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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています
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シン・たかお=うどイズム β
Private House of Hokkaido Literature & Critic
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何を読んだか 1990
某月某日
椎名誠『白い手』(集英社、800円)。椎名版の「たけしくん、ハイ!」というところか。少年期というものはどこかに生命の無償性と至福の時間を隠し持っている。そのことが、この手の小説を読むものを何とも言われぬ感慨に誘うのだろう。もっとも椎名の小説としては、どこか手慣れ過ぎたところが漂っていて、今ひとつのできばえのように思われた。
某月某日
千代丸健二『続・ザ警察対抗法』(三一書房、800円)。この人の反権力の情熱には頭の下がるものがある。彼はナチズムに反対した牧師、マルチン・ニーメラの有名な言葉を引用している。「共産党が弾圧された。私は党員でないからだまっていた。社会党が迫害された。私は党員でないからじっとしていた。学校が、図書館が、労働組合が弾圧された。やはり私はじっとしていた。教会が迫害された。私は牧師だから行動に立ち上がった。だがその時はもう遅すぎた」。同感である。
某月某日
田中三彦『原発はなぜ危険か』(岩波新書、520円)。
》これまで日本の原子力発電は意見の対立や批判精神がまったく存在しないモノトーンの集団によって推進されてきたとしかいいようがない。いかなる問題を前にしても、国や有識者、電力会社、原発製造メーカーの見解はつねに一つの方向にまとまり、けっして“内輪もめ”といった醜態をさらすことがない。唯一彼らが批判精神をむき出しにするのは、反原発に対してである。
この機械的な反応、無人格性、無批判性こそ、この先わが国で原子力発電が継続されていく際の最大の危険要素かもしれない。
実際のところ、原発のハード部門での危険性は誰もが知っていることである。そして、それにロボットのように反対語を教え込まれた能面色の集団が加わっている。
吉本隆明の言うように私もまた「核戦争」の現実性など認めないが、しかし、吉本の言うような「原子力発電断固推進論」にはやはりくみできない。現実も実体も忘れた原理主義的退廃!
某月某日
小島朋之『模索する中国』(岩波新書、550円)。中国に関して岩波はこのところ立て続けに新書を出している。小島の言っていることは、いわゆる「走資派」の筆頭だった登小平もまた共産党の指導を中核とした四つの原則を譲らないゴリゴリの党官僚以外の何者でもないということである。逆説のようだが、日本国家が中国に何をできるかなど底が割れている。問題は、依然として、権力(共同幻想)の支配下にある同じ民衆がどのように連帯できるか、という可能性の中にある。
某月某日
毎日新聞政治部『政治家とカネ』(毎日新聞社、1200円)。毎日のルポはいつもながらなかなか鋭い。政治家がいかに金銭感覚を失い、金のためにうごめいているかが、よく分かる。だから、私達は清潔な人物や政党の代表を政治家に選べばよいのだろうか。私は少し違うような気がする。政治をどう無化するか。その方向で私は考えていきたい。
中野翠『最新刊』(毎日新聞社、1200円)。例によって、どこか普通ぶっている「才女」によるコラム集。はつきしいって、つまらない。バランスのとれた権力(との距離)感覚というやつだ。私は妥協しない。
某月某日
加東康一『いい酒いい友い人生』(日本文芸社、1000円)。内容はまあ題名通り、推して知るべし。声を失った著者のことだけが気になった。
某月某日
別役実の『当世病気道楽』(三省堂、1500円)。一種の知的ゲームとしての病気論。
》我が国の「共同体」の崩壊しつつある原因を、多くの識者たちは、「農村の過疎化」であるの、「工業化」であるの、「都市化」であるの、「交通機関の過剰な発達」であるのと、言い立てる。遠因はそこにあるのかもしれないが、実はそれによってひとつの《風邪》の伝染経路が途絶し、混乱し、錯綜しつつあることが本来の原因なのである。このことを無視することは出来ない。従って「共同体」の建て直しは、《風邪》の感染経路の方向づけと、組織化によってのみ、可能なのである。
全くよく言うよという出任せラジカリズムである。
某月某日
吉本ばなな『パイナップリン』(角川書店、1000円)を読む。初のエッセー集とか。うまく届かなかったが、一点だけ指摘しておけば、ばななちゃんは「ホラー映画が死ぬほど好き」なんだそう。見る人が見れば彼女の作品はイタリアのホラー映画監督・ダリオ・アルジェントの映像にそっくりなんだそう。この監督についてよくは知らないが「サスペリア」を撮った人らしい。あの「サスペリア」の世界と「キッチン」はつながっていたのか。ふーむ。これはオジサン一本取られたわい、という感じだ。
某月某日
佐藤金三郎『マルクス遺稿物語』(岩波新書、520円)。マルクスにはどこか不幸の影がつきまとっている。彼の遺稿「資本論」はエンゲルスに残されたあと、数奇な運命をたどった。同様に、それを手にした者たちは、マルクスの娘であろうとカウツキーであろうとみな不幸な最期を迎えている。リヤザーノフ、ブハーリンしかり。そしまた「資本論」も依然として未完成であり、人類に不幸をもたらすのか?
某月某日
落合信彦『1990´S世界はこう動く』(集英社、1000円)。長谷川慶太郎『世界はこう変わる』(徳間書店、1500円)。谷沢永一・渡部昇一が文化人を気取った右翼反動なら、この二人は情報通を自認する右翼反動というところか。落合は例によって、怪しげな情報を振り回し、金大中は「北のスパイ」であるなどときめつけ、それで何かをいったつもりでいる。結局、国際政治というものの根底にある民衆の動向というものが分かっていない。表層的なイデオロギー(情報)で世界が動くはずがないではないか。
長谷川のほうは、経済力至上主義の立場から、どうやって日本の繁栄を維持するか、ということばかりに関心が集中していく。軍事大国になるな、という長谷川の一見平和主義的な主張は、アメリカに安心してもらわなければ繁栄を失う危機感以外の何物でもない。「日本は民族主義を放棄しろ。外交主権を自主規制しろ」だって! 卑屈な反動だこと。
某月某日
入江明美・高橋佳代子『こんにちは裁判官』(一光社、1442円)。サブタイトルにいわく「高層マンション建設に反対した『おばさん隊』の記録」。高層マンションに住んでいるにんげんとしてはいささか頭が痛い。都市における住宅政策の貧困が原因とはいえ、今後、それなりに過密化がすすむ地方都市ではこうした問題が一段と深刻化することだけは間違いない。建築業者のペテンは断固として許せない。しかし、そのことを差し引けば、この国では、余りに一戸建ての住宅に固執しすぎているのではないか。ヨーロッパのように都市は集合住宅を中心にすべきではないか。そこは安価なアパートとして都市住民に広く提供する一方、地方に菜園を持つセカンドハウスを所有しやすくし、週末をそこで過ごすようにできれば、と思うのだが。
某月某日
桂敬一『現代の新聞』(岩波新書、520円)。さらに小室直樹『ソビエト帝国の分割』(光文社、720円)。小室おじさんは例によって少しズレながら「ソ連の分割・民営化論」を展開して、歴史の逆流を賞賛するばかり。それにしても、いわゆる左翼のほうには小室おじさんのように躁状態で世界を論じる人は出てこないのだろうか。
桂さんの新聞論は別段どうってことないテーマばかりを集めたもの。新聞は総合情報産業に変わりつつあるのは常識。問題はその存在と構造に徹底的にメスを入れられていないことである。
某月某日
永六輔の『なんといううまさなんというへた』(講談社、1200円)。永さんの観劇記録集。凄い。プロだなあ本当に!
