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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています
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シン・たかお=うどイズム β
Private House of Hokkaido Literature & Critic
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何を読んだか 1992−1
某月某日
新春第1号はビートたけしの『やっぱり私は嫌われる』(新潮社、1000円)。北野武という男は、なんともパワーが衰えない。普通なら、「もうラクにいこうや」という位置にいるにもかわらず、徹底的に暴れ続けている。これは、本人の中に一種の自己放棄的なものがなければ、持たないエネルギーのような気がする。言い換えれば、彼の中には現世への徹底したニヒリズム(あるいは死)があるのかもしれない。
》マルクス・レーニン主義ってのは、よく考えたら、ある程度教養の有るやつがみんな一時熱病の如く侵されたように、その理想とするところは間違っちゃいないんだ、何ひとつ。誰にとってもいいことで、みんな頭の中ではそれがよくわかっている。でも、やってみるとできない。人間が理論に負けちゃうんだね。そんなこと俗物には最初からわかっていたことさ。あの三日クーデター見りゃ、論より証拠だよ。 (「誇り高き俗物」)
》地元では、選挙民と下卑た付き合い方しているくせに東京にくると、そういうオペラハウスみたいなところで赤じゅうたん分でふんぞりかえって高い壇上から美辞麗句をならべたてた演説をする。この落差は高校野球と似ているんだよ。
高校野球の地方予選と言ったら、どこでも互いに罵りあって、野次だって汚いのなんのって目もあてられない。監督は怒鳴っているし、裏のほうではぶん殴っている。それが甲子園へ出て来ると、明るい高校生募集中みたいな雰囲気になってしまう。野次一つ入れても高野連に怒られるし、監督は笑顔でやさしいおやじみたいなふりをする。それは全部嘘なんだ。 (「たけしの『政治改革』)
多分、僕らは理想というものになお、未練を持っている。「そうありたい」というのが、人間存在の業のようなものではないか。しかし、たけしは、そのことを「そんなものはありゃあしない」と断言するのだ。それは、心地良いニヒリズムと共鳴しているだけだ。
某月某日
筒井康隆の『幾たびもDIARY』(中央公論社、850円)。オビにいわく「昭和から平成へ激動の409日間に著者が体験した書物の快楽と事件の不条理」とあるが、もっぱら読書日記を軸に、筒井の生活風景画描かれている。面白かったのは89年1月7日の昭和天皇の死の日。その日筒井は東海銀行で女子行員200名を集めて講演するはずだったのが、急遽中止になった。
》東海銀行のひとは事業調査室の主任とかいう若い男性で、もうひとりは講演会担当の女性。聞けば東海銀行は皇居にもっとも近く、二百人もの女性が集っていれば目立つからというのであるが、そこまで自粛する必要があるのだろうか。筒井康隆の講演は「歌舞音曲」なのか。
お怒りは、ごもっとも。ところで、88年2月20日土)には「朝日出版社・千葉茂隆氏より矢の催促で、『魚』は中断。」とある。おや、千葉君はこのころ、朝日出版社にいたのか。もうちょっと頑張っていれば宮沢りえちゃんの本を扱っていたかもしれなかったのに残念でした。
某月某日
東大全学共闘会議編の『果てしなき進撃』(三一書房、1800円)。日本大の「叛逆のバリケード」と並ぶ60年代末期の全共闘の息吹を伝えるリバイバルシリーズ。
》大学への攻勢は、70年代経済危機と政治危機を乗り切るための、体制側の労働者人民への全面攻撃の一環であり、それは体制側が自己の死活をかけての攻撃ある以上決して技術的対応で抗しきれるものではない。国家権力の掌中にある教育体系(大学から家庭に至る)の中で徹底的に仕込まれる虚構の世界認識、独占資本の掌中にある放送・新聞・出版等によって絶えまなく流される歪んだ情報、・・・・・・その呪縛の網を引き裂いて世界の真実を見ること、そして己れの見たものを語り続けること、スクラムを組むこと、闘うこと !それだけが、我々を自己の人間的破綻から救い、社会を腐敗と破滅から救う唯一の道である。 (「序に代えて」)
某月某日
島田荘司『飛鳥のガラスの靴』(光文社、740円)。島田の一方のヒーローが名探偵の御手洗潔ならば、もう一人の主役は警視庁捜査一課のいうまでもなく吉敷竹史である。彼は妻と別れるなど生活的には御手洗同様に破綻者的なところがあるが、ひとたび難事件に遭遇すると、常人を超えた粘り強さで徹底的に謎に挑んでいくのである。今回は、映画俳優の自宅に俳優の右手首が届けられるという、奇妙な事件を皮切りに、もう一人の若手女優の失踪事件を結び付け、その真相に迫っていく。この物語の導きの糸となっているのは、「飛鳥のガラスの靴」と題された、日本版シンデレラ伝説ともいうべき、民話である。読者は「飛鳥」「飛鳥」という言葉ばかり連発されるので、「飛鳥ってのはどこだったっけ?」と疑問に思う。その直感は正しいことが、最後に、吉敷の推理の中で、見事に解き明かされる。
例によって、島田はさりげなく社会批評をしてみせている。
》日本人社会は、どのような集団においても旧日本軍のビンタ主義や、大学応援団風のサディスティックな世界に、ごく簡単に移行しやすい危険をはらんでいるわけだが、大和田のこの行為は、まだそういう領域にも入り込んではいない。
