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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています
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三浦綾子『泥流地帯』「続 泥流地帯」ノート
三浦綾子『泥流地帯』
(新潮社 1977年3月、初出は1976年1月4日−9月12日、北海道新聞日曜版)
三浦綾子『続 泥流地帯』
(新潮社 1979年4月、初出は1978年2月26日ー11月12日、北海道新聞日曜版)
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『泥流地帯』あらすじ
北海道中央部・上川地方の上富良野村市街から一里以上も奥に入った沢にある日進部落。十勝岳連峰の美しい山なみを間近に望むことができる。
石村拓一と耕作兄弟は祖父母の市三郎、キワ、それに女きょうだいの富、良子と暮らしている。父の義平は冬山造材作業中の事故で早くに亡くなり、母の佐枝は訳あって家を離れて札幌で髪結い修業に出ている。寂しさもあったが、相撲が強く真っ直ぐな性格の兄、勉強好きな努力家の弟は貧しい中でもすくすくと育っている。近くには曽山国男、福子ら幼なじみもおり、一緒に小学校に通い、遊び、農家仕事も手伝っている。
拓一が小学六年生、耕作が三年生のとき。山ぶどうを採りに行って、出くわした市街の子どもたちと諍いとなる。市街で高利貸しをしている深城鎌治が割り込んで来て母親の佐枝の悪口を言ったことに怒った耕作は石つぶてを投げつけた。それが運悪く深城の娘節子に当たってしまう。「嫁のもらい手がなかったらどうする」と言われ、耕作は「おれがもらってやる」と叫ぶ。
小学校の尋常科では菊川先生が愛情溢れた指導で耕作の才能を引き出してくれた。耕作は先生の勧めで勉強に励んだ甲斐あって旭川中学に一番で合格する。しかし、喜びもつかの間、学費のかかる進学が貧しい一家の負担となり、姉の富と硫黄鉱山で働く武井の結婚を遠のかせると知る。中学入学を諦めた耕作は市街の上富良野高等小学校に進むが、そこでも優秀ぶりが注目される。一方、母の佐枝は肺結核に倒れ、幼なじみの福子は父親の借金のために深城の料亭に売られてしまう。
石村の家ではキワが中風に当たった。父が死に母が病気になっており、耕作たちは「何かに祟られているのでは」と思う。だが、祖父の市三郎は『聖書』には「正しき者には苦難がある」と書いてあると答える。
耕作は校長先生から「高等科を卒業したら、ここの学校の先生にならんか」と誘われる。師範学校に行きたい気持ちもあったが、代用教員となることを決めた。兄の拓一も「お前なら、どこにいても、人より優れた者になる」と励ました。代用教員となった耕作は菊川先生のようになろうと思う。書くことの少ない子どもたちを伸ばすためには詩をつくることを教えるのに力を入れた。
ある放課後。深城節子が耕作の教室にやって来た。縁談があるのだが、私には好きな人がいると言い出す。それは「石村さん、あなたなのよ」と告げられる。町場の料理屋の娘と貧しい農家の息子では結婚できるわけはないと思う。
耕作が教員になってから四年。給料もあがり、六月には十一年ぶりに母の佐枝が戻ってくるので建て増しもした。そんな折、十勝岳は春前から噴石が降ったり、一日中鳴動することもあった。
一九二六(大正十五)年五月二十四日。十勝岳が昼頃に「どどど、どーん」と鈍い音を響かせた。早引きして家に戻っていた耕作と拓一が異様な音を聞いたのは午後四時過ぎだ。裏山に駆け上った二人が見たのは怒濤のような山津波だった。噴火と融雪の濁流は市村市三郎とキワ、妹の良子、硫黄鉱山の炊事場に働きに出ていた姉の富の命を奪い、開拓の村は無惨な泥流地帯と化した――。
■『続 泥流地帯』あらすじ
一九二六年七月一日。上富良野では高等小学校運動場で泥流に命を奪われた百四十四人の村葬が行われた。石村耕作は母の佐枝、兄の拓一とともに千五百人の会衆の中にいた。祖父の市三郎、祖母キワ、女きょうだいの富、良子はもういない。開拓の道半ばで倒れた人々を思い、村の再興を誓う上富良野村長の吉田貞次郎の弔辞が心を打つ。
会場を仕切るように深城鎌治の姿があった。深城は災害特需で儲けて得意げで、そのもとには、親の借金のかたで売られた福子、強欲な親に反発する節子の姿もあった。
石村の家は篤農集団であった三重団体の残した家に移り住み、農業再開をめざすことになった。十勝岳は九月八日に再び噴火、噴煙が四千数百b上がった。一家は山津波を怖れて避難する。
