るのであった。少年の日は輝いていたとは、誰もが感じる昭和的な回顧だろう。
リストラの風が吹き荒れる平成の今だからこそ思い出は美しくなる。だが、この作品への印象を言えば、そうした甘さは確かに隠しきれない。その一方で、、貧しさからはい上がろうとする半面、ひたすらに生きていたことの輝きは、あのころ日本には確かにあったと思うのだ。
もちろん、2つの時代を比較して何かを語ることの優越性は失効している。現代の困難さの中で未来を語るのでなければ、凡庸さを超えることはできない。
それにしても、あの野山を駆けめぐった少年たちは今どこにいるのだろうか。
*48<261>「ブギーポップは笑わない」
金田龍監督。吉野紗香。黒須麻耶。酒井彩名。三輪明日美。清水真実。
謎の女子高校生失踪事件。それに絡む死に神「ブギーポップ」伝説があった。 映画は残された4つの断片的な記憶を提示し、それがつなぎあわされていく。
地球の危機を救うという女生徒から変身したブギーポップを演じているのは吉野紗香。ちょっと小柄だけれど、中性的な魅力がいっぱい。なんか壊れる前の内田有紀ちゃんみたい、ったら失礼か。
宇宙的な存在のエコーズとか、いささか超現象的な部分はどうでもいい。結局は高校生たちの不安な心を、断片として巧みな比喩で捉えているといえる。それにしても女子高校せー勢揃い。青春映画だけれど、グラビアを見ているような楽しさがある。不純ですけれど。取り敢えず、とても新鮮で、そこに星一つです。
*49<262>「氷の微笑」
ステファン・エリオット監督・脚本。ユアン・マクレガー。アシュレイ・ジャッド。ジェイソン・プリーストリー。
困った映画だなあ。なんちゅうか情報部員変じてストーカーになってしまったお兄ちゃんEYEと。美貌だが満たされていないが故に男を殺してしまうお姉ちゃんジョアナと。それぞれが欠落感を共有しあって接近していく。いや、そう思うのはお兄ちゃんだけなんだけど。お姉ちゃんはなんで簡単に人を殺してしまうのか。わからない。わからないけど、いいんだ。美人なんだから。美人に謎はつきものだ。文句あるかって。いや、ありません。
アシュレイ・ジャッド、七変化。カツラと衣装を変え、惜しげもなく肢体をさらします。ちょっと、おばさんになる瞬間が気になりますが、さりげないメガネのウエートレスが一番知的だった。結局、最後は悲劇なのかハッピーエンドなのか。それもわからん。
でも、いいんだ。オレはアシュレイ・ジャッドのファンだから。
*50<263>「破線のマリス」
井坂聡監督。黒木瞳。陣内孝則。山下徹大。篠田三郎。辰巳琢郎。中尾彬。
テレビはただの現在に過ぎない。ああ、これは昔のテーゼね。テレビはただのシミュレーションにしか過ぎない。これが今のテーゼだ。付け加えると、それも悪意のこもったシミュレーションというわけさ。このテレビ業界に於ける編集マジックを題材にしたサスペンスはどうかな。
ミイラ捕りがミイラになる。因果応報。だけど、本当に怖いのはその人間たちを操る大きな手だよ。この作品が弱いのはそこをやり過ごしてテレビ屋と視聴者を自戒させようとしていることさ。
黒木瞳のラストシーンはいけない。闘う女はあそこで笑っちゃだめさ。このおさまりのいい場面が作品の失敗を語っている。せっかく黒木瞳が全力疾走し、陣内孝則が迫真の狂気を演じたのに。逃げてしまったよ、これでは。
オレってまだ「破線のマリス(悪意)」に気づいてないのかって?