某月某日
赤瀬川原平『千利休無言の前衛』(岩波新書、550円)。超芸術である「トマソン」の提唱者による「日本文化論」のようなもの。饒舌の秀吉と沈黙する利休の衝突。前衛の民主化というパラドックス。他力の思想。赤瀬川の営みの現在的総括がそこにある。
某月某日
東京弁護士会編の『取材される側の権利』(日本評論社、2500円)。いかに報道関係者が一般人(タレントを含め)の人権を侵害しているかが、改めてよく分かる。匿名報道の徹底と取材者の社会的倫理が問われている。
市民社会においては、「目には目を」という直接的な仇討ちは許されないのであり、加害者も被害者も法的には等価である。法律とは人権を制約しつつ人権を守るものである。もし、このことを承認するならば、即ち「市民」を盾にするならば、法律を超えた直接的な仇討ちや代行主義者による個人テロルは許されない。もしマスコミがそのような私怨を引き出し(たとえば「あんな男は殺してやりたい」などという被害者感情をなにか意味ありげに誇張すること)私的なリンチを代行するならば、そのようなマスコミこそ糾弾されねばならない。この点で私は徹底的な市民主義者である。
某月某日
『北大学生新聞縮刷版 』(北大学生新聞会、不明)。噂に聞いていた勝共連合−原理研系の学生新聞。明らかに反共産主義に徹しているが、内容的には学生のニーズにそれなりに応えようとしているところもみられる。それだけ勢力拡大に躍起ということか。常連執筆者を見ると、あのスラブ研究センターの木村汎教授の名前がある。やっぱりねえ。この先生、言っていることがかなり危ないところがあると思ったが、そういう関係だったわけか。原理研の動向には今後も注意が必要であろう。
某月某日
佐高信『サラリーマン新時代』(駸々堂、1000円)。御用評論家の多い経済問題を舞台に独自の視点を貫いている著者のサラリーマン論。
》日本は「会社は富む」が「社員は貧しい」、いわば「社富員貧」の国なのだ。そしてそれは、日本人の“片思い”ともいうべき愛社心によって支えられてきた。しかし、これからは、サラリーマンは忠誠の対象を「会社」から「自分」に変えて新時代を生きていかなければならない。
はたして現代のサラリーマンがそこまで割り切れるようになったかどうかは別にして、佐高の言葉はひとつの方向性を示すものではある。
某月某日
三浦つとむの『新しいものの見方考え方』(季節社、1648円)。疲れた時、何かに迷った時、三浦さんの本を読めばいつも勇気を与えられる。三浦さんは私達のような独学者にとっては、導きの羅針盤である。
》死にかたの問題はとりもなおさず生きかたの問題であり、生きかたの問題は人間の価値という問題につながってくる。人間としてかくあらねばならぬという、自分の生きかたをしっかりつつみ、たゆまず努力してきた人たちは、たとえ思いがけない事故のために死ななければならなくなったとしても「自分は人間としての義務を果たしてきた。なすべきことを力いっぱいやってきた」という満足感を持つことができる。
こういう言葉は身すぎ世すぎの仕事に追われている時には、心にしみる。会社人間になってばかりはいられない。自分のなすべきことはまだまだ残っている。
某月某日
ボリス・エリツィンの『告白』(草思社、1600円)を読む。急進的改革派のリーダーによるソ連共産党体験記。結論はこうだ。
》党の特権階級のピラミッドのてっぺんにまで登ればそこにはすべてがある−共産主義の実現だ!この共産主義には、世界革命も、高度の生産性も、全体の調和も、そんなものは一切不必要だった。この共産主義は個々別々の国で、個々別々の人間のために実現することが完全に可能なのだ。
この共産主義のことは誇張ではないし、単なるイメージでもない。光り輝く共産主義の根本原則を思い出してみよう。「各人が能力に応じて、各人が必要に応じて」。まさしくそれが実現されている。能力については、すでに語った通り、残念ながら、さほど優れているとはいえないが、その代り、必要といったら!必要があまりにも大きいので、現今の共産主義は、今のところ、ほんの二十名程度の人間のためにのみ実現されている。
この共産主義を生み出すのはKGBの第九課だ。
これが、今まで、共産主義だの社会主義だの言われてきた国の実態なのだ。二十人のための共産主義!! スターリニスト支配に対して人民は造反有理の旗を掲げてもよかろう。
某月某日
北野隆一の『プレイバック「東大紛争」』(講談社、1300円)。現役東大生が綴った東大「紛争」の記録だって。どうやら新聞記者になるらしいが、全く自己の足元を見つめようとする姿勢が感じられない。山本義隆でなくても、おとぼけの相手なんかしていられるか。三流の歴史家だって、少なくとも学問的倫理とは別に一種の情熱を歴史対象に抱いているものだろう。ところが、そうした気迫が全くない。「東大紛争」に遭遇したら、どんなことをやってくれたか、と思う。
某月某日
上野千鶴子『スカートの下の劇場』(河出書房新社、1300円)。上野の言っていることは常識的なところも多いが、それなりに面白い。性をめぐる現在の状況も写し出している。もっとも、この本がベストセラーになったのは、モノクロのエロ本になっているからのような・・・・。
某月某日
高木仁三郎+渡辺美紀子『食卓にあがった死の灰』(講談社、550円)。内田隆三『ミシェル・フーコー』(講談社、550円)。
》フーコーの知識人としての活動は、「人間」とその否定的な「分身」を同時に生み出す権力のシステムそのものを標的にしている。決して悲惨な人びとを「人間化」することが彼の真の目的ではないのだ。そうした人間化は権力のお恵みであり、同時に別の犠牲者を生み出すであろう。問題は、人間の規格とその逸脱をともに配置する権力のシステムそのものを明らかにし、人びとがその発言や行動において自分自身の在り方を自ら選択する自由を確保することである。
フーコーについては未だに良く分からないところが多い。ただ、彼が見据えていたものが本当は意外と私達の感じているものに通底しているように思われてきた。
某月某日
笠井潔『ヴァンパイヤー風雲録』(角川書店、700円)。同じみの主人公・九鬼がKGBの諜報員として東京に戻り、ヴェトナム戦争を巡る秘密を追って、例によって好き放題に活躍する。まだ、話は途中でこれと言った盛り上がりはない。あるのはせいぜい笠井のソ連嫌いの吐露くらいか。
》あの国ではテレビも靴も豚肉もあらゆる商品が致命的に不足しているが、腐敗した絶対権力だけは外国にダンピンク輸出できるほど悪臭とともに社会のいたるところで溢れかえっている。
まあまあだが、やはりあのエリツィンの「告白」を聞いてしまった後では、ちょっと迫力に欠けるのは仕方がないか。
某月某日
島田莊司『御手洗潔の挨拶』(講談社、700円)。島田莊司『奇想、天を動かす』(光文社、710円)。島田の作品はいつも荒唐無稽さと書くことに憑かれたものの文体の迫力にリアリティがある。短編集の前者には、主人公を軸にしたエアポケットのようなミステリー空間が広がり、なぞ解きの楽しみをあじわいながら引き込まれていく。「紫電改研究保存会」はとりわけ語り口の妙というようなものがあって楽しめる。後者は大作だ。東京−仙台−北海道を結び、時間と空間を超えた奇想天外な物語が展開していく。
島田には時折、社会派めいた題材が顔を覗かせるが、ここでも置き去りにされた朝鮮人問題が悲劇の底辺に横たわっている。そのことは、作品にプラスだったのかマイナスだったのか、よくわからないところだ。物語のスケールの大きさ、ディテイルの積み重ねなど、いずれも力作の名に恥じない。
某月某日
加藤典洋『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』(筑摩書房、1600円)。最近余り文芸評論など読んでいないので大変難しかった。もっとも、モチーフははっきりしている。この、大衆社会状況の中での「主体」の変容ということ。自己と世界の関係の逆転に対して、どう戦略的に立ち向かえるかということを、加藤は吉本隆明や村上春樹などを俎上に乗せながら一生懸命に考えている。しかし、結局は良く分からないとしか言いようがない。
某月某日
筒井康隆『文学部唯野教授』(岩波書店、1300円)。筒井はこの小説で見事に文芸批評を戯画化してみせた。文芸評論が小説を引用するように、小説が文芸評論を引用して、徹底的に文芸評論のつまらなさを笑って見せたというわけだ。ついでながら、大学社会というものがいかに異常な集団であるかも正確に描いて見せた。近来にない最高のおもしろ小説というべきか。それにしても印象批評からポスト構造主義へと批評はさまざまにメタモルフォーゼを重ねてきた。しかし、本質は全く変わらない。筒井はそう言いたげである。
某月某日
このところ全く本を読んでいなかった。仕事が極度に忙しいということもあるが、やはり自分の生命に波があり、活字に集中できない時期があるようだ。
野田正彰の『リビア新書』(情報センター、1400円)をやっと読む。一種の紀行文であるから、いささか精神的に消耗している時には入りやすい本なのだろう。
野田さんは現代人の心理について優れた分析を行ってきた人である。今回は、アフリカのリビアを訪れ、指導者であるカダフィ大佐の思想を中心に、リビア社会の心理にメスを入れて見せている。野田さんは指摘する。
》私はもう一度気づいた。カダフィは聴衆に演説をしているのではない。さまざまな衣装を着てリビア人を装う人々と共に、劇を演じているのだ。主演はカダフィであり、聴衆もまた、ギリシャ劇のコロスのように、こだまし、反語し、同意する脇役を担っている。
