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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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フラグメント―北嶺村興亡史  あるいは農業と文芸のアマルガムへ

0・
 夢魔の一夜とはだれにでもあるものだろうか。
 春というには蒸し暑く、なんだか成仏できぬ死人でも歩きだしそうな夜であった。思い出の北の山々を望む窓の外では芽吹き始めた木々の精が噎せ返るように漂い、梢を渡る風には遠い記憶が巻き貝の中でざわめいているようであった。
 眠れぬままパソコンに向かい、インターネットのブログ・サーフィンを続けていると、玄関の戸をたたく音がこだました。重い足を引き摺り、夢遊病者のごとくドアを開けると、色白の見知らぬ青年が立っていた。
 「夜分失礼します。あなたは、宇土さん、ですね」
 いきなり異次元の世界に運ばれた気がした。その名前は封印されて久しいものだった。何より遠い歴史の中の固有名詞だったからだ。
 「さてさて。こんな老いぼれに不躾な。人違いでは」
 だが、私の言葉が終わるか終わらないうちに、青年が畳みかけてきた。
 「否定されたい気持ちは分かっています。でも、これを見てください」
 肩から提げていた鞄から取り出したのは、小さな木の箱に入った黒々とした土だった。よくテレビの料理番組で「秘伝のタレ」というものを見る。何代も何年も接ぎ継がれた黒光りのするやつだ。青年が目の前に出した土は、それに似ていた。
 本当に丹精したとはこのことだろう。自然の荒れ地では絶対に見られない。人間が大地に向かい、命をかけて作り出さなければ、その豊かな色にはならない。どんなものでも、一粒の種を蒔いたなら、そこに豊かな実を結ぶだろう。
 「これは、北嶺土、ですね」
 青年は一音一音噛みしめるように《ホクレイド》と言った。
 「そして、あなたは北嶺村の脱走者にして数少ない生き残りの宇土さんですね」
 私は首肯したものかどうかも忘れ、懐かしいその村を思い出していた。
 
 北嶺村は北海道の中心都市・札幌の奥座敷と言われる地域の山林十数ヘクタールを開墾して生まれた農業創造コミューンである。荒れ地に鍬をおろすという難業に参加した者は延べ三十数人に及ぶ。農業コミューンとは言っても、北嶺村は全員が集落を形成して、生活をともにするという出家型のそれではなく、耕作地は協働で共有化しているが、自宅はそれぞれに自由に構えて良いことになっている在家型であるのが特徴だった。
 往時は「札幌に農芸文化の先鋭集団、北嶺村あり」と全国に名をとどろかせた。だが、入植から二十五年、幾つかの成功の花を咲かせて、その開拓の歴史に幕を閉じた。
 村の「開祖」であった鬼才・火之上京(ひのうえ・きょう)は、その運命を受け入れることに甘んぜず、失意の中で憤死、いや狂死したと伝えられる。だが、ひとり更なる極北を目指し、果てしない旅を続けていると言う者もいる。英雄伝説として、よくある話だろうが、真実は天空の風が知るだけだ。そして、脱落者の私が語るのは、その北嶺村の一断面のみであると断っておこう。

