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 パソコンを読む  7・8・9

【パソコンを読む】7 《2000年危機という妖怪》 (1999.11)

§1《世紀末=危機論の跳梁》
 こんな気分は久しぶりだ。今や危機論=革命論の時代らしいのだ。状況が切迫しているのは間違いない。すでにファイナルカウントは始まっているらしい。もちろん、私の気分は暗いもんじゃなく、すこぶる爽快だ。カタルシスの予感が走る。
 だから思わずマルクスとエンゲルスの「ヨーロッパをひとつの妖怪が行く。共産主義という妖怪が。」という「共産党宣言」の冒頭の一節さえ浮かんでこようものだ。
 あのときは19世紀で生産力の偏りがあり先進国同時革命論だったからヨーロッパが主舞台だった。今度はヨーロッパじゃなく、世界だ。すなわち世界同時革命ってわけだ。いささか前ふりが長くなったが、イントロはこうだ。
 「世界をひとつの妖怪が行く。<2000年危機>という妖怪が。」
 そして、核心は「ドイツ・イデオロギー」だ。

 「共産主義は経験的にはただ『一挙に』または同時になされる支配的な諸民族の行為としてのみ可能であるが、このことは生産力の普遍的な発展およびこれにつながる世界交通を前提としている」

 マルクス=エンゲルスの予言によれば、共産主義はかくして一挙的に実現するはずであった。しかし、ヨーロッパ諸国、なかんずくプロレタリアートへの階級形成の最前線たるドイツでの革命勢力の敗北により先進国同時革命は夢まぼろしとなり、からくも労働者ならぬ農民主体の後進国ロシアで、レーニン、トロツキーの卓越した指導による力業で社会主義は実現した。そのソビエト・ロシアは一国=民族主義のスターリニズムというゾンビに変容し、崩壊したのであるが。
 ならば、今回の2000年危機はどうか。新しい展望はあるのか?

 その前に今更ながらのおさらいであるが2000年危機のポイントを整理しておこう。危機はコンピュータの容量問題が淵源にある。プログラマたちは2バイトのデータを節約するために西暦表記を<1999>のような4桁ではなく<99>のような2桁で記録した。それは容量との戦いを迫られていたプログラマや業界にとっては当然の選択のように見えた。そのデータを埋め込んだチップやプログラムを組み込んだコンピュータが世界中にばらまかれた。しかし、<99>まではよいが、西暦2000年になると表示は<00>となってしまう。そこで<1900>と<2000>をコンピュータは判別できなくなる。すると、コンピュータは<100年>を勘違いして、時を計算してしまうおそれがある。計算ミスはコンピュータを利用した全ての機械・装置・システムに誤作動を惹起せしめるだろう。すなわち世界中のシステムが破綻してしまうかもしれないのだ。それが2000年危機である。まさにコンピュータに組み込まれた時限爆弾がタイムアウトを待っているのだ。
 相次いで出版された稲田芳弘、越智洋之著「『Y2K』サバイバル・シフト」(三五館、本体価格1400円)と、「地球の集まり」+津村喬編著「<2000年危機>から身を守る本」(洋泉社、本体価格1200円)を読む機会があった。
 さし迫る危機に何をなすべきか、との問題意識が徹底しており、今からどんな準備しておくか、という覚書として極めて有効なアドバイスを示している。この問題を他人事だと思っている人間には、とりわけ一読に値するといえよう。
 だが、両書を貫く基調低音はサバイバルである。危機に見舞われた社会をいかに生き延びるかというものであるが、いくつかの点で決定的な違和も覚えた。

 「コンピュータと通信の飛躍的な進化が、情報通信・航空・海上輸送・金融などグローバルなネットワークシステムを支え、その社会インフラの恩恵を受けて世界中がお互いにつながり合い(相互依存関係)、そのなかでモノ、カネ、ヒト、情報などのやりとり(貿易・ビジネス・交流など)が行われ、その上ではじめて日本の経済(産業)と生活が成り立っている。」「コンピュータ2000年問題が現に存在する。それは2000年に、同時多発的に問題を引き起こす(可能性がある)」(稲田芳弘、越智洋之著「『Y2K』サバイバル・シフト」)

 これなどは「生産力の普遍的発展と世界交通」を世界同時革命の要件とした「ドイツ・イデオロギー」のアナロジーそのものである。稲田氏によれば、まさに2000年問題は世界中に飛び火してパニックを起こすことは必定なのだ。
 必ず起こる危機に対して、私たちはどうすればいいのか? だが、そこから離陸していくときのスタイルが少し気になった。稲田氏は述べている。

 「最悪の事態としては石油がなくなり電気が止まる。さて、そのとき私たちはどんな生き方を目指すべきか。そのとき『Y2Kサバイバル・シフト』とはいったい何だろう。Y2K問題がピラミッド型社会を崩すことにもなると考えるとき、混乱からの再出発がかつてと同じ生き方であっては意味がない。発想をまるっきり変えた生き方こそサバイバル・シフトとはいえないだろうか」(同前)