カダフィは27歳で革命を成し遂げた。この青年政権は、20年にわたって長期独裁政権を維持している。
そして、20年の、とりわけここ10年のアメリカとの関係をみるとき、そこには「厳父」への反抗と甘えの思春期の心性がよく出ている。まず反抗、それによって自分の力を認めてもらうことを求める。しかし、相手は強ければ強いほどいい。
》カダフィは『緑の書』の第2章で、「所得は、人間にとって不可欠な必要である。しかるに社会主義社会では、所得とは、何びとによっても、けっして賃金や他人の施しによるものであってはならない。その理由は、社会主義社会には賃金労働者は存在せず、あらゆる人が一種の共同参加者として存在するのだからである」と断言する。
かくして、リビアの数少ない勤労者は、工業技術も管理実務能力も乏しいまま、“パートナー”として外国人技術者と同等の位置に付こうとする。現場の労働を嫌うかぎり、近代的な勤勉も技術も育たないということを忘れている。
私達にはリビアという国の情報が著しく不足している。垂れ流されるのはもっぱら宿敵ともいうべきアメリカからのテロリズムを巡る不穏な噂ばかりである。そうしたなかで、野田さんの本は、かなりリビア社会はもちろん、カダフィという人物の原像について、新鮮なイメージを与えてくれたような気がする。
結論的に言えば、やっぱりリビアという国はとんでもない国だということになるには違いない。しかし、それもまた、地中海世界の伝統、遊牧民社会の風習、帝国主義と戦わざるを得なかった後進社会ナショナリズム(インターナショナリズム)とは無縁では有り得ないというところに一種の宿命がある。まさしく、リビアという世界の異端児は、無意識のうちに異端児になりつつある日本を写し出す鏡であるのかもしれない。『緑の書』という遊牧民社会主義のバイブルのむこうに、天皇制が見える、といえば、うがちすぎだろうか。
某月某日
新日本出版社編集部『現代文学と天皇制イデオロギー』(新日本出版社、1800円)。代々木系による天皇制をめぐる反代々木的主張全面批判の論集。いわゆる「右」から「左」まで、めった切り。代表的なところでは、お馴染み江藤淳先生をはじめ三島由紀夫、松本健一、柄谷行人、吉本隆明、そして笠井潔・竹田青嗣らが俎上に乗せられている。
要するに、日本共産党は天皇制に苦しめられ、それと戦ってきたのに、おまえたちはその戦いを無視して好き放題のことを言っている、許せねえ、という被害者妄想に尽きる。こういうレベルで、どの分野でも気の弱そうな人間を見つけては恫喝して言論をふうさつしてきた。だから、彼等の言っていることも分からないではないが要するに、君達の体質のほうが俎上に乗せられている評論家たち以上に天皇制的だぞ、としかいいようがない。
天皇制をめぐる文学者の発言に対して、私もまた、さまざまな不満を感じている。政治的レベルでは彼等と、全く相いれない。要するに、天皇主義ファシストが跋扈している以上、彼等がなそうとしている所業に対しては、批判・破産させる以外にないのだ。(ところが、代々木系は党員市長がのこのこ病気見舞いに出かけるくらいで、まともな闘争を組もうともしない)。
しかし、文学者が自己の表現思想に基づいて表現した世界については、党派的・組織的批判は意味をなさない。問題は、彼等の発想を摘発することではなく、彼等の表現を力量的に超える以外にないのだ。江藤淳を反動というのはたやすい。困難はその先にある。
某月某日
道浦母都子『無援の抒情』(岩波書店、780円)。全共闘世代の作者による歌集を中心とした一種の同時代論。
迫りくる楯怯えつつ怯えつつ確かめている私の実在
内ゲバに追われ学園去りし日もわれを映しぬ雨のキャンパス
騒乱罪適用されしニュース告げ10・21夜果てしなき
炎あげ地に舞い落ちる赤旗にわが青春の落日を見る
これらの歌を読んでいると、間違いなくひとつの時代が浮かび上がってくる。しかし、ちょっとつらいな、しんどいな、という気がするのは年をとったせいか。
道浦にとって短歌とは何だったのかについて、彼女は歌によって答えている。
退敗へ虚無へと傾れゆきたきをあやうく支えしわがうたならむ
いっぽんの旗となりえぬ一行の詩がさむざむとわが裡に立つ
この二つの歌は道浦のアンビバレンツな心理をよく映し出している。歌は彼女にとって<非転向>の精神的支柱である一方、しかしどんなに歌を歌ったとしても、彼女の心は<さむざむと>満たされない。私には、こういった心情が本当は好きではない。歌は歌であることによって<自立>する以外にないのだから。歌の出来とは別に彼女の資質に不幸なものを感じた。
某月某日
立花隆『同時代を撃つPART3』(講談社、1340円)。立花さんのシリーズもいよいよ3冊目になった。相変わらず奇をてらうことなく、極めてオーソドックスな手法で状況を読み込み、俗論を粉砕している。本当にここにはひとつの良識を備えた批評がある。
》あの戦争はすべてが天皇の名において戦われたのである。天皇の名において宣戦が布告され、天皇直属の軍隊が、天皇の名において全国民を戦争に駆り立てたのである。すべての命令は天皇の名において発せられ、兵士たちは“天皇陛下万歳”を叫びながら死んでいったのである。どうして天皇に責任がないなどといえようか。
》責任ある立場の者は、問題が起これば、実質的直接的責任がなくても、責任を負わなければならない。これはこの社会における当たり前の責任原理である。天皇だけがそれを無視してよいという道理はない。
この責任原理を無視して、実質的直接責任だけしか責任を負わなくてよいということになったら、あらゆる組織において、どんな不祥事が起きても、責任を取らされるのは下っ端の現場の人間だけで、上層部の人間はいつでも責任を免れるということになってしまうだろう。
》トップの天皇が戦争責任を取らなかったために、その下にあった上層部の人々もみな戦争責任を取ろうとしなかった。トップが責任を取らなかったから、上から下まで責任問題の退廃が起きてしまったのである。
》群馬県議会や福岡県議会では、共産党議員の発言を封じるために、自民党議員が一斉に退場して流会にしてしまうなどということまで行われている。(中略)これらの行為はいかに多数決の体裁を取っていても、明白な言論の自由の侵犯であり、憲法違反の行為である。議会制民主主義の自殺である。戦争責任問題を直視しなかったことが、日本の民主主義をここまで歪めてしまったのである。
本島長崎市長の天皇戦争責任に端を発した様々な現象への立花氏のコメントである。全く“常識”的であるがいわゆる言論人がここまで理路整然と社会の歪みを含め戦争責任問題について述べただろうか。立花氏の発想は一種社会に対するエコロジカルなものであるが、その有効性を最大限に発揮している。学ぶべきところ、極めて大である。このほか、東欧激動問題を含め筆は冴えている。
某月某日
北海道大学教授・木村汎『北方領土』(時事通信社、1600円)。この先生の書くものは新聞紙上で拝見するが全く記憶に残っていなかった。本書を読んでその理由が何故なのか改めて分かった。この先生は学者というよりも政府代弁者的発言をしているからである。本書を書くにあたって、先生は「私は、北方四島の返還という日本側の要求を前提とし」たと書いている。それはやっぱり政府の立場ということだろう。
さらに「北方領土返還の三条件」として「まず、日本国民が返還への確かなる意志を持続すること、これが、第一条件である」と書いている。この妙なノリは完全に政治家だ。危ない。北方領土問題への真面目な考察よりも、中心はゴルバチョフのソ連の出方論となる。やれ、分断作戦だ、ポカースカだ、アメとムチだの、と対日作戦要警戒を、叫んじゃうんだから。どうして政治学者ってのは御用提灯持ちになる人が多いのだろうか。
某月某日
浅野健一の『過激派報道の犯罪』(三一新書、800円)。すでに「過激派に人権無し」と言われて久しい。過激派なんて概念が怪しいのに、新左翼的傾向を中心に、なんでも過激派に仕立て上げてしまうのだからマスコミはひどい。特に今日の問題点は思想弾圧であることだ。市民運動はまだ、許容されている部分があるが、このままでは本当に危ない。
某月某日
笹本駿二『ベルリンの壁 崩れる−移りゆくヨーロッパ』(岩波新書、520円)。東欧崩壊の現地からの緊急報告。ジャーナリストらしい軽い文章だがそれだけにエピソードが結構楽しめる。
例えば最高のポストにあったエーリッヒ・ホーネッカーは、外国からの賓客のため造営された“狩猟舘”を自分の別荘として公然と使っていた。ホーネッカーは十四台の高級車を持っていたそうだ。ソビエト共産党書記長として十八年間全共産主義国家に君臨したブレジネフはひどいスピード狂で、交通を禁止したモスクワのまん中を時速二○○キロで走りまわることが大きな楽しみだったそうだが、ホーネッカーもいつの間にかスピード狂になっていたのだろう。
それにしても共産党幹部の腐敗は目に余る。つまり特権が必ずしも全部否定できないとしても、アンフェアな上、度が過ぎるのだ。
某月某日
南塚信吾+宮島直機編『東欧改革』(講談社現代新書、600円)。東欧諸国の変革の進展を、それぞれの国の研究者が分析したもの。全体に状況が変化していることもあってか、物足りなさを感じる部分も多いが、各国の改革の進展を手軽に知ることができるという点では便利な本といえるだろう。いうまでもないことだが、それぞれの国は今、改めてそれぞれの国の近代を総括する必要に迫られているわけで、民族問題をはじめとした様々な矛盾が吹き出していることがよくわかる。
某月某日
