10
「超能力」
自慢じゃないが、私は唯物論者だ。物事は観念で動くのじゃなく、物質の力によって動くのだ。だから言葉は口から発せられた音という空気振動によって人の耳に伝わり、それを頭脳が認知することでわかるのだ。
何、観念が読める? そんなことがあるものか。
A市の飲食店街に、その喫茶「はん」はある。ママの純子さんは焼き物趣味もいいし、美人だ。雑事に追われることの多い私には、格好のくつろぎの場であった。
だが、彼女は超能力者であることに気づいた。私の考えていることが手に取るようにわかるらしい。
実は私は足フェチだ。女性を見ると、美貌よりもまずすらっとした足元に、感心してしまう。
それは私の心の奥に秘めてある嗜好だ。だが、純子さんはそれを見抜いているかのように言った。
「足なんかじゃなく、女性の目をしっかり見ないと、人間として尊敬されないわよ」
腰が抜けそうになった。なぜ私の考えていることがわかるのか―。そんなことがあってから、私は純子さんを少し警戒している。だって、心の奥が読まれているとしたら、だれだって恥ずかしいはずだ。
私は「レオン」の孤独な少女ナタリー・ポートマンのファンだ。断っておくが、私はロリコンじゃないぞ。
でも、ナタリー・ポートマンのような女の子がいたら会ってみたいなあ。いかんいかん。こんなことを考えていたら、純子さんに笑われてしまうな。
その時だった。突然、純子さんの声がした。
「笑いなんかしないわよ」
私は驚いてカウンターの奥を覗いた。だが、純子さんは平然とコーヒー豆を挽いている。
これも内緒だが、私は大のぬいぐるみ好きだ。それを見抜いたかのように、ある時、純子さんが言った。
「ぬいぐるみより、本物の動物のほうが可愛いわ」
私は母を独り暮らしさせている親不孝者だ。そのことを気に病んでいる時だった。
「たまには実家に帰ったらどうなの?お母さんは一人住まいなんだから、大切にしなきゃ」
うーん。間違いなく私の心は読まれている。この世界には、超能力などというものが存在するのか。
私は、腹を決めて尋ねた。
「どうして僕の考えていることがわかるの」
すると、純子さんは「私も唯物論よ。伝達は空気振動ね」と言い、「タ・ネ・ア・カ・シ」と笑った。
「あなたはいつでも独り言を呟いているじゃないの。それを聞けば、だれだってわかるわよ」
11
「握る手」
「せっかく環境に恵まれた旭川にいるのにさ、ゴルフくらいやらなきゃあ、だめだべさ」
紳士諸氏に、あちこちでそんなふうに諭され、ゴルフを始めようと決心したのは一カ月前だ。
澄み切った青空と、萌えいずる芝生の美しさに、魅了された。スコアもいい。ハーフを終わったところで、四十ちょっと。デビュー戦にしてこの調子なら、三カ月後には青木級ですね。なんちゃって。ほめ殺しだな。
〈そいつ〉を感じたのは、十三ホール目だった。
「グリーンには魔物が潜んでいるよ」
背中で声がした。振り向くが、だれの姿もない。気にしたのがいけなかったのか、強振したボールは林の中に消えた。アウト・オブ・バウンズ(OB)か。
幸いにもボールはすぐに見つかった。茂みの陰の谷地坊主のような土くれの上に転がっていた。悔しさを噛みしめながら、ボールを拾おうとした時だった。
ずぶずぶずぶっ。
ボールが急に沈み始めた。慌てて私は谷地坊主の中に手を入れる。十センチ、二十センチ。母体に戻っていくような感覚だ。指先はボールに触れるのだが、ツルリと滑り落ちる。三十、四十、五十センチ…。よし。やっとボールが手の中に収まった。
しかし、何かが私の手を握りかえしている。もう一度ボールを引き揚げようとする。だが、動かない。
〈そいつ〉も向こう側から、力を入れているのが判る。力を込めると、〈そいつ〉もさらに力を込める。
地の底に何がいるのか? 不思議なもので、その時の私は、恐怖心以上に好奇心の虜になっていた。
手と土の隙間から地の底をのぞき込む。くっきりと見開いた目が向こう側から手を伸ばして、私を見ていた。なんと、それはもう一人の私自身ではないか。
あっ! 体の中を稲妻が走る。引っ張られた私は穴の中に吸い込まれ、穴から裏側に吐き出された。
気がつくと、谷地坊主に打ち込む直前で、ボールを見ながら、たたずんでいる。「早くしてよ」の声に、私は何事もなかったかのように打つ。ナイス・オン!