 稲田氏はアメリカの科学者バックミンスター・フラーを援用しながら「モア・ウィズ・レッスィング」(より少なくすることでより多くを為す)というエコロジカルなバイオ・エネルギーの利用を提唱する。さらに、福岡正信翁の自然農法、最後にはかの石原莞爾の「最終戦争論」による<都市解体・農工一体・簡素生活の見直し>へという結論にたどり着くのである。

 「Y2K時限爆弾が、あるいは本当に日本のピラミッドを爆破して崩し去るかもしれない。そのとき、しかし『山』はいよいよ美しくなる」(同前)

 「いまそこにある危機」に対して「生き方を変更せよ」というのが稲田氏の戦略である。これは魅力的か? 確かに! この原子力と化石燃料の浪費に満ちた社会を反省する意味で。私もまた、この社会に違和を覚えている。だが、エコロジーを媒介として石原莞爾に思い至ることに、私はいささか不思議な感慨を抱く。
 オウム真理教のハルマゲドンの近くに宮沢賢治や石原莞爾がいるというのが、拙論の要諦であった。ハルマゲドンは、キリスト教的には「裁きの時が来た」ということだが、「2000年危機」と言い換えても良い。危機に際して石原莞爾へ行く心性をどうにも信じられないのだ。行くも地獄、去るも地獄。それは、いつか来た道だ。

§2《オルタナティブへの転機なのか》
 稲田氏らの「サバイバル・シフト」と隣接して各論展開しているのが、津村喬氏らの「<2000年危機>から身を守る本」である。アメリカの小冊子「Y2K市民アクションガイド」を参考に、まさしく市民主義的に危機を突破して行こう、というのが彼らの主調である。個人が生き残るために各自が勝手にY2Kに備える「サバイバル・モード」では、システムが混乱する状況には対応しきれないから市民が助け合う「コミュニティ・アプローチ」を考えようというものだ。
 同書はマニュアル本の性格が徹底している。「政府、地方自治体、議員たちを動かすための質問状」「コミュニティのまとめ方マニュアル」「地域助け合い組織のつくり方とその道具」「個人・家庭レベルでの生活安全保障 何を、どれだけ備えたらよいのか?」などの各章は、どこかの政党か宗教団体のパンフレットを思わせる。

 「■ミーティングの進行ステップ
 (1)近所の人たちに話を持っていく方法
 ▼準備するもの
 @あなたがどうしてこの問題が大切だと思うのかを明確にする。
 Aその考えを裏付ける資料をそろえる。
 ▼近所の誰に話すか?
 @あなたが話したいと思う人、話しやすい人は誰か、考える。
 Aその人をお茶に誘ってみる。
 B準備した資料を渡しながら、あなたの言葉で説明する。
 Cすぐに理解が難しければ、2、3日してもう1度話してみる」(前掲「……身を守る本」)

 この呆れるオルグ活動の先に彼らは何をイメージしているのか。

 「常に覚えておいてほしいのは、『<ノアの箱舟>のノアは、嵐が始まる前に箱舟を作り始めた』ということです。私たちは必要なことをパニックが起こる前にちゃんと準備をする必要があります。そうすれば、何事かが起こっても、普段と同じように冷静に対処できるのです。/繰り返しになりますが、もう一度言います。Y2Kは、分かち合いの地域社会を作る絶好のチャンスなのです。こんな素晴らしいチャンスを逃す手はありません(会場から拍手)」「しかし、決定的なステップは、普遍的な魂を探し求め、社会的なカタルシスに対する崇高な努力によって、私たちの奥深くにまで浸透している工業中心主義のゆがんだ考えに気づき、2000年以後の社会が2000年以前のゆがみから解放されることなのだ」(いずれも同前)

 行き着く先はここでもオルタナティブな社会である。だがこれはいかにも陳腐だ。2000年危機が起こる以前から、エコロジストはオルタナティブなシステムを提唱していたのではなかったのか。それがコンピュータのバグを理由に「チャンス到来」と叫んでいるだけなのだ。彼らは自力で情況を作り出したのではなく、情況の浮力に乗せられて、舞い上がっているだけのように見える。

§3《批判的批判と革命的批判》
 もうひとつ私が違和を覚えるのはコンピュータに発した2000年危機を論じながら、コンピュータに対する批判の甘さだ。

 「決してコンピュータそのものにケチをつけたいわけではない。問題なのは、コンピュータを忠実な奴隷としてフルに駆使する人間のほうであろう。(中略)/Y2K以後のコンピュータはたぶん全く新しい考え方(価値観)に基づき、新たな社会システムを作り出す便利な道具として蘇生していくことだろう。新しい考え方のその萌芽はすでにあり、例えばインターネットやリナックス、フリーウエアなどの動きに早くもその気配が感じられる。/インターネットにはネットワーク全体をコントロール(支配・管理)する者がいない」(「……サバイバル・シフト」)

