井手都子の方へ
井手都子さんの風景
俳句への情熱を傾け続けた井手都子さんの人と作品について、紹介する。
井手都子(いで・とし) 本名は照井郁子。一九三五年十一月二十一日十勝管内本別町に生まれる。四〇年名寄市に移る。同地にて高校卒業。六一年細谷源二選の北海道新聞投句により俳句をはじめる。六二年旭川市に移る。「氷原帯」入会。六三年千葉長樹、亀山昭祐氏らの出す「象」に二号より参加。紅一点。二年有余八号を以て廃刊するまで所属。六五年同人誌「粒」創刊に参加。同人。六八年同人誌「海程」入会。七〇年同人。六九年同人誌「広軌」創刊同人。七〇年同人誌「氷原帯」退会。七三年現代俳句協会会員。八三年海程新社俳句文庫に選ばれ、第一句集『井手都子句集』刊行。八七年加川憲一、佐々木宏らとともに北海タイムス投句者中心の現代俳句の会発足。八九年「海程賞」受賞。九〇年井手都子句集『劇場の椅子』刊行。二〇一七年五月十一日死去。享年八十一。
道東の本別町に生まれた井手都子さんはとても幸せな時間を四歳までは過ごした。しかし、父親が満州(中国東北部)へ軍馬と共に軍属として赴くことになり、母と子ども三人の一家は道北の名寄に移る。優しかった父親はまもなく戦死と伝えられる。生活は母と長女の郁子が支えるしかなかった。中学卒業とともに働き始めたが、向学心やまず、定時制高校に通う。縁あって北海道庁職員になり、その後、旭川に移り住んだ。三十歳の時に、母は急逝。親代わりの身で結婚はできなかった。「婚礼空ゆきわたしの背後の水族館」なのだ。現実を手放す訳にはいかない中で、「肉体を離れた言葉」で「真実の自己の姿をたしかめていく」という前衛俳句こそが彼女の熱情を注ぐ対象であった。
北海道新聞俳句欄の細谷源二選の自由な表現に魅せられる。「たくさんの内面的欲求を盛り込んでは、敗れることの多かった日日」が続いたが、それでも「私の風景を感得していかれれば」と俳句をつくり続け、次第に独自の世界を描きあげていった。
亡くなる四年前に脳梗塞に倒れ、最後は言葉を失った。しかし、「八十歳までに、もう一冊句集を出したい」と、屈することなく前を見つづけた。結婚はしなかったが、その俳句にはエロスにも垂鉛を降ろした一瞬が鮮やかに表出している。文学はいのちの証左なのだ。
井手都子さんの二冊の句集『井手都子句集』『劇場の椅子』から作品を紹介しておく。
T青い戸籍簿(一九六四〜六九年)
死者の列からはぐれ煌々と舟を編む
母と頭のかさなる渚火を噴く斧
花火懐胎あわい恥毛のあるコップ
U黒いあざらし(一九七〇〜七四年)
荒塩のかがやき晩年おぼろな父
逃げる流氷頭蓋に一本の草刺さり
喪の疲れの白鳥が行く刺身皿
V氷像(一九七五〜八二年)
性夢すこし紙の上ゆくかたつむり
身火照る公孫樹今逢わねば老いる
氷像展隣国の淋しい内乱映え =『井手都子句集』(一九八三年)より
人通す畦(一九六三〜七九年)
プラネタリウムのどまん中なる未婚の椅子
闇夜まぶしい唾ためて待つ彼も野獣
不意に悲しみの斧沢蟹が降りて来る
でかい幼虫(一九八〇〜八三年)
雪待つダム汝の大脳みどりなす
夜の半島葉ざくらとなりミイラとなり
虫かごのでかい幼虫です胃腸科
鶴を数える(一九八四〜八五年)
緑したたる白猫は二度殺されて
暴れまわるあれは大根般若経
雪舞いや人骨の笛吹いている
漂流体験(一九八六〜八七年)
雪ひとひらひとひら名もない尊厳死
劇場の椅子八十五パーセントは脳死
雪の貂〇・一カラットはあるな
紅葉体操(一九八八〜八九年)
ユトリロの眼あり柩は融けない雪
昭和終わるその時空気色の蛇
さくらさくら紙の脳ですはげしく散る
=『劇場の椅子』(一九九〇年)より
これらの断片からでも井手都子の俳句の世界とその風景が鮮烈に浮かんでくるだろう。
独立不羈の一行詩に、おのれの全体重をかけて挑戦していることがよくわかる。紡がれた言葉は激しく引かれあい、また斥けあう。馴れ合いを排し、生成される幻想(観念)の高速度とアモルファス性こそが彼女なのだろう。
未見であったが、「根釧原野ひゅーひゅー婆が跳んでいる」「父は指ほきほき海市へ行ったきり」「火星まで春の水買いにいきます」「初夏の黄河という名の赤ん坊」(加川憲一・抄出)などの句を「海程」五百三十六号で知り、さらにシュールで壮大な世界の一端を垣間見た。
今回、北海道文学館の永年会員をされていた縁で、ご令妹の照井由紀さんから文学館にご厚志が贈られる機会がなければ井手都子の俳句の魅力を渉猟できなかっただろう。わが不明を恥じる一方で、お礼の言葉は尽きない。
(公益財団法人北海道文学館編『架橋 創立50年祈念北海道文学館俳句賞作品集』所収、2019年2月2日