裏側の世界に移動すると、マイナスエネルギーで時間が一瞬前の世界に戻ることができるらしいのだ。しかも抜け穴は、私がOBの時に必ず出現する。
ピンチになれば時間が前の世界に移ればいい。もう、どちらが表で裏の世界なのか判らない。以来、私は失敗を恐れず、フルスイングできるようになった。
「残念、OBですよ」
仲間は気の毒がるが、平気だ。〈そいつ〉がいる。
谷地坊主の上のボールに、私は手を伸ばす。
ずぶずぶずぶっ。
12
「出発の時」
僕が家を出ようと決心したのは十七歳の春だった。
美しい田園地帯と背後に連なる勲しい山並みが、僕の中の決意をかきたてた。「現状に甘んじて生き過ぎてしまった。自分を見つめ直すしかない」。心の奥から湧き上がる情熱の嵐。旅立つのは今だ!
僕は小さな時からみんなに可愛がられた。
タカオ兄はお姉さんから「めんこい弟ができて、よかったしょ」と言われ、少しはにかみながらも僕を抱いてくれたものだ。現代っ子のように、ゲームばかりをして遊んでいるわけじゃないのに、厳しいお父さんは「外に出し、世間の風に当てたほうが強くなるんじゃないか」などと言った。でも、ほかの家族は「まだ小さいのだしそんなに急がなくても」とかばってくれた。
僕はどんな病気なのか教えられていなかった。だが、一人で外に出ちゃダメ、と言われていた。
だから、家の中で手足を動かす訓練や数字を使った頭の体操をして過ごすことが多かった。時々、タカオ兄のパソコンを触って遊ぶのだけれど、「不器用だから見ていなさい」と、すぐ席から下ろされてしまう。
そんなふうに平穏な日々が過ぎた。体も大きくなったある日の夕方、タカオ兄が「散歩に行ってみようか」と僕を誘ってくれた。
その時、初めて夕焼けを見た。澄み渡った天空をオレンジ色に染め、山のかなたに落ちてゆく太陽。その果てに、どんな世界が開けているのか。あの夕日を追って、行けるところまで行って見たいと思った。
僕はロマンチストなんかじゃない。でも、だれにだって心動かされる光景はあるものだ。そしていつの日か、チャンスがあれば一人で旅に出ようと誓った。そうして何年かが過ぎ、僕は十七歳になっていた。
深夜、みんな寝静まったころを見計らい、家を出た。
僕は大きく深呼吸をしてから思いっきり走りだした。道はどこまでも続いている。遠くまで行くんだ。
気がつくと僕は河原に倒れていた。隣には体の大きな野良がいる。彼は哀れむように言った。
「おまえ、ドッグ・イヤーって知っているか」
「なんですか。それ?」
「犬の一年は人間の四、五年いや七年と同じなんだ。おまえが人間なら、八十歳をとうに過ぎている。しかもシーズーという宮廷で飼われたほどの上品な犬族だから、全力で走れば悲しい結果は目に見えている」
ああ僕はこのまま死ぬのか。無謀すぎた。でも、僕の野性が大きな吠え声となった。苦しいけれどうれしい。次第に薄れていく意識。どうやら本当の出発の時だ。
13
「動く影」
みんなは僕が浮気者だと言う。でも違う。僕はただの優柔不断のさびしんぼうだと思っているのだが…。
田舎暮らしの子供のころは、年頃の友達なんぞ一人もいなかった。空をわたる風の歌だけが友達だった。
「元気かい?」「だめだよ」
そんなふうに一人芝居をしたものだ。
ある日、いつものように風と遊んでいた時のことだ。
「君は一人なんかじゃないよ」
突然、声がした。空耳かなと思ったが、そいつは「君は一人なんかじゃないよ」と、同じ言葉を繰り返した。不思議な気持ちに襲われ、僕は思わず自分の足元に視線を落とした。すると、何か黒いものが動いた。
「自信を持って! 僕が付いているじゃないか」
そいつは僕の影だった。なぜか自分の意志を持ったらしく、右手も左手も自由に操り、語りかけてくる。
「これからはPRの時代だ。自己主張しなきゃ」などと言っては、勝手にターンしてみせる。
僕は仕方がないから、右手や左手をぐるぐる回し、影に合わせてターンした。確かに痩せ型の僕はしなやかな動きをするとスマートでカッコいい気もする。
「そう、気持ちいいだろう。いつも一緒だよ」
その日から影は友達になった。田舎を離れて中学校、高校に上がるに従い、ますます親しくなった。
東部高校は近すぎて勉強が身につかないよ。西北高校のほうがガッツがある。美人よりも可愛い娘がいいな。勤めるなら明るい職場が似合っている…。
