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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています
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シン・たかお=うどイズム β
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情況論「閑日閑話」2 1995−1996年執筆
<某月某日>
小池真理子さんの『恋』(早川書房、1700円)。小池さんって、なんか悪女路線だけかなって思っていたが、今回初めて読んだ小説が、これが意外と面白いんだなあ、感心しました。
ドラマの背景に常に流れているのは、70年代の雰囲気である。シュプレヒコール。中央線沿線の生活―。時代は新左翼運動が次第に退潮していき、学園でもラディカルな学生は次第に孤立し始めている。そんな中で生きていた2人の男女(唐木俊夫と矢野布美子)は、一方は体を壊し運動から脱落していき、一方はアルバイトを通じブルジョアの頽廃にも似た世界へと堕ちていく。
恋。
純粋であるととともに、極めて謎に満ちた甘美な世界。仕掛けは幾重にも用意されている。この恋物語が単なるエロティシズムを超えているとすれば、そうした仕掛けの巧みさである。小池真理子さんも意外と小説がうあまいじゃないか。
恋物語の破局は連合赤軍が浅間山荘事件を起こした1972年の暗い冬に訪れる。事件の起こっているのと重ね合うように、同じ軽井沢の別荘で主人公の女性は、慕っていた大学助教授夫婦(片瀬信太郎・雛子)への恋への思い詰めた感情の果てに1人の男(大久保勝也)を猟銃で撃ち殺し、恋人のもう1人の男(片瀬信太郎)に重傷を負わせる。破局に至る恋心を倒錯だとか、嫉妬だとか、そんなものに封じ込めなかったのは、繰り返すが、作者の力量というべきだろう。
ちなみに、この小説は今原稿を書いている途中で、直木賞に決まったというニュースを聞いた。もうひとつの受賞作は藤原伊織の『テロリストのパラソル』だった。藤原が大衆的な東大闘争から「爆弾」へと向かうテロリストの悲しい心を描いているのに対して、小池真理子は純粋さの故に、一方では恋に、他方では武装蜂起と内ゲバに向かう青春の混沌を描いて見せている。全共闘世代の小説が時を同じくして注目されるというのは、それなりに感慨深いものがある。
トリヴィアルなことだが、舞台となる大学が、まず学生運動の盛んなM大学と学生運動とは無縁のS大学というのがいい。だれが見ても、片方は明治大学であり、他方は成蹊(成城)大学である。この距離が70年代の分岐点であり、2人の男女学生の「神田川」的世界を壊し、女学生をブルジョア的環境へと転移させ、物語を進める。
面白いと思った。
オレはこの物語を読みながら、20数年前の自分のことを思い浮かべていた。結局、オレは主人公の女性と別れ、24歳で腎臓を壊し、死んでいった主人公の学生運動時代の恋人・唐木に少なからず同情を感じながら読んでいたというべきか。自分自身もまた、大学では小規模とはいえ波状的にバリケード闘争を続けていたせいもある。あの時代が思い出された。拠点学科のボックスで、連合赤軍の浅間山荘事件に対して、某先輩が「ついに統一赤軍が日本で初の武装闘争の地平を切り開いた」と快哉を叫んでいるのを聞きながら、オレはこんな追いつめられた山岳闘争に、過剰な意味付与はできない寒々しさを感じていた。でも、いろんな意味で、みんな精一杯、純粋だった。「今ならもっとうまくできるのに」という多くのことに、あくせくして生きていた。その不器用にしか生きられなかった時代がうまく描かれて切実である。
<某月某日>
村山のじいさんが退陣して今度は自民党旧田中派の中でも最極右の橋本龍太郎が首相となる。顔ぶれも面白くもなんともない。社会党も本当にもうダメだな。社会民主主義党派は最後にはファシズムの露払いをするらしいが、落ちるところまで落ちて地獄にでも行くがいい。これで、議会主義野党は代々木だけか。日本の政治も末世だな。
<某月某日>