*51<264>「ロッタちゃん はじめてのおつかい」
ヨハンナ・ハルド監督・脚本。グレテ・ハヴネショルド。リン・グロッペスタード。
えっへん。わたしはロッタちゃんよ。ママはいじわるだから。家出することにしたの。ぜったい、帰ってやるもんか。ということで、始まった大冒険。
「ロッタちゃんの引っ越し」「ロッタちゃんのクリスマス」「ロッタちゃんの復活祭」という3つのお話からなる。
スーパー5歳児は「いやだもん」「なんでもできるもん」ってチャーミングに決める。おにいちゃんもおねえちゃんもロッタちゃんにはかなわない。スキーのスラロームは下手だけど、お色気たっぷりツイストツイスト。パパもママも困り顔が、明るく変わります。なんたって、ロッタちゃんは楽しいから。ブタのぬいぐるみ片手に、天衣無縫にいっちゃうのだ。
*52<265>「クッキー・フォーチュン」
ロバート・アルトマン監督。グレン・クローズ。リブ・タイラー。チャールズ・S・ダットン。ジュリアン・ムーア。クリス・オドネル。
米国南部の小さな町。至る所に南北戦争のメモリアルが残っている。そこで、クッキーおばさんが愛する夫の後を追って自殺した。ところが、欲に目がくらんだ姪のカミールが殺人事件にデッチ挙げたから大騒ぎに。身辺の世話をしていたウィリスが犯人にされてしまう。家出していた姪のエマも戻ってきていて一緒に留置所に入る。そこで、犯人探しとともに隠されていた事実が次々と明かされていく。
なんともディープな南部の物語。黒白の差別あり、ブルースあり。白い爺ちゃんの34人目の孫が黒い肌だなんて! でも本当はみんな知っているらしいところが、一種の共同体的だ。田舎の保安官事務所はいつのまにかゲームセンターになっていたり。
劇の「サロメ」を狂言回しに、話は面白く転がっていくのだが、登場人物のなんとも濃い人生観が心地よい。「ガープの世界」のグレン・クローズ、健在なところを見せてくれました。
*53<266>「アイ・ラヴ・ユー」
大澤豊&米内山明宏監督。忍足亜希子。田中実。岡崎愛。不破万作。黒柳徹子。宍戸開。
実は偏見があった。
正直言って、世界で初めてろう者と聴者の監督が共同演出した、なんて宣伝されても。こうした部分は表層的な差別であり、映画的には素材以外のものではない。それを踏まえた上で、なかなかの感動作だ。
聴者の夫と子供のいる、ろう者の主婦。彼女が周囲の偏見や自分の弱さに格闘しながら友人たちと、ろう者劇団を成功させる。
ラストシーンまで引っ張っていく脚本もうまい。子供の視点、聴者の視点、ろう者の視点、家族の視点などが重層的に提示されている。
手話の演技というものが新鮮でもあった。主役の忍足亜希子さんの芝居は、熱演であった。感情表現も十分すばらしい。ただ、黒柳徹子やら、その筋のエライさんが出てくると興ざめする。
劇場はピカデリー2であったが、この小屋では珍しい大入りであった。普段の劇場では声もあがらない部分で笑い声もきけ、うれしかった。
*54<267>「ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY」
村石宏實監督。長野博。吉本多香美。高樹澪。芳本美代子。川地民夫。
いや、見るつもりはなかったのだけれど。つい、出来心で・・・。この種の特撮モノってコスプレ系のフェチにはたまらないというけれど。巨人カミーラも、ホットパンツの看護婦?も、なかなかよかったなあ。
お話はウルトラマンティガが最後の戦いを終え、人間のダイゴとしてレナと結婚直前に。しかし、超古代遺跡で邪悪なカミーラ、ダーラム、ヒュドラの闇の戦士が復活していた。
3000万年前、ティガもまた闇の戦士とともに古代文明を破壊していたダークだった。果たしてティガは光の戦士に戻れるか、それとも闇の戦士のままになるのか? そこにはカミーラとレナのティガを巡る愛の葛藤があった。当然、愛の力で光の世界に戻るんですが。
特撮はぎこちないのですが、楽しめますね。それになんちゅうか、暗黒舞踊やアングラ舞台を見ているような感じがあるのです。「皆月」 で体当たり演技の吉本多香美さん。熱烈キス・シーンありで頑張っていました。おや、芳本みっちょん、必死の悪役ですが、今ひとつ迫力不足かなあ。