串田久治の『天安門落書』(講談社現代新書、550円)。89年6月4日の天安門広場での学生と人民解放軍との衝突に至る、中国の民主化闘争のうねりを学生たちの出したビラなどを通じて生き生きとと描き出している。東大闘争のころにも「戯歌番外地」などの本がでていたように思うが、いわば大論文とは別の大衆の本音がこれらの落書きともいうべきビラにはあふれている。
》民主主義を求めるスローガンに、「民主少一点」というのがあった。これは表の意味は「民主が少し足りない」となるのだが、漢字を分解して初めてその本音を知るところに中国語独特のユーモアがある。すなわち、「民主に一点少ない」と読み、「民主」の「主」の字から「一点(、)を取って「王」と読みかえ「政府は民の王だ」と非難攻撃する言葉とするのである。
説明されれば日本人にはすぐ納得できるのだが、これは巧みな技である。類稀な記録集として残る本だ。
某月某日
山口令子『だまってられない』(文芸春秋、1350円)。オビにいわく「天安門からアグネス・チャンまで『熱血才女』の本音大放出」とある。略歴を見ると名古屋生まれ(1956年)。南山大学、米国イリノイ州立大学、上智大学大学院を経てお茶の水女子大学大学院博士課程人間文化研究科修了とある。大学にどっぷりひたって何を勉強してきたんだ。
》長い壮絶な御闘病の末、天皇陛下が、ついに崩御された。謹んで哀悼の意を表させて頂きたい。(中略)昭和天皇に戦争責任が全くないかといえば、私はあると思う。しかし、それは普通いわれているような意味ではない。陛下にも、閣僚にも、国民一人一人にも自分の行動には責任がある。それは、戦争をしてきた国の全てにあてはまることだ。
こういうのをミソもクソも一緒にする議論というのだよな。戦争責任一般と天皇のそれとは全く同列に論じられないのがどうしてわからないのだろうか。それだからこそ、右翼は必死に責任無しというわけなのに。要するに、この人は、物事のレベルというものがわからないで批評をしたつもりになっているのだ。これを私達は「床屋政談」と呼ぶ。何かの番組をおろされたことの恨みごとを書いていたが、最初から使ったのが間違いと言う気がする。
某月某日
長倉洋海の写真集『ゲリラ・7つの戦線』(未来社、2000円)。古本市で買った81年発行の長倉氏の初の写真集。ローデシアに始まり、ソマリア、パレスチナ、レバノン、アフガニスタン、ビルマ、カンボジアのゲリラたちの姿が写し出されている。これらのゲリラたちの多くは今なお闘争を継続している。彼等の立場はそれぞれちがうが、闘う以外に選択肢がないのはやはり重いものがある。戦争も現代世界のひとつの日常であることに、私は立ち向かわねばならぬ。
某月某日
落合真司の『中島みゆき観測日記』(青弓社、1545円)。「新しい中島みゆき論」をめざすという力作。個人的には、ついにファンクラブ代表が登場したという感じだ。まあ本当に熱心なことだ。大串さんという人も職業柄マニアックなところがあったようだが、この人の場合ひとつのミーハー的な部分を含めすごいエネルギーを中島みゆきに注いでいる。内容的に感心したのは、浜田省吾との比較。私も又、1976年、根室という国境の町で浜田の一枚のLPを手にしていたことを思い出した。もう人にやってしまったので、タイトルも定かでないが、「生まれたところを遠く離れて」とか、そんなものだったと思う。「路地裏の少年」の中に込められた、あの「いつかはこの国目をさます」「ああさよならの意味さえも知らないで」という詩と、ジャケットに書かれていた落書き「首都占拠」の言葉?を見ながら、この浜田という奴もかなしい男だなあと思っていた。ついでながらその頃に、S氏から機関誌廃刊の案内が舞い込んだのではなかったろうか。それから「最後の場所」が出たり、解体再生委員会があったり、「乾坤」がでたり、めちゃくちゃになって。そに一方で「週刊ピーナッツ」なんてタブロイド新聞が出ていた。そして根室では一軒の書店にしかおいてなかったあの「情況」もジエンド。かわって「流動」が全共闘世代の書き手を集め、ひとり気を吐いていた。
中島みゆきと浜田省吾を結ぶといわれ、ふとそんな時代のドラマを思い起こされてしまった。「新しい中島みゆき論」かどうかは留保するが、確かにこの人には新しい何かがある。
某月某日
小川太郎『路地裏の怪人』(彌生書房、2060円)。福島泰樹のやっている「月光」叢書第1弾の歌集。いささか過去にとらわれセンチメンタルなれどなかなかによい。
屋上園寝ころべば空あるばかりあゝ死は誰の死もみな客死
寺山修司が蒐め遺せし幾百の消しゴムよ、起きてわが退路消せ
この路地にも幾世代かがありまして、街はいずこも誰かの死後の街
悔いのごとく煙草燻らせ路地裏の中年「さよならの意味」だけは知り
怪人二十面相も老い路地裏に棲みて皺持つ貌晒すのみ
某月某日
松岡祥男『アジアの終焉』(大和書房、2000円)。
》ヘーゲルやマルクスのいう<アジア的>という概念が、現在の高度資本主義に対する否定と止揚の原理たりえないのではないかという深い疑念はつらいものである。それはわが列島が東アジアに位置しているからではない。そのアジア的な地勢と習俗の中ではぐくまれてきたからだ。農耕を基底とする社会に内在した停滞性も自足性も、資本主義の発達と展開によって実質的にのみ込まれていった。また、その意識形態や心情もなしくずし的にすたれゆく命運にあるといえる。アジアの終焉。そこから出立する。
「意識としてのアジア」に続く情況論集。啓発されるところ相変わらず大。それにしても、松岡君のケンカ好きがよくわかる。もっとも吉本隆明同様、彼も自分からケンカを売ったわけじゃないと、いいそうだが。「闘争のエチカ」巡る空騒ぎ批判が圧巻だ。
某月某日
筒井康隆『短編小説講義』(岩波新書、520円)。パロディーが真面目な啓蒙になってしまいつつあるところに筒井さんのジレンマがあるかと思ったがこの本に限っては、真面目な短編小説論になっている。筒井さんは短編小説の芸道化・お稽古ごと化傾向を徹底的に挑発してみせる。ソシテ結論に言う。
》短編小説の傑作が生まれる過程は、この本でとりあげた作家たちが示してくれている。彼らは自己の短編小説作法としての内在律から抜け出そうとした。あるいは偶然に抜け出た。またある作家は逆に、自己に独特の過大な拘束を課した。短編小説作法などというも のなどはない、というのがぼくの主張であるが、この作家たちのこうした姿勢やその結果にだけは学んだ方がいい。いや。学ぶべきはまさにそこなのだ。短編小説を書こうとするとき、短編小説を書こうとする者は、自分の中に浸みこんでいる古臭い、常識的な作法をむしろ意識的に捨てなければならない。
現代のカルチャーセンター作家大流行の情況への痛烈な毒を持った指摘であろう。
某月某日
筒井康隆の『文学部唯野教授のサブ・テキスト』(文芸春秋、850円)。ついに「文学部唯野教授」は実在の人物となってしまった。いうまでもなくワルノリだよなあ。ちなみにインタビューによれば唯野教授は「1954年4月20日生まれの、只今36歳の牡牛座で、血液型はB型。出身は東京都、生まれた家は江東区木場の、州崎神社やら電線工場のあるあの近く。小学校卒業前に墨田区亀沢に引っ越して、日大一中、日大一高に通って、いじめられた友達の多い日大を避けて早治大学文学部に入学」というのが、略歴だそうだ。思わず俺も笑っちゃった。なかなかだね、この嘘。小生も東京では、江東区平野という門前仲町と木場の中間あたりに1年半、墨田区吾妻橋に2年間住んでいた。清澄通りを吾妻橋から門前仲町にむかって進むと、日大高校やらが並ぶ一帯を抜けていく。あの墨田川の川向こう地区の独特のムードは、中央線や世田谷方面に住んでいる人にはちょっとわからないだろうなと思う。そんな墨東地区で過ごした唯野先生が、文学理論の総批判をやるとともに、ひそかに小説を書いているというあたりが、いかにもシュールで面白い。唯野教授の続編は筒井さんはあまり書きたくないようだが、きっとサービス精神旺盛な筒井さんと唯野教授のことだから、やってくれそうで、楽しみではある。
某月某日
上條英男『くたばれ芸能界』(データハウス、980円)。
》私は上條英男。西城秀樹、館ひろしをはじめとして多くのスターを育てあげてきた芸能界のうらを生きる一匹狼である。私は芸能界を誰よりも愛している。
そう自負する男の芸能界の暴露本。芸能界の性的に野放図な部分を含めて、そこそこに偽りのないと思わせるエピソードが生々しく綴られている。結論。この人はやっぱり心根がヤクザだね。一種の閉鎖的な対幻想に縛られないと、スターとマネージャーはなりたたないと、いいたげである。そういうレベルでスターという虚像を売り出す手法は古いしどう好意的にみても義理とか人情とか、恩とか裏切りとかがついてまわる。こういうアジアに対して私は飽き飽きしている。
某月某日
『情況』(情況出版、980円)。第2期第2号(8月号)。特集は「ジャパン〜この怪奇なるシステム」。資本主義分析の方法として「レギユラシオン理論」なるものが注目されているそうだ。各論文を読んでみても、どうも今一つのみこめない。ただ戦後資本主義分析に関連して「フォード主義」「テーラー主義」などの言葉が頻繁に出てくる。私としては、その辺の問題についてはかつて20年ほど前に哲学者の内山節さんが「労働過程」の分析の中で、その問題をとりあげていたように思う。内山さんにはやや畑違いの部分もあるかもしれないが私達に少し整理して教えてくれるとありがたい。
