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北海道の評論家・研究者
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亀井勝一郎と風巻景次郎 「北海道文学論」の先駆二人
亀井勝一郎(かめい・かついちろう、一九〇七〜一九六六) 評論家。函館市出身。プロレタリア文学から、保田与重郎らと「日本浪漫派」の中心となる。代表作に『大和古寺風物誌』『我が精神の遍歴』など。
風巻景次郎(かざまき・けいじろう、一九〇二〜一九六〇) 国文学者。兵庫県出身。北海道大学法文学部国文科の初代主任教授。代表作に『四十度圏の幻想』『風巻景次郎全集』など、北海道文学論、道内国文学研究の礎を築いた。
★函館出身で東京で活躍していた亀井勝一郎が故郷・北海道とのかかわりを本格化するのは一九四七年六月に札幌で開かれた北海道出版文化祭で来道して以降である。北海道文学研究の一つの指標となる論考「北海道文学の系譜」を発表するのは一九五四年のことである。
「北海道文学の系譜と云ったもののその精神の傾向を大まかに言うなら、札幌のピューリタニズム、小樽のリアリズム、函館のロマンチシズムということになりそうだ」という指摘は今なお示唆に富んでいる。
一九六六年秋の北海道文学展の実現を後押しし、三十枚の色紙を書いたが、それが絶筆となった。
北辺開拓という国策の影響で実学優位の教育傾向の強かった北海道大学に法文学部が設置されたのは一九四七年四月。戦中は中国に渡っていた風巻景次郎が北大に着任するのはその年の八月のことである。
風巻景次郎は早速、論考「四十度圏の幻想」を北海道大学新聞に発表する。札幌を訪れて心揺すられる理由を「北緯四十度圏の自然の様相が私に影響を与えている」と述べる。それは体験による北緯三十度圏の〈旧日本〉を真似てはならない新しい可能性の場所の発見でもあった。
風巻景次郎は研究誌「国語国文学研究」や優れた文学作品を掲載する「北大季刊」誌を創刊し、後進の育成にも尽力する。しかし、高血圧症に悩み、北海道生活は約十年で終わった。
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山口昌男・和田謹吾・小笠原克
山口昌男(やまぐち・まさお、一九三一〜二〇一三) 文化人類学者。オホーツク管内美幌町出身。元札幌大学学長。構造主義や記号論を駆使して、アカデミズムの閉鎖性を突破する考究を展開した。主な著作には『文化と両義性』『知の遠近法』『「敗者」の精神史』『内田魯庵山脈 〈失われた日本人〉発掘』など。
和田謹吾(わだ・きんご、一九二二〜一九九四) 近代文学研究者。東京都出身。北海道大学法文学部の一期生。永く北海道新聞の同人雑誌月評を担当した。代表作に『風土のなかの文学』『自然主義文学』『島崎藤村』など。北海道文学館第二代理事長。
小笠原克(おがさわら・まさる、一九三一〜一九九九) 近代文学研究者。小樽市出身。元藤女子大教授。元市立小樽文学館館長。評論誌「位置」主宰。「北方文芸」の編集人を永く務め、北海道の文学研究と運動の中軸を担った。著書に『近代北海道の文学』『伊藤整の青春 上・下』など。
★山口昌男は文化人類学者であるが、日本を代表する知の冒険者であり、知の巨人である。『アフリカの神話的世界』『道化的世界』『文化の両義性』『知の遠近法』と著書を挙げていくだけで、アカデミズムの掣肘を逸脱して、新しい発想が走り出していくようだ。
「道産子」の山口昌男が東京から、札幌大学文化学部長となって戻ってきたのは一九九七年。自ら「トリックスター」ぶりを発揮し、ジャンルを超えた学者、芸術家がその下に集い、知の「山口組」の旋風が北海道文化を活性化した。札幌大学は二〇〇五年三月で去ったが、その巨大な山脈は今も輝いている。
和田謹吾は自然主義文学の一級の研究者である。『島崎藤村』『描写の時代 ひとつの自然主義文学論』など多くの著作を残している。実作者としても早くから「ピヤシリ」「限界」などの同人誌に創作を発表する一方、小谷剛の「作家」にも加入した。