しかしアメリカナイズされた西田優にとっては、こういう侮辱は、目もくらむほどに不粋で、耐えがたいものであったに相違ない。いわば西田は新しい日本人で、大和田は旧い日本人であった。現代とは、こういう新旧の価値観が、混然と同居する時代なのであろう。だから、旧い常識に照らせばなんでもない行為が、新常識では殺人に発展するほどの憎悪も誘導したりもする。
これもまた、日本型の犯罪であったか、と吉敷は思う。
島田の小説を読む時、こうした部分はぜい肉と理解すべきか、必要条件にカウントしなければならないのか、議論の分かれるところであろう。
某月某日
江上波夫『騎馬民族国家−日本古代史へのアプローチ』(中公新書、880円)。その主張のみ流布されているが、実はその主張の背景については正直言ってよく知らなかった、江上騎馬民族起源説を平明に説いた名著。
》要するに、古墳およびその出土品を中心として考察すると、そこに東北アジア系騎馬民族が、朝鮮半島経由で日本に侵入し、騎馬民族文化をもって、その征服事業に従事したことの反映が認められる。 (160頁)
》日本に最初の統一国家を建設した大和朝廷国家にとって、大陸の騎馬民族は、そこから文物を輸入・採用する客体的な存在ではなく、それ自体が大和朝廷を創始した主体的な存在であったのである。そうしてその主体的存在たる大陸の騎馬民族が、中央アジアや北アジアの遊牧騎馬民族よりも、東北アジアの半農半牧、あるいは半猟半牧民族と、よりいっそう本質的に近いものがあり、出自的にもたがいに無縁ではなかったろうということも、おのずから明らかになったことと考えるのである。 (303頁)
》もし、四世紀前半における大陸系騎馬民族の侵入・征服がなかったならば、日本民族は長く太平の夢をむさぼって、モンスーン地帯の東南アジア諸島の農耕民族とほぼ同じような状態で今日に至ったであろう。日本はモンスーン地帯における島嶼で、農耕民族の上に騎馬民族が建国した唯一の国なのである。そうしてそこに現在の日本のあり方も根ざしているのである。 (322頁)
江上氏は、ひとつには考古学的な出土品の比較を通じて、ふたつは初期大和朝廷の政治・軍事・社会制度・文化の比較を通じて、大陸騎馬民族国家との共通性を明らかにする。その例証は幅広く極めて説得力があるのだが特に「万世一系」「天孫降臨」「大嘗祭」が騎馬民族特有のシャーマニズムからきている部分はさりげない中に迫力がある。さらに、「日本的」なものの「神話」を見事に破砕している、と言えよう。
僕らは、古代史のレベルで江上氏の指摘から、多く学ばなければなるまい。そして、次の課題は江上氏の「騎馬民族」評価から導き出される「日本民族」への過度の意味付与である。最後の引用で示した部分には、江上理論の限界もまた示されている。どんな理論も度外れに拡大すると誤謬にすなわち新しい「反動」に転落する恐れがある。
某月某日
神津陽『論文教室生中継』(駿台文庫、1280円)。駿台予備校で、論文の講師をしている神津陽氏の大学受験生向きの参考書である。結論的として論文はいかに書くべきか。
》◎論文の構想は、設問の把握→中心命題の確定→自問自答を介しての説明の工夫のプロセスをたどり、小結論を確定してのち執筆に入る。論文は独立した文章なので、何を書いているか第三者にも分かるように、設問、資料などに触れた書き出しが望ましい。 (中略)
◎論旨、論証を明解に、推量や疑問の羅列を避け、反対意見を考慮し、説得力のある平易な表現を心がける。1000字程度の文章に形式的な前置きは不要。冒頭より問題を提示し中心命題に切り込む方が訴求力がある。
◎社会科学系論文には客観的視点が不可欠だ。身辺での努力や工夫を列挙しても、構造的矛盾の解決とはならない。しかし、誰もが社会の中に生きているのだから、社会問題は他人事ではない。客観的視点を盛り込みつつ、客観的文章に陥らぬよう心がけること。
そう神津氏は言う。大学受験問題への対応という側面を割り引けば、これは一般論文を書く際にも大変示唆的である。例題としてあげられている文章の中には吉本隆明の「1990年−夏−」と題するメッセージも含まれている。小阪修平や竹田青嗣らの「哲学入門」ものが、いかにも思想書の顔をしているのに対して、こちらは参考書でありながら、現代社会と思想への「からめ手」からのアプローチとなっている。和辻哲郎の「風土」を読み、矢野暢の国際化論を読み、レヴィ=ストロース「停滞的歴史と累積的歴史」を読むことで、世界というもののインターナショナルなあり方がラジカルに問われることになる。一方、丸山真男の憲法論、モンテスキュー、ルソーの政治・人権論を読むことで、世界史的激動の中で、国家と個人のあり方が改めて見直されるというように。
それにしても、全共闘系の活動家諸氏は予備校で、いろいろな分野の先生をしているようだが、教育というものと、よかれあしかれ縁が切れないようではある。神津氏の参考書を読みながら、新しいイデオローグは、どんな論文を書くのだろうか、ということだけが気になった。
某月某日
日下圭介『「天の酒」殺人事件』(光文社、720円)。酒マニアたちがつくった究極の名酒が、次々と殺人事件を招いていく。その事件の真相は?という物語だが、ここには魅力的な登場人物が一人も登場しない。それゆえ、物語のクライマックスもない。日下という作家がどういう人物か僕は不勉強にして知らないが、主人公が売れない小説家である「私」である、というのが、いかにも象徴的である。
某月某日
大塚克彦『入試に出る現代史』(光文社、790円)。こちらは河合塾講師によるところの「偏差値が10上がる」とのキャッチフレーズの参考書。神津さんにしろ、こちらの大塚という人にしろ、予備校の皆さん頑張っている。この本の特徴はもちろん世界史のポイントを分かり易く書いていることだが、実はどうでもよさそうなところに、ラジカルな個性が出ている。たとえば中国革命の毛沢東と周恩来の関係について、当初は毛より周のほうが、過激で地位も高かった。それが、遵義会議(1935年)で二人の立場は逆転するのだが、それをこう書いている。