 コンピュータやインターネットは便利な道具だ。問題なのはそれを使う人間だ、と言うわけだ。私もかなり脳天気な人間だが、プロバイダ管理が進むインターネットの現状に対し、これほど楽観的ではない。インターネットが新たな管理社会への前哨に変容する危機感を少なくとも私は持っている。さらに、コンピュータが商品である以上、物神性=階級性を持っており、超階級的な道具と考えることなど到底できない。
 批判的批判に止まる者は、本稿の第4回で紹介した池野高理氏の「電脳拒否宣言」のごとき革命的批判を想起してほしい。池野氏はコンピュータ社会が差別を生む、と指摘した。「情報社会という口あたりのよいネーミングの下で展開される苛酷な労働−−それはコンピューターの『陰』の側面といった程度の問題ではなく、それがあるからこそ『光』の側面があるのです。とするならば、コンピュータは単なる道具である、したがって重要なのは使い方であるという捉え方で、社会変革を待つという姿勢からは何もうまれません」ときっぱり述べている。
 この潔さに比べると稲田氏や津村氏らの考えは楽天的すぎるというのは私の誤解だろうか。同時に高度消費資本主義に、自給自足を対置しても批判にはなり得ない。
 とはいえ、私は2000年危機がかなり怖い。このシステムの世界的破綻からの脱出口は、見いだせそうにもない。だから前述のごとく批判的に見ているが、「サバイバル本」が提唱する備蓄体制を、個人的には取り敢えずいくつか導入しようと思う。原発という「核兵器」を持つ電力会社には、最後まで2000年危機への対応を進めよ、と言うしかない。この期に及んで危機特需などをはやしている経済界を私は軽蔑する。政府は情報を統制するのではなく公開し、最善を尽くすことを徹底すべきである。
 イントロのハイトーンに反して言葉は重くなり、結末は今回も悲劇的である。2000年危機が「解放」への転機とは、とうてい私には見えない。
 この世界は地雷を敷き詰められたカンボジアや旧ユーゴスラビアの戦場のようなものだ。そこから別世界へ逃れることなどできない。私たちは今そこにある危機に対して、埋められた地雷を地道に拾いおこし、その土地を豊かな自然と生産力に満ちた大地へと戻していくしかないのではないか。陳腐な言い方だがシジフォスの虚無とダモクレスの不安を抱いて危機に立ち向かうしかないのだ。それは経済効率第一主義とコンピュータという反自然を手にしてきた人間が背負ってしまった業のように思える。


【パソコンを読む】8 《1999年を振り返る》(1999.12) 

§1《翳り見えたMS帝国》
客 おや、また新しいパソコンを買ったのかい?
主 東芝リブレットのドコモ用OEMのM3だ。投げ売り状態のせいもあるが、インターネット通販で飛ぶように売れているんだぜ。絶対買いだよ。
客 ウィンドウズ98を載せていながら実売価格はウィンドウズCE機より安いのか。CEってのはどう見ても中途半端だからな。東芝ファンの君にはぴったりかもな。
主 そういうことだ。リブレット20以来、久しぶりにリブラーに復帰した。
客 閑話休題。今年も終わりだし、パソコンの1年を振り返って見ようぜ。まずニュースの第1は、向かうところ敵なしのマイクロソフト(MS)帝国に翳りが見えてきたことだろうか。
主 確かに。ここ数年、MSに対して、フリーOSのリナックスが注目されていた。それが決定的になった。ハード・メーカーにリナックス搭載機を出すところが出てきたし、雑誌を見ても、UNIX系統のものが本当に増えた。
客 リナックス以外でもFreeBSDも人気がある。これらは、レッドハットのようにインストーラーを改善したパッケージソフトとして売られている。さらに、マックの流れのメディア系に強いBe−OSや、日本がルーツの日本語表示が自慢のTRON(B−right/V)なんかも出てきた。
主 リナックスがMSのウィンドウズなんかよりも優れているのは、システムの安定性、省メモリー性に加え、オープンソースで情報が公開されていることだ。MSと来たら、OS市場を独占しているのをいいことにユーザー情報の取り込みに熱心な割には自分たちの情報はブラックボックス化している。
客 だが、君は依然としてウィンドウズ98を使い、ブラウザーにはインターネットエクスプローラを使っているじゃないか。
主 そりゃ仕方がない。今使っているソフトは98対応のものがほとんどだ。それにリナックスを使いこなすには、DOSなんかとはレベルの違うコマンド類が必要だ。たいていの人は、リナックスをインストールしようとしてハードディスクを切り直したり起動ディスクを作ったりしているうちに壁に突き当たる。だが98は周辺機器のドライバーのインストールも簡単だしね。パッケージソフトを普通に使うなら、わざわざリナックスを入れて、苦労する必要はない。
客 それでも、メーカーもMS離れを起こしているから、将来はリナックスが一定程度のシェアを獲得する可能性はあるだろうね。
主 そうだろうな。でも、MSがリナックス以上に脅威に感じているのは米国の司法省や各州から起こされている裁判だ。MSのOSとソフト抱き合わせ商法は消費者利益に反しているという主張には、反論しきれないものがあり、和解やら分社化なども取り沙汰されている。おかげでビル・ゲイツはすっかり偽善家じゃなかった、慈善家になってイメージアップに躍起だもんな。
客 MSがシェアを失うことは、健全な競争原理を取り戻すためにもいいことだろう。いずれにしろOSに関わりなくパソコンを安く・簡単に・自由に使えるというのが消費者利益の原則だろう。