今号の執筆者の中には、あの平田清明先生もいるが、四トロ系の全共闘理論家・塩川喜信さんが、じっくりと農業問題を展開している。妙な力みもなく、同時に農業の実態に迫っており、好感を覚えた。ただ、全体的にはまだ、かつての「情況」のエネルギーレベルには達しておらず、いささかニュー・アカっぽいのが気になった。
某月某日
天皇制問題から目を離さず地道な批判活動を続けてきた天野恵一氏の『マスコミじかけの天皇制』(インパクト出版会、2987円)。テロの温床となる天皇「神聖化」と天皇タブーのムードを全国的に組織しぬいたのがマスコミであり、また本島発言をひたすらクローズアップしたのもマスコミである。その意味でこのテロリズムは「マスコミじかけ」のものであると考えるしかない。
》マスコミじかけのテロリズム。今、自由と民主主義の守りてという正義の見方づらしてマスコミは自分たちも被害者のごとき言説を日々生産し続けている。しかし、テロリストの銃に弾をこめさせたのはマスコミの皇室報道であったことを忘れるわけにはいかないのだ。
なんとも反論しようもないのが辛い。今回の昭和天皇の死で私も手を汚した事は間違いない。
某月某日
埴谷雄高・北杜夫の対談集『難解人間VS躁鬱人間』(中央公論社、1300円)。老人性痴呆症を装う埴谷雄高と北杜夫の躁鬱性饒舌による稀に見る常識を越えた大対談。両者の恐るべき博学ぶりがよくわかるが、それにしてもこの種の病気になると人間は疲れないものだなあと、妙に感心する。内容は後半に入って、「死霊」論となるが、前半は思いつくまま気の向くままの放談が続いていく。そんな中で、私の心に残ったのは次の様な部分だ。
》埴谷 理論倒れということは創作の場合は必ずあるわけだから頭がよすぎてはだめだということは確かにある。君のいうように、小説家は少し馬鹿なところがある。評論家はちょっと利口なとこかなくちゃだめですけれどね。
北 評論家は馬鹿だと、これは困りますよ。しかし悲しいかな、日本の評論家の半分以上は馬鹿みたいですね。それは、人間だけが持っているユーモアを分からないことですよ。ケストナーはあるエッセーの中でドイツ近代文学は生真面目になり過ぎて、笑いを忘れてしまっていることを指摘して、ドイツ文学に残された我々の傑作を掲げるために、たくさんの指は不要である。たった十本あれば足りると書いているんです。
それよりも重要なことは、そのことよりも、彼はユーモアの欠如が、笑い抜きの生真面目過ぎる精神が、プロシャとかナチの軍国主義をつくったんだと推論しているんです。つまり、日本では江戸時代の大らかなユーモアが強兵富国の政策によって弾圧されたと思っているけど、ケストナーは笑いの欠如が軍国主義をつくったと、この指摘は 僕は実に鋭いと思うんですけどいかがでしょうか。
早い話、小説も批評も難しいということか。
某月某日
吉永良正の『ウイルスが「人間」を支配する』(光文社、750円)。
》半人前の生きもののくせに、この無節操を徹底させているのがウイルスである。徹底させると、無節操もそれなりに筋金入りになるそこが怖い。つまり、戦争も環境汚染も、結局は人間自身が生み出した問題なのだから、人間が「心を入れかえ」て出直すなら、問題が霧消することだってありうる。少なくともその希望はある。ところがウイルスは、そんな人間の主観的な思惑からは隔絶されたところにいるエイリアンなのである。だからウイルスはVだ。VはウイルスVIRUSのVである。極論するなら、この戦争機械の侵攻をくいとめることができるか否かに、あなたの、そして人間の未来がかかっている。
ウイルスを「風林火山」に喩えて、わかりやすくその秘密を説いて見せるユニークな読み物。それにしても子供のころビールスと習ったウイルスは随分凄い「生きもの」である。にわかにエイズによって、一世を風靡した感じがあるが、それよりも早くから人間の「ミクロの決死圈」で遺伝を含め関わってきたのである。しかも、「人間」が勝てる見込みは極めて少ないというのだからどうしょうもない。困ったものだ。
某月某日
ヴァルター・ヤンカの『沈黙は嘘』(平凡社、1980円)。サブタイトルに「暴露された東独スターリン主義」とあるように、ルカーチを東ドイツに連れ出そうとし、ウルブリヒトの社会主義統一党を破壊しようとしたとして国家反逆罪にされた知識人ヤンカの告発の書。
》いつの時代にも国家の不正に反対した作家がいる。
これがかれらを偉大にした。かれらがそのために犠牲を払った場合はなおさらそうである。ヒトラー・ファシズムの時代にはベッヒャー(東ドイツを代表する詩人)もそう自負することができた。しかしむろんただファシズムに対して反対の態度をとったというだけである。かれはスターリンのテロルに対しては一度も公然と反対したことない。個人的にかれがよく知っているインテリたち 流刑され、銃殺されたときも、かれは沈黙していた。ナチ時代に体制に順応し、テロルに目と耳を塞いでいた人びとを、かれはその著書の中で容赦なく攻撃した。これはベッヒャーのすぐれた功績である。しかしかれは、みずからが不正に立ち向かうことのできる権力をもつようになってからは、さまざまなちがいがあるとはいえ、同じことを、いやいっそうひどいことをした。かれは第20回党大会の後でも、不法を、何の抵抗もしないまま、受け容れた。
進歩的文化人概念の崩壊。私達は何度も何度もファシズムと帝国主義を批判してきた。そのように、スターリニズムに対して「人間的主体」の復権を求め批判を続けなければならない。
某月某日
佐野真一『紙の中の黙示録 3行広告は語る』(文芸春秋、1300円)。新聞の片隅に載っている案内広告。このもっとも小さな広告の背後にどんなドラマがあるか。募集広告から尋ね人広告、さらには死亡広告、電柱の広告などをたどりながら、著者は時代と社会の「現実」を描き出して見せる。この著者がただものでないのは次のような外国人労働者と釜ケ崎を扱った文章によく示されている。
》それは、終夜煌々と明りのともるコンビニエンスストアーのすぐ裏に、アジア人労働者が集団で住みつく朽ちかけた木造アパートの連なる風景でもあれば皮革工場がひしめく街にたった一軒だけあるうす暗い飲み屋でくたびれかかったおかみが呟いた、「外人はまだいいわよ。金を稼ぐんだという、はっきりした目的をもっているし、国に帰りゃ結婚もできる。ここで働いている日本人は誰にも相手にされず、四十になっても五十になっても、嫁さんの来手がないんだからね」という言葉でもある。
「外国人も可」という3行広告。その裏側には、忘れられたいやわれわれが見てみぬふりをしてきた日本人のうめき声がひっそりと埋葬されている。
この街には新聞の3行広告は不要である。求人・求職の情報は紙の中ではなく、巷の隅々にあふれ返っているからである。ここでは、地下たびにニッカボッカ姿の労働者が求職情報そのものであり、業者差し回しのマイクロバスが求人情報そのものである。いや、この街全体が路上の3行広告ともいうべき性格を帯びている。市場があれば国家はいらないとはよくいわれるが、この街をうろついていると、市場があればメディアはいらないという言葉さえ浮かんでくる。
こういう物の見方はひとつまちがえば、スターリニズムに密通しかねないものではあるが、著者の冷静な視点が状況を鮮やかに映し出している。私達の国は、今、アジア的状況をとんでもない浮力をつけながら脱しようとしている。
某月某日
野田壽雄『生くるなり−思い出の記録−』(創造書房、2500円)。人によっては評価がわかれるだろうが、野田壽雄氏は、私の卒業した北海道大学文学部文学科国語国文学専攻課程の主任教授だった人である。私はこの大学にほとんど愛着を持っていないし、入学式も卒業式も無縁。最後は追われるように卒業しただけであるから、心のどこかでは「大学解体」のスローガンがいまも張りついている。そうした中で、野田先生に関してだけは、個人的なものではあるが、極めて恩を感じている。活動家くずれという他人の冷ややかな視線を浴びながら、研究室の隅で書き上げたやけくその卒業論文を、ただひとりほめてくれたのは野田先生であった。そして就職の際に、無理矢理、自宅に押しかけて保証人にもなってもらった。私の勝手なふるまいを、余裕をもってみられていた。常識人でしかなかった亀井秀雄やその他の教授とは、格が違うものがあった。
今回、先生の自伝を読んで、その人間の大きさのよってきたるところが、わかったような気がする。早くに両親を亡くし祖父母に育てられ「家族制度は親の敵である」と呟きながら、さまざまな学校の教師を転々とし、北海道に流れつき、そこで近世文学をやるという姿は悲壮ですらある。波乱万丈の人生から印象深いエピソードをひとつだけ抜き出しておこう。
》昭和十九年七月にサイパン島が米軍の手に落ち、十一月からはサイパン島から飛来する米軍機が多くなった。川崎の「味の素」工場も、絶好の攻撃目標になっていた。空襲警報のサイレンが鳴るたびに、何度防空壕に身をひそめたか知れない。学生の疲労も甚しかった。気の毒だった。私の「演習」参加の学生も、つぎつぎに徴兵された。私は「日の丸」に書くことが無いので、スピノザの「神に対する知的愛は永遠である」と書いた。君が学問を愛したということは君が死んでも永遠に残ることなんだよという意味をこめた。
見方によっては随分残酷な態度ではある。しかし、その時勢にとらわれない姿こそ野田先生らしいものであったろう。
某月某日
猪木正道『歴史の黒白』(NESCO、1350円)。「共産主義の系譜」で知られる筋金入りの反共産主義者の言わば、総括の書。サブタイトルに「これだけははっきり言っておく」とあるが、ソ連・東欧の崩壊という現実を前にした一種の勝利宣言。しかし、結論は甘すぎる!
