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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています
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加清純子考
J.KASEI
「よみがえれ!加清純子 再び」のために
受苦と情熱の人「加清純子」
加清純子とこしえプロジェクトの谷口孝男と言います。北海道立文学館特別展「よみがえれ!とこしえの加清純子 再び」展の開催を心からお慶び申し上げたいと思います。
七十年前のきょう、一九五二年一月二十二日。加清純子は雄阿寒ホテルに宿を取り、キャンバスに向かっていました。油絵を必死で描き、獄中にいる愛する人を取り戻すお金を得たいと思っていたのです。この阿寒湖にはスケッチ旅行に訪れており、雌阿寒岳を登って美しさを知り尽くしていますから、絵を描くには絶好の土地でした。
一日明けた七十年前のあす、一月二十三日、
「阿寒湖の滝口を見に行く」と言って、加清純子はホテルを出て行きます。誰もそれが最後の言葉になるとは思いませんでした。温泉街を歩くコート姿の少女を多くの人が目撃しているのですが、雪深い阿寒山中、釧北峠への道の奥深くに踏み込んだまま、ついに自力では戻って来ませんでした。
「天才少女画家」という言葉が良くも悪くもキャッチフレーズになり、この才能に溢れた芸術家の真実は白いベールの彼方に隠れ、彼女の残した絵画は触れられることなく、未曾有のストーリーテラーであった小説は読まれることなく、ひとり歩きして来ました。
しかし、私たちは今回の特別展で、米軍の占領下にあった戦後混乱期の札幌の街を、臆することなく全力で駆け抜けたアプレゲールの挑戦者の全貌を知ることができるでしょう。
加清純子は感受性豊かであると言われていますが、それは世界が出遭っている苦しみや悲しみを内面から表出しようという芸術的挑戦でした。
カール・マルクスの「対象的な感性的な存在としての人間は、一つの受苦的[leidend]な存在であり、自分の苦悩[Leiden]を感受する存在であるから、一つの情熱的[leidenshaftlich]な存在である」(『経済学・哲学草稿』、城塚(しろづか)登(のぼる)田中吉六(きちろく)訳)という有名な言葉を思い出します。
加清純子は自分を含めた現実存在に重くのしかかる時代の苦しさから反攻し、永遠なるものを情熱的に描き出そうとしました。それを私たちはここで追体験できるでしょう。
加清純子の志は突然、途絶してしまいますが、誰よりもその志を継ごうとしたのは姉の加清蘭子、弟の鍾=暮尾淳でした。きょうだいの尽力で純子作品は奇跡的に散逸を免れ、いま北海道立文学館に、皆さまの目の前に、あります。労苦を惜しまなかった暮尾淳さんも二年前のこの一月に亡くなってしまいました。展覧会が純子を偲ぶとともに、加清家なかんずく蘭子・鍾姉弟の無償の愛の力に触れられる場となったことも慶びたいと思います。
加清純子を知る今回の旅は、過去へ遡る旅になりますが、多くの困難の続く現在から、未来を切り開く希望の旅へと繋がることを信じてやみません。ありがとうございました。
(北海道立文学館特別展『よみがえれ!とこしえの加清純子 再び』の「開会式に寄せて」、2022年1月22日)
加清純子展に寄せて
戦後まもない札幌の街をきらめく感性とたぐいまれな表現力でさっそうと駆け抜けた「天才少女画家」がいます。加清純子(かせい・じゅんこ、一九三三〜五二)です。中学三年のときに油絵「ほうづきと日記」が道展に入選、十代でアンデパンダン女流画家協会展や自由美術展など中央画壇に活躍の舞台を広げました。多感で揺れる内面をシュールに描きあげる一方で、大胆な意想の小説「二重SEX」などを次々と発表し文学の分野でも注目を集めました。まさに表現の未踏の領野を目指した戦後反権威世代(アプレゲール)のヒロインの一人と言えます。しかし、十八歳の冬、阿寒山中で姿を消し、唐突に生涯を閉じてしまいました。
