伊藤整氏の実像
伊藤整氏の子息、伊藤礼氏によって二冊の本が出版され話題を呼んでいる。ひとつは二年前に出された『伊藤整氏 奮闘の生涯』、もうひとつは『伊藤整氏 こいぶみ往来』。礼氏はこれまでも北海道新聞などに伊藤整氏に関するいくつかのエッセイを書かれたりしていたが、今回のこの二著によって、日本近代文学の偉大なる実作者であり、優れた理論家でもあった伊藤整氏の実像が解明されたという意味で、極めて画期的な証言者となることとなった。
礼氏の表現は勿論、彼自身が伊藤整氏の二男であるという、特権性によるところが大きいことは言うまでもないが、しかし、氏自身の綿密なる資料発掘・解読の努力抜きにはこれらの作品が生まれなかったことを過小評価してはなるまい。たとえば、三巻にまとめられた『太平洋戦争日記』は、今では伊藤整と戦争とのかかわりを知る上での必読の文献である。しかし、それにしたところで礼氏の地道なノオト整理がなければ、日の目を見ることはなかったであろう。そうした道筋を踏まえた上で二著が登場したところに深い意味がある。
さて両著の読み方である。伊藤整は日本近代の文学の流れを自らの表現に於いて方法化した人物であった。この国の文学者にとって不可欠なことは、その作品の大半が「私小説」といわれたように、徹底的な自己告白ということであった。伊藤整もまた、自らの日常や青春遍歴や故郷について人一倍書き綴っている。彼が小樽を捨て文学のために上京していく経緯は『若い詩人の肖像』や『自伝的スケッチ』など多くの作品となって私たちに知らされている。しかし、当たり前のことだが、書かれたことによって明らかになるのは、表現者の主観によって抽出された現実の一断面でしかない。その背後にある膨大な事情はついには時の流れの向こう側で知られることもなく消えて行く。
礼氏の著作の面白さは、そうした過剰なほどの告白癖の持ち主の書かれざる一面を内側から点描したことであろう。そして、そこに浮かぶ伊藤整像とは「私はエゴの問題というものが、社会変革によって変質するものではないと信じ、自己と他者の中に常住するエゴの働きについての描写や描出の禁圧されたものを、真の芸術として認められない」と『文学入門』で述べた人物らしい文学のためには家庭や仕事を犠牲にするという意外なものである。『伊藤整氏 奮闘の生涯』の中に収められた「千歳烏山の家」には次のような一節がある。
「あなたのお父さんは手が早かったのよ」と七十過ぎた母が私に言ったことがあった。これは女性に関してであった。父の方の祖母も「ひとしは手が早かったから兄弟たちは兄さんが家にいるときはひっそりしていた」と言った。これはすぐ弟たちを殴ったということだった。
私たちは伊藤整というと、つい温厚な紳士を思い浮かべがちである。しかし、家庭では暴君であり女性には盛んな人物であった。特に暴君の性格は母親譲りのものであったというのも興味深い。『こいぶみ往来』を読むと伊藤整の妻となる小川貞子が、整と母親タマという二人の暴君の前で翻弄されている様が痛々しいほど伝わってくる。「使者」では次ように書かれている。
タマは気性の激しいひとだった。子供たちが言うことをきかないと薪を投げつけた。酔っぱらつて現れ土間にひっくり返った村人の顔に、かまどの焼けた灰を十能で掬ってぶちまけたこともあった。この激しさは整と整の姉照が受け継いだ。しかし整の激しさはタマ以上だった。下宿をしていた小樽時代、整が家に帰ってくると、そのあいだじゅう弟妹たちは兄さんが帰ってきたといって息をひそめていた。
この整の暴君としての姿が子供たちにはどううつっていたかということが、『奮闘の生涯』の「殴られた話」に丁寧に書かれている。
私の父の像の原型は和田本町時代の父の印象から生れていた。それはかなり長い間私を支配していた。これは一言で言えば甚だ暴君的な人間像だった。大袈裟にいえば、この世に私が生れてきたことは失敗であったと考えざるを得ぬ情況で私は和田本町時代の人生を送った。 (中略)
父の『太平洋戦争日記』の中に、父が私と兄を殴ったことが何回かでている。「殴ってせいせいした」とか「殴って嫌な気がした」というような叙述なのだが、殴られながら育てて貰った二人の不肖の息子の一人からいえば、あの『太平洋戦争日記』は正確ではない。第一はどの程度に殴ったかという点で、第二は殴った頻度であの日記には相当な欠落があると言うべきである。
