「中島みゆき」とはだれか。
彼女はいくつもの時代をめぐって、この近代という時代の終末にやってきた魔女である。彼女の言葉は心を貫く。彼女の歌は心を揺さぶる。彼女はおごった心を見通している。彼女はすべてを知っている。彼女は慣れきった日常に根源的な異和を表明する。
だから彼女は私達の社会と共同体に対するマレビトである。預言者はいつだって故郷にいれられない。それが人間社会が作り出して来た自己防衛のための無意識のシステムであるとすれば、彼女は永遠に孤独とともにいる。
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「中島みゆき」という存在が、どこか悲しげに見えるのは彼女が時間と空間の裂け目を漂っているいるからのように思われる。別の言葉で言えば、私達の時代は本当はなんの意味もない権威や伝統や因習にまだ支配されているがゆえに、他者を排除することによってかろうじてささえられているのであり、そのことに根源的に批判的であるものに寛大では有り得ないという宿命を背負っている。それゆえ彼女に安住の場所がないように見えるとすれば、私達が見失ってしまったラディカルであることの今日的位相を体現してしまっているからである。
たとえば、吉本隆明は「重層的な非決定」の主張者にふさわしく、中島みゆきの歌を他のいわゆる詩人と並べてみせ「若い現代詩としてすぐれている」と『マス・イメージ論』で高く評価したが、別のところで彼女を「古来の遊行の女婦」にたとえてみせた。
<<中島みゆきの特徴をあげれば、ひとり古来の遊行の 女婦といった存在感をもっていることだ。思春期に這入りかけたころ、何か家についた神明に憑かれて、家を捨ててお前は遊行せよと夢で囁かれ、ふと或る日、出奔して他郷に旅立ってしまう。見知らぬ他郷の村人たちと仲良くなり、食べる糧を喜捨してもらうために、もって生まれた才智を生かし、物語の詩を創作し、それに曲譜をつけ、歌い語り、諸国を遊行して歩く。 結社や講や興業システムが設ける舞台より以前の自然の巷角で、じかに自前の得意な役柄に成りきって、語り歌を歌ってきかせる。どこで果てても、どこで持ち前の器量で分限者の妻妾となって定住しても、それは運命のようなものなのだ。
こういう古代や中世の遊行女婦の面影を、あたうかぎりモダンな存在感のうちに保存しているのは、現在では中島みゆきだけだと思う。>>
吉本隆明の言説はいつもながら魅力的である。しかし、中島みゆきを神懸かりになぞらえてしまう時、彼女が背負ってしまった固有の孤独の原像が見えてこなくなってしまう。確かに彼女は、結果的には現代の「遊行の女婦」のようではあるが、もしそのように表層をなぞってしまう時、彼女の思想性はすっぽりと抜け落ち、「自前の得意な役柄」になりきるだけの単なる歌い女にすぎなくなってしまうのではないか。
PB 何者かに操られているという感じはない?
中島 そういうのではないと思います。たぶん、歌書くときっていうのは、自分の性格とか、根性とか、 そういうところをどんどん追い詰めていくわけだから、追い詰めていって針の穴に糸通したときが歌書くっていう作業だと思うんで、(略)
(月刊「PLAYBOY」87年11月)
この中島みゆきの自己分析は少し偏っている。彼女の心理的作業としてはその通りかもしれないが、私達の感性が否応なく取り込まれている現代の共同の幻想から自意識を余りに無垢のまま抽出しすぎているからだ。それにしたって、若干の偏差を加えるなら彼女の言っていることは吉本隆明や呉智英の指摘するような神懸かりや「現在という作者」に主体を還元する発想よりは正確に見える。
私達にとって中島みゆきが切実な存在として感じられるのは彼女の痛ましいまでに女であることへの現代的な自我によってである。そして、その自我が彼女の育ったであろう北海道の風土とは、無縁であり得ないというのが、吉本隆明説に付け加えたい私の中島みゆき論の要諦である。
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中島みゆきについて、風土論の視点から、すなわち、近代の宿命を背負ってしまった北海道の土地と人間の行方について私は多く語ってきた。これに対して、みゆきの中に流れている東北人の血から考えることも不可能ではない。
朝日新聞の山形支局の若い記者・石橋英昭君は私の『みゆき・マイ・クロニクル』という論文を意識するかたちで、『傷ついた同世代の「応援歌」』と題する記事を書いている(88年6月19日付、朝日新聞山形県版)。
<中島美雪は(昭和)41年夏、母親と一緒に北海道帯広市から山形市に、越してきた。体を悪くした母親が、一時実家で療養していたのだという。9月3日、山形六中3年6組に転入。当時担任だった星川日出馬先生(55)=山形九中校長=は、色白で背が高かった彼女のことを、よく覚えている。「グループ日誌のノートいっぱいに、うすい鉛筆のきれいな字で、思いをぶつける様な文章をつづっていたよ。伏し目がちに話す様 な少女で・・」