それから約二十年――。渡辺淳一が純子をモデルにした小説『阿寒に果つ』を雑誌に連載し、その存在にあらためて光を当てました。荒巻義雄もまた『白き日旅立てば不死』(一九七二)で純子を登場させました。二人は純子の高校の同級生でした。その青春の日々は短かったけれど、彼女のいのちの燦めきは不死鳥のように多くの人たちに影響を与えていたのです。
純子の絵画はほとんどが散逸していました。それを肯んじなかったのが姉・加清蘭子(青娥書房創設者)、弟・鍾(詩人暮尾淳)らでした。純子の幼いときからの貴重な資料を保管するとともに、消えてしまった作品蒐集に尽力しました。それらは加清家ご遺族、関根文範青娥書房代表のご厚意により公益財団法人北海道文学館が受贈するに至りました。
当館は二〇一九年に特別展「よみがえれ!とこしえの加清純子」を開催していますが、今回の展示は現在確認できる純子絵画36点を一堂に集めるとともに、七十年にわたる秘蔵資料の封印を解く初めての機会となります。併せて、少年の日に失われてしまった最愛の姉を追想し、言の葉を紡ぎ続けた詩人、暮尾淳の人間味溢れた文業について紹介します。
(公益財団法人北海道文学館編『よみがえれ!とこしえの加清純子 再び』、2022年1月22日所収)
新聞コラムと「青銅文学」と
加清純子(一九三三〜五二)は「天才少女画家」として知られているが、文学的才能も類い稀なものがあった。道立札幌南高校同期の小説家、荒巻義雄は「絵描きとしてよりも作家として大成したのではないか」と評している。
主な事項を時系列で拾っていく。まず小学四、五年生の頃にアッツ島での日本軍玉砕(一九四三年五月)慰霊の作文を書き、全国の秀作集に収載された(暮尾淳の証言)というが詳しいことは不明である。庁立札幌高等女学校併置中学校二年の一九四八年三月には演劇コンクールで「金の鵞鳥」をクラスで上演し、演出賞を得ている。五〇年三月には道立札幌女子高校の自治会雑誌「楡」に初めての創作と思われる「無筆の画家」を執筆している(同作は没後の五二年三月刊行の「青銅文学」第4号に再掲載された)。
五〇年四月からは学制改革により男女共学となった道立札幌南高校の二年生となっており、同年十月、生徒会文学部の「感覚」創刊号に紀行文「雌阿寒岳を登る」を発表している。セーラー服姿で悪戦苦闘の末に雌阿寒岳を制覇する模様を新鮮な感性が光る文章で描いた。同作は評判となり、NHKラジオで若山弦蔵により朗読された。
一方で、この頃から高校生ながら一般紙の「北海ウイークリー」(樫村幹夫による。週刊紙)に随想を定期的に書いている。「香水」(五一年四月十六日)「花のいのち」(同五月十四日)のほか「ある日の午後」「印象」「夜」(いずれも掲載日不明)が確認されている。肩書きには「自由美術協会所属」とあり、加清純子が自由美術展に出品するようになった五十年十月以降に掲載されたものと思われる。
札幌南高校では二年三組のクラス文芸誌「独活の芽」が51年3月に発行されており、加清純子は「清瀬瞬子」の筆名で小説や詩を書いている。
五一年十月以降は「青銅文学」が主舞台となる。同誌は札幌南高校の樫村幹夫、岡村春彦と加清純子らによって準備され、同人誌「札幌文学」の青年版の性格を持つ。加清純子は表紙や挿画も担当した。創刊号に小説「一人相撲」、第二号に同「二重SEX」、第三号に詩「時計」を発表している。阿寒での失踪・死亡後も第四号に小説「無筆の画家」、第六、七、九号に同「藝術の毛皮」、第十六号に同「美の抛物線」、第十八号に詩「Valjeanの時計」(第三号の「時計」再編集)、第十九号に随想「花の匂い」が掲載されている。
