要するに党派が解体した時点で「書き言葉」は終わった。今、書き言葉でどういうものいえるか。という痛烈な問題意識がある。これに対して、共同体験を軸にした「話し言葉」の世界こそが大切にしたいものだというわけだ。とすれば、そう簡単に新たな「メッセージ」などおいそれと書けるわけがない。神津さんが企画を呼びかけたところで、実際の作業が簡単に動かなかったのも当然というものだ。
僕のように組織に直接関係を持っていない人間には、こういう発言はつらいものがある。新聞「叛旗」がどれほどの人たちに読まれていたかは知らない。だが、中枢活動家の自負とは別に、地方にあった多くの全共闘系活動家大衆は僕のような「書き言葉」の「叛旗」だったのではないか。そうした注目者・購読者たちにどのような<現在>を伝えられるかどうか。僕にはそこだけが今回の試みに感じた最大の魅力であった。
それぞれの参加者たちは自らの現在に引きつけてメッセージを発している。こころゆすられるものもあれば、そうでないものもある。そうだ。誰にもまた20年の時が流れたが、その時間はそれぞれに固有の影を落としているからだ。共同性に最も拘ったものたちの、新しい共同性を獲得できぬままの発語は引き裂かれざるを得ない。「途上にて」を読みながら感じたのは身辺雑事にも貫かれている党派意識のようなものであった。それはある意味ではまだ党派の残り香が強烈に存在していた「MESSAGE
FROM THE THIRTY」以上に激しいもので、[THIRTY]のほうがある種の普遍性を持っていたように思う。
なぜ書くのか。書くことの普遍性をお前は本当に突き詰めているのか。そうした自問の果てに、かろうじてこの「途上にて」の発語はなされている。そうした微妙なバランスが痛いほど伝わってくるのだ。とすれば、この本はどのように同世代あるいは若い世代に読まれるのだろうか。「叛旗」も結局、思い出の中にしか存在しないと映るのかどうか。あるいは今なお「叛旗的なるもの」は健在であると映るか。未だ「途上」である。