1・
 姓は火之上、名は京。北嶺村開祖である。その過去を知る者が稀に「火之上君」と言うのを聞くこともあるが、村人は親しみを込めて「京さん」と呼んでいた。あのカルト集団のなんとか真理教が創始者を「ショウコウさん」と言うことはなく、「尊師」と呼ばせていたのは有名な話だ。だが神格化の拒否こそ、火之上京の生涯を貫く姿勢であった。
 「農は人生の隣にあるのではない。人生そのものだ」
 それが火之上京―いや多くの人が呼んだように、この後は京さんとする―の口癖だった。
 なぜ、農の道に進んだかについて、「二つの安保闘争が終わってしまったから」と語っていた。確かに、「壮大なゼロ」で終わった政治から実業たる農の道へと転進する例が少なくはなかった。世界急進Z革命とかのスローガンを掲げたヤマギシ会という団体に、コミューンを夢見た元中国派の哲学者が入会したことが話題になったりもした。
 だが、京さんともに農の道に入ることを選んだ人たちが格別に政治的であったとは思えない。商店の主婦もいれば、居酒屋の女将やサラリーマンもいた。
 ただ、京さんの持つある切迫感が、それらの人を動かしたことは間違いない。つまり天賦のアジテーターでありオルガナイザーの才を持っていたと言うしかない。
 入植して一年あまりで、最初の村は解散した。考え方の違いがあったと言われるが、その当時、つまり一九七〇年代中葉は、いかなる組織にも分裂が付きものであった。学生の全共闘運動が反組織を掲げ、自由を追求しただけに、一つになるよりも独自に歩むこと、あるいは別個に進んで共に撃つことのほうが真実のあり方に近いと、多くの人が信じていたからだ。
 新規まき直しで、改めて十数人の農の仲間を誘って再入植した京さんが、第一に掲げたのは土づくりであった。一朝一夕に豊かな作物はできない。なにより、ひと鍬ひと畝こそ大事なり。そうして耕された黒土の上に、花が咲き実が成る。
 その切磋琢磨の精神に一致を見た時、北嶺村は誕生したのだった。
 「まず、年に四度、春夏秋冬、作物をつくり続けること」
 それが合い言葉であった。土をおこし、種を植え、育てる。育てた作物を前に、村人全員で品評会をする。それは厳しいものであったが、政治運動で地獄を見ている京さんは「仲良しクラブでいいべや」と最後には労をねぎらうことを忘れなかった。
 ある者は花卉を、ある者は根菜を、ある者は葉物を育て、数年で効果は出た。
 「北嶺村の作物は北の大地にしっかり根を張り、豊かな実を結びつつある」
 東京で出されている「農学界」の農人評には、北嶺村の話題が取り上げられることが多くなった。
 「北海道の篤農家を集め、勝手に地域の代表づらをしている一団の『北方農芸』グループなどに負けられない」と京さんは意気込んで見せた。

2・
 私がその北嶺村に参加したのは、入植から数年が過ぎてからだった。
 「宇土君、どうだ、一緒にやらないか」
 作物の行商に歩いていた京さんが声をかけてきたのだ。私は数年前、自家菜園で花作りをしたことがある。それをどこかで聞きつけたらしかった。
 「《耐えることとやさしさ》という君の農にかける初発の思いを聞いた。その決意性の潔さに感動した。僕にできることはないだろうか」
 そんなふうに京さんは言った。私はずっと一人でやっていくつもりでいたから、最初は丁重にお断りした。だが、あきらめない。一人でやることより、仲間と励むことのほうのすばらしさを語る。その粘り強さに根負けしたというのが正直なところだった。
 「わかりました。でも、私は自分のペースは乱しませんよ」
 「大丈夫。人はみな自分以外のものにはなれないんだから」
 そんなふうに、私は北嶺村の仲間になった。新米の私が挨拶にまわると反応は様々だった。それぞれに個性的だ。
 「まあ、気張らずにやるんだね」
 「いつまで、続くかなあ」
 そんな中で、一番、丁寧に答えてくれたのは水尾さんだった。水尾さんは京さんの先輩らしい。京さんが、土と種子の真剣勝負が作物の素晴らしさを決める、と信じているのに対して、味が良く、見栄えの良い作物、消費者に受け入れられる作物こそ第一と考えていた。
 「火之上君の紹介か。そりゃあ、楽しみだ」
 そう言って、にやりと笑った。
 二、三カ月もすると、私は北嶺村の作付会議のメンバーに加えられた。北嶺村は京さん、水尾さん、それに葉物を作っている千里さんで、次の作付計画を決めるのだ。新入りの私がその仲間に入るのは、やはり異例だった。
 「宇土君も作付会議に入るなんて、ずいぶん人手不足なことだ」
 水尾さんは少し不満顔であった。
 だが、京さんは意に介していない。正直に言うと、京さんは私を、自分と同じ質の感性を持った人間だと見抜いていたのだ。七〇年代政治運動からの脱落、地方出身者、そして、女性崇拝者だ。私は京さんの書記のように、雑務をこなすようになった。
 口さがない援農スズメは、「火之上親分、宇土子分」などと揶揄したが、それは全く的はずれではなかった。なにより私はまだ若かったし、ものごとを的確に処理することには自信があったのだ。そして、手前みそではあるが、私の参加で、北嶺村の活動はずいぶんメリハリがつき、生き生きとしてきたように見えた。