僕は就職し、結婚した。僕の人生は影が決めたようなものだ。当たり前だが、彼と僕は離れられない。
彼は一本気だ。こうと決めたら、自分の意志を貫く。彼は偶然にも恋をした。女の子の影だった。
「チャーミングな方だこと」と彼女は言った。
僕の影はたちまちのぼせあがってしまった。
「心やさしい影に出会えるなんて夢のようですよ」
彼は話しているだけでは飽き足らず、女の子の影と手をつないだり、キスをしたりするようになった。
影に引きずられて、僕も人間の女の子と手をつないだり、キスをするようになった。僕の望むことではなかったけれど、影には逆らえなかった。
でも、そんな理屈は妻には通らない。僕は片腕を折られ、莫大な慰謝料を取られて家を追い出された。
しかも影は失恋した。僕はやさしい女性といたかったが、必ず影が僕たちを引き離すのだ。
そんなわけで僕はふらふら生きている。そろそろ影と行かねば。別れの時だ。あなたにはご免なさい。
14
「アクセサリー」
買物公園で夜店をひやかしていたときのことである。突然、アクセサリー屋が声をかけてきた。
「たたり除けをした数珠だよ。一ついらないか」
私は無神論者だ。たたりなんぞ、信じちゃあいない。だから男に言ってやった。
「その数珠にどんな霊能があるのか、教えてくれるなら、買ってやってもいいぜ」
「そうだ、そうだ」と、隣から合いの手も入った。
アクセサリー屋は「教えてもいいが、どうなっても知らんよ」とずるそうに笑い、おもむろに語り始めた。
お金持ちがタレントの写真を玉の中に入れた数珠を作ったそうだ。タレントは数年前に、男優との三角関係で自殺して話題になった少女だ。お金持ちは大ファンで、追悼の思いからその数珠を作ったのだ。
それから数日後の夜、耳元で声がしたそうだ。
「帰りたいよぉ」「戻りたいよぉ」
少女の声だった。目を開けたが誰もいない。
おかしいな?。お金持ちは訝ったが、部屋の中にいるのは自分だけ。不思議なことは何日も続いた。
そして当日―。家族がお金持ちの部屋をのぞいたら、もぬけの殻だった。西向きの壁には、恐ろしい力で押し込まれた数珠の玉だけが残されていたそうだ。
お金持ちがどうなったかって? さあねえ。
露店なんかに行くとね、透明な玉をのぞくと薬師如来だの観音様が見えるってのがある。それを付けていると縁起がいいなんて言われて、つい買ってしまう。
それがいけない! 仏様が見えるのは最初だけ。
ある時、のぞいてみると人間らしい姿がある。それが誰かなんて? とても自分の口からは言えないね。
まだ信じない? じゃあ、この数珠を覗いてごらん。
あっと思う間もなく、私は気を失った。
どれくらい経ったことか。気づくと、うらぶれた男が一緒だ。どうやら、丸い水槽の中にいるようだ。
「ここはどこ?」
私が聞くと、うらぶれ男が惨めそうに答えた。
「僕はあなたの道連れにされたのです。ほら、あの空のずっと奥のほうを見てくださいよ」
さて。目を凝らすと、天空の果てにあるのは、私の顔ではないか。なにやら啖呵を切っている。買物公園の灯も見える。隣で男が「そうだ、そうだ」と気勢を挙げている。それは今ここに、私といるうらぶれ男だった。
こちらを見ているのは、アクセサリー屋ではないか。手には見覚えのある、あの霊能数珠が光っている。
私と目が合うと、男はまたずるそうに笑った。
15
「隠れん坊―それを忘れないために」
海の底の竜宮城。乙姫様ならぬ母が呼んでいる―。
退職してからそんな夢ばかり見る。捨てたはずの故郷だったが、キタコブシ咲く春に訪ねることにした。
黙って東京に出たのは中学卒業の直前である。半世紀も昔のこと。ただただ、貧乏が嫌だった。女手一つで育ててくれた母は親不孝息子を嘆いて死んだ、それでも帰る日を待ちわびていた、と噂に聞いた。
北の海辺の半農半漁の小さな集落。わずかな家並みと里山との切れ端に鎮守の森と母の眠る墓地がある。苔むす石段を登っていくと、キタコブシの大樹が目に入る。この美しい景色は夢の中の竜宮城に似てなくもない。
高さ二十bはあろうか。昔と変わらず、真っ白い花が今にもこぼれ落ちそうに咲いている。その甘い香りが官能を揺さぶり、吸い込まれそうになる。
集落の洟垂れ悪童連は、この木の下につるんではよく隠れん坊をしたものだ。
「もういいかい」「まあだだよ」
最後に遊んだのはいつだったけ?