》この会議で毛沢東と留ソ派が激しく対立し、当然周恩来も留ソ派を支持すると見られていたが、突然周は自分を含めた指導部の誤りを認めるとともに、指導権を毛に委ねるべきだと提案した。このとき周に何が起こったのかは永遠の謎である。失敗を繰り返した周は自分がナンバー・ワンに向かないことを認識し、カリスマ性を持った毛沢東に自己を託したのかもしれない。
こんなどうでもいい記述がこの本を楽しくしており普通の参考書にない面白さとなっている。
某月某日
太田竜の『ユダヤ七大財閥の世界戦略』(日本文芸社、950円)。世界は全てユダヤ人によって操られているという謀略史観。あーあ。
》共産主義革命家マルクスは、実はロスチャイルド・ユダヤ王朝の工作員、エージェントの一人であったのだ。いや、単に一人マルクスのみならず、ユダヤ民族そのものが、金持ちは金の力で世界支配を、下層階級はプロレタリア革命運動の力で世界支配を、という表と裏の二面作戦でユダヤ世界帝国のために闘ってきたのだ。
某月某日
笠井潔の『ユートピアの冒険』(毎日新聞社、1400円)。オレは黒木時代の笠井を全く評価していないが、小説家に転進してからの彼にはとても注目してきた。要するに、黒木のころは似合いもしないサングラスをかけ、皮ジャンを着て、粋がっていた感じしかなかったが、少しは自分の姿が見えてきたところが変わった良いところだ、と思った。今回の現代思想に対する彼なりの話言葉による総括を読んで、その良さがよく出ていたと、感じた。
ただ、オレは必ずしもその主張に納得していない。笠井がこの本のなかで言っているのは、60年代思想の敗北と、その後の展開、そして、今後の展望を、彼なりのユートピア「革命論」の立場から示すことにあった。オレが駄目だと思ったこと、違和感を覚えたような部分を述べておきたい。まず60年代末から70年代初頭の運動評価だ。
笠井はマルクス主義の段階論を言っている。第一段階はロシア革命の成功に影響された「正統共産党」の時代であり、第二段階は、なんらかの形でトロツキズムに影響された反スターリニズムの段階、第三段階は中国文化大革命とヴェトナム解放闘争の衝撃によってもたらされた第三世界革命主義の時代、第四段階は東欧崩壊に象徴される社会主義の最終的解体状況にある現代ということになる。オレはこういう理念で割り切った整理の仕方に反対する。
いうならば、笠井は自分の第三世界革命に自分の意思を代行させていったセクト性を救い出そうとしているだけにしかすぎないように見える。こういう、大衆反乱に色目を使いながら、手際良く思想の整理をしてしまうところが、構改派のもっとも駄目なところだ。オレは革マルでも中核といた党派志向はないが、反スターリニストだ。トロツキズムなどとは何の関係もない。トロツキー自体がスターリン以上に革命的大衆を弾圧した事実をオレたちは知っているからだ。その一方で、「正統共産党」にはなんの期待もないが、その活動家の中にすら党派と別のところで、生きている人間存在のアモルファスなやさしさのようなものを信頼している。思想的に言えば、反スタ・マルキストもスターリニストなら、第三世界革命派の毛沢東も、ポル・ポトもホーチミンもスターリニストだ。しかし運動の中で生きている大衆のラジカリズムというのは、それとは別のものだ。オレは、思想的対決とは別に彼等の身体性のようなものを、一つの世界史の場所において、信頼している。即ち、オレは第三世界革命派でもなんでもなかったが、彼等の自分たちの状況を突破しようとする身体性だけは信頼していた。60年代末から70年代初頭において、オレが「行為の共同性」という神津陽のなにげない一言に惹かれたのは、そういうことだった。
反スタの立場からみれば、ヴェトナム戦争は米ソの代理戦争とみえたかもしれないが、そうした制約を超えて世界史の場面に登場する民衆の自発性・内発性は断固として揺るぎないものだと思った。そのことを自覚的に評価したものだけが、「党派」への倒錯という事態を避けられたと思う。笠井は何かすると、「連合赤軍」に自分のテロリズム論と共同観念論を預けてしまうが、それ自体の思想的意味を問うことに、そんなに意味があるとは思えない。ポル・ポトの大虐殺にしてもスターリンの粛清にしても、中国文化大革命の迫害にしても、彼等がスターリニストであり、党派観念にとり付かれていたから起こったわけではない。あえて言うならば、彼等をそうさせたのは「情況」であり「関係」だったと思う。だれであろうと、「加担」ということはありうる。それは大衆の無意識を、内発性を信頼することと、全く表裏一体である。
笠井は自らの理想を次のように語る。
》ユートピア的な欲望は、つねに冒険においてそこにのみ生きられる。記号体系に象徴的な痕跡を見いだし、意味に還元できない言葉を見いだすこと、それが革命だ。言語の差異体系において外部=意味=象徴の逸脱を生きること、性の制度においてエロスの逸脱を生きること、そして社会構造の群衆蜂起的な解体を集団として生きること。それらはすべて、微細なアナーキズムの実践であり実験であり実戦にほかならない。そのはてに、極限で時間が停止するような特権的な瞬間が到来するかもしれない、それがかろうじて実現しうるユートピアなんだ。
一方で構改派流の解釈をみせれば、他方で大衆のアモルファスな戦いもアジテートする。主題は逸脱だ。笠井はどうやら、まだ夢が覚めないようだ。「ユートピアの冒険」は、依然として革命的空語の域を超えられないでいる。
某月某日
ジャン・ボードリヤールの『透きとおった悪』(紀伊国屋書店、1800円)。笠井が半分しか評価しないボードリヤール。しかし、オレはかなり全体的に評価している。今回、彼はどこへ僕たちを誘い挑発しようとしているのか。いうまでもなくすべてのオージー(狂宴)の終わった後の現代である。それは近代性が爆発する瞬間、あらゆる領域での解放がなされる瞬間である。しかしー。