3・
 遠くの雷鳴は、雨音とともに身近に迫ってきた。逃げ出すにはもう遅すぎる。目をつぶればいいのか。だが、耳から入るものは止められない。
 「だから、ダメなんだ」
 「そんな単色なことを言うな」
 声を荒げているのは、京さんと水尾さんだ。
 「火之上君、君は甘いよ」
 「甘いのはそっちでしょ」
 農のあり方をめぐる隠然たる対立は、ひょんなことから顕在化し、一度燃えさかった炎はすべてを焼き尽くすまで止まらない。
 消費者に支持されることが第一なのか、それとも、農に取り組む主体的な姿勢こそが大事なのか。私には今もってどちらが正しいのか、分からない。
 政治的なものの残滓を色濃く刻印されていた当時の私は、京さんの主体性論に近いところにいた。しかし、かといって、消費者を意識しない作物なんてありゃしないと思っていたのも事実だ。
 だが、中間主義者の動揺など、対立するリーダーの視野には入らない。
 正否を問う論争は口げんかになり、最後は声の大小で終わる。ふだんは気にならない箸の上げ下げの癖までもが、悪魔の所業のように結論づけられるのだ。
 どちらが勝ったのかは不明だ。
 だが、「僕は辞める」と言ったのは、水尾さんだった。
 「もう帰らない」
 真っ赤だった顔色が土気色に変わっていた。
 だれかが「早まらないで。思い直して」と叫んだように聞こえたが、張りつめた緊張の糸をほぐすことはできなかった。
 水尾さんは荷物をまとめると、翌日、そそくさと村を出た。北嶺村の第一次入植者の一人であり、一時は京さんと並ぶ優れた指導者と賞され、その味わい深い作物にはファンも多かった水尾さんの寂しい最後の姿だった。
 見送ったのは千里さんと私の二人だけ。京さんは来なかった。
 「火之上君に言ってくれ。彼は女性にモテると思っているが、本当は女性の心など何もわかっちゃいないのだ、と」
 なんだか拍子抜けした。農の道をめぐる、いわば神学論争を交わしていたはずの水尾さんの最後の言葉が、それだった。まるで痴話げんかの捨て台詞のようではないか。
 そんなことでリーダーが去っていいのだろうか。私には承服できなかった。

4・
 水尾さんが去って、京さんは忙しくなった。企画から営業・販売まですべての面で責任が重くなったからだ。
 「働き過ぎないようにしてください」
 そんな忠告を何度もしたが、京さんは聞く耳を持たなかった。
 「自分がやらなきゃ、だれがやるの」
 実際、そのとおりだった。北嶺村にはトータルプランニングできる人物は、ほかにいなかった。強いて言えば、水尾さんにはその力量があるはずだったが、けんか別れして、もういなかった。痛手だった。
 だが、京さんが環境を整えてくれているおかげで、メンバーは雑音に悩まされることなく、営農に打ち込むことができた。
 まず頭角を現したのは、京さんの高校時代の同級生だった則興さんだった。直まきで育てた陸稲が風味もあり口触りも良い、と評判になり、希少性も加わり全国販売のルートに乗ることになったのだ。
 「葉物じゃダメだったのに、いつのまにか人気が出て」
 則興さんは満更でもなさそうだった。
 入植仲間たちは、則興さんの成功を喜んだ。幾人かは、自分にもできそうだ、と希望を持った。人ごとながら、私はうらやましくも思った。
 だが、京さんは機嫌が良くなかった。
 則興さんの陸稲は、実は則興さんが知人とやっている近隣の栽培地で育てたもので、北嶺村の産物ではなかったからだ。
 続いて話題になった猫山さんの活躍は、則興さんどころではなかった。適当な畑がないから、と困っている猫山さんを誘ったのは京さんだった。植物のうまみや見た目の美しさに独特のセンスを持っていて、一部では「将来は開化農芸賞を取るぞ」と噂されていた。開化農芸賞はいわば一流農業者への登竜門と言われ、これを取ると、作物の単価は格段にあがり、各地の農芸集団から講師に呼ばれる機会が増えて、食うに困らなくなるという。
 そんな隠れた実力者の猫山さんを、京さんは持ち前の男気で、「畑がないなら、僕らと一緒につくればいいっしょ」と声をかけたのだ。家庭でのトラブルをかかえ、「皿洗いをして、毎日の暮らしを支えているの」という猫山さんを庇護したのだ。
 その猫山さんは、まもなく本当に開化農芸賞を取ってしまった。本来は独創性に富んだ作物に与えられる澄明賞部門かと思われたが、大衆性を重視する蒼氓賞部門を獲得した。
 「中央で選者をしている先生の後押しがあったのでは」と推測する人もいたが、猫山さんの持つ農芸構想力というものは圧倒的に優れていた。いかに、植物の持つ風味を印象的に引き出すか、根本のところで凡百の従事者を超えるものがあった。
 猫山さんは開化農芸賞(蒼氓賞)を得て、まもなく、北嶺村を離れた。その後、北嶺村について触れることはなく、そのことが京さんをひどく傷つけた。
 「女はめんこい」
 京さんの口癖だった。
 「鬼のような人もいますが」
 私がそう言うと、京さんは「若い、若いね、宇土君」と笑った。
 「心の優しい女性ほど、きれいだべさ」
 そういうことを言うから、京さんの周辺には女人磁場が形成されて、よくわからないが、魅力的な女性が出入りするのだった。京さんが精力のあり余る人間だったとは思えない。だが、周囲には女性の影が途絶えなかった。
 則興さんも、猫山さんも、女性だった。
 京さんは二人の成功を必ずしも手放しで喜ばなかった。その理由は彼女らが、京さんの手元から遠く離れていく寂しさを感じていたためかもしれない。
 