北海道新聞の同人雑誌月評を担当したのは一九五四年からで、以降、道内の若い書き手の発掘にも貢献した。釧路が拠点の「北海文学」に着目、「新連載の原田康子『挽歌』が『廃園』をどう超えるかに期待する」と励ましたのも和田謹吾である。
「風土のなかの文学」では北海道を舞台にした作品について的確な分析を加え、その後の文学運動に大きな影響を与えた。
小笠原克は近代文学研究者としても活躍したが、やはり一番に挙げるべきは「北方文芸」編集長の仕事であろう。一九六八年一月創刊号後記に寄せた「本誌が、日本のなかの北海道・北海道のなかの日本を照射し表現する文学運動の拠点たらねばならぬ責務は重い」との言葉には新しく意識された北の大地の文学への熱い重いが迸っている。
小笠原克、三十七歳の宣言である。多くの若手を育て、画期的な特集を残しながら、一九七九年十二月号編集人を退く。「絶望的な蛮勇気を振るって私はよろばい続けて参りました。そしてとうとう限界が来ました」と、自らの〈第二の青春〉への別れを告げている。その八面六臂の活躍ぶりは『小笠原克 北方文芸編集長の仕事』などに追想されている。
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澤田誠一・鳥居省三・山田昭夫・高野斗志美
澤田誠一(さわだ・せいいち、一九二〇〜二〇〇七) 小説家。札幌市出身。当時は札幌郊外の豊平町平岸に生まれ、林檎園を営む。「札幌文学」「北方文芸」の編集・発行の中軸を担う。代表作に『耳と微笑』『斧と楡のひつぎ』『平岸村』など。財団法人北海道文学館三代目理事長。
鳥居省三(とりい・しょうぞう、一九二五〜二〇〇六) 文芸評論家。紋別市出身。二歳から釧路地方に移る。各地の図書館長などを務める。一九五四年に「北海文学」を創刊し、原田康子らを育てる。著書に『釧路文学運動史』三部作(明治・大正篇、昭和篇、戦後篇)など。
山田昭夫(やまだ・あきお、一九二八〜二〇〇四) 近代文学研究者。札幌市出身。北大法文学部国文科卒、東大大学院修。藤女子大教授。「札幌文学」同人として宍戸淳介の筆名で創作発表。「位置」同人として批評活動も行い、北海道文学の精神的系譜に迫った。
高野斗志美(たかの・としみ、一九二九〜二〇〇二) 文芸評論家。上川管内鷹栖町出身。東北大学哲学科卒。高校教師を経て旭川大学で教授、学長。サルトル論で第四回新日本文学賞を受賞。著書に『安部公房論』『井上光晴論』など。旭川文学学校を創始する。三浦綾子記念文学館館長も務める。
★北海道の文学運動を鳥瞰するとき、どうしても外せない核となる人物がいる。その代表が澤田誠一である。西田喜代司らの「札幌文学」を再興した後、小説家であると同時に批評家(目利き)であり、運動家として縦横に活躍した。一九六八年に月刊文芸誌「北方文芸」を創刊、発行人を務めた。函館出身の作家、佐藤泰志のデビュー作「市街戦のジャズメン」は澤田誠一によって見出された。執筆意欲は途切れず、硬骨な随筆集『能登へ・レクイエム』(二〇〇〇)、小説の集大成『平岸村』(二〇〇五)刊行は八十歳を過ぎてからであった。
澤田誠一が「札幌文学」に拠っていたのに対して、釧路を拠点に活動した名伯楽が鳥居省三である。鳥居省三は一九五二年に「北海文学」を創刊、一時は財政難でガリ版刷りの時代もあったが、そこから原田康子『挽歌』が誕生した。直木賞作家の桜木紫乃も同誌から出立している。鳥居省三は「中沢茂論」「更科源蔵論」などで大地に根ざした作家の世界に迫った。労作『釧路文学運動史』をまとめる一方、『異端の系譜』では彫刻家米坂ヒデノリ論を主軸に釧路ゆかりの文学者・画家たちを介して自己凝視を深化している。
山田昭夫は嘉村磯多論という私小説研究から出発したが、有島武郎への考察を深め、『有島武郎』『有島武郎の世界』『有島武郎・姿勢と軌跡』など多くの著作を残している。また、本庄陸男の夫人宅で大量の遺稿を発見し、作家研究の貴重な資料となった。また、新進女流作家として地位を確立しながら早世した素木しづ(一八九五〜一九一八)の作品集の編集も大きな業績の一つである。北海道の文学を題材からではなく、その内面性から表現の可能性を論じた「『悲劇的精神系譜』の探究を」は大きな示唆を与えた。