吉本隆明さんを巡り、95年12月25日の毎日新聞夕刊「直視曲語」(編集委員・田中良太)は許し難いデマゴギーを発している。
タイトルに曰く「吉本隆明氏と公調庁の連携プレー」。これを見ても、極めて短絡的かつ意図的な吉本隆明批判の思惑が浮かび上がるではないか。私どもがなんども繰り返しているように、吉本隆明氏の現在を思想的に批判することと、鬼の首を取ったようにスターリニストくずれ達が自らの拠点の脆弱さを忘れ、「オウムを思想的に擁護する吉本隆明は人民の敵」とばかり舞い上がることは断固として峻別されねばならない。
かつてスターリニストの「泳がせ論」なるものがあった。それは反権力闘争を過激に行うことは権力の弾圧を招く、権力はラディカリストを泳がせることによって、(闘わない)わが前衛党を弾圧しようとしている、権力とラディカリストは《連携》している―というものだった。だが、この手前勝手な論理に一片の正当性もないことは、最も闘ったラディカリストはやはり徹底的に弾圧され、最も闘わなかった前衛党は見事に醜態をさらして生き延びたという事実が証明している。これは後の国鉄民営化に於いても、闘わない労組のみが延命した形で同様に現象した。
吉本隆明と公安調査庁との連携などというのは、全く論理としても実体としても的外れでしかない。
「オウム真理教の麻原彰晃代表を神格化しようとする人たちがいる」「吉本隆明氏がその代表だろう」「吉本氏は(オウムの犯罪を徹底的に否定する、と言いながら)宗教人としての麻原被告を高く評価する」「こういう発想の欠陥は、オウムがどうして巨大な犯罪者集団に育ったかという現実の経過を無視し麻原被告の頭脳だけがオウムを作り上げたかのごとく錯覚していることだろう」「麻原被告は、いつまでも警察が逮捕してくれないから、犯罪性を高める以外に道がなかっただけだろう。吉本氏が言うほど立派な人なら、オウムの犯罪について責任意識を持つ程度のことはあるはずだ」「オウムはすでに麻原被告を頂点とする幹部がすべて逮捕され、人的に壊滅している」「それでもなおかつオウムは『将来暴力主義的破壊活動を行う明らかなおそれがある』というのが公安調査庁のお墨付きなのだ」「喜んでいるのはだれか、よく考えた方がいい」。
以上が、田中良太なる人物の発言のエッセンスである。この崩れスターリニストは徹底的にオウム集団を矮小化したいだけだ。だから、その思想的問題を指摘する吉本隆明やこれまでどの左翼党派も与えられなかった破防法を与えた公安調査庁は、オウムを過大評価することで連携している、と言いたいわけなのだ。馬鹿げた話だ。
オウムを矮小化することなどによっては、この度の歴史的犯罪を解くことはできない。これは吉本隆明さん風に宗教者としての麻原彰晃を評価することとは別に、やはりオウム集団が与えた戦後日本の現実への衝撃をきちんと総括しなければならない、私たちに突きつけられた課題である。オウム集団の革命戦争、独自の社会編成論というのは、きちんと総括しなければ必ず再び高いツケとなって私たちを襲うだろう。崩れスターリニストのように、オウムなんて単なる小人物に率いられた宗教という隠れみのをかぶった犯罪者集団、では済まない。
<某月某日>
吉本隆明『超資本主義』(徳間書房、1800円)。「サンサーラ」を中心に展開されてきた情況論を一冊にまとめたもの。ほとんどの文章は読んでおり、特にオウム問題などは、折りに触れ論評させていただいたものも少なくない。相変わらず刺激的なことが多く書かれており、疑問を含め啓発されるところ大であった。
オウム問題については、別の機会にゆずることにして、ここでは我が師の経済論や政治論に耳を傾けてみよう。経済論の基調は選択消費論を軸とした産業社会構造の変化であることはいうまでもない。吉本隆明は近年の不況について、次のように語る。
》すでに消費が所得や収益の過半量を占め、また選択が可能な消費が全消費や総支出の過半量を占めるようになったために、経済政策のどんな担当者よりも、諸国民個人や企業体のほうが優位になった地域国家で、社会生産が第三次産業に主体が移ってしまったために、現在のような先進国の不況は起っている。この不況を離脱するには、ほんとうはすでに先進国では諸国民と企業体を経済と経済政策の主体においた方策をとるよりほかにはありえないので、ケインズ政策の信奉者や企業本位の政策の代行者にすぎないことを自覚するよりほかにありえないのだ。 (「不況とはなにか 2」)