5・
 「こんなんじゃダメだ」
 雑誌を見ながら京さんが怒っている。怒って怒って怒って、虚しくなるほどだ。
 「北海道を売り物にするだけじゃダメだ」
 その怒りは真っ正直な分だけ、どこか滑稽に見えた。
 時々、思い出すのだが、「ディスカバー・ジャパン」というコピーが流行ったことがある。それは「遠くへ行きたい」「いい日旅立ち」と姿を変え、日本の中の地方を再発見するブームとなった。
 農芸の世界もその風潮と無縁であったとは思われない。
 「北海道にはまだ炭を焼いて暮らしている開拓部落がある」
 「北海道の炭鉱跡地ではズリ山の向こうに黄色いハンカチがある」
 そんなフラグメントが知的大衆の興味を誘い、良くも悪くもその場所にいた人間が注目を浴びることになった。
 北海道の辺境性を商品化することを、京さんは潔しとしなかった。
 だが、京さんのライバルとも言うべき鯉山さんは、そうした成功者の一人だった。
 開拓部落から出て、農の道一筋に生きてきた。その生き方が農作物にも投影されて、北海道の心を感じさせる、と評された。野性味のあふれた作風は濃厚な味を作物に与えていた。それでいて、着ているシャツは水商売のホストが好むような黒色に赤いラインの入ったものばかりだった。
 作るものは野趣には富んでいるが、バラエティーには欠けていた。しかも、京さんの持つ知性、土を作ることから初めた努力のようなものが感じられない。
 「でも、炭焼きの話なんか迫ってくるものがありますよ」
 そんなことを言うと、「わかってない」と厳しく叱られた。
 鯉山さんと似た傾向の人に、吉尾さんがいる。
 この人はまさに北海道の明治期の主産業だった炭鉱地帯に生まれ、札幌に出てくるが、幾度か古里に戻り、メロン栽培で成功を果たした。仏道にも詳しく、山川草木悉皆成仏というお釈迦様の教えを、農の中に生かしていた。神は細部に宿る。そして、名も無き草木の中に真実の、甘雨があるということを実践してみせていた。
 「だからと言って、北海道代表の農芸知識人としてトリックスターを演じて楽しいか」
 京さんは情況の浮力に自らを失いつつある吉尾さんに批判と同時に憐れみを抱いていたように思える。
 吉尾さんはまさに一代の花を咲かせたが、散るのも早かった。晩年は現業部門から遠く離れたところで病に苦しんだ。それでも、その最後を知ると多くの人々が往時の活躍をしのんだのであった。
 精神科医をしながら農芸をしている落窪さんとは、遊興の巷で遭遇した。
 落窪さんは開化農芸賞の候補になんどもなっている実力者だった。いつも女性を連れており、それがいかにも俗っぽく、京さんの不興を買っていた。
 「君も農をやっているの?」
 そう聞かれたのは私だった。
 「まだ駆け出しです」
 「だろうね、まあ、頑張って」
 そんなたわいもないやりとりに京さんは怒った。
 「その言い方はないだろう」
 「なんですか、あなたは」
 「北嶺村の火之上です」
 「はははーっ。ご活躍だそうで」
 「なめたことを言うな」
 それから、表に出ろと、なったかどうかは忘れた。
 いさかいは相手の問題でもあるが、京さんの側にも発火しそうな何かが充満していた。
 中島公園に近いスナック・ウイドウでのけんかも日常茶飯事だった。
 新聞社の書き手と称する人と遭遇すると、京さんは「このブル新が…」と憤った。
 ママは中立である。だが、京さんはそれが気にくわないと、相手ともども文句をつける。そして、店内は不穏な空気でいっぱいになるのだった。
 「よせ、火之上君」
 止めに入るのは、京さんの同世代の男たちだった。彼らは、京さんの「同志」らしく、陰に陽に、京さんを助けていた。
 「なんだか、かなわないな」
 なんどもそう思ったものだ。