》われわれは、もはや狂宴と解放をシミュレーション化することしかできない。つまり、加速しながら全員が同一方向にむかっているふりをしているが、われわれの行き着く先は、じつは虚無でしかない。というのも、解放を正当化するあらゆる合目的性はすでにわれわれの背後に遠のき、あらゆる結果が予測されてしまったという感覚、あらゆる記号と形態、あらゆる欲望が入手可能になったという事実が脅迫観念のようにわれわれにつきまとっているのだから。これから先、いったい何をすればいいのか? この発想こそがシミュレ−ションの状態そのものだ。すべてのシナリオが現実に、あるいは潜在的にすでに過去のものとなった以上、使い古しのシナリオを再上演するほかはない状態。
僕たちが解放されたのか、それとも解放されたふりをしているのか。そんなことはどちらでもいい。ニヒリズムの世界にいることだけは確実ということだ。それが世紀末の現代なのだ。そこにあるものは何か。
》終末あるいは死は、もはや何ものをも(神さえも)消去しない。何がすべてを消去するかといえば、それは増殖と感染、飽和状態の透明さ衰弱による絶滅であり、あるいはシミュレ−ションを第二の存在形態の中に移転する伝染性の悪だ。消滅(ディスパリシオン)という宿命的なモ−ドもはや姿を消し、拡散(ディスペルシオン)というフラクタルなモ−ドが出現する。
「透きとおった悪」。それは呪われた部分が、「解放された世界」にウイルスのように浸透したエネルギ−である。それはまたラジカルな他者でもある。僕らの絶望は、静かに病的にではあれ、希望をみいだそうとしている。
某月某日
富永直久の『彼らは何歳で始めたか』(ダイヤモンド社、1500円)。誰が何歳から始めようと勝手だが、ちょいと気になるのは自分がいたずらに歳を重ね、しかもなんら誇れるようなことをしていないためか。僕の現在に引きつけてみれば、一番近いのはジョ−ジ・フォアマンの42歳の出発か。
》4月19日、アメリカはニュ−ジャジ−州、アトランティック・シティ−。ボクシング世界ヘビ−級タイトルマッチ、12回戦。ジョ−ジ・フォアマンは倒れなかった。/口に眼窩に、チャンピオン、イベンタ−・ホリフィ−ルドの総計355発の鋭いパンチを受け続けながら。
フォアマンが良い子なら、かつてのライバル、モハメッド・アリは徹底的な反逆者であった。二人の全盛期、明らかに僕はアリのファンであったろう。その判断は今も変わらない。しかし、時移り1991年、28歳の王者とたたかうフォアマンは、感動的であった。僕には、そのような闘志がとうに失われてしまったからか。通俗的な本ではあったが、改めて頑張らねば、と思ったのであった。
某月某日
藤田博司の『アメリカのジャ−ナリズム』(岩波新書、580円)。著者は元共同通信特派員。アメリカの現状をサラッと伝える。改めて身に染みたのは次の様なくだりだった。
》アメリカのジャ−ナリズムに対する信頼が揺らいだもう一つの理由は、ワシントンで活躍する一部のジャーナリストに対して持っていたイメージとは別の、うさんくささを感じたことである。ごく単純化していえば、ジャーナリストはカネ儲けや栄達にあまり関心を持たず、権力にも媚びない独立心を備えた人々、と私は考えている。ところが、ワシントンを取材するジャーナリストのなかには、こうしたイメージにそぐわない人々が少なくないことを、思い知らされたのである。/かれらはしばしばテレビに登場し、新聞や雑誌に署名入りの評論を書き、安くない講演料で講演をして回る.その影響力の大きさゆえに、政治家や役人との間に持ちつもたれつの関係を生じやすい。
某月某日
広瀬隆『赤い楯−ロスチャイルドの謎』上・下(集英社、各2800円)。先月は、元ゲバリスタにして、只今は地球維新を叫ぶ太田竜の単純な反ユダヤ主義の本を読んだが、今月は上下約1000頁にも及ぶ広瀬さんのユダヤ王=ロスチャイルド家の秘密に迫る興奮のノンフィクション。とはいえ、ひとことで結論を言っちゃうと、読後感は意外と、太田竜の世界に近いんだなあ。竜将軍は単純明快に「反ユダヤ」をアジテートするが、広瀬さんは、ユダヤ人大衆と一握りのユダヤ王とそれにつながる「一族」を強調するのだが、結局はうぞうむぞうのユダヤ人がロスチャイルド家とつながっていくのを見ると、国際ユダヤ組織が世界支配を画策しているという竜将軍の主張もまんざらウソじゃない気がしてしまうというわけだ。
広瀬さんの現代世界論のどこが、駄目かは最後にもう一度述べるとして、優れた探求の書の印象的部分を記録しておこう。
》「私は、ユダヤ人に対する時はカトリックである。カトリックに対する時はユダヤ人である」通常は、ユダヤ人に対してユダヤ人、カトリックに対してカトリックになる、と言うであろう。だがゴールドスミス=ロスチャイルド家の感覚は、このように研ぎ澄まされた刃物のように鋭く、ひとたび重要な局面を迎えれば外界と一線を画して独立し、わがファミリーの利益と支配力を強固な壁で守り続けるために無数の力が結集する。一方で思索の方法は驚くほど沈着冷静で、全体としては大河の流れのごとく持続性を誇っている。もしこの徹底した金銭欲がなければ、ロスチャイルド家は前世紀に消滅していたであろうし、悪魔的な魅力もない。
ふーむ。最初のフレーズ。60年世代には懐かしいでしょう。谷川雁の工作者だよな。つまりロスチャイルド家は「革命」のためではなく、「富」のための工作者集団というわけだ。かれらは、そのために世界に見事なネットワークを作っている。例えば日本企業の進出が指摘される香港もロスチャイルド家が支配し、キッシンジャーやケ小平がかれらと取引している世界である。そのことを日本人は知っているのか?