樫村幹夫「『加清純子』覚え書」によれば、ほかに未完成の「街子」「一点」の創作二編があるというが、詳細は不明。
(公益財団法人北海道文学館編『よみがえれ!とこしえの加清純子 再び』、2022年1月22日所収)
『独活の芽』と清瀬瞬子
『独活の芽(うどのめ)』は渡辺淳一と加清純子が出逢った札幌南高校一九五〇年二年三組の文学雑誌。題名は松尾芭蕉の俳句「雪間より薄紫の芽独活かな」から採られた。
渡辺淳一文学館には一部が展示されているものの、全体像は不明だったが、今回初めて全ページが明らかになった。
ガリ版刷りB5判、本文四十二頁。発行は五一年三月二十二日。編集は合同ネーム「清本淳徳」とあり、加清純子、橋本勉、渡辺淳一、氏家徳雄――の四人が担当した。
加清純子は『独活の芽』に「清瀬瞬子」という筆名で参加している。同名義による作品は短編「偽りの作」、詩「死せる恋人に捧ぐ」、短編「平行」の三つが確認できる。
「死せる恋人に捧ぐ」は消えかかったストーブの火を前に「彼と私」の心のすれ違いを凝視し、「一人相撲」を重ねる喪失感を綴った詩。「平行」は級友の男生徒の書いた詩を読み、瞬子は恋する姿に恋をする。だが、一歩踏み出すことができぬまま葛藤しており、「愛なき如く振舞」う自分は彼の詩の彼と二重写しになっていることに気づくというもの。
「偽りの作」は、渡辺淳一の『阿寒に果つ』でも加清純子の孤独を描いて最も印象的な雪像コンクールのエピソードの「真相」が、当事者の内面凝視とともに描かれている。
『阿寒に果つ』で、加清純子は主任となってロダンの「接吻」の雪像をつくろうとするが生徒達から見放され、赤いジャンパーの女生徒一人だけが雪像にしがみつく孤立した状態になる。最後は白い雪像の上に赤い血を吐いて倒れる――。
「企画・制作・主演 加清純子」による舞台の一場面のようであるが、このオリジナルカット版では少し違っている。
それによると、コンクール参加を主導したのはやはり純子(作中では舜子)だ。情熱家の彼女は創作意欲にかきたてられ、同時にクラスが一つの目的のため団結するのを夢みたからだ。その試みは成功するが次第に手伝う人は減る。計画に誤算があったのだ。「どんな雪像が出来るかは最後迄彼女の胸に秘められてあって他の人間は唯、単なる労働」と考えていたのだ。孤立は芸術第一主義が招いた必然だった。
ついにボロボロになった身体にカンフル注射を打つまでになるが、血を吐く場面はなく、無事に審査日を迎え、舜子のクラスの雪像は一位で、賞品にキャラメルをもらう――。
純子の雪像は制作中には誰も名前も聞かされていない。本作ではロダンの「接吻」だったのかも不明のままだ。
『独活の芽』には生徒らによる「放談会」も載っており、純子に対する級友の厳しい目の一端も知ることができる。
(公益財団法人北海道文学館編『よみがえれ!とこしえの加清純子 再び』、2022年1月22日所収)
加清純子マンダラ
加清純子を取り巻く主な人々を紹介する。交流が多かったのはやはり美術関係者である。一九四八年の道展初入選を皮切りに高校美術展、道アンデパンダン展、五〇年からは中央に進出しアンデパンダン女流画家協会展と自由美術展、全道展などに出品、絵画の師である菊地又男の応援もあって知人の輪も広がっていった。
高校美術では斉藤洪人(北海高)玉村拓也(同)高澤光雄(経済高)正富宏之(道立一高)上野憲男(同)、辻慧子(市立一高)中野美代子(道立札幌女子高)中吉功(光星学園)らが四九年の第二回札幌市内高校美術連合展の出品同期。純子は道立札幌女子高から札幌南高に移り、上野憲男と同じ美術部になる。上野とは札幌市民美術展、全道展で一緒で、南高では二人展をしたり、文学部誌「感覚」にともに寄稿している。同誌顧問の渡部五郎を加え、語り明かす仲であった。函館西高でやはり「天才」と言われていた蛯子善悦とも全道展を通じて親しくなり、上野と三人で上京の夢を語った。GHQの北海道民事部民間教育課長だったウィンフィールド・ニブロからはユネスコ展で祝詞を受けた。
