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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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シネマミーハーらくがき帳 1999〜2003
 なんというか、映画に嵌まっていた頃があり、雑文を書きまくっていた。

 シネマ・グラフィティ・ノート 2002年 その3  

*31<501>「寵愛」
ヨ・ギュンドン監督。イ・ジヒョン。オ・ジホ。
 これはできの悪いポルノだ。登場人物はかっこつけているだけの文士。そしてヌード・モデル。これに影のような女の愛人がいるのかいないのか。とにかく男と女の長いセックスが、訳ありのバリエーションで続くだけ。
 深みもストーリーもありゃしない。セックスすればいいってもんじゃないだろうが。ひどいもんだと思う。

*32<502>「キューティ・ブロンド」
ロバート・ルケティック監督。リーズ・ウィザースプーン。ルーク・ウィルソン。セルマ・ブレア。
 なにしろパーティーに明け暮れているブロンド娘。そんなバービー人形のような女の子がエクゼクティブの息子にふられた。「結婚するのはジャクリーンで、モンローじゃない」なって。そりゃないぜよ、ってわけで一念発起。そうしたらハーバードの法科に入学できてしまった。そこでも、お気楽娘への偏見がいっぱい。女はそんなことにくじけてられん、と猛勉強。弁護士事務所で持ち前のファッション知識を生かして大活躍。最後は見事、首席で卒業する。
 こんなサクセスストーリー、あるもんか、と思うけど、ウィザースプーンの脳天気ぶりが楽しい。「クルエール・インテンションズ」よりも一肌剥けた印象か。

*33<503>「バーバー」
ジョエル・コーエン監督。ビリー・ボブ・ソーントン。フランシス・マクドーマンド。マイケル・バダルコ。
 コーエン兄弟は相変わらず人間観察の独自性が楽しい。だって、さ、理髪店の堅物男。ベンチャー話に乗ってしまい、妻の浮気相手のデパート店主を脅したのが不幸の始まり。運命が紙一重のところで少しずつ狂い、最後にスカを引いてしまう。最初に人を殺したのに、それが妻の冤罪になり、でも因果は巡る。
 モノクロームの画面がなんとも印象的。ビリー・ボブ・ソーントンは「バンディッツ」で七変化をしたが、本作ではむっつり男がいい。人間観察は面白いが、佳作というレベルか。

*34<504>「ヒューマン・ネイチュア」
ミシェル・ゴンドリー監督。ティム・ロビンス。パトリシア・アークェット。リス・エヴァンス。
 製作は「マルコビッチの穴」のスパイク・ジョーンズ&チャーリー・カウフマン組。
 なんとも皮肉な映画だ。人間はヒューマン・ビイイングじゃなくて、ヒューマン・ネイチュアだ。全身多毛症のライラはそう思っている。だが、性欲のため粗チンのドクター・ネイサンの妻となる。ネイサンは厳しい躾の影響で、マナーあってこそ人間という考え。この価値観のずれが大きい。
 ネイサンが野性人パフを人間化しようとすることからややこしいことに。ネイサンはフランス訛りのガブリエルにも惹かれてしまう。ネイサンとライラ、ライラとパフ、パフとガブリエルが微妙に絡む。
 悲劇の後には喜劇が待っている。皆さん裸で体当たりの楽しくも困った映画です。 

*35<505>「スパイダーマン」
サム・ライミ監督。トビー・マグワイア。キルスティン・ダンスト。ウィレム・デフォー。
 ひょんなことからスーパー・スパイダーの能力を手に入れた青年がたどる宿命。6歳から隣同士の女の子MJに寄せる思い。だが、大いなる能力を持つ人間の大いなる責任という桎梏。対極にある悪の超能力者との近似者同士の戦い。
 いろいろ考えさせられるテーマがいっぱい詰まっている。それでいて、コンピュータ・グラフィックの力が素晴らしく楽しめる。なんかヒーローが超越していながら、とても低いレベルにいるところがいい。トビー・マグワイアは「サイダー・ハウス・ルール」でいい味を出していました。

*36<506>「パニック・ルーム」
デビッド・フィンチャー監督。ジョディ・フォスター。ジャレッド・レト。フォレスト・ウィティカー。
 ニューヨークのど真ん中に引っ越してきた母娘。夫は若い女に走ってしまった。新しい家には、非常時に耐えられるように外部をモニターしつつ遮断する部屋があった。そこに前の持ち主たる老人の隠し財産をねらって賊が侵入する。外部との接触が不可能な密室の中で、息詰まる駆け引きが続く。
 監督は「セブン」「ファイト・クラブ」の鬼才。でも本作のほうがストレート。

