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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています
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シン・たかお=うどイズム β
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某月某日
吉本隆明『時代の病理』(春秋社、1700円)。インタビュウーアーは田原克拓さん。「試行」の映画理論家と思っていた田原さんが、今では性格教育センターなどという組織を作ってカウンセリングの仕事をしているのだそうだ。テーマは消費社会における不安はどこからくるのか、ということで、最初はカウンセリングの方法全般についての考察が行われ、続いて脳死や新新宗教問題、最後にバブル崩壊と新しい公害病について語られる。
最近の吉本隆明さんの本はいつもそうだが感心するところが膨大であるが、一方で少なからぬ異和を覚えたというのが感想である。 さて、カウンセリングについて。吉本隆明さんは、ここで例によってフロイト派であることを強調している。その上で、わが森田正馬の森田療法をフロイト的ではない、と批判して見せる。確かに、フロイト的スティグマ分析は魅力的で深みがある。ぼくにもフロイト的な方法論は文学的で楽しい。しかし、フロイトは結局論理が円環するところがあって性格的な歪みの背景を分析することはできても、その歪みを本当は抜け出せないところに特徴がある。もちろん、森田療法も病者を直さない点では共通である。
吉本隆明さんは、森田療法は本当は病気が直っていないのに直っていると言っているのはおかしい、と批判されている。しかし、これは違う。田原さんが冷静に答えているように、森田療法は心的構造を扱わない。その代わり、ぼくの知っている限りでは人間の自己回復力みたいなものに対する信頼が根底にあって、病気は排除できないが、共存は可能である、というあいまいさを大切にしている。「あるがまま」というのは病気を直したというのではなく、病気もまたひとつの日常であることを示しているのだ。その限りで療法として有効なのだ。そのためには、病気を隔離的に扱うのではなく、病的状態が強くなった時でも、日常生活を普通に営む中で開放的に扱う。それが「あるがまま」の態度の限定であり、意義である。そこを心的世界にこだわる吉本隆明さんは少し誤解している。ぼくは病者として、対療法のフロイトよりも森田療法に軍配を挙げるとだけ言っておこう。
さて、つぎは新新宗教論。偶然にも前回、又聞きの講演からオウム論を述べたが、このインタビューで吉本隆明さんがオウムに悪意を持っていないだけでなく、大変、高い評価をされていることが分かった。吉本隆明さんは戦後の新宗教が倫理、欠乏を根底に置いているのに対して、新新宗教は超人性を根拠としていることを指摘した上で、倫理の可能性の有無を述べている。超人性という概念をぼくは吉本隆明さんのように具体的体験として考えるのではなく、シミュレーションとして理解する。現在はシミュレーションとシミュラークルこそが専制君主なのだ。大川隆法や麻原彰晃らは意識的であれ無意識であれ、虚構の物語を真実であるかのように語り、そうした方法の現在性を物神化しているのだ。彼らの倫理が駄目なのではない、彼らの高度資本主義を体現した物神性こそが批判されねばならないと考える。
最後に、時代の病理。吉本隆明さんがバブルについてどこまで怒っているのか、よくわからない。バブルをヨイショした長谷川慶太郎らをどう考えているのかよくわからないからだ。生活する大衆、自立する大衆像がぐらついているのか?吉本隆明さんは現代を選択消費の時代と抑え、大転換期の徴候か、と指摘する。さらに産業構造の変化の中で、神経的ストレスが増加し、第三次産業病、現代の最大の公害病が起こっているという。この考えは凄いと思う。ぼくらには思いつかないことだ。ここはもう少し勉強したい。