中央団体ではまずは独立美術協会。純子は四九年から独立美術協会の夏期講習会に参加しており、居串(水野)佳一、岡部文之助、松島正人(正幸)、高畠達四郎より四人連名の修了証書を受けている。居串、岡部、松島の三人は純子が初出品した一九五〇年の第五回全道展では図録の名簿巻頭に並んでいる実力者。高畠は三岸好太郎とともに独立展の創設メンバーで、戦前から夏期講習で来道しており、純子を気に入ってモデルにして肖像画を描いている。菊地と純子が上京するときは世田谷の菊地の兄精二宅に泊まった。
菊地は創造と破壊のエネルギーの持ち主で、五〇年からは自由美術展の札幌窓口役となっており、純子も同展に出品した。自由美術の画家では、戦中は「新人画会」を結成した大野五郎が純子の肖像をいくつも描いている。大野は姉の蘭子とも親しく、純子の遺作画集『わがいのち「阿寒に果つ」とも』(一九九七)の表紙には彼の描いた楽しげな純子像が使われている。戦没画学生の「無言館」実現に尽力したことで知られる野見山暁治もこのころ、純子をモデルにした絵を描いたが、本人によれば「残ってはいない」。純子は野見山と鶴岡政男のふたりとは気が合ったようで、溺死するオフィーリア(『ハムレット』のヒロイン)よろしく札幌の中島公園を彷徨ったというエピソードをそれぞれに残している。井上長三郎の東京・江古田のアトリエには姉の蘭子と訪ねたこともあった。その時、二人で撮った写真が、トリミングされて今も純子のポートレートとして流布されている。来道画家の歓迎宴にも参加して山口正城、峯たかし、佐田勝らを驚かせた。北海道を放浪していた早川重章も札幌で純子と知り合っており、彼女の釧路行の汽車賃をカンパしている。
アンデパンダン女流画家協会展には二度出品しているが、50年の記念写真には三岸節子らそうそうたる先輩の間で遠慮がちに立つ純子が写っている。女流展の北海道関係者には大谷久子、小川マリ、丸木俊(赤松俊子)らがいる。
加清純子は菊地の後押しで51年1月に札幌・大丸ギャラリーで初の個展を開いた。その時の観覧者の芳名帳が残っており、交流の広さを知ることができる。
芳名帳の第1番は富岡木之介。富岡は新興俳句運動の流れを汲む「青炎」を主宰する一方、「北方俳句人」「北海道文学」の創刊にも関わっていた北海道の文学活動の牽引者の1人として知られる。「青炎」には純子の姉蘭子が参加し、「蘭女」などの名で健筆を振るっていた。記帳3番目は小梁川重彦(小柳透)。小梁川はのちに札幌市立図書館長などを務めたが、「日本未来派」などにも参加した詩人で、美術にも詳しかった。近くには佐野四満美の名もある。佐野は純子の父・保をはじめ支部沈黙(貞助)、上杉勇次、塩谷羊友が編集同人に加わった「児童文芸」(1924)の創刊者。佐野はのち北海道新聞に入り、全道展にも関わった美術評論家であり組織者であった。個展に二度足を運んでいるのが新妻博。新妻は「札幌中央放送局」勤務で、俳句で富岡らと交友があり、更科源蔵の「野性」に参加した詩人。
純子がアイドルスターとすれば、プロデューサーは菊地又男。入場者には道アンデパンダン展に連なる菊地の人脈が目立つ。一方で、50年末にはアンデパンダン形式で開催された第3回札幌市民美術展があり、「衝撃」を出品した純子のライバル≠スち―伊藤正、市成太煌、原賢司、本田明二、本間莞彩、栃内忠男、加藤隆、中居定雄、国井澄、八木保次、八木(松本)伸子、菊地茂雄、渋谷栄一、上野憲男、守矢正男など―が足を運んでいたことがわかる。もちろん多くは先輩画家であり、伊藤正は道展、本田明二は全道展の中核メンバーとなる。ほかにも北海道新聞社に勤めていたおおば比呂司のほか高木黄史、因藤寿、岸(小西)葉子、溝口稠など第一線の美術家が並ぶ。八木保次は二回来観しており、原賢司は「祝前途」の添え書きを残している。