》日本人がなぜ市民に位たるまで傲慢であるかと問えば、それは史実を知らぬから、と答えるほかない。子供のまま生涯を終え、その途中で一度たりとも歴史を学ばぬ国民、それが小手先の文化論を語り、ビジネスに狂奔する。外へ出ようというなら、語学を学ぶ前に、丸い地球の歴史を知っておくべきであろう。
ここで、広瀬さんは、「何も学ばない」日本人がアジアでなにをしたか、怒りを持って解明していく決意も示している。労作を期待したい。さて、マルクスはユダヤ人だから、という陰謀論とは別の具体論でのマルクスの末路を見よう。
》「資本論」を著したカール・マルクスの権威が地に落ちる時代を迎えた今日だが、「黒い雨」を軽蔑したカンヌ映画祭の隠れた支配者キージマンと偉大なるマルクスが、フランスの軍需産業の総本山「シュネーデル」の一族によって、信じ難い系図37をつくっていた。死の商人ザハロフが大いに貢献した兵器会社シュネーデルとである。
》フランスでは資本主義者と社会主義者が交配して一族をつくっている。その、下流にジスカールデスタンがおり、現在のミッテランがいる。かれらは「黒い雨」の原子力推進ファミリーであるとすれば、僕らはなんと言うべきか。いや、娘の夫の同志がロスチャイルドに取り組まれているだけのマルクスはまだ幸せか。ここでも、悪役はやはりスターリンである。彼は第3の妻ローザ・カガノヴィッチ(ユダヤ人)、ウクライナの粛清者ラーザリ・カガノヴィッチ(ローザの兄)を通じてフランス首相アルベール・サローと一族となる。いうまでもなくロスチャイルドにつながる。
》分かりやすく言えば、ウクライナの穀物とバクーの油田の生み落とした大金が、スターリン=カガノヴィッチ王国の手を通じてフランスの一族に渡り、ルイ=ドレフェス商会とフランス石油を大きく育てたのである。これが貧民の味方“共産主義者”と“大資本家”の連携プレーによってなされ、餓死の農民と血を吐くような石油労働者のうえに平然と成り立っていた取引の正体である。思想書など何百冊読んでも頭はよくならない。
いかん、紙が尽きた。感想は次の頁で言おう。
広瀬隆さんの大作『赤い楯−ロスチャイルドの謎』上・下(集英社、各2800円)について感想を述べておきたい。僕は、これは、いかにも広瀬さんらしい粘り強い探求の書であることを確認したい。単に「ユダヤ人が、ロスチャイルド家が」と言って、何かを分かったつもりでいる僕たちに対して、実はかれらが、どれほど凄い存在であるかを徹底的に解明して見せた。おそらく、日本以上にロスチャイルド家の影響が強い欧米ではこれほど系統的な分析と指摘はなされていないだろうから、広瀬さんの研究は世界第一級のものであろう。
ロスチャイルドが、ユダヤ人であろうとキリスト教徒であろうと、白人であろうと有色人種であろうと、結婚を重ね「一族」を形成してきたことは分かった。しかし、僕がこの分析に足りないと思ったのは、国際資本(ロスチャイルド)に対する国家意思というものが、極めて従属的に映るということである。支配勢力によって国家の政策が決められていくとしても、民衆の共同幻想とは無関係にそれらは存在し得ない。いってみれば、多国籍企業がどんなに力を持っていようと、彼等の利益のために民衆の幻想をまとめきることはできぬ。
要するに、経済的政治的権力と共同幻想(国家幻想)は一致しない。その点が、随分あっさり述べられている気がした。さらに、資本主義というものが近代合理性を、意識的ではあれ、無意識的ではあれ、実現してきたものであるとすればそこには一種のアナーキズムがあっただろうと思う。それに対して、「血縁性」によって、そのシステムの動力を分析するのはどこまで、成功しているかという疑問である。日本にも一種の閨閥のようなものが、指摘されることがある。しかし、僕はかれらの利害によって、経済や政治が動くのではなく、かれらの利害を巻き込み超えたものとして、実際の経済や政治は動いているように感じられる。だから、マルクスの一族に資本家がいようと、僕にはどうということではないと思われる。マルクスも共産党幹部も資本家のためにではなく、自らの場所での「切実性」に向かって自己実現することは明白だからである。広瀬さんの系図主義は拡大しすぎると、意識の独立性を無視した関係妄想に陥るように思った。僕はこの大作に、しばしば感じたのは結局、そのような誇張にたいする「これはゲームだな」という虚無世界だった。
某月某日
「噂の真相」4月号(460円)、「創」4月号(520円)。どちらも、皇太子の嫁取りに絡む報道協定に関する批判記事を載せている。報道協定は日本新聞協会が結んだもので、◎皇太子妃の候補者および候補者選考の経緯が推察されるような報道は一定機関差し控える(具体的には2月13日から5月12日までの3ケ月)◎皇太子妃候補者の人権、プライバシーに十分配慮し、節度ある取材を行う−というものである。明らかにこれは、破防法や暴対法と同じような予防「反革命」的な協定に見える。現段階的に、どのような保護されるべき人格や危険に晒されているような人命は存在しない。にもかかわらず、「万世一系」の天皇制を守るため、新聞・テレビはもとより、(影響力のある)全てのマスコミが報道の自由を放棄することだからである。もちろん、現場レベルでは、たかだか、皇太子の嫁さん(来るか来ないか定かではない)のために、使わなくてもいい神経と時間を浪費することから解放されるという実感があることは否定できない。しかし、抜かれたら抜かれたで、いいではないか。マスコミとはそういうものだという、正論がなぜ通らなかったのだろうか。そういいつつ我々の会社もその協定に「ノー」とは言わなかった。僕らを含めて。僕らは鈍感すぎる!
某月某日
吉本隆明『大情況論』(弓立社、2000円)。ふーむ。かつては「情況」だったがついに視野は世界に及び「大情況」へと相なったようだ。私が感心したのは次のようなモチーフだけである。敗戦の混迷期に発言しなくなった文学者たちに対する自分の不満を繰り返さないこと。「じぶんがそんな場所に立つことがあったら、激動のときにじぶんはこうかんがえているとできるかぎり率直に公開しよう。それはじぶんの身ひとつで、吹きっさらしのなかに立つような孤独な感じだが、誤謬も何もおそれずに公言しよう。それがじぶんとかわした約束だった」。いかにも吉本隆明らしい姿勢。僕もめげずに頑張りたい。
》昭和10(1935)年前後から現在(1990年)にまで「転向」の概念をひろげることは、たんに歴史的な時間を半世紀延長することではない。理念が設立するための基盤を、政治的なエリートや知的なエリートたちの閉じられた共同性から、世界の構造の大半を占めるようになった一般大衆の知的な、そして社会経済的な基盤に変化することを意味しているのだ。こういうことを理解しない柄谷行人の転向論議などが、存立しうる予知などどこにもありはしない。
(「世界転向論」)
ふーむ。世界転向論か。転向を知識人の理念と大衆的動向のブレに置いてきた初期吉本隆明の転向論はここで、自立しうる大衆存在へと重心を移して、倫理主義の脱色を一段と進めている。それにしても、ネオ・福本主義者の柄谷はきらわれたもんだ。結合より闘争だから関係ないか?