》この大変化をべつの表現でいえば、ソ連植民帝国の崩壊であり、米ソ冷戦でアメリカが完勝してソ連が完敗した、ということになる。二十一世紀には、ソ連帝国の脅威も、共産主義の挑戦も過去のものになっているだろう。
某月某日
仕事が忙しくて毎日ボーツとしている。しかも目が見えない。持病ともいうべき眼精疲労である。これが出てくると、自律神経の調子が悪くなる前兆である。おかげで、身体をいたわるので、まともに本を読める状態ではない。それでも少し休みがとれたのを機に本を広げてみる。
島田荘司の『御手洗潔のダンス』(講談社、1300円)。小生のお気に入りの作家のおなじみの推理小説シリーズの1冊である。内容は「山高帽のイカロス」「ある騎士の物語」「舞踏病」「近況報告」の4編。例によって奇想天外なトリックが繰り広げられ、名探偵・御手洗潔がそのなぞを解いていく。
島田は華麗なトリックが持ち味の作家だが、私の見るところでは一種の社会性のようなものも近年目だっているように思われる。今回の作品集には私の好きな浅草の街も舞台に描かれており、いささか懐かしくもあった。
「近況報告」を除けば、トリックの壮大さでは「山高帽のイカロス」が一番だろうが、社会性では「舞踏病」人間凝視では「ある騎士の物語」というような傾向に分かれるだろう。「ある騎士の物語」は、いわば随所に伏線が引かれてあり、ちょっと注意して読めばナゾはとける。しかも登場人物たちも又、そのナゾを解いていながら、15年もの間黙っていたのである。それゆえ、御手洗は騎士たちを操った女王について、次の様に述べる。
》「君も憶えておきたまえ。ある種の自信家の女性というのは、自分の周囲にいる男のうち、どれが一番優秀かを常に気にかけているものなんだよ。そしてこれを自分のものにするか、もしそうできず、他の女性にとられそうなケースでは集中砲火で撃沈してやろうと考えているものなのさ」
ふーむ。思い当るところが多いわい。ついでながら、推理小説を読む基本について「山高帽のイカロス」で次のように述べている。
》「だが僕らはもう充分材料を得ているはずなんだ。赤松稲平には会えなかったが、その奥さんには会った。彼らの人となりも一応知っている。浅草花川戸の現場も見た。すでに知っている事実を組み合わせれば、このパズルはきちんと解けるはずなんだ。何でもないと勘違いして、うっかり見落としている重大事実があるはずなんだ。それは何か。一見ごくありきたりの事実に見えるが、とんでもない。この事件に限った、それは非常に特殊な条件であるはずなんだ。でなければ、こんな特徴的なアウトプットとして現れるはずもない」
ごもっとも。しかし、私達には不幸にしてそのナゾがなかなか解けないのだ。作者に負けまいと思っても敵もなかなかしぶとい。そこが推理小説を読む楽しさでもあるのだが。
某月某日
島田雅彦『ロココ町』(集英社、1200円)。島田という男のいやらしさがキライで処女作以来ほとんど、小説の対象として読んでこなかった。最近、論はともかく、純文学の実験(冒険)に関心を集中させていることもあって、ついつい読んでしまった。ストーリーはともかく、モチーフはオビに引用された一節に言い尽くされている。
》ロココ町を調査しようなどと考えるべきではない。好奇心を振り回しながら見る前に跳ぶような人々にぼくは忠告する 。ロココ町の尻尾をつかんだと思った瞬間、諸君は自分の鼻の頭を握っているだろう。ロココ町は自ら尻尾を切って逃げるトカゲよりすばしこく、スフィンクスより意地の悪い謎をかける。楽しみながら発狂するように仕向けてくれる。この超遊園地都市はそれ自体が麻薬なのだ。調査を続けるうちにその人は当初の目的を見失うだろう。常識などロココ町の前ではガラスのよろいに過ぎない。割れたよろいの破片で自ら傷つくのがオチだ。
ところで「ロココ町」とは何なのか。
》「もし、東京が今あるような都市でなかったら、ロココ町のようになっていたかも知れない。そう、ロココ町は東京の陰画であり、虚像であり−−」
「東京の可能世界でもあるといいたいんですね」
「その通り。無数にあり得た東京の可能世界の一つがロココ町というわけです」
なるほど。ここには遺伝子操作など近年の生化学的表現もあるが、言っていることは要するに、つまりは《超近代》の入口にある東京という「遊園地都市」をネガティブなあるいは時間をそらした地点から捉え直し、一種の批判を加えるということだ。作品的に成功しているかどうかでいえば、今一つだ。ただ、主人公を含め、人々が自分のアイデンティティーを失い、それからズレようとしていること、同時に迷子状態でさまよっている感じだけはよく分かる。それだけでも成功かもしれない。
某月某日
井尻千男『消費文化の幻想』(PHP研究所、1300円)。よくわからないが、きっと現代消費文化社会を分析している本だろうと思って読んでみた。まあ、それなりに面白いところもあるが、結局、現在の高度大衆社会状況に反発して、「オーソドックス」なものの価値こそ一番だと叫ぶ保守主義者の哀れな姿が浮かんできただけであった。
ちなみに著者は立教大卒の日本経済新聞社文化部編集委員で、日本文化会議会員だそうだ。この手の人達の親分とは、いうまでもなく、小林秀雄であることはいうまでもない。著者も又、なんだかんだ言いながら、小林秀雄あたりが言いそうな美意識論をもって、時代に斜に構えて見せる。つまらないことだ。
》私はむしろ、資産階級は、消費においてもノーブレス・オブリージュ(高貴なる義務)があることを強調しておきたい。彼らには、歴史的美意識と技術と知恵が蓄積されている伝統工芸品を買い支える義務があるのであって、そういう階層の人がバーゲンセールの安物などを買いあさっているとしたら、それこそ「文化に対する罪」なのだとあえて言っておきたい。(中略)
消費文化の豊かさと成熟のためには、美意識も問わねばならぬし、伝統論も正統論も歴史意識も議論しなければならないだろう。消費をめぐる若者たちの新奇な風俗を拾い集めてみたところで、さしたる意味があるとは思えない。伝統ばかりを強調するつもりはないが、消費生活は観念よりもはるかに保守的なものなのである。(「新・文化防衛論」)
全くしょうがない。「民主主義より封建主義」と言わない代わりに、「貴族主義」を持ち出して、価値意識の特権性を誇示したいだけなのだ。俺もまた、大衆社会に違和感を持っているがその状況から逃げ出そうとは思わないだろう。これは大衆追随主義か? しかり。しかし、俺たちはその渦中から出立するという初心を失いたくないと思っている。
某月某日
東欧諸国の歴史的崩壊が続いているというのに、相も変わらずマルクス主義者という種類の人達はこの国では他人ごとのように元気に脳天気なことをわめきちらしている。あっ。そのう廣松渉先生のことを言うつもりじゃなかったのにまずい前置きになっちゃったなあ。廣松先生の本は2冊ほど買ってきたのだけれど、安易な道を走っている私は当然、新書のほうから読んでしまった。廣松渉『今こそマルクスを読み返す』(講談社現代新書、600円)。まず結論。廣松先生はやはり文献学者でしかない。ダメ。
本書の序章ともいうべき「今なぜ読み返しなのか」で先生はマルクス・エンゲルスの思想は「正統派」(要するにスターリニスト)によって、バイヤスが掛けられている、改竄されている、ということを力説しています。しかし、そんなことを一般大衆である我々にいわれても困るわけですよ。我々にはバイヤスがかかろうとかかるまいと、そこにある文献以外にマルクスの思想はないし運動もないわけですよ。別にその文献が歪曲されていたからといって、マルクスはだめだ、と全否定するはずがないでしょう。だって、かつての全共闘運動の頃は、別にマルクスがいいとか悪いとかのレベルで代々木批判をやったわけじゃないんであって彼等が現実の運動をおとしめる、敵対者であったから、粉砕・解体すべきと思ったわけです。別に文献からスタートしたわけじゃない。ところが、この先生は、そういう大衆運動のダイナミズムというのが、全くわかっていない。ちなみに東欧崩壊について先生は書いています。
》ソ連や東欧における“経済的不合理性”の由って来たところについてはここでは関説しません。が、私は、それをマルクスの名において“弁護”する存念は毛頭ないこと、それに対してはまさにマルクスの名において批判する者であること、この旨だけ一言しておきます。
つまらないなあ。俺はソ連や東欧が「歪曲されたマルクス主義」であったかどうかなどどうでもいいや。問題は、彼等の収容所国家が大衆を抑圧し続けてきたことによって、批判されねばならぬし、それゆえに打倒・解体されたのだ、ということに積極的意味を見出す。廣松先生のような文献学者の「マルクスの名による批判」とやらを是非、東欧諸国の大衆に聞かせてやって欲しいと思う。こんな日本ではなく、歴史的転換点の現場で「マルクスの思想」とやらを鍛えて、「本物」のすごさをみせてきてもらいたいものだ。ここが、ロドゥスだ、跳べ!