6・
 ホームを歩く京さんの体がグラリと、大きく揺れた。
 「あっ、危ない」
 女性の甲高い声が上がった。
 札幌市営地下鉄・南北線、大通駅。麻生行きの車両がホームの先でライトを点滅させ、迫ってきた。ラッシュアワーをはずれているので、幸か不幸か人通りは少ない。
 線路側に崩れ落ちるかのように、バランスを失っている。
 無我夢中で駆け寄り、体を京さんとホームの間に滑り込ませた。少し汗くさい京さんの体臭が頭の上から降りてきた。両手の中にはやせてごつごつした京さんが体を預けている。顔を見ると、中空をうつろに見上げながら、にやりと笑った。
 ほっとした。
 北区の自宅まで送っていく途中だった。
 「大丈夫ですか」
 「うーん」
 返事には力がない。だいぶん、疲れているのか。だが、次の瞬間、すっくと立ち上がった。
 「来るぞ、やつらが来るぞ。反革命の薄汚い連中だ。逃げるな。闘うぞ」
 叫ぶ声はだれに向けているのか、わからない。京さんの周りには都市の冷たい空気があるばかり。ドンキホーテの風車か。何を見ているのか。
 「きやつらは堕落した反スターリン主義じゃない。敵だ。弱みをみせるな」
 ホームに降りてきた乗客の足取りのリズムが変わってくるのがわかる。早足になったり、後ずさりしたり、壁際に寄ったりして、離れていく。
 脇の下から抱え、いったん、ベンチに座らせる。
 「何も襲ってなど来てませんよ。落ち着いて、さあ、深呼吸して」
 京さんの両手を握り、時が過ぎるのを待つ。何を見ているのか。よどんだ瞳に力はないが、唇はせわしなく震えている。
 それでも、三十分も経つと、顔色に赤みがもどった。
 「さあ、帰りましょう」
 同じように抱え上げると、静かに滑り込んだ地下鉄車両に乗り込み、端の席に倒れかからせるように座らせる。
 「どこへ、行くんだ?」
 「帰るんですよ」
 「帰る場所なんかあったっけ?」
 「奥さんが待っているじゃありませんか」
 そんなたわいもない会話をしてくれるだけで、なんだか安心した。揺れの少ない地下鉄なのだが、左右に振れたり、速度を上げたり落としたりするたび、京さんの体はその動きを反復した。そして、静かに寝息をたてた。
 麻生駅で降りて、地上に出ると、北天には星の光が明るかった。
 「どんな困難があろうと、農芸の道は捨てない。黎明の時こそ、われらの出番だ」
 京さんは、しっかりとした口調で力を込めた。
 京さんはある周期で大きな躁から欝の波に襲われる。時には相反する両者が同時多発的にやってきては、周囲の人間を混乱に陥れる。
 躁状態の時はほとんど寝ずに、妄想を語り続ける。戦争や内ゲバやハルマゲドンが間近に迫っているのだから、これと闘わねばならない。
 あるいは、事業欲がむくむくと顔をのぞかせる。カメラ屋をやる、銃砲店をやる、喫茶店をやる、飲食店をやる。借金など、すぐ返せるから心配するなって。
 だが、そうした暴走が多くの親しい人々を困惑させた。
 一方、欝状態になると、もはや動きが止まる。
 つまずく石でもあれば、私はそこで転びたい−。
 尾形亀之助の言葉を常日頃そらんじていたが、本当に転んでしまって動かない。死をシミュレートでもしているかのように、この世の終わりが来たかのように。
 躁状態であろうと鬱状態であろうと、結末はなぜか同じだった。