》団塊の世代の大部分の人たちは、物語は創れないと 無意識のうちに感じとってきたとおもいます。それなら団塊の世代はどこへいったのかといえば、一切、社会的・政治的物語は創らずその時その時、一日一日をいかに充実させて生きるかをかんがえるようになってゆきました。
いまこの眼のまえにあるこの社会を良しとする以外に、別の社会をかんがえることは無駄だ、意味がないと感じていったんじゃないでしょうか。
本来であれば、そのとき、どういう物語を創らなければならなかったか、あるいは創る課題があったかといえば、文学的には、団塊の世代の作家たちは「反物語」を創るべき課題があったのだとおもいます。つまり、反物語を創るにはどうしたらいいかを真剣にかんがえるべきでした。しかし、このことはいまだからいえることで、その渦中で洞察することは、たいへん難しいことだったのです。もちろん優れた人たちは洞察したでしょうが、現在、表面にでてきている文化・社会・政治のなかに、そういう人たちの見解は登場していないとおもいます。団塊の世代にとって、70年代から現在にいたるまでひきつづく課題があるとすれば、いかに反物語を創ったらいいかということにちがいないとおもいます。また、いまでもなおそれを創るべきだというのが最大の問題なんじゃないでしょうか。
昨年(1989年)の五月以降の中国・東欧・ソ連などの動きをみていますと、なぜ70年代に反物語が必要だったか、それを創るべき課題があったかが、そのときよりはるかに明瞭にわかってきているとおもいます。そして、いまも反物語は創れるはずだということです。 (「1970年代の光と影」)
要するに米ソとは別の自立の物語を高度大衆消費社会の現実に即して作ること。そのことを吉本隆明さんはアジテートしている。僕にはその現実を過大に評価する気持ちはさらさらないが、モチーフだけはよくわかった、とだけ言っておこう。吉本隆明にしろ僕らにしろ、依然として過渡期の路上にいることは変わりがない。
某月某日
船戸与一『砂のクロニクル』(毎日新聞社、1750円)。オビに「ノンストップ1600枚!」の刺激的ひとこと。それにしても話題になってから、読むまで随分時間がかかっちゃったなあ。イランのイスラム革命を舞台にしてここまで本当らしい物語を書き上げた人はやはりいないだろう。一気に読んだが、本当に面白かった。と言った舌の根も乾かないうちに、くさすのもなんだが、これは、もしかして、あの「ゴルゴ13」のノリだよな。だって、小説読んでいるのだけれど、いつのまにか、ゴルゴ13を読んでいるような気分になっちゃうんだから。結局最後はみんなだれもいなくなっちゃうんだけれど、そこにゴルゴ13がいても、ちっともおかしくない。ゴルゴ抜きという分だけ、小説的ということか。
某月某日
宇沢弘文『「成田」とは何か』(岩波新書、550円)。看板に偽りあり、の典型的な文書というべきか。この人は反対同盟の青年行動隊に信頼があるらしいが、どうも腑に落ちない。激烈だった三里塚空港反対運動が退潮期にはいっていることは事実だが、そんな時期を見計らって、悪質な仲介屋も登場する。宇沢は成田問題を「戦後日本の悲劇」と言い、その平和的解決を「地域シンポジウム」なる場所に求める。なぜ成田が悲劇なのか。宇沢は言う。
》成田空港問題を解決するためには、成田空港の建設、営業によって発生する社会的費用の実態を的確に捉えて、それらの社会的費用をどのような形で、空港の建設、営業費用として内部化するかということが、もっとも重要な前提条件となっていることを強調したい。
要するに、「金」の問題から見て、成田は高くかかりすぎるから困るというわけだ。こんな論理で、近代経済学がアプローチするのは勝手だが、三里塚空港問題に関心を寄せ、連帯してなんらかの闘いを経験してきたものたちが、はたして納得できようか。そして、公開シンポジウムにかかわる理由も私にはうさん臭く映る。
》そのときに説明にこられた運輸省の人は、私がそれまでもっていた一般的な予断とまったく異なって、成田空港問題の「平和的」解決の道を求めて、人間的誠実さを失わず、真摯な態度で全力をつくしてきたという印象をつよく与える方々であり、(中略)しかも、「学識経験者」グループの中心になられる方が隅谷三喜男先生であることも、私にとって大きな意味があった。
どんな善人であろうと、組織として関わるとき、どんな暴力的行動も許容する存在であるということがわからないらしい。成田治安立法以後、反対派の団結小屋にかけられた暴力のすさまじさを知らないとは言わせない。地域シンポジウムなど僕には空しくうつるばかりだ。
某月某日
広瀬隆『クラウゼヴィッツの暗号文』(新潮文庫、440円)。「赤い楯」の大作を書いた広瀬さんの戦争論。「赤い楯」では世界を動かすのはロスチャイルド家に収斂していくが、ここでは、戦争を起こすのは「クラウゼヴィッツ人」であるとされる。
》彼等政治家と軍人は、クラウゼヴィッツの亡霊である。この人間たちは、すべての人類ではなく、ひと握りの人間にすぎない。権力によって人を支配しようと目論む野心家たちだ。だからこそ、政治家を志し、軍人を志した。この野心家に男女の差はない。(中略)
これらの人間は、ロシア人でもアメリカ人でもない。彼らは“クラウゼヴィッツ人”と呼ばれる亡霊たちである。
クラウゼヴィッツ人には、ひとつの特徴がある。それは、「敵」を創作する気質である。
広瀬流の論証も、ここではさほど珍しくもないといえる。しかし、衝撃的なのは、彼の作った第二次世界大戦以後の世界の戦争地図だ。第二次大戦が終わったとはいえ、世界は毎年休むことなく戦争を続けている。そして本格的な戦争を経験していないのは、日本とスカンジナビア諸国程度しかない事実に僕らは驚かざるを得ない。「戦争の放棄」ということの重みをしみじみ感じたのであった。
某月某日
竹野雅人『王様の耳』(福武書店、1200円)。1966年生まれの若い作家の現代小説。さほどうまくもないし、派手さもない。あるのは、時代への違和感の発露か。システムにとらわれてしまった少年と主人公。