私は人の子の親になったことがないので、親が子を殴るという気持ちを未だに理解出来ないところがある。ただ、それが歴史的にみれば長く人間が繰り返してきた一つの育児の類型であったことだけは間違いない。「文壇随一の知性」と言われた伊藤整もまた、家庭ではただの普通の親であったと言うべきか。この暴力が子供への愛情なのか、自己自身へのいらだちによるものなのかはよくわからない。礼氏は「いま私も子供を持つ身分になっていて、似たようなことをしているらしい。なんということだと思う。(中略)これが安芸門徒である伊藤家の血筋かとも思う」と「血筋説」を取っている。それはそれで説得力のある結論ではあるが、私の関心のある家族論の視点から言えば、今後、探求すべきところが多いテーマであると思う。
この伊藤整の暴君的性格は「仮面紳士」として現世に相渉っていくには、甚だ荷が重いものだつたかもしれない。「チャタレイ裁判」を巡る伊藤整の戦いを私は極めて高く評価してきた。勿論、それは様々な矛盾やためらいを感じながらも伊藤整が自らの全体重をかけて前へ進んで行ったということにおいてである。そうした前提の上で彼が裁判をどう思っていたかということは興味深いものがある。
チャタレイ裁判は、それに関与した大勢のひとびとがそれぞれ強い性格の持主であったために、肝心の被告人のひとりであった父もしまいには何がなんだか分らなくなってきたらしい。人数だけの意見がある集団をとにかく前進させなければならないのである。父も時には面倒くさくなってくることがあったらしい。或日家に帰ってくると父は母にむかって、「俺が検事だつたらな、こういう悪い奴等はさっさとふんじばってしまうぞ」と言った。
この辺りの叙述はどこまで本当かわからないところがないわけでもない。しかし、「紳士」の仮面の下に、かなり身勝手な人物を想定すると、「俺が検事だったら」とは、いかにもつい口からでてしまいそうで真実味があるようにみえる。
伊藤整のもう一つの女性を巡る手の早さはどうか。貞子夫人との間に交わされた恋文は、いかにも文学青年らしい少しきざではあるが誠実なものであった。しかし、その一方で別の恋愛も活発だった。友人の妹にして女流詩人の左川ちか、すなわち川崎愛との関係はその一つの典型であろうか。
春がすぎてもう蜜柑が終った頃、ある晩愛が整に会いにやって来たことがあった。そうして愛は整に蜜柑が食べたいと言った。すると、整は貞子に蜜柑を買ってこいと命じた。貞子は暗くなった町を歩いて、まだ開いている店を蜜柑を探して歩いたが見つけることができなかった。がっかりして家に帰ると、部屋の隅に整と愛が身体を寄せあうように坐って、帰ってきた貞子の顔を見た。 (中略)
貞子が整のところに来てから、愛が死ぬ昭和十一年一月まで、五年余の時間があった。愛が死んでから、整は「一生おれからはなれなかった。愛していたわけではない」と貞子に言った。昭和十一年十一月、昭森社から『左川ちか詩集』が出た。この詩集を編集したのは整だという。
これはやはり男の身勝手というものであろう。貞子夫人に同情を禁じ得ないが、半面そのような身勝手を許される亭主は幸せである。
私は伊藤整の実像が次々と明らかにされていくのに快感を覚えた。誤解のないように言っておきたいのだが、彼の家庭での暴君ぶりがどんなに明らかになろうと、彼の残した文学的仕事の価値はいささかも減るものではない。そのうえで彼の文学と人生が再構成されていけばいいと私は思っている。礼氏の文章は必ずしも上手ではないが、時折、伊藤整を意識した部分にきらりと光るものがあったし、何よりも読後感がさわやかであった。
彼は死の床にあったとき「俺は勤勉によくやったよ。誰も褒めてくれないから、俺は自分で自分を褒めてやるよ」と母に言った。これは彼の人生のしめくくりの言葉だった。年末と同じで、人生が終りそうになると人間はいろいろとしめくくりたくなるらしい。彼は母にさらに、「あんたは良いおくさんだった。あんたのような良いおくさんがこの世の中にいたとは不思議なぐらいだ」といった。父の言いそうなことである。半分お世辞だとしてもこういう言葉は本当らしく聞こえるものだ。しかし、父のしめくくりの目指すところはまだその先にあった。暫くしてから父は「しかし、良いおくさんとは別に、世の中にはイイ女というのがいるからなァ」と言った。これは父の懺悔の言葉だった。
これはなんとも見事な総括というべきである。真偽のほどは定かではないが、もし伊藤整がそのように言ったのだとしたら、文学者にして生活者という彼らしさがある。もし、礼氏がそう聞いたのだとしたら、殴られ続けた子供は父親に鮮やかな返礼をしてみせたというべきであろう。
二冊の本から伝わってくるさわやかさは、この微妙な親子の掛け合いの中に根拠を持っている。
(文芸同人誌「詩と創作 黎」第46号、1988年冬季号所収)
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