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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています
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シン・たかお=うどイズム β
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追悼雑記
REQUIEM
谷口浅男・スミについて
勤勉と孤独の影と 〜父・谷口浅男について
この度は白老ペンの山田幸一郎先生をはじめ皆様のご厚情により、父・谷口浅男の特集が編まれますと共に、貴重な誌面を割き家族の立場から思い出について書く機会を与えられたことを心よりお礼申し上げます。
さて父について思い出すことの第一はなにより徹底的なメモ癖のような気がします。
父は九八年五月六日に札医大病院に入院しましたが、その間も休みなくメモを取り続けていました。何時に回診があったか、食事には何がでたか、来客は誰であったか―など本当にこまめに記録していました。五月二十一日午前八時十五分に手術室に入り六月一日亡くなりました。手術直前の午前八時一分の病室での検診。血圧は一四六―七八、体温が三五・七度でした。「タカオ、きちんとメモしておいてよ」。それが最後の言葉でした。もし父に手帳を持つことが許されていたなら、手術中やICUでの感想を最後まで記録した異色のリポートが生まれていたでしょう。
あれほどまでにメモを取り、資料を保存しておく理由は正直なところよく分かりません。強いて言えば、ある種のニヒリズムのようなものが、父の心の奥底に棲み着いていたのかも知れません。その時々に発せられる言葉は人に空間的ななごみを与えるかもしれませんが、須臾にして消えてしまいます。しかし、記録は残ります。良くも悪しくも人間として、その部分に価値を見いだしていたのだと思います。
晩年の父の仕事を見ていると、確かに「書かれた世界」「残された記録」に執着することでした。以前、若いときは短歌に関心があったという話を聞いたことがありましたが、残念ながら満岡照子さんの「火の山」の歌集以外は作歌を含めその種の原稿は残されていません。むしろ郷土史というか地方史というのか、それらのための資料である新聞切り抜きや雑誌のコピーなどの収集に精力が注がれていました。
私自身は発表された文章にどの程度の価値があるのかはっきりとは分かりません。しかし、大滝と白老を結ぶ道道に関する論文は、贔屓目ではなくよくできていると思います。山を隔てた大滝と白老を結ぶ交流の歩みが丹念にたどられ、同時に苫小牧と室蘭に挟まれた単線的な人と物の流れに対して、それと交差し遙かに後志圏と海上の道をも展望する交易の新たな複合軸を示しています。白老の可能性の潜勢力を長い射程で捉えた地域活性化論の一つの水準を獲得していると思います。
この点について言えば、地道な資料渉猟が奏功した。それに加えて、文章の構成で段落の冒頭に小見出しをゴチック体で表記したり、積極的に図版を取り入れたりの工夫が見られます。私は新聞社で記事レイアウトの仕事をしており、若干の助言をしたことを懐かしく思い出します。その後、父は六十歳を超えていながらワープロを始め、見事に活用していました。必ずしも器用ではありませんでしたが、覚えるまで粘り強く練習する人でした。そうした負けん気の激しさ、根気強さはやはり尊敬に値するものがありました。
父は孤独な人でした。私が親との対話を嫌ったということもありますが、父もまた子供たちと膝を割って話し合う・飲み合うということが苦手な人でした。それはたぶん幼児体験が影響しているような気がします。早くに両親を亡くし、家族の愛情というものに恵まれていませんでした。だから親が子供にどう接し、どう教育するか、ということが苦手だったのだろうと思います。子供と遊ぶということもほとんどしませんでした。父は子供のころから勤勉に働き続けた人生だったと言います。信じられないかもしれませんが、子供の遊びを知らなかったような気がします。
私たち三人のきょうだいが、それなりに一人前になっていくことは喜びだったとは思いますが、そのことを体や言葉で表現することは遂にありませんでした。私もそうしたことが今も苦手です。郷土史への関心は若い頃からの執筆活動への夢の実現であると同時に、どこかで家庭では満たされない非日常的世界への願望が根柢にあったように思います。