某月某日
吉本隆明『世界認識の臨界へ』(深夜叢書社、2800円)。松岡祥男君が中心になってまとめた吉本隆明さんの近年の単行本未収録インタビューをまとめたもの。最初の2本「都市と詩」(聞き手・正津勉)「生活と思想をめぐって」(同・松岡祥男、粟島久憲、倉本修)を読んで改めて勇気づけられるところが多かった。
》向こうからどちらかを選べみたいなそういう条件がやってこない限りは、あまりこっちからはそのことに、考えを費やすことはしないっていう発想です。そのかわりだけれども、労力の問題、労力っていうとおかしいかな、その問題は自分の問題になってかぶってくるわけで、半々ずつエネルギーを費やして均衡をとる。ほんとうに考えつめちゃうともうにっちもさっちもいかないわけだけど、こっちから考えることはしない。考えつめろというふうに向こうから条件がきたらばそれは考える。それまで考えつめないっていうふうに発想しますね。
これは勤めながらものを書く生活について述べたくだりだ。言われていることは要するに、向こうからやめろ、と言ってくるか、自分が手を揚げるまではやるっきゃないよ、程度のことである。ぼくはこの数年本当にしんどい場所に追い込まれている。幸い、まだ向こう側からは「天の声」は聞こえてこない。時間的にきついと思うことが多いけれど、もう少しがんばってみたい。
》黒田(喜夫)さんが自動販売機に憎悪をぶちまけたのも、私的な好みとしてだったらちっとも問題じゃないんです。それが公 的なイデーにまで拡大されたなら、それはまちがうんじゃないかという感じがします。必然力というものに対してまちがうんじゃないかと思うんです。少なくとも自動販売機ができていくのは一種の必然力だとぼくはおもいます。
ここには都市論・近代化論の吉本隆明さんの原則のようなものが述べられている。吉本隆明さんは黒田さんのようなルサンチマンを好みの問題としては共有もしくは否定しないまでも、それがイデオロギーとして出てきた場合、ちょっと違うとする。これは「武蔵野の緑を守れ」「町名を保存せよ」という運動に対しても、私的愛着とは別のレベルで必然力として進むのならば、天然の緑がなくなろうと、昔からのなじみの町名がなくなろうと仕方がないというのが、吉本隆明さんの考えである。
ぼくはどうか。確かにどこかで黒田喜夫的なものがある。しかし、そういうレベルはもう超えちゃったというのが高度資本主義だろうと思う。かといって、それが「必然力」と言いきる自信はない。そこがたぶん吉本隆明さんの科学主義・原子力肯定論と分かれる感性的根拠になっているのだと思う。
まあ、意見の分かれるところは仕方がないのであって、ぼくは科学=人間に懐疑的でありつつ、進むしかない。
最後に世界認識。
》現在、ぼくは世界的な規模で、敗戦にぶつかっているんだとみなすのが世界把握としてはいちばん考えやすいし、正確だとおもっています。
吉本隆明さんは現在は目に見えない大混乱と大転換の時期だと言う。よほど徹底して考えないと、現在のこの転換期の世界は掴めない、と言う。そうだ。ぼくもまた日和らずに断固として進まねばならない。
某月某日
笠井潔『梟の巨なる黄昏』(廣済堂出版、1500円)。久しぶりに笠井の小説を読む。実は「哲学者の密室」なる話題作も用意しているのだが、余りの大作にまだ手をつけておらず、こちらから行くことにした。
タイトルの「梟の巨なる黄昏」とは神代豊比古という作家が戦後まもなくに書いたという幻の観念小説だ。その小説を導きの糸に、物語は登場人物たちの内面が入り組んだ関係とともに描かれ、ミステリ=殺人衝動へと話は展開していく。ちなみに、狂言回し役の小説中の「梟の巨なる黄昏」なる小説は次のような作品だとされている。