吉本さんの言っていることは明瞭だ。昔のように、第二次産業を中心にした産業政策の力点は変更されたほうがいい。むしろ、国民大衆の裁量による消費のほうが圧倒的に経済の主軸に押し上げられている。それならば、そうした主体たる国民に豊かな気分を与える政策のほうが、トンネルや橋を造ることよりも、重要だ、と吉本隆明は主張する。
オレは吉本さんのように経済の専門家を自負することはできないが、言ってることはよくわかる。「清貧」などというのは、退行的イデオロギーであり、企業や社会資本領域ではなく、大衆が豊かさを実感できるほうが良い社会に決まっている。ただ、その勢いでどこかでバブルを擁護するところが吉本さんには感じられる。そこがうまくリンクしない。さらにオレは所得税の減額には賛成だが、消費税のアップには納得しない。大衆にとっての利益と過渡的政策について、吉本隆明さんにしても処方箋は出し切っていない。
次に93年7月の総選挙に触れての吉本隆明さんの発言を見る。
》もっといえば、これから数年間をかけて自民党的な中心をもった保守政党と、新生党を中心にしたより進歩的な政党との2つの政 権政党が形づくられてゆくに相違ない最初の徴候が、見えはじめたことを意味している。べつな言い方をすれば社会・共産党的な 民利・民福の課題はほんとうはもう国民大衆にとっては実現されてしまっているから、最小限2つの政権担当能力をもった政党が あれば用が足りる時代に入ろうとしているということだ。(「総選挙の話」)
「新生党を中心としたより進歩的な政党」とはよく言ったものだ。勘違いしているよ。
思想と組織がわかっていないのだな。オレは2大政党に興味はない。大衆の利益が多様化しているのに応じつつ、世界を展望した地域的・政策的多党化を過渡的には支持する。
<某月某日>
吉本隆明+岩上安身、「プロジェクト猪」その他による『尊子麻原は我が弟子にあらず』(徳間書店、1600円)。いつも思うのだが、どうしてプロジェクト猪の諸君はピントがはずれているのだろう。あの「全共闘白書」にしても大失態だったもんだものなあ。本書も僕の知り合いが少なからず参加しているが、一読悲惨なり、というのが読後感だった。
「全共闘おじさんが企画し、語ったオウム・サリン事件」だなんて、オビにあるけれどこれじゃ馬鹿垂れの切通理作ならずとも、こういう人たちとは一線を画したくなるわな。こうして浮上してくる全共闘派ってのは、昔風にいうと、破れ果てた全国全共闘の旗だけを振っていた野合八派そのものだぜ。腰が据わってなければ、空気も入っていない。党派なのか大衆なのか、本当にヌエ的だ。政治的マヌーバーで延命して、時代のタガがゆるんだのを見越してしゃしゃり出ててきただけじゃないのか、などと思ってしまう。
同世代には、言いたいことがいっぱいあるぞ、とだけ言っておこう。
問題は我が導師・吉本隆明さん。オレは改めて師の「オウム論」を読み直してみて、時代の感性からずれてしまったことに加えて、やはり吉本さんの中にある思想主義というものが判断を誤らせているのだ、と思った。
》僕は麻原さんはヨーガの修行者としては大変よくやった人だと思って高く評価してきました。それは著書を見ると、とてもよく分かります。僕らの読み方で読むと、どの程度できる人かなってのは大体わかるんです。 (「より普遍的な倫理へ」)
オレは吉本隆明さんが麻原を誉める時、こりゃクロカン賛美と同じだな、と達観した。オレは主体性哲学者として田中吉六、梅本克巳と並んで黒田寛一を高く評価する。「社会観の探究」に代表される主体の自覚の構造には、それなりにはっとさせられるところが多かった。
だが、それは結局、プロレタリア的人間の論理とセクト的組織論と密接不可分であり、それが独善=唯我独尊の革マル派として現象していることを無視できないわけだ。だから、黒田思想と革マル組織を区別しようといっても現在的には意味がないのだ。黒田理論の帰結が選民意識丸だしの革マルそのものなのだ。