*55<268>「ナビィの恋」
中江裕司監督。西田尚美。村上淳。平良とみ。登川誠仁。平良進。
東京から沖縄・粟国島に戻ってきた奈々子。しかし、一緒の船に乗った中に謎の老人がいた。実はそれは祖母ナビィの60年前の恋人サンラーだった。村の占いで引き離された大悲恋の過去を持つ2人は再び再び恋の炎が燃え上がりそうだった。祖父はその大恋愛を知っているのか三線を弾いて自分を慰めている。村は再び、2人を引き離そうとする。一方、奈々子は居候の風来坊に次第に好意を持ち始めていた・・ということで、物語はもの凄い結末になるのです。
あたしゃあ、たまげました。70過ぎたじいさまとばあさまが愛があれば船酔いも平気だなんて。そんな物語の凄さよりは、音楽ですか。祖父役の登川誠仁さん、仕事に行くときは三線で米国国歌を弾くわ、なんでも唄にするわ。スーパースターぶりを見せつけます。
このほか、沖縄オペラの兼島麗子さん、沖縄民謡の嘉手苅林昌さんらが堪能させてくれます。主役の西田尚美ちゃん。「ゴジラ2000ミレニアム」もよかったが、こちらは自然な感じでかわいいです。
*56<269>「ストレイト・ストーリー」
デビッド・リンチ監督。リチャード・ファーンズワース。シシー・スペイク。ハリー・ディーン・スタントン。
アイオワに住む73歳の頑固爺さんアルビン・ストレイト。ウィスコンシンにいる兄ライルが倒れたと聞いて会いに行くことを決意する。兄とは10年間も絶縁していた。しかもアルビンは足が悪く、運転免許もない。そこで彼はちっぽけなオンボロのトラクターで560キロの旅を始めるのだ。
そこで出合う様々な風景、そして人々。見上げれば広がる満天の星空。なんとも美しく感動的だ。本当だぜ。
デビッド・リンチらしくないとまじめさが評判のこの映画だが、そうだろうか。オレはこれは気の触れた人間の相当怖い物語だと思った。だいたい車で行くよりオンボロ・トラクターで560キロ旅行するほうが、体に悪いだろう。普通そんなことしないだろう。高速道でリヤカー曳くようなもんだ。かなり危ない。
この爺さんは戦争中はスナイパーで、自軍の偵察兵を誤射し殺した経験を持つ。その良心の呵責のようなものがいつまでも消えない。いや消そうとしていないのだ。戦争の記憶を消そうとしている人間を糾弾するのだ。つらい。そして娘は火事を出して、保護者失格となり子供4人を手放している。その娘をしっかりものだという。優しすぎる。全く。
美しい物語の背後には、残酷な現実と、狂気がある。この美しさは怖い。
*57<270>「救命士」
マーチン・スコセッシ監督。ニコラス・ケイジ。パトリシア・アークエット。ジョン・グッドマン。
フランクはニューヨークの救急救命士。彼は自殺、他殺、麻薬中毒など死とギリギリの場所にいる人間たちと日々接している。だが、彼の脳裏には助けられなかった人間たちの霊が取り憑いている。
とりわけ冬の道で倒れた少女ローズのことが忘れられない。街の女たちを見てもすべてローズに見えるときがある。そんなとき、心拍停止になった老人を運び、その娘メアリーに出会う。
ニコラス・ケイジとパトリシア・アークエットの夫婦共演だとか。テーマは好きですね。 オレは唯物論者だが、成仏できぬ霊が地上を彷徨っていることを疑わない。たぶん、恨みを残して死んだ人たちの思いはどこかに残っているはずだ。それくらいは世界の善意を信じているというわけさ。
でもね、この映画はいかんな。フランクの葛藤がやっぱりわからないんだ。一人勝手に追い込まれているだけで、その深まりがないんだ。メアリーとのやすらぎの時も、なんかご都合主義的に見えた。
監督の「クンドゥン」にも感心しなかった。「カジノ」 にしろ名作は最高なのに。最近作はどうも相性がよくない。パトリシア・アークエットも 「グッバイ・ラバー」 のほうがよかった。
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