》「その小説は、世界を破滅させる観念の時 限爆弾だと書かれていた。われわれの現実 世界はすでに、作品に封じられた言葉の宇 宙において死滅しているとも。その読者は、 例外なしに破滅する運命に呪われるだろう ・・」
さてこのもったいぶった観念の示唆された小説が読者を期待させるが、本来の物語はしかし、残念ながら今一つ弛緩していて面白くない。強いて、笠井特有の認識が示されているのは次のようなくだり。
》「(前略)本当に戦争を体験した人なら、 必死で建てた家も一瞬にして瓦礫と化してしまう事実を、絶対に忘れられないのじゃないか。戦場では学歴なんか、なんの役にもたたないんだ。僕の叔父やきみの父親のように、そうした人は戦後社会の平和や繁栄や、秩序だの安定だのに、どうしてもなじめないんだろうな。」
》「お母さんは、なんというか意識の部分では、それなりに戦後社会のモラルやルールを信じているんだろうね。でも無意識の部分で、それが嘘であることを知っているんだ。嘘を本当だとする自己欺瞞には、やはり我慢できそうにないと。(中略)お母さんはたぶん、ろくでなしの夫につきあい続けることで、間接的に戦後社会の現実を批判し、それと対峙してきたんだ。」
まあ、戦後批判派としての笠井の場所はよく出ているというべきか。戦争を体験してきたものの目には、繁栄など幻でしかない。そこまで悟った場所に、一見生活破綻者に見える戦中派の世代の親たちを遇しているわけである。だが、この挑発的な言辞も本当は半面の真実しか表していない。なぜなら、そうした生活破綻は地道に生きることの膨大な積み重ねのネガでしかないからだ。戦中派大衆にとっては、すべてが崩壊した地点から、自らの生活を再建することこそ、希望であったはずだからである。そこに<ネガ>を繰り込むことこそ、体験の上に築かれる大衆の自立的課題だったからである。
さて、物語は売れない文学者の夫とその理解者である妻と、そしてかつて二人の友人であり現在は売れっ子作家になっている男と、「梟の巨なる黄昏」を手にした出版者の野心的な女性とが、それぞれの思惑を秘めながら破局へと突き進んで行く。そして、物語は犯罪を計画した人物の予定通りの進展を見せるが、最後に思わぬ人物が思わぬ使命を帯びた絶対者として登場して、思わぬ結末を迎えることになる。
結末を明かすことになるので、具体的には述べないが、実際はこうはいかないという、犯行の甘さと、作者は結局、すべてを破壊したかっただけか、という物足りなさを感じたのであった。
某月某日
吉田和明の『あしたジョー論』(風塵社、1400円)。吉田君の力作マンガ論。うーむ。エンターテインメントだね。面白かった。良かった。吉田和明。ただのアホと思ったこともあるけれど、本当は天才カズボンだったのかもしれないなあ。俗流であることも含めて、気合いが入っているのがいい。本当にジョーの戸籍探し近いことをやっちゃたエナルギーには感動した。
さて本論、やはり「あしたのジョー」というと赤軍派になっちゃうのかな。吉田君も引用しているなあ。例の「共産同赤軍派万歳。そして最後に確認しよう。我々はあしたのジョーであると。」っていう名セリフ。国際根拠地論に基づいて、日航よど号をハイジャックし北朝鮮に行った諸君。カッコよかったなあ。現在はともかく。吉田君はかれらのことを引き合いに出し、さらには尾崎豊を分析しながら次のように述べる。
》<燃え尽きたい症候群>に冒された者たちが、ジョーという<燃え尽きたい症候群>に冒された物語(ネバーランド)の中の主人公に、自らの生を重ねあわせた・・。 むろん、<燃え尽きたい>願望を持っているにもかかわらず、それを貫徹しえずにいる自らの存在のだめさかげんを感受しているときには、なおさらに、僕たちはジョーを自分たちのヒーローとして、まつりあげずにはいられないだろう。
そして、「よど号」をハイジャックした赤軍派の人たちもまた、自分に比べてより徹底した生き方をしているジョーを、羨望の眼差しをもって眺めていたに違いない。それ故、彼らは<あしたのジョー>にならんとした。