オレは吉本隆明が麻原を評価する、と言うとき、クロカンを評価する、というのと同じように聞こえる。だがしかし、その時、醜悪な宗派集団=革マルとオウム真理教集団は分離するのではなく等価に扱うべきなのだ。オウム真理教の犯罪は認められないが、麻原は認めようと言うのはまやかしでしかない。
》僕がサリン事件とオウム真理教と結びつけるとすれば、市民社会における善悪という無差別無関係の人に対する殺人ということ で、殺戮の次元を一挙に新しい次元の殺傷に持っていった事件ということになります。また、市民社会の規模の善悪だけで済むかという問題になってくると、善悪の倫理性を普遍的な善悪の問題にまで、どういうふうに拡大していけば、実りがあるかという所へもっていかないと、対応できないでしょう。 (「同前」)
思想の問題としてはそうかもしれない。だが、まさにそれは空論だ、とオレは思う。
<某月某日>
腹痛がひどい。診療所に行く。盲腸の恐れ。尿をとり血液をとり検便を3日間続ける。考えてみれば、オレには金がない。入院となると、深刻だ。なけなしの貯金50万円おろす。結果を聞きに行ったら、風邪だと言う。気の抜けたようなホッとしたような感じだ。
<某月某日>
小浜逸郎さんの『オウムと全共闘』(草思社、1600円)を読む。小浜さんと言えば、「試行」で活躍してきた全共闘世代の評論家であるし、言うならば吉本主義者の若頭クラスの人物である。その氏が全共闘並びに吉本隆明批判を展開している。となれば注目せざるを得まい。
小浜さんの文章の中にはオレが早くから別のところで展開してきたヨガと社会党を巡る吉本さんの大ボケ発言への批判と同じくだり(93頁)などがあって、どちらが先に言ったのかはともかく、考えていることは同じだなあ、と思わされた。
「全共闘白書」一派のしゃしゃり出方への異和も、全く同じだ。本当に、まったく飲み屋でいい話を大上段に展開したり、横断的組織再結成へつないでいこうとするスケベ心は情けなくなる。違うのは市民主義への深入り的思い込みの深さと全共闘批判だな。前者はともかくオレは全共闘運動を「壮大な失敗」だった、などとは全く思っていないからだ。
》もう一度くりかえしていえば、あの運動は、大学アカデミズムに安住した左翼的、進歩的知識人たちの欺瞞と観念的独善にたいする違和感を、その反抗的情熱の基盤としていた。そのかぎりで、戦後社会にたいする正しい批判的感知を示したものであった。
しかし、その感知を有効な方向に導くだけの政治的視野と思想的創造性に欠けていたために、当時すでに時代遅れになりつつあった左翼理論に、それがただ現状否定のラディカルな情熱をよく説明してくれているという理由だけでたよらざるをえなかったのである。
また、大学知識人を特権者として批判した論理が自分自身に跳ね返ってくる問題を、「自己否定」という観念的な倫理命題に結 晶させたことは、運動理念として最悪であった。
オレは左翼信仰など全くないが、ラディカルな思想としてコミュニズムが60年代から70年代初頭にかけて一定程度支持されたことは全く正しい。さらに、そうしたコミュニズムはいわゆる共産党信仰とは全く無縁に世界の変革への可能性を孕んでいた。「自己否定」についても、オレはそれぞれの立場で自己否定は有効だったと思うし、一方で、自己否定が全共闘理念の核心とはいいきれず、他方でそれを契機に自己解放・自己の全面的実現にこそ、多くの学生は共感して決起していったのだ、と思っている。
全共闘批判を除けば、吉本隆明さんへの異議申し立てには同感するところが多かった。
》オウムが、かつてのロシア・スターリン体制や現在の北朝鮮国家などに体現されているのと同質のアジア的スターリニズム体質 を持っている事実に、吉本の視線は及んでいない。スターリニズム批判にあれほど自らの思想生命を賭けてきた吉本なら、この面から当然の批判があってよいはずである。ラディカリズムとしての宗教にたいしてどこか甘い点をつけているのだ。(中略)オウ ムのようなアジア的なスターリニズムの古くさい倫理主義(反物質文明主義)をにじみ出させる日本の文化土壌の貧困さにたいして、私たちははっきりと「否」を突きつけなくてはならないのだ。
オレもそう思う。
大衆の選択消費を称賛する吉本がなぜ、オウムの倫理主義的スターリニズム=清貧を擁護する必要があるのだ!