裏手に廻ってみる。と、あった。根っこの隙間。地下には墓地へと続く秘密の穴が広がっている。
腰をかがめた、その時。グラグラと大地が飴のようにうねり出した。天地がひっくり返って踊っている。白い花びらの洪水。その塊が漆黒の飛礫となり降り注ぐ。
どれだけ時間が過ぎたのだろうか。花埋みの中にいるのは男の子だ。眠っているのか目覚めているのか。
「いち、にー、さーん、し、ごー、ろーく」
子どもたちのはしゃぐ声。楽しげに動く気配がする。
それなのに、誰も男の子に気がつかない。日暮れまでに見つからないと、神隠しに遭うっていう言い伝え。
もがいても、もがいても声が出ない。どうしょう、と思った時、花の絨毯のずっと奥から、ほっそりと白い手が伸びて、男の子の手をつかんだ。その感触。
夢で見た母さんだ。いつもそうやって起こしてくれたね。ああ、ようやく帰ってきたよ。
思い出した。あの日も隠れん坊をしていた。穴の中に隠れて、日が暮れてから故郷を捨てたんだっけ。
だから、鬼さんに言わなければならない。ありがとうみんな。また一緒に遊ぼう。待たせてごめんね。
「もういいよ」「みいつけた」………
北の海は遙か蒼天へと逆巻いている。それから誰もいない墓地とコブシの巨木をゆっくりと飲み込んだ。
16
「防空壕」
祖母の家には防空壕がある。家の裏手にある丹波栗の林の下草のその奥。こんもりとした塚の茂みの間に小さな入口がある。中をのぞくと冷んやりとして薄暗い。
「警報が鳴ったら奥に入り、息を潜めているんだよ」
祖母はまるでこれから何かが起こるかのように、防空壕に避難する方法を話しだす。
「あのとき! おまえがまだ……」
何か怖いことを言いそうな祖母を尻目に、僕は野いちごやグスベリーやハスカップ採りに走り出していく。
草の向こうに何かが揺らめいている。大きな蝶だ。羽の長さは十センチもあろうか。青紫に輝いている。優雅な姿に目を奪われ、誘われるままに歩き回っていると、ドスン。気がついたら真っ暗だった。
僕はどうやら地面の下に落ちたらしい。中は洞窟のような広さがあり、少し屈めば自由に歩くことができる。
「ああ、そうか、ここは防空壕なのか」
そう気づいた時だった。バリバリバリバリ。空気を切り裂くような轟音が頭上に鳴り響いた。
「昨日からアメリカが一斉に空襲してきているのよ」
だれかと思うと、祖母の声だった。
「室蘭じゃ、艦砲射撃でずいぶん死んだらしいの」
「何もしていない僕たちをなぜ攻撃するの?」
「わからないよ。でも、北海道の街じゅうに爆弾や銃弾の雨を降らしている。理屈じゃないのが、戦争よ」
機銃掃射というのだろか、弾が家や木や庭の道具に当たって、鈍い音や甲高い音や跳ねる音が止まない。
身を縮めて鉄の嵐が過ぎ去るのを待つ。つむっていた目を開けた時、ひとすじの光の中に、あの蝶がいた。
手を伸ばせば届きそうな美しい羽ばたき優雅な舞い。ひらひらと光に向かって飛んでいく。僕はつられて後を追う。緑の光と自由な空気が気持ちいい。
「危ないから、待って!」
祖母の叫び声がたちまち悲鳴に変わる。銃弾が僕の体の中を貫いていた。なんだか、また暗くなった…。
…祖母の声が聞こえる。先ほどの続きだ。
「あのとき! おまえがまだ…元気だったあのときには、オオムラサキという蝶が飛んでいた。でも、戦争が終わって開発が進むと、もう見られなくなった」
そんなことないよ。僕はここにいる! 何も変わらずここにいるよ。ほら、オオムラサキだって!