§2《マック王国の復活》
客 MS寡占の中で、ようやく復活の兆しが見えたのはマッキントッシュということになるかな。なにしろ、昨年出したiMacが大ヒット。続けてカラフルバージョンが出て、今年は低価格化を実現し、さらにはノート機のiBookまで売り出した。秋葉原では我が東芝やIBMは視野になく、NECや富士通以上に売れているところも多いらしい。
主 パソコンのヒット商品としてはiMacとソニーのバイオが双璧だろう。バイオのデザインや価格は魅力的だったが、物欲まみれのオレも食指が動かなかった。
客 それはまたどうして?
主 なにしろソニーには3度ひどい目にあっている。最初はビデオのベータ。次が小型FDを使ったワープロのプロデュース。3つ目がMSXのヒットビット。どれもソニーの先見性に期待して買ったが、すべて今は存在しないものばかりだ。だから、羮に懲りて膾を吹くって気分なのだ。
客 先日、パソコン量販店を覗いたら、一番いい場所にマックコーナーが設けられていたね。売るぞ!って意気込みが感じられ、その勢いは凄い。
主 確かに。オレもiMacを買ってしまったものな。周辺機器もスケルトン仕様が大流行。ソーテックが類似デザイン品をMSやインテルのお偉方を動員して大宣伝したら、アップルに訴えられるお粗末。結局、カラーデザインを変えたりしている。マック新戦略のiBookは持ち運びには大きすぎて中途半端だな。
客 あまりの人気で、アップルは価格を拘束したって公正取引委員会の立ち入り検査まで受けるおまけがついた。マックはどこまで伸びるのかな。
主 シェアは10%からせいぜい20%台だろうな。ハードメーカーの体制や販売店の布陣を見ても、それが限度だろう。
客 マックにはマック教徒といわれるほどの熱狂的なファンが多い。だが、彼らにはiMac世代の新ユーザーへの冷めた目も多いらしいね。
主 そりゃあ、そうだろう。彼らはマックが経営者たちの混乱による市場での劣勢の最中でも、大切にマックを守ってきたわけだ。そこにスケルトン仕様のiMacにいかれたオレらのようなにわかミーハー・ユーザーが多数派を形成するわけだから。ちなみにMSはインターネットエクスプローラをバンドルさせたうえ、マック用オフィスソフトもしっかり売っている。商売上手だ。
客 ビル・ゲイツとスティーブ・ジョブズの提携だもんな。いずれにしろiMac大衆が一過性のものなのか、新しい勢力として定着するかは2000年が試金石だろう。

§3《クレーマーの活躍と東芝受難》
主 今年の夏、一番熱くなったのは、東芝ユーザーサポート問題だろうな。
客 東芝のビデオデッキ修理をめぐるユーザーと東芝顧客応対担当者の交渉に端を発した騒動だな。君はそれが、「インターネット史上最大の反響を呼んだ騒動として後世に記録されるだろう」とまで評価したね。
主 「おたくさんみたいのはクレーマーっちゅうの」というのはけだし名言だ。インターネットにアップロードされた暴言テープを聞きたくて、加速度的にアクセス数が増加し、800万件を超す人間がそのホームページを覗いたということは凄いことには違いない。
客 その後、週刊誌がくだんの会社員氏が名うてのクレーマーだという記事を書いたりもした。最近、双方のボタンの掛け違いを検証した前屋毅「全証言 東芝クレーマー事件」(小学館文庫 495円)という本も出た。取り敢えず中立を装っているが、企業への警鐘になっており、企業の消費者問題担当者は必読か。この問題の君の評価は変わらないか。
主 もちろん。オレが評価したのは、まず消費者には文句を言う権利があるという当たり前の原則。次に、インターネット空間が大手新聞に匹敵する大衆を動員しうるメディアに成長しているという情況認識だった。このことは不可逆的である。
客 インターネットでのホームページをめぐる騒動はその後も、神戸の主婦が我が子虐待日記を掲載したり(これはどうもフィクションくさかった)、公安調査庁の名簿がいくつかのホームページに流れ、その掲示板が閉鎖されたりすることもあったね。
主 ここではインターネットが自由の空間であると同時に、新たな管理社会への前哨であるという背反した性格を刻印されていることを示している。匿名性ということが手放しで賛美されるべきでもないし、否定されるべきでもない。
客 表現の自由で言えば、ネチズン(ネットワーク社会の市民)としてルールを守るべしという意見がある。これは自主規制論だ。つまり、他人を中傷するような書き込みはやめよ、という考え方だ。これに対して、サイバー・エンジェルス的な取り締まりや摘発まで踏み込むべきという考え方もある。
主 今は、人間の欲望が好奇心によって解放されている段階とみるべきだろう。だから、さまざまな非行は避けられない。これを淘汰するには無視するのが一番なのだと思っている。価値観を共有化できる広場なんて成立していないのだから。まずは誰もが世界に向けて発信できる情況を評価していきたい。
客 「君の好きな東芝」はFDドライブの不具合を理由に、米国で1000億円を超える膨大な和解金支払いを命じられる事件もあったね。
主 これは理論的には不具合が発生するらしいが、実際には経験していない。東芝はメールで、対応ソフトを手に入れられると連絡してきたが、取り敢えず放ってある。バグを言い出したら、メーカー以上にソフト屋さんの方が圧倒的に多いだろう。
客 MSのバージョンアップなんて、考えてみればバグに対してユーザーがお金と時間を払っているようなものだもんな。
主 ここでもまた消費者の権利が優先されるとのみ言っておこう。