借金をしなければ進まぬ農村再興をめぐって吉田村長に対する反対運動を深城らが画策、村論は分裂の危機に瀕していた。反対派の集会が開かれたが、拓一は一人立ち上がり、「ぼくは、命をかけて再興する」と訴え、参加者を感動させる。そして新しい悍馬を買うのだった。拓一のところには福子が姿を見せるようになり、耕作もまた節子の苦悩を少しずつ理解する。
節子は義母とともに家を出て、旭川にいる沼崎医師のもとで自立の道を探っていた。励ましに旭川を訪れた耕作は公娼廃止のために命がけで活動する佐野文子のしなやかな強さを目撃する。
運動会の後の反省懇親会で、耕作は教え子の父親の松坂愛之助らに絡まれる。耕作が作文教育で実際に思ったこと、起こったことを書け、と指導していることや、子どもたちの前で吉田村長を立派であると述べたことが理由だった。
松坂愛之助の父親らは深城の経営する深雪楼近くで耕作を襲った。太い棍棒で殴られる直前に兄の拓一が身代わりになった。拓一は下腿部を骨折し病院に運び込まれた。三カ月の入院の後、拓一は家に戻ったが、足を引きずったままだった。
叔父の修平は暴漢を訴えるといきり立つ。教え子を気遣う耕作は消極的だったが、なにより拓一当人がそれを拒んだ。「泥棒村長」と嫌がらせと流言飛語を一部村民から浴びせられた吉田村長が潔白を勝ち取っていたが、彼らに対して法廷で争う必要はない、と述べていることに思いを重ねたのだった。
拓一が退院して一年が過ぎた。その間に耕作は尋常高等小学校教師の検定試験に合格した。旭川の節子も看護婦の資格を取った。拓一の苦心が実り荒れ果てていた「泥流地帯」に遂に稲が根付いた。拓一は一人ではなかった。耕作や母の佐枝に加え、吉田村長の家族や青年団の友人らが田んぼの手伝いに駆けつけてきたのだ。
拓一は福子との結婚を決めた。カネに縛られて深雪楼に売られた福子は自由を求めて沼崎医師の元にひとまず身を寄せることとなった。医師の妻は佐野文子の矯風会の同志であった。
福子の旭川脱出には節子が同行した。彼女らが乗った列車から白いハンカチが振られた。無事、福子が出立した合図であった。田んぼには拓一、耕作らの姿があった。汽車に向かって大きく手を振る拓一。そのたくましい手に握られた鎌がキラリと朝日を弾き返した。深山峠にさしかかったのか、汽笛が三度長く響き渡った。
■解説
三浦綾子は『氷点』で一躍ベストセラー作家になった後、『ひつじが丘』『積木の箱』『塩狩峠』『道ありき』『細川ガラシャ夫人』『天北原野』など話題作を書き続けたが、『泥流地帯』は地元紙・北海道新聞の求めに応じ新聞連載小説として執筆したもの。一九七六年一月四日から九月十二日まで日曜版に連載された。好評を得て続編が『続・泥流地帯』として七八年二月二十六日から十一月十二日まで同じく連載された。単行本は『泥流地帯』が七七年に、『続・泥流地帯』が七九年にいずれも新潮社から出版された。
夫の三浦光世が十勝岳を有する旭川営林署に勤務していた縁もあって執筆を提案した。綾子と光世が見たのは一九六二年夏の爆発で、「噴煙は、夜になってからは赤い柱のように見えた。私と綾子は、幾度となく窓からその火柱を眺めた」という体験があった。光世はいつの頃からか「一九二六年の十勝岳大爆発を題材に、一篇の小説を彼女に書かせてみたいと思うようになった。人間の苦難をどう見るか、どう受けとめるべきか、そんなテーマで書いてみてはどうか」と考えていた。
二人は信仰者である。「旧約聖書のヨブ記には、神の前に全く正しいヨブという人物が、瞬く間に多くの家畜を略奪され、災害によって子女を喪い、自らは大変な病気に冒されるという、不可解な苦難が例示されている。/私はこのヨブ記をいわば下敷に、十勝岳大爆発を小説に書いて欲しいと、綾子に頼んだ」という。(三浦光世「『泥流地帯』―苦難を人はどう受け止めるべきか」より)
三浦綾子は迷っていたようだが、光世は勧め続けた。そこに北海道新聞から依頼が来る。一九七五年二、三月のころであった。
執筆が決まると三浦夫妻は早速、取材に入り、被災地に幾度となく足を運び、それに同行したのは北海道新聞旭川支社の合田一道記者、後山一朗カメラマンなどだった。
小説の参考文献には三浦光世が営林署で目を通したことから大きな関心を抱くことになった『十勝岳爆発災害志』(十勝岳爆発罹災救済会発行)をはじめ、岸本翠月著『富良野地方史』、同『上富良野町史』、佐藤喜一著『十勝泥流』、『渡辺円蔵氏日記抄』などが挙げられているが、作品を豊かにしたのは家族を失った人々や泥流を目撃した人たちの体験談であった。