高野斗志美は「気鋭の」という言葉そのままのシャープでアグレッシブな研究者であり、批評家であった。旭川の同人誌「冬涛」に参加し相次いで評論を発表した。サルトルから始まり、安部公房、井上光晴、小熊秀雄、倉橋由美子、野間宏などを論じた。一九六七年に作家の三好文夫(一九二九〜一九七八)と同人誌「愚神群」を創刊、多彩な表現者の参加を得た。旭川文学学校、「たかの」塾などを通じ後進の育成にも努めた。一九九八年に三浦綾子記念文学館館長を務めてからは、その文学の魅力の探究にも力を注いだ。
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北海道文学館の誕生の頃
北海道立文学館の指定管理者である公益財団法人北海道文学館が設立総会を開いたのは一九六七年四月二十二日、ちょうど五十年前のことである。日本社会が高度経済成長により物質的豊かさが強調されていくのに対して、地を這うように繰り広げられてきた北海道内の文化的、精神的営為を振り返り、継承していこうという文学関係者と道民各層の願いが結実したものだった。
文学館運動が飛躍を遂げるきっかけとなったのは一九六六年十月二十五日から三十日まで札幌・丸井今井で開かれた「北海道文学展」だった。詩人で郷土史家の更科源蔵を実行委員長に、全道の文学者、研究者、文化人、諸団体が結集したほか、東京で活躍している北海道ゆかりの文学者も協力を惜しまなかった。
小樽出身の伊藤整はそのひとり。「北海道文学全体の珠玉、遺品を集成し、これを土台として今後の北方文学の新しい展開を期待するのは、まさに文化史上一事件と言うべき」(「北海道文学(史)展の意義」)と称賛したのだった。
大江健三郎、中野重治、伊藤整が文学の未来を語った講演会の会場は聴衆で埋まり、展覧会入場者は六日間で二万人を超えた。
三人に更科源蔵が加わった「北海道文学史展のために働いた人々への感謝」と書かれた色紙が残っている。中野重治はあまり色紙を書かないと言われていたが、伊藤整が書き出すと続いてペンを取ったという。色紙は縦十四a横二十aと小ぶりであるが、経歴も作風も文学観も異なる四人が一つの場に集うことで、北の地の新たな文学運動を支えようという気合いが伝わってくる。
「北海道文学展」の大成功に、道内の文学関係者は勢いづいた。拠点たる文学館設立を目指したのである。同年十二月九日に実行委員会の解散式が豊平区平岸の天神山のレストランで開かれた。
縦二十五a長さ四百五十aという連判状のような長い巻物の寄せ書きが残っている。三十人に及ぶ名前とひとこと集。
「何も言ふことなし有難ふ」更科源蔵、「酒・雪・人の心」澤田誠一、「万感交交」山田昭夫、「この泥炭の土壌の上に北海道の文学を樹てよ」渡辺茂、「栄光あれ」神谷忠孝、「十年の昔を思う」和田謹吾、「されどわれらが日々」小笠原克、「いい感じ」西村信―など。草創期の文学者らの高揚した思いがしたためられている。
在野の文学者たちの熱意で、一九六七年四月二十二日、札幌テレビ塔二階特別室で「北海道文学館」設立総会が約六十人の参加で開かれた。北海道文学の発展及び資料の収集・研究を目標に掲げる運動体としての北海道文学館が正式に立ち上がった。
北海道文学館が発足記念として一九六七年秋に手がけたのが「有島武郎展」。「カインの末裔」「小さき者へ」などで知られる有島武郎は北海道の文学精神を代表する作家だった。
会場は現在のパルコの場所にあった老舗書店の冨貴堂。入場料は大人八十円だった。展示のある三階ホールまで、階段には人があふれ、十二日間で一万人を超す人気だった。
北海道文学館は運動が始まったものの、場としての拠点はなかった。しばらくは事務局長の木原直彦(北海道文学館名誉館長)の勤務先のデスクを事務局にしていた。その後、札幌時計台を経て、札幌市資料館内に展示を行うとともにスタッフのいる事務所が置かれた。
一九八八年に財団法人となるとともに、道立施設の実現の声が高まった。「公立・民営」の北海道立文学館が札幌・中島公園に開館したのは一九九五年九月二十三日のことである。北海道文学館は二〇一一年に公益財団法人となり現在に至っている。
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「評論王国・北海道」の人と流れ