祖母は防空壕前で線香を焚き合掌すると、名残惜しげに踵を返した。その小さな背の後ろで蝶が舞っている。
17
「なくなった靴」
「忘れ物を取ってきて」
そう言われて、私は飛び出しました。雨が降っています。だけど、傘もささずに一心に走り続けました。
どのくらい時間が経ったのでしょうか。気がつくと、そこは花街でした。お店の前には色とりどりの行燈が、雨粒を乱反射してきらきら輝いています。田舎育ちの私には見たこともない美しさでした。あちこちに極彩の着物を羽織った女性の姿がありますが、顔は見えません。
ぐるぐるぐる。どこを走っているかもわからないまま私は「忘れ物を持って帰らなきゃ」とだけ思い続けていました。でも、私はだれに頼まれ、何を取りにいったのでしょうか。もう、全然、わかってはいないのです。
走り続けて苦しくなって…。かがみ込みました。横を見ると大きな建物があります。私はのどが渇いて、水をいただこうと思って玄関から中に入りました。
花園の中のお堂のようでした。大広間となったお部屋では綺麗な女性たちがお花を丁寧に摘んでいます。
「大切なひとが亡くなったのですよ」
中に上がって見ていると、一人が教えてくれました。
「大切なものほど、突然失われるのですね」
私は慈しみのこもった手仕事を見守っていました。人が亡くなるのは仕方がありません。でも、こんなに愛されていたら、どんなに幸せだったでしょうか。
そこで私は重要なことを思い出しました。そうだ、行かなくっちゃ。お水をいただくのも忘れて、玄関に戻りましたが、困ってしまいました。靴がないのです。
「リーガルだったか、マドラスだったか。とっても素敵な靴で、間違えるはずはないのですが」
下足番の女性に言いますが、彼女は「ここに靴がないということはとても不思議です」などと曖昧な返事を繰り返すばかり。険悪になり、激しい問答になりました。ああっ、自分はなんと恥ずかしい態度なのだろう。
至らなさのために目の前が暗くなり、息苦しくなったところで、……目が覚めました。
「あれもこれも、みんな夢だったのか」
ほっと胸をなでおろしました。
少し気分転換のため散歩にでも行こうかしら、と玄関に立つと、驚いたことに履き慣れた靴がありません。
困っていると、表には花園で会ったあの綺麗な女性が立っています。そして微笑んで静かに言ったのです。
「靴は夢の世界に忘れたの。忘れ物を取ってきて」
18
「ラッキー、ラッキー」
ひょんなことから幽霊が見えるようになった。
会社の飲み会の帰り道、横断歩道を渡っていたところを、オートバイに跳ねられた。カーンという乾いた音とともに、体が宙を舞い、眼下にはぶつかった弾みでガードレールに激突して転倒するライダーの姿が映った。
どのくらい経ったのか―。目を開けると、真ん前で顔をのぞき込んでいるオートバイ・ライダーがいた。
「大丈夫かい?」と聞くので、
「ぜ〜んぜん、問題なし。ラッキー」と答えた。
不思議なことに頭も体もどこも痛みがなかった。
「あなたも元気そうですね」
ライダーは本当に残念そうに首を振った。
「いや、ダメだね。もう死んでしまったから」
手も足も体も頭ある。僕には彼が普通の人間のように見える。それなのに「私は幽霊なんです」。
「不思議なことがあるんだね」と僕が言うと
「大抵の人は自分がそうと気づかないんですよ」
それが幽霊の見始めだった。
人間だけと思った世の中に、幽霊がいっぱいいるものだと知った。ライダーはテレビを見ながら、「あの人も仲間さ」と指さした。国会中継中で、映っているのは滑舌の良くない答弁を繰り返す総理大臣だった。
「幽霊になったら目につくようなことはしない、他人に迷惑をかけない、というのが最低のモラルなのに」
仁義にもとる、と言いたげだ。と、また叫んだ。
「ダメダメ、幽霊が人間以上にうまく踊っては!」
今度はロリコンブームに乗って、山鹿流陣太鼓も驚く赤穂四十七士そっくりの討ち入り衣装で踊るアイドル集団だった。時々、歌もポーズも揃わない。リズムが乱れているのは人間で、規則正しいのが幽霊だという。
どうして幽霊がこんなに増えたのだろうか?