ところで、廣松先生によると、マルクスは、エコロジストだったらしい(同書64ページ)。本当かね、などと先生に聞くのは失礼だろうが、俺は笑ったとだけ言っておこう。
某月某日
西丸震也さんの『41歳寿命説』(情報センター出版局、910円)。サブタイトルに「死神が快楽社会を抱きしめ出した」とあって、いささかショッキングというべきか。もっとも、現代社会が超高齢化社会の到来を強調し、制度的な危機感をあおる政府中央の意向に反して、庶民の実感においては、自分はどうみても長生きなどできる安定した生活をしていないだけに41歳寿命というのは、いささかオーバーにしても余り長寿など考えられなくなっていることは間違いない。その第一は環境の激変であり、第二は食生活の奇形化、第三はストレス労働の増大、というのが私の実感である。
ところで、西丸先生においても短命化の原因について食べ物と身体、環境と身体を挙げられている。
》動物にとって、飢えるということは非常につらいことなので、できるだけで逃れたいのだが、飢えはあっという間にやってくる。一度エサが不足すると、飢えを満たすことはきわめて困難だ。だが、こってり飢えると弱い個体から死んでしまってバランスが保たれる。そこで、常時、ある程度飢えているのが、この自然の摂理というわけだ。(中略)
飢えに適した生理機構・体質を持たない者は生き残れなかった。だから、食いものが余っている、たらふく食える、そんな「食」の時代というのは人間の生理機構に適合していない。飽食の時代とは、体質に合わないことを一時的にやっているということだ。体に合わないことをやるのは、生きるのに悪い条件・環境だということになる。
いささかうさんくさいが、こうした当りが西丸理論の特徴かもしれない。
某月某日
アントニオ猪木『闘魂記』(集英社、1200円)。レスラーから政治家に転進した猪木の一種のリングへの遺書と読んだ。話がいささかまとまりに欠けるのが困るが、猪木の真意はそれなりに伝わってくる。彼の北方領土論、差別論など展開は不十分だが、凡百の政治家を上回るポリシーがある。
某月某日 内山節の『山里紀行−山里の釣りから 』(日本経済評論社、1648円)を読む。内山さんから贈っていただいていたのだが、そのままにしてあった本の一冊だ。同じ先進国でありながら、ヨーロッパの村には「過疎化」ということがないことをこの本は教えてくれる。
》先進国日本では、山村の生活ひとつ満足に維持することができない。そして片方では経済的には二流に転落しながらも、豊かで過疎のない山村を守っている国がある。
私たちの先進国イメージはどこかで間違っていたような気がする。都市の産業の発展を追いかけつづけた
私たちは、結果としては人工的に物をつくりだせるようになることをめざしつづけてしまったのである。それは自然とともに生きる人間の営みの貴重さを見失わせることになった。自然に密着しながら、自然のもつ生命力を活用しながら生きることがまるで前近代的なものであるかのように軽視されるようになった。そんなものより近代科学を駆使して、工場のなかで人工的につくられてくるものの方が貴重だ、と思うようになった。
こうした指摘はそれほど独自なものとは言えないにしろ、ヨーロッパの村を通じて感得したものの一種の迫力がある。内山さんの考えのバックグランドには、近代総体の見直しと、具体的には労働存在としての人間観の転換があることは間違いない。
そんなことを思いつつもう一冊の『続・哲学の冒険』(毎日新聞社、1300円)を読む。主体性論、実存主義を超えて内山青年のめざした哲学の冒険が内省的に語られている。
》僕たちは人間の存在のあり方をつまらないものだと思っている。だからそれを超える新しい人間の存在を発見したいと思っている。でも、そのつまらない人間の存在は、どうして生まれたのだろう。近代社会の形成によってだ。資本主義をエネルギーとした市民社会の形成によって。だとすると近代市民社会の成果と高度な生産力という成果を受けつぐ社会とは、この矛盾だらけの人間の存在をも継承してしまうことになるのではないだろうか。もしそうなら、社会主義もまた、人間の存在もまた人間の存在という視点からみれば社会主義的な変化をとげた近代市民ということになってしまって、近代的な人間存在から根本的に人間を解放する社会ではないということになる。
僕は近代社会のもとでの人間の存在を克服するにはふたつの道があるのではないかと思うようになった。
ひとつは近代社会をこわしながら新しい人間の存在をつくりだそうとする道だ。前者を超近代への道と呼べば、後者は脱近代への道と呼ぶことができるような気がする。もしこんなふうに分ければ、僕は明らかに脱近代の道を選ぶ。
私自身はもっと若い頃は反近代だった。現在はどちらかと言えば現段階の生産諸力を継承しなければやはりダメだろうと考えているので、内山さん流に言えば、超近代(私自身はこういう言い方を好まないが)。いずれにしろ、みんながよほど鈍感な人でないかぎり同じスタートラインにいる。あとはどうするかだ。
ちなみにあとがきの一番最後に「毎日新聞社刊行の私の著書の校に終始協力して頂いた『らくだ編集事務所』の勝平隆一氏に深甚なる謝意を表しておきたい」のくだりがあり、あの勝平さんが、思わぬところで活躍されていたことを知り、うれしかった。
某月某日
島田荘司の『異邦の騎士』(講談社ノベルス、720円)。おなじみの名探偵・御手洗潔の最初の事件。記憶を失った男がひそかに書かれたシナリオに従い自らを殺人者に追い込んでいく物語。男を殺人へとかりたてていく道具として残されていた日記が登場してくるのだが、その部分がいささか冗漫に感じた。
さて、ここで記憶喪失男を演じるのが、だれあろう石岡和己君であることが最後に明らかにされるのだ。いうまでもなく、島田の御手洗探偵シリーズのかたりべ、ホームズでいえばワトソン君その人である。謎に包まれた2人の結び付きがここでようやく明らかにされたというわけだ。
》僕はいつも思うんだ。クイズは、作るより解くほうが何倍もやさしいんだ。作るよりも、解く方が才能を要するなんてパズルはあり得ない。もしあったとすれば、それは偶然の産物、大いに偶然が手助けしているはずだ。だからね、古今東西、巧妙な犯罪や事件に真の芸術家がいるとすれば、それはホームズやポアロなんてやからじゃなく、その犯罪を計画し、実行した勇気ある犯人たちだよ。
さりげない一節だが、いかにも自信家らしい島田荘司の文章である。次作も期待大だ。
某月某日
川村湊『異郷の昭和文学−「満州」と近代日本−』(岩波新書、550円)。正直に言って湊さんの評論はこれまで、古典論にしろ韓国論にしろ、どこかわかりにくいところがあった。こちらの勉強不足を別とすれば、彼の言いたい「鏡」の部分がよく見えてこなかった。今回の植民地文学論で、新書という性格もあろうが大変わかりやすく「世界」というものを語って見せてくれたような気がする。
》日本人にとっては、敗戦によって植民地としての大連を奪い返されることによって、初めて大連という町が、「ロシア」と「日本」と「中国」という三つの文化的要素と民族と風土とが結びついた場所であり、その重層化した都市の成り立ちにこそ「大連」の大連たるゆえんがあることに気がついたといってよいのである。(中略)
そこではいつも、どれかの要素が欠けているのであり、それは基本的には、彼らが二つのものの対立、「自分」である日本と、それに対峙する他者としての「西欧」や「中国」や「近代」を見ているからといえるだろう。おそらく、そこに私たちが「植民地都市」の問題をとらえあぐねたきた一つの原因がある。
東京勤務時代、中国残留孤児の取材を随分した。私なりにはこの問題に対する原則的立場はあったものの、実際の人間関係として彼等の存在を見ることは大変辛かった。飛躍した比喩になるかもしれないが、私達は「昭和文学」なかんずく「植民地文学」に対して、そのような冷静さと痛みを覚えつつ見ることができるかが問われているような気がした。
某月某日
辻仁成の『クラウディ』(集英社、880円)。すばる文学賞の受賞第1作とか。オビの「1976年、秋。ぼくの亡命劇は始まった。」というコピーにひかれた。
》不覚にも僕は今年、30歳を迎えようとしている。
死を決意し、高校の屋上の高いフェンスによじ登った、16歳のあの瞬間には、都会の片隅で、連夜嘔吐しているこの無様な今の自分の姿を、想像することは到底できなかっただろう。1976年、9月6日のあの瞬間、眼下に広がる俯瞰の函館の市街を、僕は2つの網膜に焼き付けようとしていた。
道立函館西高校出身という作者について私は何も知らない。しかし、この小説は青春小説としては大変優れた部分を持っていることだけは間違いないように思った。存在の不快があり、そこからどう脱出するかは、青年の永遠の課題だ。主人公は生命を捨てる代わりに、運命のように遭遇したミグに乗ったベレンコ中尉の亡命劇の中に自分の青春の彷徨を始める。物語の終幕に向かってのスピード感も素晴らしい。若干の通俗性と甘さを除けば力量ただならぬものを感じた。
某月某日
浅羽通明『ニセ学生マニュアル 死闘編』(徳間書店、1200円)。この人は秀才であり、どうやら呉智英の友達らしいことはわかった。異色の思想書というべき内容が随所に指摘されている。個人的には、私もまた、全く別の視点から大塚英志の現代民俗学を批判的にみているが、この人の一種のシニカルな眼にも大塚がうさんくさくみえているようだ。
某月某日