「評論王国」といわれるほど北海道は近現代の文芸批評・研究で大きな成果を挙げてきた。伊藤整の『小説の方法』『小説の認識』および『日本文壇史』は今なお原理論的かつ実態的近代文学研究の指標となっていると言える。
戦後に限れば、北海道大学法文学部(後の文学部)国文科創設により、その内外に多くの人材が集まることとなった。初代国文科主任教授の風巻景次郎は「四十度圏の幻想」(一九四七)を発表する一方、「国語国文研究」「北大季刊」の創刊に尽力した。「北大季刊」には加藤多一、出口裕弘、早川三代治、菱川善夫、本山節弥、渡辺淳一らが執筆している。
北海道の文学について、最初に系統的に学問的考察を加えたのが和田謹吾である。一著にまとめられた『風土のなかの文学』(一九六五)で、和田は@単に北海道を舞台にするだけの作品群A北海道の殖民地的な異国情緒を主とする作品群B北海道の地理的自然環境に育まれた作品群C北海道の歴史的社会環境に育まれた作品群―と整理し、同時にBC類に北海道の文学の精神的系譜の本質を見た。
山田昭夫は釧路出身の文芸評論家小松伸六とは従兄弟で「札幌文学」で活躍したほか有島武郎研究を深めた。評論「『悲劇的精神系譜』の探究を」(一九六〇)では有島、小林多喜二、本庄陸男、島木健作、久保栄と続く作家の精神系譜に北海道文学の軸足を置いた。「精神の北方性」「きびしい倫理的な営み」などに文壇主流の作家とは異質の「一筋の赤い糸」があるとした。
小笠原克は大炊絶名義による評論「私小説論の成立をめぐって」(一九六二)で「群像」新人文学賞を受賞。同人誌「位置」、さらには「北方文芸」に拠って多くの評論家を育てた。自身も『島木健作』(一九六五)『《日本》へ架ける橋』(一九七二)『北海道 風土と文学運動』(一九七八)など力作を書き続けた。
「位置」の執筆者には今井泰子、神谷忠孝、亀井秀雄、川嶋至、武田友寿、中野美代子、布野栄一、野坂幸弘らがいる。「北方文芸」には亀井秀雄、木原直彦、須田禎一、高野斗志美、武井静夫、西野辰吉、森山軍治郎などが論考を寄せている。森山の連載は『民衆精神史の群像―北の底辺から』(一九七四)に結実している。
亀井秀雄は『伊藤整の世界』(一九六九)『中野重治論』(一九七〇)といった作家論から言語表現論に進み『感性の変革』(一九八三)など刺激的な批評活動を展開した。同大国文科に連絡先の置かれた同人誌「異徒」には越野格、小森陽一、立花峰夫、田中厚一、中澤千磨夫、松木博ら若手研究者が名を連ねた。
神谷忠孝は亀井勝一郎や保田與重郎など日本浪漫派を軸とした昭和文学の研究が専門であるが、寒川光太郎、有島武郎、早川三代治などに目配りするとともに、北海道文学館理事長として多くの本道ゆかりの作家の展覧会実現を主導した。
一九六七年に北海道文学館が創立、「物語・北海道文学盛衰史」が刊行されるが、翌一九六八年には北海道新聞文学賞が設立された。第一回受賞は旭川の佐藤喜一の評論『小熊秀雄論考』であった。旭川には高野斗志美もおり『安部公房論』(一九七一)『井上光晴論』(一九七二)など硬質な探究が光った。釧路では鳥居省三が「北海文学」を主宰して原田康子『挽歌』を送り出し、『異端の系譜』(一九八三)などを鋭い人間論を紡いだ。
木原直彦は「室蘭文学」「北海道文学」などで活動していたが、一九六六年に開催された「北海道文学展」の事務局長を務め、広いフィールドワークにより『北海道文学史 明治編』(一九七五)『北海道文学史 戦後編』(一九八二)などを次々に発表した。編者として「北海道文学全集」全二十三巻、『北海道文学大事典』(一九八五)、「さっぽろ文庫」百巻などにも尽力した。
哲学が専門の鷲田小彌太は「北方文芸」の編集にも携わり、先鋭的な書評や読書論を展開した。著書は多いが、集大成として『日本人の哲学』全五巻がある。このほか、『南洋・樺太の日本文学』(一九九四)の川村湊の古典から民俗学、植民地、現代文学・社会論へ至る幅広い活躍も見逃せない。近年は岡和田晃らによる『北の想像力 《北海道文学》と《北海道SF》をめぐる思索の旅』も注目された。
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