「そりゃあ、霊界だって人口過剰だからね」
だから、幽霊になっても品行が良くないと、霊界への住民登録ができないらしい。厳しい時代だ。しばらくは人間界で転生修業を続けることになるのだそうだ。
なぜか不在がちだったライダーが浮き浮き顔でやってきたのは、事故からちょうど四十九日目だった。
「特急切符を2枚手配できたよ。ラッキーだね」
「ラッキーって誰が?」
「もちろん、君と私さ」
いぶかしげに見つめると、ライダーは言った。
「あのとき、一緒に亡くなった仲だもんね」
19
「なんでもペン」
買物公園を歩いているときだった。ビルの谷間の少し暗がりになっている小路から呼び止められた。
「掘り出し物だよ。お買い得だよ」
声の方へ振り向くと、パンダ顔の男が「おいでおいで」をしている。手には筆記用具らしきものがある。
「なんでもペンだよ。どんな小説でもなんでもすぐに書けちゃうんだ。ホントだよ。しかもタダ同然」
うーん。思わず唸った。実は私は売れない作家である。なんとか文筆で生計を立ててきたが、ベストセラーなどにまったく縁がない。妻には「一流大学の文学部卒業とかといっても、才能がなきゃ恥さらしだわね」などと晩酌のたびに嫌みを言われている身だ。だから、パンダ男の「なんでもペン」には心を動かされた。
「買いますよ。いや、いますぐ譲ってください」
たちまち、私は売れっ子である。「郷土誌あさひかわ」のショートショートなんか朝飯前。頼まれれば、長編連載だろうが、書き下ろしだろうが、お手の物である。
机の前に座り、原稿用紙に「なんでもペン」を置く。すると、恋愛小説だろうが、冒険小説だろうが、推理小説だろうが、ペンが勝手に走って書いてくれる。
だが、暫くして、困ったことが起こった。新聞社の文化部記者が仕事場に来て執筆の様子を取材したいと言い出したのだ。見せると、私が自力で書いていないことがバレてしまう。とはいえ相手は数百万部を発行する大新聞。紹介されれば、私は間違いなくベストセラー作家になる。嫌みな妻を見返すことができるのだ。
迷いながら買物公園を歩いていると、「ちょっと」と声がしたので振り返る。あのパンダ男が立っている。
「掘り出し物があるよ。なんでもスピード調節ペンだよ。ノンストップじゃなく、ゆっくり書いてくれるよ」
「ありがとう、もちろん買います、もらいます」
私は取材を切り抜けた。スピードを「微速」に合わせてペンを置くと、まるで考えながら書いているかのように、ゆっくりとペンが進む。文化部記者は「さすが文豪、入魂の筆づかい!」と、お世辞を吐いた。
こうして私はベストセラー作家になった。パンダ男は相変わらず、時折姿を見せては「なんでも美文字ペン」とか「なんでも漫画ペン」とかを持ってくる。
有り難いこと、いや、有り難迷惑なことだ。「なんでもペン」は、最後に見知った名前と銀行口座番号を書くまで止まってくれないからだ。
「悪いね。その書式設定だけは変えられないんだ」
パンダ男は自分の署名を見ながら、ウィンクした。
(本稿は安部公房のいとこの渡辺三子さん発行の旭川のタウン誌「郷土誌あさひかわ」に一話ずつ掲載されたものをまとめたものです)
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