荒川洋治『詩論のバリエーション』(学芸書林、1800円)。荒川のジャーナリスティックな感覚と詩人としての本質的な鋭さが伝わってくる。有名な「IQ高官」の言葉に触れ、彼等に対して「庶民」やら「地方」を持ち出せば、なんとかなると考えている人達の甘さを批判している。全くだ。地方には、中央以上に中央」的な権力主義者がなんと沢山いることか。
某月某日
『飛龍伝90 殺戮の秋』(白水社、900円)それに『娘に語る祖国』(光文社、850円)。本日は、つかこうへい2本立て興行。前者は「初級革命講座−飛龍伝」の新版というところか。あの熱い街頭闘争の日々をあの素晴らしい愛をもう一度か。でもどうかね。オリジナルの方が皮肉もきいていて面白さでは段違いじゃなかったかなあ。
こだわりっていうのがあるじゃない。それが、今度のではどこか甘いんだよ。いいや。やっぱし時代が転回しちゃってるんだから、もう、ノスタルジーでくすぐってふざけるんじゃねえ、と落とし前つけようとしても浮いてしまうんじゃないかしら。だから失敗。
もうひとつの「娘よ」の方は、よくできた物語です。しかし、素直に読むべきか、今までの路線から見れば、ずるいね。切実だけに考えたんだろうが、疑問残る。
某月某日
小室直樹『アラブの逆襲』(カツパブックス、770円)。博識の小室先生による湾岸危機論。小室先生、さすがに西側同盟の立場などという御用評論家とはレベルが違います。パレスチナ問題とクウェートの特権天国ぶりを見事にリンクさせ、その上でイスラムとキリスト教の比較をしイスラム思想の柔軟性を見事に指摘しています。しかも、アメリカはフセインの行動を事前に予知していながら、イランで失ったアラブ圏での軍事的影響力をサウジに展開することを目論見ながら、フセインの見事な戦略の前に、失敗を余儀なくされたことも指摘しています。勿論、例によって、トンチンカンなところも少なくないのですが、まあその辺は笑って済ませたい気持ちです。勉強になったのは、ウソかもしれませんが、イスラム教の思想です。
》イスラム教における聖戦の思想。これ、実は、侵略の思想ではない。宗教の自由の宣言なのである。
イスラム教では、イスラムの主権が確立されたイスラム圏とそうでない戦争圏とに、世界を2分する。そして、イスラム圏から戦争圏へと戦争をしかけてゆく。
理念上はそのとおりなのだが実際には、それほどシビアなものではない。イスラム圏と戦争圏との中間(ダール・ツ・スリフ)に平和圏なるものを設立して、聖戦の休戦ということも考えられる。
これはほんの一例だが、イスラム教においては、とにかく、例外を重んずる。イスラム教におけるルールは、キリスト教や仏教などとはたいへんちがって厳重このうえない。それであればこそ、いかに巧妙に例外を作るか。例外の作りかたこそ肝要になってくる。
このことは、イスラム教理解のための急所のひとつである。
なあるほどね。いいたかないが、キリスト教ってのは病的というか異端者に対して、ファナチックなところがあるでしょ。歴史的にあの人達は虐殺者集団の系譜にあるわけで、私はスターリン主義者と野合して、平和憲法守れとか、言っている人達にも、まず自己規定してもらってからでないと、信用してません。それに引き換え、イスラム教の寛大さというのは驚きます。あのキリスト教のマイナーな一派、「コプト教」が生き延びれたのもイスラム圏のエチオピアに避難したからというのですから、説得力あります。
某月某日
鹿島昇さんの『日本神道の謎』(光文社、700円)。鹿島さんという人は、ちょっと危ないけれどそこが面白い。正統の歴史論もいいけれど、故事つけながら大風呂敷を広げるのも楽しい。ここでは日本の神道はたどれば、古代オリエントまでいってしまい、それゆえ、世界教であると力説する。
》神道土着説と外来説をたとえてみると、梅干しとらっきょうになる。神道から外来宗教の部分をとり去っていくと、縄文信仰という核が残るというのが、“神道梅干し説”である。一つ一つ、外来宗教をとり去っていったら、結局、何も残らないという考え方が“神道らっきょう説”である。ところで、神道らっきょう説は、日本神道をひぼうするものではなく、むしろその雄大さ、根深さを立証するものである。
スサノオがバアル(=オリエントの神)でありヤハウェもバアルであるならば、神道は世界教ではないだろうか。神道を日本列島固有の信仰といいはるのは、日本民族のアイデンティティを歪小化するものであり、そのいきつくところは無謀な攘夷戦争となって、結局、損につくのではないだろうか。
それなりに、言いたいことは分かる。
某月某日
平朝彦『日本列島の誕生』(岩波新書、650円)。深海での化石の研究とプレートテクトニクスに基づくダイナミックな地球観による、日本列島形成史の研究。ところどころ難しいところもあるけれど、地球の奥深くというか、深海底で大変激しい造山運動が展開されていることが、分かった。
某月某日
佐々木新一詩集『風景抄』(鳥影社、1800円)。同人誌「黎」の大先輩だ。これが初めての詩集というが、年齢はすでに60歳である。今更ながら、文の道の深さを感じる。
夏の花はふるえていた
霧の街を少年が行く
時として 朝は
小石のように夜の藻に
抱きすくめられる
少年は見た
川底に にぶい光を放ち
水の流れに たちさわぐ
灼け瓦を
ああ 此処は
アケロンテの川のようでもあり
テムズ川のようでもある
幾十万の 死者の
しらべを のせて
太田川が 流れる
(「霧の記憶」)
某月某日
太田健一『脳細胞日記』(福武書店、1200円)。「自由意志」を求めて電波ジャックをする青年を描いた「脳細胞日記」と奇妙なコンピューターゲームに巻き込まれていく人間を描いた「人生は疑似体験ゲーム」の二つの小説が掲載されているが、どちらも、現代社会の中に生きることの困難さを若者らしい表現で、よく捉えている。
》自分が一体誰であるにせよ、現実が一体どんなもの であるにせよ、与えられたゲームをただがむしゃらに やるしかないのだ。あなたは大魔王ミノスと死闘を続けながら心の中でそう思うのか、そんなことを考える必要はないはずだ。考えたところで何ものも生み出せないし、そんなことを考える余裕があるなら、どうやって敵を倒すか、どうやってゲームに勝つかを考えた方が利口というものだ。もしそれが嫌なら、後はSUICIDEキーを入力するしか道は残されていない。
この結論を悲観的なものとして見るか、それとも現代社会に対する限界性と可能性を示したものであるか。明確なことは、私達が単層の世界ではなく、重層的な世界で、しかも自分自身もまた重層化しつつ生きているという、悔しくもまた切実な状況だけである。さて、そこでどうする?
某月某日
廣松渉の『マルクスと歴史の現実』(平凡社、2300円)を読む。いつもと違って大変分かり易い。どうやら若い学生か何かにしゃべっているので、ゴリゴリの文語体にはなりにくいようだ。それにしても、廣松先生、何がなんでもマルクス・エンゲルスの価値観を守りぬこうとして懸命のようだ。
僕たちにいわせてもらえば、両大家の凄さ、いまさら否定できるなんて思っていません。だけれど、一つはロシア・マルキシズムというのかスターリニズムというのか分かりませんが、それに彼等の思想が影響を与えたことは間違いないでしょう。だったら、現在的なそれらの社会の破綻に対して両大家も責任は逃れられないし、結局、さまざまな形で批判や見直しが提起されるのは仕方がないことだと思わざるを得ません。そこのところ、廣松先生、どうしても譲れないようで、私どもには、もう少しリラックスできないのか、と思えてしまうのです。
》マルクスやエンゲルスは体制内的な価値の追認になるから駄目だと単純に言うわけではありません。運動の或る段階、思想形成の或る段階では、そういうことからスタートするのも、ある意味ではやむを得ない事情がある。これはもう大幅な脱線ですけれど、たとえば全共闘が大学の自治というような淳朴なことを唱えましたよね。大学の自治なんてもともとありもしないし、実現できるわけもないものをスローガンにしました。プリミィブな運動の段階では、しかし、それを主張することにそれなりの意味があった。それに類することをマルクスも認めております。そういう点で、自由主義・平等主義に関する評価は、社会主義者にとってアンビヴァレントなところが出てきます。これはマルクス・エンゲルスだけではなくて、マルクス以前の社会主義者たちからしてそうなのです。
どうしてこう状況論としても本質論としても駄目なんだろう。全共闘=大学の自治というイメージは少なくとも私にはプリミティブなところにも有り得ない。しかし、この両者を強引に結び付けた(それを認めたとしてもだが)上で、マヌーバー的に、それも悪くはない、と言う感性にはあきれてしまう。第1次ブントの生き残りで、今も頑張っていることだけは認めるけれど。
某月某日
三浦つとむ『こころとことば』(季節社、1236円)を読む。三浦言語論を青少年向きに分かり易く書き下ろしたものだ。核心は「もう一人の自分」という「自己二重化」を通じて、「追体験」する表現と認識の立体的な構造を明らかにしたものだ。新しいことは何もないが、読み返す度に、さまざまな問題を考えるヒントを与えてくれる。
》私たちはことばを原理的につかみ、この原理を武器として自分の力で日本語の科学をつくりあげなければなりません。ことばの科学も、ほんとうの独学のなかでしかつくりあげられないことを、私は強調したいのです。
この結語はいかにも三浦さんらしい。私もまた、随分出遅れてしまったが、謙虚に文学について考えていこうと思う。
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