7・
 躁鬱はだれにでもある傾向だ。京さんの場合はその振幅が他人よりも大きいだけだ。
 一般に若い時期にそうした症状は出がちなものだが、年を重ねても収まらないどころか、悪化の様相さえ見せた。
 特に、たいして強くもないのに好きだった恒常的な飲酒が内臓を弱らせたにとどまらず、精神の均衡を蝕んだ。年に一、二回の衰弱の頻度と期間が次第に増えるようになった。
 それでも、土づくりへの執念は片時も衰えない。春には春の、夏には夏の、秋には秋の、冬には冬の、作物を手がけることを怠らなかった。
 「農の道は人生だ。人生の隣にあるわけじゃない」
 信念とも口癖ともとれる言葉が、口をついて出ることも増えた。
 だが、スローガンの羅列こそ、自分の理想と現実の乖離を暗示するものであったろう。一生懸命の作ではあるのだけれど、時には毎年、似たような出来栄えの作物が北嶺村の一等地に並ぶことが増えた。
 それでも、内なる熱意は消えたわけではない。ある年、「今年は最後のチャンスだ」と宣言した。そして、「自分の農芸の道の集大成を」と取り組んだのが「真骨頂」シリーズだった。小さな葉物から始め、豆類、根菜類、ジャガイモ、イチゴ、花卉、そして陸稲までを、京さんの耕している黒光りする土地でつくり、収穫の秋にすべてを出荷するという荒業をたった一人で成し遂げた。雨の日は雨に濡れ、風の日は風に吹かれ、真夏は暑い日差しに灼かれながら、野良仕事を続けた。
 「あり得ないとだれもが思う。だが、それが今、目の前にある」
 目の前にずらりと並んだ作物を見ながら、京さんは満足げだった。
 その噂は北海道内に広まり、毎年実施されている北海道農芸大賞の最有力候補となった。
 「未完成だが、力量、才気を感じさせる」
 「出来上がりはめちゃくちゃだが、刺激的で想像力がある」
 そんな評価が農芸の大家と言われる人たちの口から聞かれるようになった。
 しかし、その年の暮れに主催団体から発表されたのは、次のような無常な宣告であった。
 「本年の北海道農芸大賞は該当作なし。佳作は火之上京の「真骨頂」とする」
 肯定的な評価の一方で、「一方的な思い込みが激しすぎる」「綻びも目立つ」といった厳しい指摘が大賞受賞を躊躇させ、佳作にとどまらせたのである。
 佳作でも、「おめでとう」と喜んでくれる人はいた。京さんもしばらくはうれしそうであったが、興奮がおさまると、ポツリと言った。
 「俺って、ダメか」
 「いや、これだけ実験的に栽培して実らせることなど、ほかのだれにもできませんよ」
 「なら、どうして正賞にならないんだべ?」
 私には、何も答えられなかった。
 京さんは、しばらくしてまた妄想を見るようになった。