§4《10万円パソコン時代》
客 iMacやバイオが売れた理由はデザインが魅力的だったこともあるが、やはり低価格だったこともある。
主 いわゆる1000ドル・パソコンだね。
客 米国でいわれていたことが日本でもついに実現した。ソーテックやIBMに加え富士通、NECも10万円前後の低価格モデルを出さざるを得なくなった。価格破壊というべきか、今までが高すぎたというべきか。
主 いやあ、やはりMSのウィンドウズ95の登場が大きいだろう。その時点でパソコンが電脳文具の首座を確定化し、ユーザーが地滑り的に増大した。よって、メモリーにしても1メガ1万円なんていう時代は昔話になった。もっとも今年は台湾大地震で世界のメモリーの工場が影響を受けて、品不足や値上がりも見られた。台湾依存の生産体制というのも、いつまで続くのか疑問も感じた。
客 低価格化にはインターネットの普及も連動したね。インターネットをやるためにパソコンを買う人がいるくらいだから。
主 ビデオのVHSと同じだな。インターネットにはアダルト・サイトも山ほどあるから、H系趣味者は嵌るわな。おかげで草の根BBSは閑散。東芝の旧ダイナブックネットなんか実質的に閉店状態になってしまった。パソコン通信をやっている人は、ニフティなんかを除くと、ほとんどいないんじゃないか。
客 インターネット・プロバイダと提携して、3年間契約すれば、ただ同然でパソコンをあげます、なんてところも出ているし。でも、この時代に3年は長すぎる。
主 プロバイダも乱立期から淘汰の時代に入ってきた。富士通系のインフォーウェブとニフティサーブが合体して@ニフティが誕生したのも注目すべきことだろう。
客 やはり数は力だろうね。プロバイダを選ぶ時に、一番問われるのは安いことだろう。そしてアクセスポイントが多いこと。さらに、つながり安いことだ。でも、これにコンテンツが充実していることを挙げるケースも増えてきた。
主 ソニーのソネットから始まった電子メールソフトの「ポストペット」が若い人にウケているのは、やはりメールは単に情報を伝えるだけではなく、遊び心も伝えるものだという現代文化の性格を象徴している。
客 「癒し」ってのが、流行語にもなった。電脳ペットのアイボもそうだが、パソコンにも癒しを求めているとしたら現代の病は膏肓に入ったというべきだろうか。
主 オレはプロバイダの巨大化でサービスが低下しないことを第1に望みたい。