早くに父親を亡くし、母親は髪結いとして札幌に出たため、祖父母に育てられた光世の体験が主人公兄弟の生い立ちの設定に生かされていたという。また、実在した人物を実名のまま登場させており、上富良野村長の吉田貞次郎、医師の沼崎重平、公娼廃止運動に尽力した旭川六条教会員(三浦夫妻も同会に通った)の佐野文子―らのエネルギッシュで高潔な人となりも活写されている。
■十勝岳とその噴火活動
(中央防災会議 災害教訓に関する専門委員会「1926 十勝岳噴火報告書」による)
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十勝岳は北海道中央部の活火山。標高は二〇七七b。愛別岳、旭岳(二二九〇b)、忠別岳、トムラウシ山、オプタテシケ山、美瑛岳、十勝岳、富良野岳、前富良野岳などのやまなみが連なる大雪山・十勝岳連峰の主峰である。
一帯は北見山地から日高山脈に達する北海道の背骨≠成しており、オホーツクプレートがユーラシアプレートに衝突することによって形成された摺曲山脈である。五十万年前に起きた破局的な噴火(最大規模の噴火と火砕流の発生、カルデラの陥没)の堆積物が火山群の基盤となった。火山群は休息期間の後、一万年前に活動を再開しており、三千五百年前以降の状況が噴出物などから解析されている。
噴火記録が残されるようになったのは、一八五七(安政四)年の活動から。同年5月8日、松田市太郎が激しい噴煙活動を目撃したのを始め、6月2日には松浦武四郎が『丁己石狩日誌』に「山半腹にして火口燃立て黒姻天を刺上るを見る」と記し翌年再訪し噴煙をスケッチしている。十勝岳はその後も一八八七(明治二十)年ころ鉱床調査に訪れた大日方伝三により、「常に黒烟を噴出する事甚だし……年々大噴出を為す事数回に及び……時に降灰……」と報告されている。
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一九二六(大正十五)年五月二十四日十二時過ぎに最初の爆発が起こり、泥流が白金温泉近くにあった畠山温泉を襲い、さらに同日午後四時十七分過ぎに大爆発が起こった。中央火口丘の北西部が大崩壊し、北西に開く馬蹄形の爆裂火口が開いた。崩壊物は、熱い岩屑なだれとなって斜面を下り、急速に積雪を融かして大規模な泥流を生じた。この泥流は、美瑛川と富良野川に分かれて流下し、爆発後わずか二十五分余りで火口から二十五キロの上富良野原野に達した。
この噴火で、死者・行方不明百四十四人、建物三百七十二棟、家畜六十八頭のほか、山林耕地などにも大きな災害が起きた。三カ月半後の九月八日に再爆発があり、火口付近で二人が行方不明となった。この噴火で、北西に開いた馬蹄形の爆裂火口底に大正火口が形成された。
その後一九二八年末まで、この火口で小噴火がときどき起きた。
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一九六二年に入ると、四月二十三日に十勝沖地震(マグニュード7・0)が発生し、十勝岳では強震のため大正火口内で落石が起こり、噴気活動もさらに激しくなった。五月には、十勝岳付近で有感地震が起こり始めた。六月二十九日午後十時過ぎ、噴火が始まり、大正火口の北側にあった硫黄鉱山宿舎に多数の放出岩塊が落下し、死亡・不明五人、負傷十一人を出した。
三十日午前二時四十五分に主噴火が始まった。高温のマグマは火山弾、スコリア、火山灰などとなって激しく噴出した。朝には噴煙は、ほぼ垂直に上昇して原子雲状に広がり、高度一万二千bに達し、東方へ流れた。道東一帯は、火山灰雲で日照が遮られ、降灰に見舞われた。降灰域は千島列島に及び、七月一日午前三時ごろには、中部千島のウルップ島南方を航海中の船上にも降灰した。
十勝岳は一九六八年五月十六日の十勝沖地震(マグニチュード7・9)の直後、一時的に火山性地震を群発し、噴煙を増加したが、まもなく鎮静化した。
一九八三年ごろから群発地震や噴気活動が徐々に活発化し、八八年十二月十六日に小規模な水蒸気爆発が始まった。十九日夜半にはマグマ水蒸気爆発が発生して火柱が立ち、火山岩塊が周縁に放出し、火山灰雲が上昇して南東側に降灰をもたらした。さらに、この爆発では小規模な火砕流が発生した。噴火は翌年三月五日まで合計二十一回発生、うち数回は火砕流・火砕サージを伴った。
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三浦綾子『氷点』『続 氷点』もうひとつの舞台・札幌を歩く
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