「僕も、これから一体どうすればいいのだろう。そもそも自分のお話なんて、これっぽっちだって存在していなかったのではないか、とそれさえ疑問に思えてくる。この白紙の解答用紙を眺めていて、改めてそう思った。詰まらない凡庸なお話の双六は、『上がり』なんてものも存在していないのかも知れない」
これは「長距離ランナーの孤独」になぞらえれば「短距離ランナーの孤独」というべきか。
某月某日
松村栄子『僕はかぐや姫』(福武書店、1100円)。『至高聖所(アバトーン)』(福武書店、1000円)。第106回芥川賞受賞の著者の小説2冊を読む。これが、芥川賞か、という読後感しか浮かばないのだ。文学好きの少女の学園小説というのが僕の印象だ。「僕はかぐや姫」は自分のことを「僕」といわずにはいられない17歳の少女の心象風景小説か。
》かけらを損なう恐れのあるものはたくさんあった。女になること、おとなになること、さまざまな知恵をつけること、何かに馴染むこと。<僕>が防波堤だった。(中略)
<僕>という防波堤が崩れていた。決壊したところから水が溢れてくる。(中略)
裕生は手に入れたばかりの<わたし>を振り返る。男でもなければ女でもない。子供でもなければおとなでもない。そんな場所が今この刹那は許されているような気がした。
「ジェンダー」と「性」の間で揺らいでいる少女の世界を描いているのかもしれないが、ドラマチックではないし、つまらない、ということが、現代を象徴しているとすれば、それはそれでいいのかもしれないが。「至高聖所」のほうは、完全に学園小説。味付けされているのは、鉱物質の孤独と夢治療のギリシア神殿の最も奥にあるというアバトーンという聖地の幻想である。
》たとえばある町がひとつの巨大企業によって作られてしまうように、ひとつの大学によって作られた町もある。走るものといえばトラクターと軽四輪しかない農村に、あるとき突然片側三車線の道路が敷かれ、近代的な建物がぽつんと出現する。
いかにも、いかにも。それが筑波大学か。僕にはこの小説の内容よりも、戦後教育の体制的総括によって誕生した「筑波大学」物語として読めた。
某月某日
矢吹省二『鉢をかぶったお姫さま』(ABC出版、2000円)。昔話の分析をつうじた日本社会論。「和」の功罪というところか。
》大まかに言って、人の生き方には二種類ある。一方の極に同類の群れ(ムラ)の円満の「輪」への順応をまっとうしようとする集団的な生き方があれば、他方の極にはそういう「輪」から外れて(あるいは外されて)自己を生き抜く(あるいは生き抜かざるをえない)個性的な生き方がある。
矢吹の言っていることは大変わかりやすい。確かに、社会の「輪」を僕らはしばしば感じる。そしてそこから<逸脱>することを、模索したくなる。それは本当は大変つらいことである。しかし、矢吹の論を注意深く読めば、結局、彼は、社会の「輪」からの逸脱も最終的には日本的な秩序に取り込まれていくことを否定していないように見える。要するに、「周縁」が「中心」を活性化してしまうことを是認しているように思われるのだ。その辺が少し、疑問に感じた。
某月某日
浅見克彦『批判のエロス』(青弓社,2060円)。言っていることよりも何をやっているか、それが問題だ。要するに浅見君の言いたいことは、それに尽きる。
》天皇制と産業主義的価値観の支配を支える同調主義に対して、社会批判理論が有意味な力となりえなかったという事実は、それらの支配が実生活の世界における最も深刻な問題に関わるだけに、決定的に重大である。天皇制の支配は、 さまざまな民族的マイノリティへの差別と抑圧にイコールであるし、産業主義的価値観の支配は、女性や「障害者」や就学拒否者など、効率・競争・能力という行動規範を受け入れないさまざまな社会的マイノリティへの差別と抑圧にイコールだろう。だから、「戦後民主主義」の表舞台で、討論・出版・学術に活躍することのみを問題にし、日常生活の非論理的な同調主義の壁によってはね返される他ない批判理論は、社会問題の中で最も深刻なものに属するマイノリティ問題に対して,決定的に無力なのである。
こうした批判理論が、真に批判理論の名に値するだろうか。
だが言行一致は難しい。それが社会だろうが。
某月某日
吉本隆明『甦えるヴェイユ』(JICC、1400円)。私はヴェイユという人について、どうもよくわからない所がある。多分、彼女の「神的体験」が僕の感性とリンクしないのだろう。吉本隆明のヴェイユ論は、彼女の生き方を丁寧にたどるように見せつつ、最後には、近年の高度資本主義社会に関する彼の見解が専ら披露されている。
》国家を民衆に開くのはどうすればよいかといえば、いつでも一般民衆の直接の無記名の投票で国家(政府)をリコールできる装置(法律)をもつことだ。そしてバランスをとりながら、すこしずつたえずこの解体と変革をすすめることができれば、かろうじて労働者や民衆の解放は成り立つかもしれない。ヴェイユがドイツ社会の疲弊した現状をみながら、念頭においた原理はこれに近かった。この原理が実現されないで半途でおわったとすれば、そこでは社会国家主義(一国社会主義=スターリニズム)か国家社会主義(ファシズム)が実現されるほかない。それは労働者(階級)の解放とは似ても似つかないものだ。
これって、ヴェイユというよりも吉本隆明の考えそのものでしょ。それにしても、抑圧的な国家を超える闘いってのは、依然として難しい。現実的に言えば、国家の持っている過剰な機能を少しずつ解体していくこと、そんなことしか今の僕には言えない。
某月某日
吉本隆明『見えだした社会の限界』(コスモの本、1380円)。地方紙に連載したエッセイを軸とした吉本隆明の現代ニッポン論。
》ところであれから半世紀にわたしたちはふたたびそのときの日本の「まぼろし」とそのときの日本のアメリカの「まぼろし」をもう一度みることになった。日本の「まぼろし」とはフセインのイラクであり、アメリカの「まぼろし」とはブッシュのアメリカであり、太平洋戦争の「まぼろし」は中東湾岸の戦争のことだ。天皇と東条英機に象徴されるそのときの日本が、鬼畜米英とののしりながら無謀な戦争に突入し、たった一時溜飲をさげた代償に、数百万の同胞と兵士たちを死なせたように、フセインのイラクはアメリカのブッシュを悪魔とののしりながら強情をはって戦争にもならない安っぽい戦をして、イラク民衆を多数死なせた。ブッシュのアメリカは半世紀まえ日本にやったとおなじように、中近東に植民地をもっていたイギリスやフランスを語らい、ソ連の合意をとりつけてイラクを海上封鎖し、戦争に追いこんだ。(「軍国青年の五十年」)