この当たり極めつけの俗流だね。でも、それが正解だから仕方ないか。最低の部分を引用したから次は最高の部分を次に示そう。
》ではなぜ、ジョーは孤独を好む人間になってしまったのか。ひとことでいえば、それは他者に対する<関係性の異和>感に、ジョーがとらえられていたからだといえる。(中略)ジョーの悲劇は、ここにあるといっていい。人間関係というものは、どこか 曖昧な、いいかげんな部分を残しておかなければ成立しえない。ジョーには、そのことがわかっていない。否、わかろうにもわかりえなかった・・。
うーむ。文学的だ。ジョーを<関係性の異和>という概念で分析したのは吉田君の才能とセンスの冴えである。
でも、最後に言っておこう。オイラは「あしたのジョー」をあまり好きじゃない。なぜか。戦うことが自己実現であってもいいが、つまり過剰に意味付与された戦いは倫理的であり小乗的かつ求道的色彩を帯びてしまうからだ。やせ細った倫理でギリギリと自己と関係を締め挙げていくことは、人間の全体性獲得を必ず放棄させてしまわずにはおかないからだ。ジョーのカッコ良さは、本当は無数の可能性の放棄によってもたらされたものとしてなりたっている。そして、そうした他者に自己のなしえぬ夢を、仮託する代行主義。それは宗教的である。オイラはそうしたセクトが好きではないのだ。だってそうじゃいか、一人の求道者の背後に存在する膨大な不具者を無視しなければ、宗教的セクトはなりたたないのだ。ジョー的な生き方、感動するけれど、オイラはついていかねえ。なるべく、かっこ悪いほうがいい。限りなく普通であることの難しさ、親鸞的な自然を、僧でもなく俗でもなく、と笑いながら進んで行きたい。
某月某日
ルイ・アルチュセール=聞き手・フェルナンダ・ナバロ、山崎カヲル訳『不確定な唯物論のために』(大村書店、2060円)。晩年にいろいろな不幸が重なっていたと思われるアルチュセールが気鋭のメキシコ人哲学者と自分の思想について、マルクス主義の状況について積極的に語っていた。懐かしさ半分、知的刺激が半分というところであろうか。
本論の前に、アルチュセールの小伝が書き留められている。それによれば、彼はちいさいときにカトリック教育を受けていた。しかし、戦争によってドイツ軍の捕虜となり5年間を収容所で過ごし、その間に心理的に不安定になり、欝病になったという。そのためいくつかの精神病院を渡り歩いた。しかし、その絶望的な状況で、アルチュセールは共産主義の思想や理想を耳にし、それを受け入れたという。いわば、共産主義は荒廃の中から立ち上がったアルチュセールの希望そのものであったというわけだ。とすれば、社会主義陣営の分裂がどんなにか、心痛いものであったか、という気がする。1991年の死の前に東欧の崩壊・ペレストロイカを歓迎を持ってみていたという。もちろん、そうした見方は単純化しすぎているように思われるが、不幸な人生の最後においても、決して希望を失っていなかった傍証として理解しておきたい。
さて、アルチュセールは彼のマルクス主義に適したもの言いとして「不確定な唯物論」であると述べる。
》偶然性を必然性の様態あるいは例外として考えるのではなく、さまざまな偶然的なもの出会いが必然性を考えなければなりません。
この点で私は、哲学史によっては認知されていないような唯物論的伝統を強調したいのです。デモクリトス、エピクロス、マキアヴェッリ、ホッブズ、ルソー(第2論文)、マルクス、ハイデガーの伝統であり、また、空虚、限界、周縁、中心の不在、中心の周縁への移動(またその反対)、自由といった彼らが主張してきた諸カテゴリーを、私は思い浮かべています。そこで問題になっているのは、出会いの、偶然性の唯物論、つまりは、不確定なものの唯物論であって、それは通常マルクス、エンゲルス、レーニンに帰属させられているものを含めた、あれこれの制限された唯物論に反対しています。なぜなら、合理的伝統のうちにあるいっさいの唯物論と同様に、それらは必然性と目的論の唯物論、つまり、観念論が偽装した形式である唯物論だからです。