8・ 
 醒めた絶望の中にいた京さんは幻の中の女性を愛し始めた。
 「宇土君、ちょっと人に会いに行こう」
 誘われて、連れて行かれるのは、いつも同じ人のところだった。
 鷹来寧子。病弱な色白のやせ形の美人。
 彼女が北嶺村に来たのは、本人の希望だったのか、京さんの推薦だったのか。今はもう定かではない。気づいた時には村の仲間になっていた、ということだった。
 確かに、腕はよかった。高いところに実を結ぶ豆類を作らせると、見事な出来栄えを示す。もちろん、頼りなげな感じで、実際、長時間の労働には向いていなかった。それでも、集中力で一気に畑をにぎやかにする。
 「めんこいな、寧子さんは」
 鷹来寧子の作った豆類をもぎながら、京さんはため息をつくように言葉をもらす。
 「そんなに好きなら一緒になればいいでしょ」
 「許してもらえなくてなぁ」
 京さんはなんだか子どものようである。
 京さんは妻帯者であるが。鷹来寧子もまた有夫の女性である。いわば、浮気、最近の言い方では不倫同士である。その壁を超えられないということか。
 本当に好きならば、心の指し示す道を進むがいいのだ。昔から、文学者はそうしてきた。「逃亡奴隷」と伊藤整がいみじくも呼んだように、文学者は自由を求めて鎖を断った奴隷なのだ。その先にあるのが、死か自由か。恐れながらも踏み出してきたではないか。
 「まだ、寝ていないんだよ」
 「そんなことは関係ないでしょ」
 蛮勇を振るうこともしない。それでいて、諦められずにいる。それどころか、あがめているようでもある。
 「白い肌はきれいだべさ。雪女のように、透き通って」
 そうした一人の村人の女性のみを可愛がることは、他の者たちに少なからぬ不快な感情をもたらした。
 「リーダーとして、おかしいんじゃないの」
 だが、それを面と向かって京さんに言う者は一人としていなかった。
 思うに、かつて北嶺村のナンバー2であった水尾さんはそのことに気づいていたのかもしれなかった。京さんと水尾さんは農芸の進む道をめぐって争った。だが、本当はもっと俗なところで争っていたのではないか。
 「本当は女性の心など何もわかっちゃいないのだ」
 水尾さんが捨て台詞のように言い残した言葉が時折浮かぶ。
 京さんはロマンチストなのだろう。夢を追い続けるのが好きなのだ。それは革命であったり、そして、美しい女性であったりする。
 「火之上は甘い、どうしてそのことに気づかないのか」
 京さんを古くから知る先輩農芸師から、時折、忠告されることがあった。もちろん、気には留めたこともない。だが、まんざら当たっていないこともない。
 だが、見果てぬ夢を持たない者がいるだろうか。夢見る権利はだれにでもある。それが、病んだ心を慰めるものであれば、なおさらだろう。
 「寧子のために、してやれることはないか」
 「十分、してあげていますよ」
 むしろ、あまり過度に付き合わないほうがいいのではないか、と言いたかった。だが、京さんは言うのだ。
 「僕は何もしてあげられないんだ」

9・孤独 
 京さんの言うことの意味がわかるには、さほど時間がかからなかった。
 最愛の女性である鷹来寧子はまもなく病魔に倒れたのだ。
 「弱い体にムチを打って、働きすぎたのだから」
 京さんは悔しそうに言った。
 「命の炎は静かに燃え尽きようとしている。僕にできることは何もないんだ」
 鷹来寧子を襲った病気は肝炎であった。それも、かなり重篤で、ウイルスにむしばまれた肝臓は自然な元気を取り戻すには、手遅れであった。
 京さんは狂ったように、畑おこしをするようになった。鍬を入れる手を休めることはなかった。
 作物は土の中で育つ。人間が空気を吸って暮らすように、作物は土の中で、空気を吸い、水を飲み、栄養を摂取する。もちろん、空気中にある上半身は太陽の無限のエネルギーを浴び、養分を蓄える。土の中と外の二重の栄養摂取が植物を何万年も生き延びられる強い生物にしているのだ。
 土には三つの相がある。やや硬い固形部分、しっとりとして湿り気の部分、そして空気である。この三つが混ざり合いの加減が土の力を決めるのである。これらは分離されたものではなく渾然一体である。なにより、よく鍬を入れて団粒化することが大切なのである。そして、これに栄養分、とりわけ堆肥などの有機物を加えると、土の中の微生物が元気になり、土の肥力を高めてくれるのだ。
 まさに土づくりは農業の基本中の基本であり、そして、人間の努力と天の恵みが相和した命のアンサンブルが作物となるのである。
 京さんが宮沢賢治のように雨の日も風の日も畑に出ているのを嘲笑うかのように、鷹来寧子の病状は悪化する一方だった。
 「少し休んだらいかがですか?」
 北嶺村のみんなが健康を気遣ったが、京さんは変わらない。
 「この土がまだまだ不十分なんだ。オレは何をやってきたんだ」
 鷹来寧子が亡くなったのは冷たい雨が降る季節の始まるころだった。寧子の親族の女性からの電話が朝早くにかかってきたのだ。京さんにそのことを伝えると、「そうか」とひとこと呟いたきり、そのまま寝込んでしまった。
 それでも、葬儀の準備のために、半日後には起きあがり、鷹来寧子の家に向かった。
 「宇土君、人間の命は儚いなあ」
 私に話しかけながら、返事はまったく期待していない。
 葬儀というものは価値中立的だ。京さんをはじめ、何人かが鷹来寧子の死を深く悼んだが、手慣れた町内会や業者の手によって、仮通夜から通夜、告別式、野辺の送りまでがつつがなく執り行われた。
 京さんはすべてが終わると、まっすぐに畑に向かった。
 