*37<507>「ローラーボール」
ジョン・マクティアナン監督。クリス・クライン。ジャン・レノ。レベッカ・ローミン=スティモス。
 米国の命知らずの若者が中東にやってきた。貧困の国家の中に作られた人工的なアリーナでの熱狂ゲーム。闘争本能をかきたて観衆から賭金を、テレビから視聴率をとる。だが、その裏にはスターリニストの末裔たちの悪のシンジケートが支配していた。若者は友を失い、愛する女の危機に、怒りを込めて反撃する。
 休みなく続く音楽と多国籍言語、そして挌闘シーン。さながらロック・フェスにでもきているような雰囲気だ。黒幕ジャン・レノはインチキくさい英語を使って笑わせる。
 
*38<508>「突入せよ! あさま山荘事件」
原田真人監督・脚本。役所広司。宇崎竜童。椎名桔平。天海祐希。伊武雅刀。
 1972年の連合赤軍・あさま山荘事件の映画化。原作は佐々淳行。
 自分が主人公の警察官手柄話のアレンジメント。警察内部の挌闘は描かれるが、それも結局メンツと主導権争いばかり。矮小化である。国民の敵だの、なんとのいうが空々しい物語だ。

*39<509>「アリ」
マイケル・マン監督。ウィル・スミス。ジェイミー・フォックス。ジョン・ボイド。
 モハメド・アリことカシアス・クレイの実録。もっぱらボクサーになってからの戦いを通じて彼の置かれた時代と宿命を描く。
 ウィル・スミスというと「メン・イン・ブラック」の軽妙さが印象的だが、なんと20キロをも体重増をはかっているというから凄い。
 物語は知っていることのリフレイン。キンシャサの奇跡が「アリ・ボンバイエ」伝説の誕生ルーツだが、その背景がいまひとつ、フォアマンも描いて欲しかった。それにしてもブラック・ムスリムにしろマルコムXにしろアリの徴兵忌避にしろ、米国現代史というものは生々しい。

*40<510>「サウンド・オブ・サイレンス」
ゲイリー・フレダー監督。マイケル・ダグラス。ショーン・ビーン。ブリタニー・マーフィ。ファムケ・ヤンセン。
 1000万ドルの価値のある宝石。それが強盗たちの思惑のすれ違いから秘匿されてしまう。10年後、それを追って主犯たちが動き、裏切った男の娘から秘密を聞き出そうとする。娘は父を殺された後遺症で精神病のため、秘密の数字の聞き出し役に小児精神科医のマイケル・ダグラスに声がかかる。
 もっとも実の娘が誘拐されて脅迫されながらだが。さてどうする。
 数字は実は宝石の隠された場所の番号です。(ややネタバレですいません)だけどさあ、娘から数字を聞き出すならもう少しいろいろな手があるような気がするのだが。なんかまわりくどいというか、困った犯人だなあという感じがするのですね。
マイケル・ダグラスは相変わらずええかっこしいだし。いまいち弾みません。「その言葉をいっちゃだめ」という原題に対して、大ヒット曲のような邦題はよくありませんし。秘密を握った少女役のブリタニー・マーフィはいいです。

*41<511>「アトランティスのこころ」
スコット・ヒックス監督。アンソニー・ホプキンス。」アントン・イェルチン。ミカ・ブーレム。ホープ・デイビス。
 スティーブン・キングの小説の原作。「グリーン・マイル」ほどの超能力ではないが、透視能力を持った老人と少年の物語。
 中年写真家が友人の死で戻った田舎町で11歳の夏に起きた奇跡を思い出す。そこには甘酸っぱい少年と少女の日々があり、不思議な老人との出会いがあった。老人は冷戦の中で、超能力を国家機関のために使われることから逃れようとしていた。ひょんなことから下宿させることになった少年の家では母親は自分のために生きるのに精一杯。少年は老人に新聞を読んでやるアルバイトをするが、彼の超能力に気づく。そして、彼と触れ合うことでその能力を一瞬、共有する。女の子との初めてのキスは生涯忘れられないものになる。老人は権力に拉致され、少年は田舎町を離れ、もう超能力とは無縁の男になったが死んでしまった女の子の家の前で、11歳の自分に起きた奇跡を思わずにはいられない。
 懐かしいアメリカン・ポップスが流れ、感じは「スタンド・バイ・ミー」の世界。超能力と恐怖は薄められ、ジュブナイルの汚れない心の素晴らしさを歌い上げる。スティーブン・キングのファンには物足りなさも残るが、佳作ではある。監督は「シャイン」「ヒマラヤ杉に降る雪」などでおなじみ。
 