札幌南高ではのちに作家となる荒巻義雄、渡辺淳一が同期である。親友の皆川(鶴田)玲子の図書部にもよく通い、同部には南部春生、伊井温彦らがいた。声優となる若山弦蔵は一年先輩、白坂道子は二年後輩だった。
純子の文学活動の主舞台となった「青銅文学」を創刊する樫村幹夫、岡村春彦は札幌南高校の一年後輩。樫村は北海道の代表的同人誌「札幌文学」の西田喜代司や木村不二男に師事しており、純子らは「札幌文学」の例会にも出ていた。「青銅文学」には清水達也、谷克彦、谷崎真澄ら多くの同人がいたが、純子没後には東京に本拠を移し、副田義也、寺山修司、谷川俊太郎らも参加している。
一方、岡村春彦は兄の昭彦に連れられ東京から札幌に転居してきていた。昭彦は豊富な知識で純子を魅了して「最後の恋人」と言われたが、春彦もまた純子と親しく、釧路で逮捕されていた昭彦に面会する純子隠密旅に同道している。純子没後にはHBCの演劇研究所にいた長光太の指導を受けた後に上京、米倉斉加年らと劇団青年芸術劇場を旗揚げして福田善之、観世栄夫らの舞台で活躍した。
当時の札幌の芸術青年は「ミレット」や「長生」など喫茶店・居酒屋をサロンとしていた。脇哲によれば、純子は酒場「長生」によく出入りしていた。そうした交流の群像の輪に三浦栄、安田博(風山瑕生)、更科源蔵、鷲巣繁男、八重樫実、山田長吉、小林トシ、寺田京子らがいた。豪快でアバンギャルドな画家であった渡辺伊八郎とも出会っている。
加清家をみると、父・保は石狩当別の出で、札幌師範学校で学ぶが、学生時代から文芸に親しんだ。青木郭公が選者を務めたタイムス俳壇で活躍する一方、短歌動向社をつくり口語短歌普及に務めた。童話にも関心を持ち、佐野、支部らの「児童文芸」に関わったほか、戦後は「ひばり」を創刊した。「ひばり」には蘭子、純子姉妹も執筆した。版元の北日本社の代田茂(茂樹)は口語短歌運動の草分けのひとり。代田は同じころ、更科源蔵主宰の随筆誌「北方風物」も刊行、川上澄生、上野山清貢、武者小路実篤、高村光太郎、武井武雄らそうそうたる執筆陣が話題を呼んだ。
純子の母テルは厚田出身で、兄甚一は宗教家戸田城聖。城聖(城外)は四〇年に学習雑誌「小学生日本」を創刊、同郷の子母澤寛の作品名に拠る「大道書房」をつくった。子母澤の異父弟が三岸好太郎、妻が三岸節子。姉の蘭子は城聖の研究者でもあり、「青娥書房」をおこしており、甥の鍾(暮尾淳)を含めて、出版人の一族と言える。保が関わった「児童文芸」の支部沈黙はテルが夕張の教員だったころの同僚。
蘭子は俳句誌「青炎」に参加していたが、創刊は小松宗輔で、兄の富岡木之介が引き継いだ。同誌には富澤赤黄男、佐藤庫之介らの名も見られる。富岡は細谷源二の「北方俳句人」にも関わっている。
(公益財団法人北海道文学館編『よみがえれ!とこしえの加清純子 再び』、2022年1月22日所収)
加清純子と原田康子と東北海道新聞
原田康子(はらだ・やすこ、一九二八〜二〇〇九)はベストセラー小説『挽歌』(一九五六年初版刊行)で知られる北海道を代表する女性作家である。原田は一九四九年に釧路の地域紙だった「東北海道新聞」に入社し、サツ回り(警察担当)を皮切りにそのころ珍しい女性記者として活躍した。五一年に北海道新聞釧路支社記者の佐々木喜男と結婚、一時退社するが、ほどなく校閲記者として復帰、五三年まで勤めた。
加清純子は五二年一月に釧路に岡村昭彦を訪ねた後、阿寒山中で亡くなる。東北海道新聞もこの天才少女画家の失踪と死を報道した。同紙は四ページ建て夕刊紙で、記者は十人に満たず、大事件報道は総力戦となる。原田は現場経験もあり、校閲をしながら純子の動静に接していたはずである。