<日曜日、彼女は六中の音楽室にピアノを弾きにきた 。かぎを開けてやった星川先生が、職員室で休日仕事をしていると、一生懸命のメロディーが何時間も聞こえてくる。そうやって作った曲の譜を、彼女は時々、音楽の先生に見せにきた。音楽を受け持っていたのは原田ふみ子先生(50)=山形二中。でもどんな歌だったかしら」
<高校受験を前に、彼女は帯広に帰っていった。一緒だったのは四カ月だけなのに、クラスメートには、大人びて都会的だった彼女の印象が、強い。思いを寄せていた男子三人が、山形駅まで見送りに来て、小さなダルマを手渡した。「高校に受かったら右目を、大学に入ったら左目を入れろよな」
<星川先生は、国語が 得意だった彼女に、岩波の古語辞典を贈った。帯広に帰った彼女からは、何回か航空便でスズランの花が送られてきて、「ピアノをギターに持ち替えて、歌い始めた」と、添えてあった。
この石橋君の記事には、これまであまり明らかにされてこなかった中島みゆきの山形時代の姿が点描されている。彼女が高校に入る前から積極的に自分の歌を作ろうとしていたこと、ささやかながらも友たちとの心のふれあいのようなものがあったこと−−など。石橋君はみゆきの北海道人論(すなわち小生の説)に、東北人論を対置する。
<彼女には北海道のイメージが強いが、母親は「ミス山形」に選ばれたこともある、山形の女性。みゆきも 小さいころから、山形の母親の実家によく遊びに来ていた。一昨年亡くなった祖母が好きだったというのが 、名曲「時代」である。(中略)鶴岡市出身の詩人、 阿部岩夫さんは、「彼女の詞に東北人の血を感じる」 という。「暗くて激しい。閉じ込められた情念が、一気に出てくる激しさがある」から、と話していた。
なるほどなあ、という部分がないわけではない。
しかし、中島みゆきに東北的なものを感じるという指摘の視野は決定的にせまい。それは単なる風土論にとどまってしまっており、たとえば、わたしが北海道的なものに、みゆきを結び付ける時、そこには風土を突き抜けて、私達の生き暮らしている日本的近代の時間と空間を、全体重で受けとめつつ批判していこうという構えが存在しているのであり、それゆえに現代社会論としての中島みゆき論としてのひろがりを手前味噌ではなく獲得しているはずである。
北海道と東北の心情はどこかで通底していることは間違いない。それはたとえば、今は亡き黒田喜夫の、吉本隆明の『共同幻想論』批判である、東北の共同体的負性から出発しつつ、真の共同性を奪回しようとした先駆的試みを媒介しなければならないようにも思われる。しかし、それは未だ想像力の彼方に存在している。
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中島みゆきは先に引用した月刊「PLAYBOY」誌のインタビューのなかで故郷について次のように語っている。
PB さびしいことはないですか。なんとなく故郷喪失みたいな。
中島 なにかね、小さいときから引っ越しが多かったせいか、あんまりそういう土着的な意識ないんです よね。どこにいても三界に家なしという感じがしてね 。一つのところに住んでいても、ここもあまり長くい ないだろうなという感じがするんですよ。
PB それは、帰るべきところはやはり北海道だ、 ということじゃないんですか。
中島 はて……。あそこに帰れば楽だという意味での帰郷意識はないですね。あの自然との戦いのようなところに挑むというのは、一つの生きがいだろうとは思います。でも、生半可じゃないですね。
ここに述べられている中島みゆきの故郷観は極めてオーソドックスな北海道人のものである。みゆきや私達がそだったころの北海道を思い出す時、私の心はチリチリと痛む。
あちらこちらに開拓部落が残り、学校はいくつかの山を越えたところに、ひとり別世界のように存在していた。働いても働いても生活が豊かにならぬ開拓部落の子供はわずかばかりの教材費すら払えず、畑仕事やおとうといもうとの子守に追われ長期欠席。一学期の終わるころには家族ぐるみでどこかの町に引っ越したと、だれかが教えてくれる。その友達もまたいつしかどこかの町へ流れていってしまうのだ。
自然との戦いに敗れたものには故郷などない。
北緯43度圏を一つのメルクマールとした私達の風土で郷土愛とは、必ず生存競争に耐えたことの証であり、さもなくばトリヴィアルな思い出のなかにしか宿っていない。だから故郷を捨てた北海道人がたどりつく先は、必ず故郷と呼ばれることのない唯一の土地、即ち東京である。
そこには北海道の荒々しい自然はない。しかし、フランクフルト学派流に言えば、荒々しさでは劣らない第二の自然=近代社会が待っている。そこで私達は北海道と共通の運命を多分見いだすに相違ないのだ。
伊藤整という文学者は、そうした私達の風土から疎外され、日本的近代を生き抜いた典型的な人物であった。彼の「海の捨児」という詩編は、中島みゆきの世界にどんなに通底していることか。興味のある方は拙稿「みゆき・マイ・クロニクル」(『中島みゆきの場所』所収=青弓社刊=)を読んでいただきたいと思う。
故郷をなにかよそよそしいものと感じ始めるのはいつのころからだろうか。そんな時、海の向こうの世界がひどく魅力的に映ってくる。中島みゆきの歌が恋愛的なものを除けば多く海や旅を歌っていることは決して偶然ではあり得ないのだ。