まさしくそうした思考が危険なものを示しているために、哲学的伝統はそれを解釈して、自由の観念論へとねじ曲げたのです。
哲学についても唯物論についても、僕はほとんど無知である。強いて言えば、初期マルクスの「受苦と情熱」の弁証法を明らかにした田中吉六氏や「認識と表現」の構造を解析した三浦つとむ氏の主体的唯物論をかじった程度である。そういう人間が大先生に異議を唱えるのも実はおおそれたことだとは思うのだが、アルチュセールらの資本論理解、反人間主義については、考え方は分かるが余り賛同していない。
だが、ここでアルチュセール言っていることは大変刺激的である。要するに、ゴリゴリの唯物論の時代は終わった。観念論的と思われる哲学的異端の中に可能性があるということである。依然として変わらぬ反人間主義には納得できなかったが、アルチュセールという稀代の哲学的挑発者の本領を感じた。
某月某日
谷沢永一の『山本七平の智恵』(PHP研究所、1700円)。反動による反動についての反動的解説。要するに山本七平をダシに自分の俗物性をひけらかしてみせているのが本書である。
》普通、山本七平の仕事を総称して山本学と言われる。この山本学の目指すところは日本人論であった。日本人とはなにか、日本人の心性、つまり日本人のものの考えかた、感じかた見かたにはどういう特徴があるのか、その日本人が群れ集っている日本人社会は、どういう見えざる原理で動いているのか、その日本人社会の運行原理に対処するにはどうすればよいのか、それが山本学の中心課題であった。この問題に関心をいだかない日本人がいるだろうか。山本七平は、日本人としていちばん大切な、いちばん肝心な問いかけに答えようとしたのである。
要するに、日本社会の特徴を批判しつつ適合してみせる処世術というのが、山本七平であり谷沢の真骨頂であるというわけだ。こういう輩は結局、少数派を切り捨て、大勢に順応して延命してきたことを暴露している。
》私は、若い時共産党に入ったが、共産党がそれと同じだった。情勢が悪い。そんなことを言おうものならだめなのである。情勢は常に有利なのである。日本帝国主義はいま崩壊寸前に達している。戦後も日本帝 国主義があった。いまでも三派は言っている。日帝とか米帝とか言っている。もう決まっている。日本帝国主義はいまやもう崩壊の危機にある。「上層の危機、下層の危機、いまや全労働者の革命的意欲は高まり」と言わないといけない。「そんなことを言うけれど、ことし、二万票しか取れないだろう」などという選挙ウオッチャーはだめである。
その気白鬼のうまい人間が共産党内で出世していった。
やっぱり。長谷川慶太郎にしろ、この谷沢永一にしろ日共体質がみえみえだ。珍しく、自己の反革命の来歴を語ってみせたが、結局聞こえてくるのはスターリン主義ずぶずぶの客観主義と主観主義による誤謬と主流に成れなかった怨恨以外の何物でもない。自分は宮本顕治や不破のとりまきを知っている、あいつらはみんなゴマスリで出世した人間だ、徳田球一が大阪に来たとき、みんなどれだけゴマをすったか、それにワイは負けた。そんなことを聞かされたって、そりゃ大阪のおっちゃん残念やったね、とオレは笑って頭をなでてやるだけだ。
代々木じゃ出世できないので脱落したのが良かった、という気持ちは判るが、そりゃああんたの勝手だよ。オレは代々木は大きらいだが、あんたのような、処世のために生きている人間ばかりが、あの党の中にはいるわけじゃないことを知っている。オレは限界があっても素晴らしい人間がいることを評価している。逆にあんたのような人間が脱落して少しは風通しがよくなったところもあったんじゃないかな。どうみたって、あんたの体質は今だにスターニスト丸出しだぜ。