「高台の大部分は住宅地である。宮本町も住宅地ではあったけれど、町内の一劃に刑務所があった。新居の前のだらだら坂を折れまがると、まもなく刑務所の高い塀に突きあたる。刑務所のせいかどうか、ひっそりしたかいわいだった」(原田康子『窓辺の猫』所収「宮本町」)
原田の新婚宅近くには釧路刑務所があった。純子は三度岡村に面会に来ており、原田とすれ違っていたかもしれない。
鳥居省三の発行する「北海文学」に『挽歌』の連載が始まるのは五五年。ヒロイン兵藤怜子が中年男性の桂木に惹かれ、湿原で薬物死という悲劇も起きる愛と喪失の物語は、軍国少女から出立したアプレゲールだった原田の青春を映す。
ヒロイン怜子は「みみずく座」という地方劇団の美術部員であり、友人の男性は絵を描いているなど、物語は加清純子の生きた世界に通じるものがあった。盛厚三『「挽歌」物語』によれば、原田は佐々木武観主宰の劇団「北方芸術座」の文芸部に、妹たちも美術部、演技部に参加していた。
(北海立道文学館特別展『よみがえれ!とこしえの加清純子 再び』、2022年1月22日解説文)
「一九五〇年の札幌の青春」ウォーク
加清純子が渡辺淳一と出会ったのは一九五〇年(昭和二十五年)4月、新設の北海道立札幌南高等学校二年生の時であった。まだ今の巨大都市となる前の二人の青春の街を歩いてみよう。
当時の札幌市の人口は約三十一万人(住民基本台帳によると二〇二一年一月現在は百九十六万人)。円山町、白石村が統合されたものの、豊平町も、手稲村もまだ札幌郊外の町村だった。あちこちに原始林の面影が残り、空知地方から掘り出された黒く光る石炭などの荷物を運ぶ馬車が街じゅうを行き交い、幹線路では市電が東西南北を結び、市民の足となっていた。
北海道は終戦直前の一九四五年七月十四、十五日、米軍による空襲を受け大きな被害を出していた。しかし、札幌の街は辛くも戦禍を免れて、明治以来の古い街並みがそのまま残った。だが、十月には進駐軍のジープの轟音が札幌の街を席巻した。GHQ(連合国軍総司令部)の第七十七師団司令部は大通西三丁目の北海道拓殖銀行本店に置かれ、札幌駅前通の主なビル――大同、清水、越山、グランドホテル、帝国生命など――は次々と接収されて軍のオフィスや将校の宿舎などとなり、駅前通を闊歩するのは米兵や関係者だった。グランドホテルは当時の地図には「USAホテル」と書かれている。拓銀には星条旗がはためき、兵士たちのための教会の鐘が響いた。ススキノ(薄野)の松竹座はマックネア劇場と改称され、中島公園のプールも接収されてしまった。
北1西4の南角にはCIE(民間情報教育局)図書館が置かれた。CIEのW・ニブロ課長は日本にスクエアダンス(フォークダンス)を広めた人物として知られるが、ユネスコによる平和と教育文化の向上にも力を入れた。道立札幌女子高校一年生だった純子は一九四九年にユネスコ学生美術展で賞を受け、ニブロからお祝いの書かれた名刺を送られている。ニブロは男女共学の旗振り役で、彼なくしては純子の札幌南高校への転校はなく、もともと男子校だった札幌第一高校から持ち上がった渡辺との出会いもなかったとも言える。
占領軍は札幌の風俗にも変化を与えた。道内には最盛時二万人を超える米兵が配置された。一九五二年に初めて札幌を訪れた歴史家の服部之総は「馬具屋めざして、狸小路を西に歩けば、米兵アベック、また米兵アベック」と、繁華街を闊歩するカップルの多さを驚きをもって記している。豊かさの象徴であった米兵相手の売春も公然非公然に行われ、札幌には三千六百人もの街娼婦がいた。まばゆいばかりの物資が並ぶ米兵向けの売店(PX)近くには接客店も並び、周辺には活気も生まれた。
純子も足を運んだ喫茶「ミレット」(南三西三)もそのようなPXビルにあった。芸術青年らが集った喫茶「紫烟荘」「セコンド」「どるちえ」や酒場「小春」「長生」などもススキノと狸小路を結ぶ一帯に集中していた。絵画の師菊地又男に連れられた赤いコートの少女画家はサロンでアイドルのようになっていた。