*42<512>「スコーピオン・キング」
チャック・ラッセル監督。ザ・ロック。ケリー・ヒュー。マイケル・クラーク・ダンカン。スティーヴン・ブランド。
 WWFのスーパースターのザ・ロックによる強い男の物語。マッチョな人が好きという人向きだろうが、悪逆非道の王様を倒して、美女(この場合は予言師)と権力を手に入れる。よくある話を、古代エジプト、ゴモラの都を舞台に描く。
 肉体派男優の筋肉美とお色気女優たちがワンサカ。そして格闘シーンあり、派手なSFXあり、飽きません。あーあ、おもしろかった。この手のサーガはやはり美女だよな、ケリー・ヒューはいいな。

*43<513>「模倣犯」
森田芳光監督。中居正広。山崎努。木村佳乃。藤井隆。
 宮部みゆき原作のベストセラーの映画化。
 メディアを駆使して起こる連続殺人事件。殺人をライブで中継して見せる劇場犯罪の残酷さ。インターネットの掲示板、携帯電話のメール、画像を使ってのアピール。屈折した天才と共犯者。
 映画は時間を行きつ戻りつ展開する。だが、不思議と緊迫感はない。なにより、登場人物が誰も彼も魅力がないのだ。中居君は頑張っているが、犯罪者の狂気のレベルには届かない。メディア社会の怖さを描くために、普通の存在にこだわったのかもしれないが、いまひとつ。
 容疑者がテレビで模倣犯じゃない、オリジナルだと叫んで昇天する場面のマンガ的映像。本当の恐怖をもっと描けなかったか。

*44<514>「ニューヨークの恋人」
ジェームズ・マンゴールド監督。メグ・ライアン。ヒュー・ジャックマン。リーブ・シュレイバー。ブレッキン・マイヤー。
 1876年のニューヨーク。金欠から嫁探しを迫られている発明家の公爵レオポルド。2002年のニューヨーク。コピーライターとしてキャリアを積みながら満たされないケイト。この2人が時間の裂け目を超えてめぐり逢ったら?
 お約束どおり公爵が現代に現れたら、コスプレ狂の変人になるだろう。それを囲むようにいかれた弟やら、いいふりこきの上司が登場して。飛ぶのを恐れていちゃ、なんにもできないよ、というメッセージがわかりやすい。監督は「17歳のカルテ」で揺れる少女たちを描いた俊才。ここでも。

*45<515>「マジェスティック」♂♂
フランク・ダラボン監督。ジム・キャリー。ローリー・ホールデン。マーティン・ランドー。デイビッド・オグデン・スティアーズ。
 監督は「ショーシャンクの空に」「グリーンマイル」を作ってきた。その奇跡は起こるのか? 起こったと僕は思う。
 1951年のアメリカ。映画界には赤狩りの旋風が巻き起こっていた。ノンポリライターのピーターもコミュニストの疑いがかけられてしまう。やけになってクルマを走らせたら、事故をおこしてしまう。記憶喪失になって流れ着いた町で、人びとは彼に見覚えがあるという。実はその町では多くの青年が第2次大戦のために命を失っていた。彼はその消えた青年のうちの一人ルークにそっくりだった。つまり希望が戻ってきたのだ。
 青年の父親はつぶれた映画館の館主。ひょんなことからその映画館「マジェスティック」(威風堂々)を再建することになる。だが、赤狩りの狂気の手が彼に迫る。自分が助かるために共産主義者をでっちあげようと一度は思うが死んだ青年の恋人が渡してくれた合衆国憲法の本が彼を目覚めさせる。自由あってこそのアメリカじゃろが。って。彼はその当たり前の真理を狂気にぶつけて戦う。
 暴虐の赤狩りに対するにノンポリ男をぶつけたり、戦争に疲れた町の人たちがあまりに善人すぎるとか、不満はあるだろう。そしてアメリカの正義なんて、怪しいもんだ、という真っ当な批判も。だが、この映画はそのアメリカの正義すらも、本当は赤狩りになりかねないことを見据えている。
 一種の傾向映画をジム・キャリーは真摯に演じていて好感が持てた。戦争の意味を、国家と個人とは何かを、繰り返し問い続けている。この作品はアメリカ・コミュニズム(共同体主義)のひとつの成果だと思う。

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