<某月某日>
小嵐九八郎『風に葬え』(角川書店、1500円)。その昔、明治大学かどこかの全共闘の隊列の中に「仁侠道」と書かれた旗が翻っていたという。小嵐の小説を読みながら、そんな伝説が思い出された。全共闘集会に姿を現し名前と顔だけは知っていた小嵐九八郎さん。読んでみると文章は下手だが、筋金入りらしく、気合いが入っているのが救いというべきか。
1966年秋、3派全学連再建。
1967年秋、羽田闘争。
1968年秋、全学共闘会議会議結成。
1969年冬、東大安田講堂落城。
1970年春、よど号乗っ取り。
1972年春、浅間山荘事件。
そうした反乱の季節を闘い抜き、最後はセクトの非公然軍事部門の兵士となった男。だが時代の移り変わりの中で、政治局と対立、組織を抜けたことにより、組織と対立セクトと警察に追われている男。その男がロシアでゴルバチョフが軍事クーデターにより解職されつつあった1991年夏、博多駅に降り立ったところから物語は始まる。
男、尾形新伍は居酒屋でひょんなことからやくざの老組長を義侠心で助けたことから、仁侠の世界に足を踏み入れることになる。そして、九州制覇を狙う巨大暴力組織と血盟によって結ばれた少数精鋭の尾形らの組織が、退路なき抗争に突入する。
物語は現在進行のロシアの軍事クーデターの帰趨と、かつての全共闘運動の「連帯を求めて孤立を恐れず」という熱い日々と、そして、血なまぐさい暴力団抗争が重なり合って進み、そこに男同士の友情、薄幸の女たちが絡み合う。心は演歌、仁侠映画の世界である。
そして、男にはテロリストの悲しいこころが最深部で疼いている。
》――集中された暴力としての軍事が政治に敗けてはならない、この1点。軍事を、自らの汗と血と生を賭けて行うものこそ、主人公にならなければならない。狭い視野といわれても、仕方がない。多かれ少なかれ、人間は偏る。偏りよりも、生の証が大切だ・ ・・ろう。
》「・・・敵を1人1人殺すために、5分の兄弟を全九州に作るんだな。殺せば絆は、不動となる。脈打つ」
》「血を直接に噴き出しての点を、まず多くすることだな。そして点を結んで、確実な線と面にする。田丸には済まんが、この際叩いて、九州から追い出すことだ。超大組織は、腐る。ヤクザ自身の首を絞める」
このあたりを聞くと、やっぱり過激派そのものだわい。
軍事が政治に優先すると一途に生きた男はしかし、ロシアが「共産主義」の旗をおろし日本がPKO派遣を決めるという逆流の時代の中で、弟分を殺され、愛人の家を訪ねる途上の駐車場で、頭上に鉄パイプが打ち下ろされ、テロルに倒れる。
「ヤクザだってな・・裏切り者」との聞き覚えのある声を耳にしながら。
内ゲバに生きた男が「内内ゲバ」で死んでいく。「風に葬え」。新左翼セクトと武闘時代への挽歌というべきか。
<某月某日>
直木賞候補作だった北村薫さんの『スキップ』(新潮社、1800円)。こちらは惜しくも賞を逃したが、なんとも見事な青春小説で、楽しめる。
特に、主人公の17歳の少女の学園生活のとりとめもない小さな部分がとてもリアルによく書けているのだ。
たとえば、演劇部の稽古風景。学園祭。職員室。生徒と先生のやりとり。ETC.