§5《Y2K問題はどうなる》
客 みんなもう忘れたかもしれないけれど、今年は人類が破滅する年だった。「1999年7の月」に恐怖の大魔王が降りてくることになっていた。
主 ノストラダムスで商売やっていた連中は、みんな地獄に堕ちたんだろうな。
客 そうでもないらしい。相変わらず適当なこと言って稼いでいる人もいる。
主 某宗教団体なんかも真面目にノストラダムスを解釈して商売をやっていた。ばかばかしい。そんな団体が未だ信者を集めているのだから、ひどい話だ。
客 年末になって、自己啓発セミナーの代表が死斑の出た人間の写真をインターネットにさらし、「まだ生きています」「血管には空気が入っています」「定説です」なんてやっていた。こんな気の触れた人間の世迷い言をまともに取り上げるマスコミもどうかしている。
主 出来レースだ。小学生でもわかる事実を、宗教だからと神秘めかしてどうするんだ。死んだ人は生きていないのだ。
客 「最高ですか」とエンターテインメントしていた足の裏診断の教祖の率いる宗教団体にも詐取の容疑で警察のメスが入った。悪いのは教祖だが、信者もなあ。
主 マルクスじゃないが、宗教は弱者にとって、阿片なんだ。ほかに救いがないから手を出す人がいる。悲しいことだ。
客 メランコリーですね。でも、本当の世紀末が迫っているじゃありませんか。
主 Y2K問題か。確かに。状況が切迫しているのは間違いない。本当に、ファイナルカウントは始まっているな。どうなるのか。
客 実は99年9月9日も危なかったんですよね。でも、結局、何もなかった。
主 でも、これだけは判らない。お楽しみはこれからだ。政府・自治体、主要企業はもちろんマスコミ各社も本当に混乱なく2000年が幕を開けるかどうかピリピリしており、特別体制を組んでいる。原発なんかに影響がないことを祈りたい。
客 弱気ですね。確かに今年は「想定外」の出来事がはやりました。東海村の臨界事故にしても、町の鍛冶屋さんがトントンとやっている感じで、核物質を扱っていたわけですから。何があってもおかしくない。
主 いやあ、オレたちも日常の仕事でよく間違えることはある。人間が間違うのは折り込み済みだが、機械が間違えることは計算外だ。
客 前回、引用しましたが、稲田芳弘、越智洋之「『Y2K』サバイバル・シフト」(三五館 1400円)の「コンピュータ2000年問題が現に存在する。それは2000年に、同時多発的に問題を引き起こす(可能性がある)」という指摘は結構怖いですよね。
主 本稿を読んだ人には、取り敢えず3日間くらい自給自足できる準備をしておくことを勧める。ついでながら、99年のパソコン本を総括すると、野口悠紀雄さんの「『超』整理法3」(中公新書 660円)がベストだ。
客 「バッファー(緩衝器)」を設けて、「とりあえず捨てる」ことの提唱ですね。
主 三浦つとむの弁証法本を読むのと同じスリルがある。データ検索法もためになるし、まだの人はぜひ読まれるといいだろう。では無事生き延びられたら、新年もよろしく。


【パソコンを読む】9 《トロンしてみますか?》 (2000.1)

§1《2000年問題は終わったか》
 世紀末の危機として立ち現れていたはずのY2Kはどうやら大きな混乱もなく過ぎた。なにやらY2Kがオルタナティブな時代へのパラダイムチェンジの突破口になるかのように妄想した崩れ左翼や一部のエコロジスト反動、サバイバリストにとっては裁きの時が来なかったことは不本意な結果かもしれないが、普通の生活者にとっては取り敢えず静かに新しい年を変わりなく迎えられたことはうれしいものであると言っておこう。
 一方で「Y2Kなんてなかった。マスコミが騒ぎすぎただけ」などと、全く楽天的なホラを吹いている一部の大学教授も出て来ているようだ。いい気なもんだ。そういうトンマには少なくとも世界中の主要政府機関・民間研究機関、なによりコンピュータ技術者や生産点の労働者たちが必死でコンピュータとそれに関連した装置の安全確保のために取り組んだ血と汗の一滴でも飲ましてやりたいものだ。
 あれだけの事前準備をし、人員を動員しての警戒をしても、原子力関連施設を中心にデータ処理エラーなどが相次いだ。もし、そのことに無関心でいたなら、不安は途方もなく増大していた可能性があるのだ。危機はひとまず過ぎたが、2000年2月29日のうるう日(3月1日と誤認する可能性)、2000年4月1日(年度としてのスタート日、いわば1月1日だ)など危険日は完全に終わってはいない。
 僕は年末に水と食料、乾電池類などを多めに買い、風呂に水を張るなどして4、5日間はなんとか外出もせず暮らせるように備えた。結局、それらはムダになったと言えるが、チョコレートやら飲み物やらを少しずつ取り崩して出していると、遠足の前のような気分で楽しいものである。こうした緊張と弛緩が精神のバランスを保つにはとてもいいことなのだと思う。

§2《パソコンの歴史を楽しく知る》
 新春は心新たに踏み出したいものだ。自分が今どこにいるのかを知りたい時は基本に戻ることが一番である。前へ前へとばかり進んでいると隘路や迷路にはまっていることが、よくあるものだ。そんな時は原点に立ち返れば、木の向こうに森が見えてくるというわけだ。
 パソコン本でそうした1冊と言えば、坂村健「痛快!コンピュータ学」(集英社インターナショナル、本体価格1700円)で決まりだろう。坂村さんは東大教授。国産OSとして知られる「TRON(トロン)」のプロジェクトリーダーであり、いわば日本のコンピュータ理論・実践の第1人者である。その坂村教授が「世界ではじめての『コンピュータ学入門書』にチャレンジしてみよう」と書き上げたのが同書である。
 かの天才スナイパー、ゴルゴ13もまた坂村門下だったという意外な事実を知らされるだろう、というのはもちろんジョークである。が、まんざらコンピュータとは無縁ではないので(そのナゾを知りたければ同書158頁を見よ)、各章の扉に友情出演しているのはうれしい。もちろん表紙が江口寿史というのもマニアックでいい。
 さて、坂村コンピュータ学はコンピュータの原理から誕生、発展を、理論と技術が相互に働き掛け合う一種の弁証法的統一として結果的に描き出している。そして、その理論的帰結として「21世紀には技術革新は起きない」とまで断言している。要するにハードウェアの水準としては、現在の改良レベルを超えられないというのである。
 同書には魅力的な記述が溢れているが、そのポイントは一点に集約できる。

