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作家断想WRITERS

 北野慶に寄せる

 だれもが周知のように七〇年代とは人間の心を燃え上がらせるような政治的運動が退潮期に入り、運動を暗黙で支えていた左翼とか階級性とか連帯とか良心とかいった言葉で表象されてきたものが、「死語化」した時代の始まりだった。政治的なものが社会的に現れてくる時、それはインパクトを持つ「運動」としてではなく歪小化された「事件」としてだった。しかし、それでもなお政治的に何かを為そうとするものは、運動の広がりなど諦めて自らの思想の穴を細々と掘り続けるか、内ゲバをエスカレートさせて状況的危機の血路を開き主体性を組織的献身にかける以外にしかありようがなかったといっていい。

 北野慶の作品集「極北のレクイエム」は、そのような時代の青春を描いた力作であることは間違いないように思われる。一見、構成は単調であり、美意識を誘う韻律・場の選択・転換・ なども現在流布されている多くの作品に比べると極めてつつましやかである。しかし、私は掛け値なしに断言するが、北野慶の作品には読者の心を打たずにはおかない衝迫力がある。それは多分作者が「絶望的」でしかない七〇年代から、決して逃げようとはしない誠実さから来ている。吉本隆明の初期の言説を引用すれば、北野慶の作品は「あくまでも社会の時代的な抑圧や制約を手ばなさず、これにたいする洞察や抵抗感から表現の問題に移行」することによって芸術的価値を獲得しているように見える。

 「極北のレクイエム」は同名の小説と「友に寄す」の二つの作品から成っている。いずれも舞台は北海道、それも北大である。「友に寄す」は少年期の回想を交えながら道産子の片岡という主人公と大阪出身の鈴山を中心に教養部のクラス闘争委員会(ガリバンザウルス)に結集した学生たちの交流が描かれている。反マル・反民のNR派のかれらは「硬直化したセクト主義に縛られぬ自由な個人の結合体」をめざして活動を進めるのだが、大学評議会阻止闘争の大弾圧を契機に大きな壁にぶつかる。逮捕された鈴山は実は在日朝鮮人二世だった。政治的に無権利である鈴山は運動から脱落していく。それを見ているほかない片岡。それはまた、「金太」という少年を庇うことができなかったかつての体験の繰り返しでもあった。片岡は鈴山が逮捕される前から彼が朝鮮人であることを知らされていたにもかかわらず―。

 「北海道の田舎町に生まれ育った私は、在日朝鮮人と常日頃接する機会を殆どもたず、また単なる知識としても、彼らの問題についてあまり多くのことを知らなかった」という片岡だが、最後に「親友のまま私たちは別れた。私はなによりこの事実を大切にしたい。何故なら、ここからこれからの私の人生が始まり、その中でやがて鈴山の突きつけた問題に回答を見い出すこともできるのだろうから」と決意するのである。

 標題作の「極北のレクイエム」は「友に寄す」の続編的内容である。前作の片岡は「遅れてきた運動の志願者」島浩一郎として登場している。ここではNRの運動が「マルクス派」と「中央派」の党派闘争の構図に巻き込まれ、内ゲバによる殺人、友情の破綻という無残な結末に至る。「まだ暮れやらぬ黄昏の薄明が、透明な厚い氷壁の向こう側で き始めた春の気配を微かに感じさせた。凍死しそうな真冬日の連続は人々に春の訪れを疑わせたが、やはり自然は裏切らない。すべてのものが永い眠りから目覚め蘇生する春、春よ!俺はどんなにそれを待ち望んでいることか」

 人によってはこのような表現を陳腐と見、さらに「友に寄す」の決意だけでは何の意味もなく問題は残されたままだと考えるかもしれない。しかし、私たちは依然としてその絶望的場所から出発するほかないのである。北野慶の作品は全共闘小説の中では「おれたちの熱い季節」の星野光徳の感性に近いように思われる。北野の誠実な文学的闘いが、訳知り顔の崩れ左翼たちの怠惰を遠く超えて結実することを期待したい。
                    *「極北のレクイエム」は彩流社刊。

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