10・別離
 火之上京が亡くなったのを聞いたのは、それから数年後の冬だった。
 「もう内地に頼っていてはダメだ。北嶺村は独立するしかない」などと京さんは言い出し、その時代からずれた感性には反発を覚えた。
 「北海道に北嶺村あり、と言うのなら、そのとおり切磋琢磨を続けましょうよ」
 そう言っても聞く耳を持たなかった。すでに、永年の飲酒と繰り返す精神の奈落が京さんの心と体を蝕んでいた。
 「独立論に賛成できない? 何を生意気なことを言っているんだ」
 そんな手厳しい言葉が繰り返し繰り返し、京さんの口からでた。
 「潮時かな」と思った。
 自分の農芸家としての実力も、あるトシまで生きてくるとわかるものだ。京さんの指導の下、北嶺村で過ごした日々は懐かしくあったが、新しい道を求めて、きっぱりと別れを告げるのだ。
 「ゲリラ戦になれば十勝の野を走り、日高の山に潜み、油断する日本軍をたたける」
 山岳に広がった戦線を夢想し、指揮を執ろうとする京さんは真面目だった。
 夜が明ける前に、荷物をまとめて、私は北嶺村を離れた。
 
 京さんが病に倒れた、との噂が届いたころ、私は遠く離れた首都・東京にいた。そして、それからまもなく訃報が届いた。寒い日だった。北の夜空を見上げると、北天に大きな星がきらめいていた。
  
11・種蒔く人
 明治以降、北海道は食糧基地と呼ばれ、農業の振興が叫ばれてきた。 
 北辺の地に武士の末裔や食い詰めた流浪の民、あるいは国家に反逆した革命者たちが荒々しい大地に開墾の鍬をおろしてきた。その血と汗で、耕作地は道南から始まり、空知、上川、十勝などに見事な収穫をもたらしてきた。
 しかし、今はどうだ。棄農が北海道を覆っている。せっかくの米作りも減反政策で否定されてしまった。かさむ借金と後継者難、そして過疎が農村を襲う。もちろん、機械化された欧米の大規模生産と、アジア・アフリカの低賃金による安価な生産物が日本の生産者をたち行かなくしている。 
 北海道だけではないのだ。日本農業は絶滅危機にある。いわゆる農家は五十年前の半分以下の二百八十五万戸。うち販売農家は百八十一万戸。ただし、農業が主という農家はわずか三十九万戸で全体の五分の一。基幹農業従事者は二百二万人。このうち三十九歳以下はわずか五%、十万人。逆に六十五歳以上が五八%である。恐ろしいほど高齢化産業だ。
 跡継ぎのいる農家は七%にすぎない。新たに農業に就いた人は二〇〇六年において三九歳以下は一万五千人。日本の就業者が六千四百万とすれば、農業従事者は働いている者の三十人に一人たらずとなる。しかも、じいちゃんばあちゃん中心だ。自給率の向上やら農業自由化・国際競争力の強化を言っているが、この高齢化した足下を考えると、その失地回復の道は至難に覚える。その中でも頑張っているのが北海道だ。酪農、米作、畑作でも群を抜いているのだ。
 青年は言う。
 「この土を見た時、僕はまだ北海道には可能性があると思いました。これだけ、丹精した黒土は誇りです。農業を単なる仕事や労働ではなく、芸として新しいものを作り出そうとしていたのが、火之上さんたちです。僕たちは今、危機にありますが、新しい種はすでに蒔かれていたのです。北嶺村の挑戦は僕たちにとっては絶望や失敗などではなく、希望なのです。独立の気概を持って、農芸に励む姿勢から、困難に立ち向かう勇気をもらえるのです」
 私は青年の言葉を聞きながら、勇気づけられているのが実は自分であることに気づいた。
 そうだ。私たちは世の中を変えようと思ったが、大したことはできなかった。だが、結果がいつもすべてとは限らないのだ。
 夜明け前が一番暗い。だが、黎明の時は必ずやってくる。
 火之上京と北嶺村の実験は遠い昔の出来事ではある。後を継ぐ者の中に、種蒔く人、火之上京は志ある人の中に生きていたのだ。
 マンションから望む懐かしい山々は昔と変わってはいない。そろそろ、土を耕し、新しい種を蒔かねばならないようだ。
 「さあ、ひとつ汗を流すべ」
 京さんの声が遠くで聞こえた気がした。

編注:「土づくり」については「JAあいち中央」のホームページを参照した。

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