 「科学技術が総結集されコンピュータが作り出されたのは、戦争という強い動機があったからです。第2次大戦、そして米ソ冷戦という『時代』がコンピュータを産み、育てました。コンピュータは『近代科学の子』であると同時に『戦争の落とし子』でもあるのです」

 コンピュータが戦争と関係あるってのは、だいたい知っている話だ。しかし、

1・大砲で敵機を落とす精度をあげるため、アメリカ軍が全米から人材を集めて1946年に作り出したのが世界最初のコンピュータ『ENIAC(エニアック)』だった。
2・ENIACが最初に処理したプログラムは水爆研究のためのものだった。
3・米ソ冷戦下での核攻撃を避けるため軍事用ネットワークとして「ARPAネット」が作られ、それが現在のインターネットの原点になった。
4・1991年のソ連の崩壊によってインターネット・ブームが始まった。
5・コンピュータを使いやすくしようという計画は米国防総省・高等研究計画局の資金提供で始められた。その結果、GUIやマルチ・ウィンドウという現在のマッキントッシュやウィンドウズのアイデアが生み出された。
6・米国防総省のARPAプロジェクトはタイム・シェアリングという思想に基づいてMULTICSというOSを作り、それがUNIXとなった。それがパソコン用にコンパクト化されてLinuxが誕生した。
7・ネットでの企業間取引の文書を統一する国際仕様CALSを作ったのも米国防総省である。CALSとは「コンピュータによる兵站の支援」の意味である。

 これだけ並べられると、いやあ、ちょっと凄すぎるでしょう。「インターネットは市民のための交通・表現手段」とか「マックは既成体制への反逆の象徴」と言った寝言は圧倒的な現実の前に解体されてしまうことは明らかである。
 つまり、現在のコンピュータとインターネットは半世紀にわたって、米軍がドイツや日本、そしてソ連を倒すために費用対効果を度外視して莫大な費用を注ぎ込んだ結果であり、その果実のほんの一部を私らのごとき庶民も味わわせてもらっているというわけだ。そして、コンピュータ革命の推進役だった米ソ戦争の緊張が弱まった現在は、その革命は止まってしまうだろう。「夢のコンピュータ」なんかできない。冒頭で紹介した断言はそうして導かれたものである。
 「ここ100年ぐらいはコンピュータのハードウェアに革新は起こらないかもしれません」「実際、科学技術計算用のスーパー・コンピュータは、ここ数年というもの、技術発展が止まっています」
 コンピュータは戦争道具という基本的認識を持った上で、我々は何をその手段でできるか、考えるべきだろう。いわゆるパラダイム・チェンジの課題である。

 同書はコンピュータ戦争論として読めるが、本当は博学・雑学の宝庫としても楽しめる。
1・コンピュータの発明者の一人、英国のアラン・チューリングが「万能計算機」の理論的可能性を指摘したのは24歳の時だった。だが、彼は同性愛者として逮捕され32歳の年に青酸カリに浸したリンゴを食べて自殺した。
2・コンピュータ・ブレイクの基礎となる代数理論を考えた英国のジョージ・ブールは17歳で代数学を完成させたが、49歳で早世したのは雨でずぶぬれになったにもかかわらず講義を続けたからだった。
3・スタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」に登場するコンピュータHAL9000のHALは、アルファベットを1文字ずらすとIBMになる。
4・スター・ウォーズのジェダイの騎士がハッカーとすれば、クラッカーはフォースの暗黒面に引き込まれたダース・ベーダーである。クラッカーが刑事犯とすれば、ハッカーは政治犯・思想犯である。