「17歳の私が42歳の今を生きる」とオビに書いてあるが、本来なら荒唐無稽になりそうな設定でありながら、漫画的にもミステリーにもならず、リアリズムを維持しているのが素晴らしい。
》わたしは、ひとつの物語である。誰もが1冊の本であるように。
しかし、その本が落丁だったら、誰に取り替えてもらえばいいのか。交換不可能なら、道は2つだけ。本を投げ捨てるか、読み進むか、だ。ただ1冊の本は捨てられない。となれば、つじつまが合わなかろうとページをめくるしかないではないか。
これは、17歳の主人公・一ノ瀬真理子の心が42歳の桜木真理子の肉体に入ってしまった時の、決意の場面。
なんともうまい表現ではありませんか。
》涙が溢れた。止まらなかった。あの日から、何があろうと、一度として流したことのなかった涙が。
「――分からない。わたしには、そういう気持ちが分からない」
その瞬間、自分が失ったものは2度とこの手に戻らないと悟った。再び、17の時に戻ることなどあり得ないと悟った。わたしは、その大きな矢に刺し貫かれた。
これは25年ぶりに親友と再会して、失われた時間は決して戻って来ないことを悟った場面。2人はこの直後、「一ノ瀬。・・あたしは信じる。世界中が違うといっても、あたしは信じる」と分かり合う。
》美少女は、まだ物いいたげに、わたしを見ている。
「何?」
ためらいがちに、次の言葉が出た。
「――お母さん」
わたしは微笑んだ。胸が高鳴った。鏡のように言葉を返した。
「美也子」
これは一番最後の同じ17歳の高校2年生の自分の娘との会話の場面。親子関係の確認と和解というべきか。
近年、多重人格が現代社会の病理のひとつとして注目さえているが、北村さんの小説はむしろそのような社会性に向くのではなく、徹底的に人間に於ける時間の大切さに拘ることで、生きることの意味を問う物語を紡ぎだしている。
私は、先に青春小説と言ったが、本当は青春という宝石を大切に抱え込んで、顔に出ている皺やシミを気にして生きている「おばさん」のための元気小説である。この小説を読んで、家事に追われているおばさんたちがもう少し輝きを増す勇気を与えてくれるような気がした。ちなみに、この小説は1967年という時代の備忘録でもある。
<某月某日>
瀬名秀明さんの『パラサイト・イヴ』(角川書店、1400円)。第2回日本ホラー小説大賞受賞作。
ミトコンドリアは実は寄生生物(パラサイト)であり、これが独自の意志を持って、人間細胞との共生を拒否したら−との発想に基づき、「どくん」「どくん」と恐怖に満ちたドラマが進行していく。
ざっくばらんに言えば、専門用語に対する違和感は全く覚えなかったが、いかにも映像メディア(ホラー映画)に影響を受けたな、って思わせるところが随分あって、そこんところが通俗というか稚拙というか、ちょっぴり不満であった。
ミトコンドリアから生まれた、独自の《ミトコンドリア人間》が最後に加速度的な発生を繰り返して、解体していくシーンは、いかにもマンガチックで、恐怖感というよりはスラプスティックの印象の方が強かった。
ミステリーの水準が世界レベルに達したのかどうか、私はよく分からないが、この種の専門的知識が文学の領域になだれこんでいくのは、時代の流れともいうべきで、これはやむを得ないのだ、と思った。要するに、文章に通暁しただけの人が認められるという修練の時代は終わった、ということだろう。純文学の分野でも石黒達昌という人が該博な医学知識に基づいた密度の高い小説を書いて、なかなか新鮮な世界を作り出している。文学の領域はすこぶる拡大している。このことは純文学であろうと、サブカルチャーであろうともはや止められない。
『パラサイト・イヴ』を読みながら、もうひとつ考えていたことがある。それは、北村薫さんの『スキップ』でもそうだったが、私という存在の危うさ、頼りなさである。
つまり、『スキップ』では私は17歳の美少女だったのにいつの間にか、42歳のおばさんになってしまう。むしろ、42歳の私が17歳の自分に退行してしまった、というのが本当のところだろう。
だが、明らかなことは、私の中には私以外の何かが棲んでいるという状態だ。『スキップ』では、「17歳あるいは42歳の私」だったが、『パラサイト・イヴ』では「ミトコンドリア」という寄生生物である。
私は私である。しかし、私は私ではない。
ならば、私って何? という思いが充満しているとすれば、次のテーマは私探し、ということになる。
<某月某日>
脇英世さんによる『Windows入門――新しい知的ツール』(岩波新書、650円)を読む。はやりのウィンドウズ95に関する岩波的解説書である。
》ウィンドウズ95は、非常に高度な機構を持ったOSであり、こんなに複雑で難しいものが、1時間ぐらいの短時間でインストールで きるほうが不思議なのである。
》しかし、マイクロソフトには「マイクロソフト語法」のようなものがある。型番の場合は1つグレードを上げ、数値は少なくとも2倍にして、話をきかなければならない。
》ウィンドウズは、マッキントッシュ的なGUIを持っている。ストレートに言えば真似をしたのである。ただもともとマッキントッシュも、ゼロックスの技術の真似をしたのであり、純技術的に言えば、ウィンドウズは真似の真似である。
ちょっと斜に構えたところがユニークだ。
<某月某日>
インターネットを始める。結構面白い。世の中の広さを事実を持って知らされる感じだ。だから、なんだというんだ、というのも事実だ。インターネットをやらなくても時代に遅れることなどないと感じる。
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