吉本隆明は、湾岸戦争に50年前の幻を見ている。確かに、変わったもの変わらなかったものがそこに見えるかもしれない。それだけが、進歩だとすれば、少しさみしいが。
》世の啓蒙家たちは、「普通の生活をしていれば」エイズにかからないなどといっている。だが「普通の生活」とはどんなことか、あいまいな言葉だ。どうしてエイズ患者と性交しなければ、とはっきりいいきらないのだろう。理由はただひとつ、啓蒙家たちも、じぶんたちがこの現在の息苦しい社会的錯綜が、精神の重荷になっていて、病的な想像力や神経症的な妄想に陥りやすくなっているから、他人も病的な想像力や神経症の妄想に陥っているのを、よく知っているからだとおもえる。啓蒙家たちもまた、性交しなくてもエイズ患者の血液や精液が皮膚の切り傷から侵入しやしないかと、不安でおびえているのだ。つまり啓蒙家たちも、大騒ぎしている人たちと一緒に、すでにエイズの認識において強迫神経症にかかっているのだとおもえる。
こういうところは、いかにも吉本隆明さんらしい。この論理はエコロジー批判にも通じるが、僕には半面、吉本隆明さんが逆に強迫神経症的に過敏に反応しているようにも見えるのだが。
某月某日
久保田正文『現代短歌往来』(筑摩書房、1900円)。アイヌ歌人・違星北斗のアンビバレンツを思った。即ち、「正直なアイヌだましたシャモをこそ憫れなものとゆるすこの頃」と「朴烈や難波大助アイヌから出なかった事せめて誇らう」「アイヌは単なる日本人になるなかれ神ながらなる道にならへよ」という意識の落差である。
ここに共通する著者のやさしさはわかる。しかし、差別の陥穽を抜け出してはいない恐さをどうしよう。
某月某日
吉本隆明の『ハイ・イメージ論 』(福武書店、1600円)。随分、大変なところで吉本さんは頑張っているな、と思う。すべての感想はまだうまく言えそうにない。ただ、「拡張論」で示された、経済学から言語学へと至る一種の価値の変遷論に、哀愁のようなものを感じたといえる。すなわち、同じマルクス価値論から出発して、今や一世をふうびしているソシュール言語論と依然として孤立した悪戦を続けている吉本隆明の言語美論の運命にである。
》ソシュールの「差異」という概念は、もともと形式論的なもので、自己表出をかれの「差異」概念のなかに繰りこんでゆく余地は、はじめからまったくもっていない。また逆に非実体的、形式論的な言語の概念だから、ソシュール言語学は哲学と思想にたくさんの影響をあたえたともいえよう。
こういう言い方は、どう捉えるべきか?
》わたしたちの言語(美)学とソシュールの言語学を隔てているものは、帰するところはこの反復と固定化(すなわち自己表出の発生)であるということができよう。話行為の内部でこの反復と固定化がいわば飽和点に達して、それにたえられなくなったとき口承文学(説話・伝説)がうみだされたのだし、口承時代の反復と固定化の繰返しにたえられなくなって爆発点に達したとき、文字が産みだされたものだといえるからである。
吉本隆明は結局、言語の発生にこだわり続けている。なぜ、私達は、海を見たとき、「うみ」と叫ぶのかに。それは多分、依然として、孤独な栄光にも似た画期的な文学原像論である。
某月某日
西山武典『「ザ・リーク」新聞報道のウラオモテ』(講談社、1500円)。全体的には、新聞業界の常識を並べた程度のレベルの本でしかない。気になったのは、この共同通信元記者の権威主義である。匿名報道を巡る論争に関する紹介のくだりである。
》この論争の過程で奇妙な現象に気がついた。たくさんの地方紙に記事を提供する共同通信では、匿名、実名、あるいは呼び捨て廃止のどちらの立場に立つにせよ、地方紙の意向を無視して決めるわけにはいかない。で、この問題が在京三社(朝日、毎日、読売の各紙)で討議されている情報を踏まえたうえで、加盟紙の意見を求めたことがあった。両論があるのは当然だが、呼び捨て廃止はやがて匿名報道にまで発展する懸念を表明する社がかなり多かったことで、共同側の態度も必ずしも鮮明でなかったが、「ここで譲れば新たな譲歩に発展するから実名の減速は断固守れという意見が目立った」という指摘が強調された。しかし日を置いて、東京の三社が呼び捨て廃止に踏み切るらしいとの情報が伝わると地方紙の動向が急に変わって、共同通信の方向は三社同調に固まった。意見はさまざまにあるが、基本的には地方紙は、三社の動向を見て決めるというパターンがこの問題にも適用されたようである。
よく言うと思う。礼宮結婚の時、嫁に川島紀子が決まった時、「共同は島は簡単な島に統一していますから」と言っておきながら、東京紙が「嶋」の字を使った途端、何の根拠もなく原則を崩し「嶋」に乗り移ったのは、どこの通信社だったんだろう!
某月某日
梅棹忠夫の『実戦・世界言語紀行』(岩波新書、580円)。数々の言語をマスターし世界をまたにかけて大活躍してきた民俗学者の各地での言語体験をまとめたもの。その場その場で、各地の言葉を覚えただけとはいうが、やはり凄い。気になったのは、オロッコ(ウイルタ)のくだりである。
「オタスの杜の住民たちのかなりの部分は、日本人のカラフト引揚者とともに北海道にわたって網走の郊外に定着した。オタスの杜にいたウイルタ族のひとり、ゲンダーヌさんは戦時中に日本軍に徴用され、カラフトで諜報活動に従事していた。終戦のとき、捕虜となってシベリアに送られたが、のちに日本兵とともにかえってきて、網走のウイルタたちと合流した」。それにしても、軍国・日本はさまざまな民族を悲しい目に合わせ過ぎているのではないか。
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