南隣のススキノは北海道開拓使公認の官設遊興街である。一九一八年に中島公園で開道五十周年の大博覧会が開かれる時に、風紀上の問題が指摘されて遊郭機能は移転されたが、一大歓楽街に変わりはない。戦後は小さな路面店がひしめいていた。
渡辺は中学生のころ、ススキノのスキー店(実は米軍横流し物資などを扱う闇屋だった)でアルバイトしたほか、狸小路七丁目では自らカレンダー売りの露店を出したこともある。その体験をとおして奥深い大人の世界の妖しさを知った。
札幌南高校(南十八西六)やその北側にあった純子の自宅から中心街に出るには市電に乗るか、豊平川から取水された鴨々川沿いに中島公園を抜けていく。高校生たちは公園を歩くことのほうが多かった。園内にはプールのほか野球場、現在の北海道立文学館(一九九五年開館)の近くにはNHK札幌放送局があった。パークホテルの場所には中島中学校と札幌東高校(市立第一高校)があった。純子は遠出をするときは市電を使ったようだ。
南一条通には冨貴堂、一誠堂、維新堂などの書店、大丸ギャラリー、そして三越、丸井デパートが偉容を誇っており、札幌の商業の一番街であり、文化活動の発信地であった。道展や全道展をはじめ各団体展、個展なども両デパートを中心に開催されることが多く、必然的に美術家も集まった。純子は丸井今井の屋上から豊平川、札幌南高校、そして自宅を眺めた。
大通公園は現在のような記念碑の並ぶ市民公園というよりも、市交通局の車庫やバスケットボール、野球、テニスなどの運動広場として使われていた。北大通の西一丁目にはまだ豊平館があった。また、西三丁目には米兵のための教会も建っていた。駅前通は圧倒的に占領軍のオフィス街――。日本はまだ敗戦の重荷を背負っており、独立を回復するのは一九五二年四月二十八日のサンフランシスコ講和条約発効を待たねばならなかった。
札幌駅は戦後しばらくは戦地からの引揚者や復員兵らであふれ、渡辺ら中学生たちは食料の炊き出しに駆り出されていたという。大通公園には傷病兵の姿も見られた。札幌駅の北西には北海道大学があったが、鉄路に分断されており、鉄北地域には陸橋を渡って行かねばならず、市電が重要な足となっていた。
北1西2の札幌時計台には市立図書館が置かれていた。純子の姉蘭子は一時、その図書館に勤めていた。駅前通と交差する北一西四にはCIE図書館、北1西5には道立図書館もあった。道立図書館では加清純子の親友の宮川玲子の姉が司書をしていた。札幌市役所は北一西四、現在の中央警察署の向かいにあった。札幌市立病院もまだ北一西八にあった。
南大通を西に向かって進み、西十三丁目の突き当たりが札幌高等裁判所(現札幌市資料館)であり、この建物の風景は変わらない。純子と渡辺は喫茶「ミレット」での誕生日デートの帰りに、渡辺の自宅へ向かってこの道を歩いている。
純子の通った札幌師範学校付属小学校(国民学校、南二西十五)、庁立札幌高等女学校・道立札幌女子高校(のち札幌北高校、北二西十一1)も大通公園の西側にあった。札幌医科大学は道立女子医学専門学校(南一西十六)を前身として、一九五〇年六月に開校している。純子はしばしば同院を受診している。
渡辺の家は円山の裾野の南七西二十二にあった。幌西国民学校は南十西十七、父鉄次郎が勤めた道立札幌工業高校(伏見高校)は南十四西十二。渡辺も純子も父親は教員、母親は教員経験者で、空知炭田地帯に縁があるなど似た環境で育っている。
純子の葬儀は参列した皆川玲子らによると、新善光寺(南六西一)で行われ、図書部の仲間たちは帰り道、落ち込みのひどい渡辺を慰めながら中島公園を歩いた。
(公益財団法人北海道文学館編『よみがえれ!とこしえの加清純子 再び』、2022年1月22日所収)
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