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私は少し先を急ぎすぎているようだ。中島みゆきにとって「歌」とはなんなのか。
<私にとって歌というのは、自分の正体を見ることなの。こうやって話していると、もうひとりの自分がそ ばにいて、あんた何言つてんのとつぶやく。言ってるのが私なら言われているのも私。その自分のなかのふたりに出会うのが面白くて
(こすぎじゅんいち『魔女伝説』所収「ヤングセンス」インタビューより)
かっこよく言えば、中島みゆきにとって、「歌」とは自己との対話ということになろうか。しかし、それは多分幼い日々に体験したであろう「ひとり遊び」の再現のようにも見える。日が暮れるころまで少女は独楽を回したり鞠をついたり、長くのびていく影を踏んだりしていたかもしれない。医者の娘という彼女の位置は地域社会からは羨望の目で見られる分だけ、少し疎外されていただろうことは間違いない。生活に追われる人々には、医者は暮らしむきに頭を悩ますことのいらない例外的存在として映っていたはずだ。そして父親の転勤とともに繰り返される引っ越し。彼女は共同体の「外部」の存在を早くから宿命づけられていたように見える。
もし、彼女が男だったら――と考えることは空しいことである。しかし、中島みゆきが男であったなら、多分直接的に社会に向き合い、あるいは変革しようとしていたかもしれない。だが、彼女は「女」であったが故に、いささか回り道をしなければならなかった。
女に生まれて喜んでくれたのは
菓子屋とドレス屋と女 と女たらし
嵐あけの如月壁の割れた産室
生まれ落ちて最初に聞いた声は落胆の溜息だった
もちろんフィクションであろうが、彼女はある歌でそのように書いている。女であることが、現代を生きる上で一つのスティグマであることは間違いない。その限界をどう超えるのか。
中島みゆきは革命家でもウーマンリブでもないから、何ら声高の主張はしていない。しかし、彼女の切実な思いは誰よりも私達の胸を撃つ。その秘密は「女歌」である。彼女は言葉に憑かれたかのように自由に、様々な女を演じて見せる。ある時はしおらしく、ある時はあばずれのように、ある時は恋に盲目の狂女のように、ある時は男以上に冷酷なまなざしで、そしてある時は神の言葉を告げる天女のように――。
恋愛のあるべき像というのが本当にあるのか、よく判らない。しかし、この社会では男と女の関係の中に、人間の解放の水準が示されることだけは間違いない。私達は中島みゆきという希代の魔女の歌を聞くことによって私達のいる時代の位置を知ることができることは確からしく思われる。そして、その時、みゆきの孤独が実は終末を迎えつつある日本的近代という時代を生きている私達の孤独でもあることを痛切に思い知らされるのだ。
♯♯
中島みゆきの中に、私はいつも自己に対する冷静なまなざしを感じていた。第二小説集『泣かないで・女歌』を読んでいて改めて思い浮かべたのはそのことだった。彼女がまだセミプロ時代、歌を歌おうとしながらくじけそうになる自分を励ましてくれた「たっちゃん」という女性のことを書いた作品は、そのひとつの証左である。
<木造の小さな駅舎には冷房がなく、窓も扉も取りはずされてある。客は誰もいなかった。
たっちゃんが切符を買ってくれるのを、あたしは隣に立って見ているだけ。
「ハイ、これ、東京まで。新幹線のはこっち。それからこれは、お餞別」
チョコレートが一枚。
暑さでちょっと柔らかくなった板チョコは、なんだか親しくて、たっちゃんの笑顔のようだった。
改札口にもたれて、風にあたりながら、少しだけ話をした。
あたしは、北海道の夏はもう終わる頃だよと話した。
たっちゃんは、あたしのレコードが出るようになる日を楽しみにしていると言った。 それから、いつの間に見ていたものやら、あたしに、思い出し笑いのように、言った。あんたはあれだけきついことを言われてもついに泣かなかったね、と。
(「泣かないで」)
この物語は最後に、一人前の歌手になって「たっちゃん」を探しているみゆきが、駅舎にいたのは実は、みゆきだけだったことを告げられるところで終わる。
それでは「たっちゃん」とは誰だったのか?
ここで述べられていることはいわゆるドッペル・ゲンゲル現象ということになるのかもしれない。私はしかし、そこにみゆきの、やさしさにも似た心を見るのである。
歌の世界に不案内の私は、中島みゆきという歌手がどのような方向に進んでいくのか、よくわからない。しかし、これだけは断言できる。みゆきの歌の根源にあるのは「社会化された自己愛」であり、それは多分、いつまでも変わらないであろう、と。私のこの言い方は勿論、かの小林秀雄の有名なテーゼの受け売りである。
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さて、中島みゆきの歌が全くと言っていいほど登場しない、この文章はここで終わる。後は、読者がレコードに針を落とし(CDをセットし)、彼女について語る番である。
(文芸同人誌「詩と創作 黎」第49号、1988年秋季号所収)
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