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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています
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シン・たかお=うどイズム β
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マジカル東京ツアー
谷口です。東京を離れて、二年半ほどたちました。私が東京におりましたのは一九八四年秋から八八年春までです。その時期は中曽根政権の絶頂期で、いわば戦後総決算が叫ばれ、日本の先進資本主義国として列強に互す軍事大国化路線が追求され、一方では戦後的な国家統制経済的なものが分割・民営化に向けて解体させられようとしておりました。そして、その社会的表現としては、地上げ屋の横行による人間関係の荒廃・空虚化が至る所で現われていたように思われます。そうしてばらまかれた金は財テクブームとかで、不労所得を生み怪しげなマネーゲームが蔓延していたように思います。私自身はもう少し東京で世紀末の行方を見届けたかったのですが、サラリーマンとして辞令一枚でどこへでも飛んでいく道を選んでいたわけですので、かつこよく言えば潔く北海道に戻ったということになるかもしれません。
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今回、本当に久しぶりに東京見物にやってきたわけですが、私が一番見たかったのはやはりずーっと住んでおりました隅田川の東側・墨東地区でありました。神田に宿をとりまして昔の国電、今はJR線というのだそうですが、それに乗り、まずは御徒町から見て回りました。松阪屋の裏のアメ横は昔と余り変わっているようには思えませんでした。荷物をさげブラブラ歩いていると分かるのですが、やはり歩いている人のほとんどが私と同じような、おのぼりさんのようでした。若い人は渋谷とか原宿に行くように、こちらは年配のしかも田舎の人が多かったようです。もっともそれはずっと前からそうでしょうから、目立ったのは外国人それもアジア系の人達でした。
よく「国際化」時代なんてことを言う偉い人がいますが、日本の恥部とも言うべき永田町あたりなんてちっとも国際化していないのは周知の通りで、一見、外国なんかと関係なさそうな底辺の民衆レベルこそ国際化の最前線であることが、上野あたりを見ているとよくわかります。ちなみに私の泊まった1泊六〇〇〇円のビジネスホテルという名の木賃宿は共同便所、共同洗面所、共同浴場のシステムで、部屋の注意書きには中国語が記され、話し声には韓国語がよく聞かれました。人間というのは本能的に自分達の階級の臭いを探り当てることができるのかもしれません。上野というのはその意味で昔も今も、もっともトレンディーな町なのかもしれません。
ただ、昔は駅に随分いましたいわゆる浮浪者の人達がめっきり減ったような気がしました。好景気が続いているので、あるいは妙な気を起こして建設現場で働いている人もいるのかもしれませんが、もしかして自然淘汰というのでしょうか、性交によって種の保存をしようとはしない人達だけに、次第次第に追い詰められ消えていくのだとしたら、なんだかひつかかるものがあります。
上野では最後に西洋美術館に行って、ウイリアム・ブレイクの作品展を見ました。この詩人は自分の詩に版画の挿絵を書いていたようです。別段上手だという感じはしませんでしたが、私達の同類のような親密感を覚えました。
上野からは地下鉄・銀座線で浅草にでました。松屋デパート、神谷バー、そしてサーティーンアイスクリーム、そして温泉案内所・あみ清という出口の四つ角風景は全く変わっていませんでした。東京勤務時代いつも寄っていた立ち食い蕎麦屋でナス天玉子ソバを食べ、ぶらぶらと吾妻橋に歩いて行きました。隣の駒形橋の方は工事中で、ネットが張られてありましたが、吾妻橋の方は青い塗料が禿げた昔ながらの古びたままでした。橋のど真ん中で一休みしながらしばらく隅田川の水面を眺めていました。その日の川は前日まで雨が降っていたせいか、土色に濁っていました。木片や草なども浮かんでいました。そのあたりに赤とんぼが飛んでいて、東京も秋なんだ、と当たり前のことを少しセンチメンタルに思わせてくれるのが隅田川です。
前にも書いたことがあるのですが、私は隅田川が大好きなわけで、川風に吹かれていると、人間社会なんかの、つまらなさ、小ささ、そんないろいろのことを忘れさせてくれるのです。
隅田川がある限り、東京砂漠も捨てたもんじゃない、そう思ってきました。しかし、この日、私はいささか愕然としました。古い東京人なら御存じと思いますが、浅草側から吾妻橋を渡って墨田区側に行こうとしますと、真っ先に目に入るのはアサヒの吾妻橋ビアホールでした。ところが、それがないのです。いや、そういう言い方は間違いでしょうか。後で分かったのですが、ビアホールはあることはあったのです。
ただ、それはもう昔のそれとは全く別の範疇のものとして存在していたのですが。まず橋上の私を驚かせたのは、空に浮かぶ大きなウンコでした。きんきらきんに輝き、その下には階段が大袈裟に付けられたなんだか新興宗教の本部のようなへんちくりんなホール、そして、後ろにはやはりウンコ色の20数階建てのビルを中心に3棟ほどの高層ビルが並んでいました。そして、その一角のしゃれたウインドウの明るい建物の中にビアホールもあるのでした。看板を一目見ただけなので間違っているかも知れませんがそれらは「リバーピア吾妻」とかいうビル街に再開発されてしまっていたのです。
私はことさらに古いもの、伝統的なものに傾倒せずにはおれないというたちではないのですが、なんだかがっかりしました。吾妻橋ビアホールというのは、いわばステテコ一枚でブラリと寄っても楽しめる所だったのですが、この「リバーピア」は、そういうわけにはいきそうもありません。下町のおっちゃんが千鳥足で立ち寄ることを拒む、そんな権力的なところがあります。見た目がきれいになったということより、そういうことの方が大きい変化のような気がします。
いささか落ち込んだ私は、次に向かいの佃煮屋の小路を通り、私の住んでいたマンションの方へ歩いて行きました。弘法寺の灸点所、つぶれかかった歯医者、親子仲の悪いと言われた酒屋など、懐かしい家並みは昔のままです。ところが何か足りません。そう独り者の、ちょっと吉本隆明さんに似たおじさんがやっていた、あのつつましやかな魚屋がありません。そこの場所にはなんとマンションが建てられていました。そうか。おじさんも地上げ屋に追いだされてしまったか。またしてもしんみりとしてしまいました。近くにいた人に魚屋さんの行方を尋ねると思わぬ答えが返ってきて私は完全に言葉を失ってしまい、そこで私の旅は終わりました。
「魚屋かい。確かにここにあったよ。あのおやじも働き者だったのになあ。どこへ行ったか、だってえ。どこへも行きやあしない。だってこのマンションのオーナーがあの魚屋なんだからね」
本当でしょうか?
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