 コンピュータは戦争の落とし子かもしれないが、僕は本書で、そこには20世紀の天才が集まっていることを改めて知った。科学技術を侮るなかれである。

§3《そこで超漢字に挑戦だ》
 ミーハーの谷口です。坂村先生の「どこでもコンピュータ」提唱と、マックやウィンドウズ以上にわかりやすいマルチ・ウィンドウシステムの「TRON」OSというお話。聞かされた以上、そのTRON、やってやろうじゃないか、となりました。確かに、世間は猫も杓子もリナックスだなんて言ってますが、TRONやっている人なんて聞きませんねえ。
 でも、先頃、パソコン用のTRONの新バージョン「超漢字」(パーソナルメディア社)が出たばかりなのだ。1万2000円ほどで買えます。なにしろ、DOS/V機で動作可能であり、「漢字はもちろん世界の文字13万字を自由に使える」ってのがウリです。確かに、舶来OSは漢字に失礼でした。中国の走資派の親玉、トウシャオピンさん。彼の名前をパソコンでは打てません。スマップのクサナギ君もだめです。ところが、TRONはJIS水準以外の漢字も簡体字も変体仮名もみんな扱えてしまうのだ。魅力的ですよねえ。
 早速、ノートパソコンで挑戦してみました。いつもながら問題はインストールです。リナックスもXウィンドウを立ち上げるまでが大変で、挫折してきました。今回も不安でした。まず、シャープのメビウスでやってみたのですが、パーティションがうまく設定できず、1日を無にして終わりました。なんか、シリンダーがきちんと並ばないのかエラーが出てしまたったのです。翌日、東芝のダイナブックのサテライト305CDTで再挑戦。ハードディスクが2ギガしかないので、700メガほど空きを作り、その結果、250メガをTRONで使えるようになりました。これでは最小システムしかインストールできないので、TRONの醍醐味にはほど遠いが、魅力の一端には触れられるわけです。
 さて、結果を言えばダイナブックでTRONインストールに成功しました。丁寧にデフラグをかけてやり、マニュアル通りセットアップしていけば意外に簡単なようです。立ち上げはマルチ・コンフィグにしたので、ウィンドウズ98とTRONの2つのOSが簡単に切り替えられて使えます。マルチ・コンフィグはDOSのバージョン5当たりで使っていましたので、懐かしいものがありました。
 「超漢字」が画面に立ち上がった瞬間は感動します。使い心地ですが、TRONはワープロも図形ソフトも付属しているので、なかなか便利です。惜しむらくは、デザインがゴツゴツしていて、曲線を生かしたスマートさがちょっと足りません。それでも、トウシャオピンが簡単に表示できるのは感動的です。それに軽い、速い。ちょっと、UNIXに似ている感じもしました。「実身」「化身」やらなんともレトロな日本語用語でフォルダや作業文書を表示するので、慣れるには時間がかかりそうです。それでも、直感的操作を重視しているので、あまり間違えません。ノートなんかより大型ディスプレイのマシンで使うほうが、マルチ・ウィンドウですから楽しめる気がします。利点の漢字を幅広く使えるのはうれしい。ただ、だからといってウィンドウズをやめて、TRONにする決断には至りませんでした。腐ってもマイクロソフト、それなりにマックその他のいいとこ取りで、ウィンドウズを磨き上げてきたことを感じました。ウィンドウズやマックしか知らない誰かにインディーズOSも使ってると自慢してみるにはいいかもしれません。でもマイナーだけに相手の顔がトロン?

§4《マイクロソフトはどこへ》
 腐ってもマイクロソフトです。かのビル・ゲイツ氏が引退するとの爆弾報道もありましたが、司法省との独占禁止法攻防は予断を許さないようです。
 とはいえ、「あんなのは出来レースさ」という声が聞こえてくる雑誌に出合いました。「パソコン批評Vol.25」(マクロデザイン出版局、本体価格838円)です。この雑誌は「公正な立場を確保するため、広告を入れません」と宣言し編集されている。商業メディアに生きている人間としては、そこまで潔癖にならなくてもいいじゃないか。編集権と営業・広告は別だろうが、と思うのですが、広告とそのパブ記事ばかりで埋まっているパソコン雑誌の氾濫を見ると、かの業界は純潔宣言してスタートしなければ本音を書けないのだと考えさせられる。
 同誌は「マイクロソフト独禁法。是か?否か?」との特集で「おそらく、この先に
待ち受けているものは、当たり障りのない和解と、世界に名前を売ったマイクロソフトの利益だろう」「彼ら(司法省)は国益を度外視してまで、正義を貫くつもりはないはずだ」「マイクロソフトにとっての最悪のシナリオとはいったいなんなのか。それは、まさしく他のライバルがいなくなることだ」と書いている。
 実は僕もそんな感じがしています。別に司法省が日本企業に対するような壊滅的な打撃をMSに与えるとは思えません。でも、取り敢えず「公正」みたいな概念を尊重するアメリカという国が日本より進んでいることは明らかでしょう。その上で、政治的な取引をするところが、訴訟社会の知恵なのかもしれません。
 TRONのようなマイナーOSは論外でしょうが、マックやリナックスを鏡として(いいとこ取りし)マイクロソフトはまだまだ発展するでしょう。でも、ウィンドウズ2000は必要なんでしょうか? その当たりからパソコンやOSへの新たな反省が生まれてくるかも知れません。パソコンが高価な機械という幻想は既に破られつつあります。2000年は基本に立ち返って現状を分析する年にしたいと思っています。暇な方はTRONへのチャレンジをどうぞ。

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