》山本七平は事柄を文勢で考えたことがいちどもない人である。非常にリアルである。ところがこと小林秀雄に関してだけは非常に点が甘い。
それは、山本七平の方が谷沢某より少しはまともだった、それだけのことだろう。
某月某日
高村薫『マークスの山』(早川書房、1800円)。第109回直木賞受賞作品だそう。当然のことながら期待して読んだわけだが、今ひとつ物足りない。何故か? 一つは推理小説にしては犯罪者が明白でありすぎること。被害者がいかにも主体性がないこと。警察側がいかにもトロくさいこと。まあ言いだせばきりがない。だが、やはり言っておきたいことは主人公=犯罪者が精神を病んでいることだ。このことによって、犯罪が行われるような書かれ方は私には不愉快なのだ。
ついでに、犯罪の原点とでもいう部分にあるのは、学生運動の闘士だった人物を、「警察当局の求めに応じて、左翼系学生の身辺に関する情報を当局に提供していた」という当局の「イヌ」を中心にしたグループが一種の精神的パニックの中で殺していたということである。もちろん、「権力のイヌ」は許せないが、どうもこの殺しの設定が好きになれない。
オビに「白熱の警察小説の誕生」とうたっているが、警察の面々もどうなのだろう。この小説の面白さを言えば、恋愛小説的な部分か。主人公と看護婦の報われない愛の中に、現代のリアリティーがあるように思った。
ちなみに、著者の横顔を引き写しておきたい。高村薫は1953年大阪生まれ。国際基督教大学卒業とある。ほとんど、オレらと近い世代なわけだ。最近、やたら体力が落ち精神力も落ちてしまった人間としては、この部分では刺激を受けた。知人によると「リヴィエラを撃て」は結構面白いそうで、機会があればそちらを楽しみたい。
某月某日
本川達雄『ゾウの時間ネズミの時間』(中央公論社、660円)。サイズの生物学、とサブタイトルにあるように、動物の体のサイズによって時間はどう比較されるのか、を平易に説いた科学書。文明論的面白さもあって、ただ今大ウケという。確かに「ヘーッ」という部分が沢山ある。
》時間は体重の4分の1乗に比例するのである。体重が増えると時間は長くなる。ただし4分の1乗というのは平方根の平方根だから、体重が16倍になると時間が2倍になるという計算で、体重が16倍なら時間も16倍という単純な比例とは違い、体重の増え方に比べれば時間の長くなり方はずっとゆるやかだ。
》寿命を心臓の鼓動時間で割ってみよう。そうすると、哺乳類はどの動物でも、一生の間に心臓は20億回打つという計算になる。
寿命を呼吸する時間で割れば、一生の間に約5億回、息をスーハーと繰り返すと計算できる。これも哺乳類なら、体のサイズによらず、ほぼ同じ値となる。
物理的時間で測れば、ゾウはネズミより、ずっと長生きである。ネズミは数年しか生きないが、ゾウは100年近い寿命をもつ。しかし、もし心臓の拍動を時計として考えるならば、ゾウもネズミもまったく同じ長さだけ生きて死ぬことになるだろう。
》あ、これは「島の規則」だ! ルイーズの話を聞きながら、そう思った。島国という環境では、エリートのサイズは小さくなり、ずばぬけた巨人と呼び得る人物は出てきにくい。逆に小さい方、つまり庶民のスケールは大きくなり、知的レベルはきわめて高い。「島の規則」は人間にもあてはまりそうだ。
生物学が即、人間の社会学に適用できるかどうかは疑問だが「類推」としては面白い。ある側面を度はずれに強調する誤りを犯さない限り、科学エッセイは魅力的だ。
某月某日
降旗節雄・一瀬敬一郎『裁かれる成田空港』(社会評論社、2266円)。成田空港問題が円満に解決するかのような幻想が円卓会議開催によって流布されているがしかし、成田空港の不当性は一向に変わっていない、依然として強制収用により2期工事を推進しようとしている政府姿勢を告発する書。他に宇井純(公害原論、沖縄大教授)、長田泰公(元国立公衆衛生院院長、共立女子短期大教授)氏ら様々な経歴・思想の持ち主が参加している。もっとも、基本的には三里塚芝山連合空港反対同盟(北原鉱治事務局長派)の主張を展開していることは明らかである。
》三里塚農民は、あの水俣の人々が日本の高度経済成長期の犠牲を一身に受けて根底的な告発者として生き闘い続けているように、農民の生命たる農地を強権によって強奪しようとする国家権力に対し、大地に踏みとどまって抵抗し、私たちすべてすべての未来のために闘っている。
問われているのは、国民の側の三里塚農民に対する責任の問題である。
いまだに、三里塚が「日本のパリ・コンミュン」である、と同書は主張し、「成田空港の廃港を勝ちとっていこう」と訴えている。その意気やよし、というべきか。
某月某日
筒井康隆『断筆宣言への軌跡』(光文社、930円)。筒井さんが「噂の真相」で「プッツン」して「キれて」しまい、断筆を宣言してしまったことが大きな反響を呼んでいる。この書は筒井さんが永年雑文を書き散らしてきた「噂の真相」誌の文章を軸にまとめたもので、いかにも光文社がタイミングを見計らって出したという印象が強い。
もっとも、筒井さんが断筆してしまったので前書きは井上ひさし氏が書いている。この前書きがこれまた奇妙なもので、途方に暮れてしまって、「われわれと彼等」の自分の差別・被差別体験を紹介しながら、とにかくそのような関係を変えていかなくては、と書きながら、さっぱり気勢があがらない。そりゃあそうだよなあ、全面的に筒井さんに賛成ならば、井上ひさしさんも筆を絶たねば筋が通らないわけで、かといって一定程度評価・理解しなければ、前書きの意味がなくなってしまうわけで、井上さんの気勢が上がらないのも当然というものだろう。
さて、問題の筒井さんの断筆宣言だが、オレは別に評価しようとも思わない。差別的なことを書かなければ、作品が成立しないというなら、現在の世の中には批判勢力が存在するのも事実なわけで、それを覚悟するのが当然だろう。書きたいという情熱がある限り、どのような方法でも書くというのが作家というもので、逆に言うとオレは筒井さんが、書くことがなくなったから、書く情熱がなくなったから「断筆宣言」をしたのだと理解している。違うか?
ともかく、筒井さんの主張を聞こう。
》文芸家協会が用語規制反対の声明を出したのはもう10年も前のことである。あの声明の効果はまったくなかったし、用語規制はますますひどくなる一方である。文章による言語が規制されることによって小説の言語が新聞記事やお役所の公式文書に限りなく近づけば少なくとも小説家の表現の自由などは破壊されたに等しい。規制用語の大部分は差別語と看倣されている言語だが、他にもタブーとなった言語や表現はたいへん多い。タブーの語源がタヒチ語のタブー(TAPU)であることからもわかるように、タブーの多い社会ほど原始的な社会である。差別が現存する社会だから日本が未開社会であるのは当然だが、差別をなくすための用語規制というのはその社会の文化的拝啓まで破壊することになり、未開度が逆に進行するだけなのだ。タブーの多さゆえの文化的未開社会ともいえよう。
(「タブーの多い社会ほど原始社会である」)
オレは言葉を言い替えることで差別がなくなるなどとは思っていない。それでも、たとえばの話だが「めあき」「めくら」などと呼ぶことには賛成しない。そうじゃないのか。タブーが多い少ない、という問題ではなく、やはり、その言葉にはどうしょうもなく差別的な感覚がまとわりついていることを否定できないのだ。それは一般的な場面では避けるのが当然というものである。それはタブーでもなんでもない。生きる上の時代的知恵とでもいうべきものだ。言葉は時代によって変わる。ある時代には当然であり、何の違和感も持たれなかった言葉が、ある時代には別の言葉に変わっていくのは必然である。オレは言語の守旧派には組みしない!
某月某日
宮部みゆきの『スナーク狩り』(光文社、1100円)。吉川英治文学新人賞・日本推理作家協会賞受賞第1作とあるから、高村薫と並ぶ今や超売れっ子作家になってしまった彼女の初中期の作品ということになろうか。物語はいささか入り組んでおり、文章も必ずしも十分に練られたとはいえない。このためかならずしも読みやすい小説とはいえない。
それでも読み進んでいくうちに、文体がなじんできたのかグイグイと引き込まれていくのが凄い。銃を向けあっての命のやりとりをする部分の緊迫感、さらに一瞬のトリックにも似た銃の発射場面など、やはり、優れた作家の力量が示されているということか。全然作風が違うが、ふと死んだ中上健次の初期の作品を思いだした。
内容は要するに妻子を殺された男性が復讐のために、ある女性の銃を奪い、車で東京から北陸へと復讐の旅に向かう。これに、それぞれに不幸の影を背負った人物達が絡み物語は意外な(予想通り?の)結末を迎えることになる。
スナークとは何か? 実は僕にはよく分からなかったが、登場人物が次のように説明してくれる。
》そうそう、『スナーク狩り』というお話を知っていますか? これも修治さんから聞いたんです。ルイス・キャロルという人の書いた、とてもおかしな、長い詩のようなものなんですけど、スナークというのは、そのなかに出てくる、正体のはっきりしない怪物の名前なんです。
そして、それを捕まえた人は、その瞬間に、消えてなくなってしまうんです。ちょうど、影を殺したら、自分も死んでしまったという、あの恐い小説みたいに。 (同書285頁)
作者は、たぶん人間をとことんまで突き放し、最後の一線で信頼しているように思われる。一方で、自らの影を殺し消えてしまう人間を描きながら、同時にそのこと自覚的であり、そこで傷つきながら立ち直ろうとする一組み人間を描くことで。
ミステリーの形をした純愛小説といえるかも知れないと読んだ。ちなみに作者の宮部みゆきは1960年生まれ。都立墨田川高校卒業後、速記者、法律事務所事務員を経て作家となった。面白い経歴だ。
某月某日 もりたなるお『逆浪(げきろう)―1警備警察官の30年』(新潮社、1250円)。オビにいわく「混乱の時代のなかで、警察官も倒れ、傷ついたことを人々は知っていただろうか―」。
オレは知っていたと思うね。つかこうへいの世界じゃ、学生と機動隊は愛に包まれた相似形の中を生きているように、描かれていたはずだから。だが、何のために彼らは傷つかねばならなかったのか? そのことを思うとオレはやはり同情できない。
つまり、治安と体制を職業として守るために駆り出されたのだから。主体的に世の中を変えようとして傷ついた学生・労働者と同一視するのはやはりおかしいのだ。だから、学生運動への圧倒的共感や理解が失われた現在にあっても、大衆は権力の積極的な担い手でない限り、青春を理想とともに生き、傷つき倒れていった学生たちにシンパシーを伏流のように抱いているのである。砂川闘争を、60年安保を、そしてまた三里塚の農民の闘いを、民衆の記憶から消し去ることはできない。
さて、本書の主人公は森田高義という警備畑一筋に生きたノンキャリア警察官である。少年警察官時代(こまわりくん?)に吉川英治の講演を聞き、戦争の持つ人間性破壊を知りながら軍国主義を生きた少年は、戦後も警察官として権力の側を生きることになる。
人間は自らを合理化するものだが、その時の精神とは同僚の次のような言葉に端的に示されている。
》「この交番は進駐軍の慰安所を抱えていて、なにかと 問題が多い。アメリカ兵は勝った勢いで警察をナメて かかるが怯んではいけない。毅然としることだ。軍隊 なきあとの日本を守るのは警察しかないのだから、そ のつもりでやってくれ」 (同書25頁)
軍隊の代わりを警察が務める。とすれば、警察の針路はどういうものであらねばならないか。相撲取りの太刀山が強く相手力士が恐がって逃げた例を引いて言う。
》「太刀山を機動隊に置き換えてみる必要があると思う。機動隊がもっともっと充実して、騒擾する多衆がとても太刀打ちできないとなれば、ジグザグデモで衝突してくることはなくなる。警備の隊列に触れただけで、はじきとばされるとわかれば、規則違反や法律違反は自制するはずだ」(同書75頁)
名案のようだが、これは明らかに治安警察の発想そのもである。集会やデモは民衆の当然の権利である。そのことを忘れて、先鋭化するデモをやっつけ封じ込めることを手柄と考え、そのためには、機動隊の暴力を強化・近代化することが一番という公安警察国家の発想がここに率直に吐露されている。
そうした警備専門の男の命を奪ったのが金大中氏拉致事件であったというのは皮肉である。韓国のKCIAの方が、日本の治安警察より上手だったのか、それともこうした現場の人間とは別のレベルで権力が共同して動いていたということか?
砂川闘争で正義が警察ではなく民衆の側にあることを知りながら、後戻りは出来なかったところに不幸がある。彼は「ナンチュウことはない」というのが口ぐせだったという。しかし、本当はその「ナンチュウことはない」と踏み越えたところに大切なものが横たわっていたのである。
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