そんな父が一度だけ私に説教をしたことがあります。高校を卒業して大学に進学するときでした。「白老には眼科がない。父さんはオートバイで苫小牧まで半日かけて通院しているんだ。偉くなれとは言わない。だが医者になって多くの人の役に立つ気はないか」。切実なものでしたが、私はそれに応えず文学の道に進みました。札幌の大学へ行くとき「体に気をつけろ。人間至る処青山ありだ」とだけ言いました。志をたて郷関を出たなら、全力で頑張れと励ましたつもりだったのでしょう。私自身はもう少し時間をかけ、父のその言葉に返礼していきたいと思っています。
*谷口浅男 1923.8.6〜1998.6.1
谷口スミについて
▼▽母が入院
昨日、母(谷口スミ)から電話が来た。これから病院に行くと言う。午後、電話したら入院したと言う。こういうのを病院のプロというのだろうか。百病息災。ここ30年くらいは、何かあると入院して生き長らえている。
1人暮らしの老後というのは大変なことだ。子供はいても、家族がいない。子供がいても同居ができない。誰が悪いのか。最近はすぐ国が、と言いがちだが、果たして国家がそこまで至れり尽くせり、というのはどんなものか。つらいけど、何かを犠牲にするのが人生なのかもしれない。イマジンである。
根室の友人が亡くなったことを教えると、ずいぶんサケを送ってもらったねぇ、という。昔、そういうことがあった。ボケが心配だったが、頭はしっかりしている。もっとも、サケを送ったのは息子の私であり、友人ではない。
とりあえず、元気なことを確認して見舞いを終える。(2009年9月1日)
▼▽白老に母を見舞う
白老の病院に入院中の母の容態が悪くなったと姉から連絡があり、午後6時13分の函館行きで見舞いに行く。
田舎には夜間、適当な列車が走っておらず、苫小牧で降りて、車で駆けつけた。
6人部屋から1人部屋に移り、ナースステーションの前である。
姉の話では人工肛門や口から血の混じったものが出ているとのことで、ひどい状態だったというが、点滴などで落ち着いたという。
私が着いた時は寝ており、血色も戻っている。看護師はいるが、医者の姿はない。酸素もかけてないので、重篤ではないのかもしれない。
とりあえず、一旦帰ることにするが、特急列車はなく、各駅停車に乗る。順調にいけば、24時までには札幌の自宅に帰ることができそうだ。
なかなか大変である。(2009年9月6日)
▼▽母の様子を見に、白老に行く
列車は連休のせいか、珍しく込んでいた。
母の入っている病院がある場所は、昔は馬市場だった。各地から農耕使役馬が集められては、売りに出されていた。私がまだ小学校に上がる前のころで、中央のステージで馬が売られているのが目に焼き付いている。
それはまだ自動車や耕耘機よりは馬そりや馬車が信頼されていた時代のことである。
馬市場が成り立たなくなってからは、野球のグラウンドになった。東町に住む子供たちは集まって、三角ベースで野球をした。ある時、兄がホームランを打って、近くの公営住宅のガラスを割り、父とみんなで謝りにいったこともある。その父も死んで久しい。
馬市場には大きな辛夷の木があり、春先には一番にぎやかに花を咲かせた。馬市場もグラウンドも父ももういないが、辛夷の木は今も残り花を付けている。
その木の下に、母の寝ている病院がある。元気と言うにはほど遠いが、頭はしっかりして、私が行くと喜んだ。まだらぼけが入っているらしいが、さすがに初対面というふうにはならないのがうれしい。 (2009年9月20日)
▼▽母、亡くなる
闘病中だった母・谷口スミが2009年10月22日午後11時30分、心不全で亡くなった。81歳だった。
苦労多き人生だっただけに、もう少し生きてもらいたかった。
母の葬儀はその意思に従い、近親者のみで執り行った。自宅に祭壇を設けたので、派手さは全くない。身の丈に合わせた式になったと思う。近親者のみのつもりであったが、義理堅い地域の人が足を運んでくれた。申し訳ないが、有り難いことである。狭い家がにぎやかになる日はこれが最後であろう。
25日午後には火葬も終わった。箱に納められた遺骨はとっても軽かった。戻ってきて最後のお経をあげてもらい、家族を除いて散会となった。 (2009年10月24日)
母は一時期、刺繍を趣味にしていた。初心者らしいシンプルなものだが、思い出深いものがある。
戒名は「慈徳院釈尼歓光」をいただいた。私は唯物論者であるので、あまり興味はないが、少し贅沢な印象である。父は菩提寺の開基百年の記録を随分苦労してまとめたのであるが、そんなことも関係しているのかもしれない。 (2009年10月26日)
◇
田舎の病院に入院した母親を見舞ったのは58歳の誕生日の3カ月前の9月1日。
まだとても元気だった。ひとり暮らしがつらくなってきたので、介護施設に入りたいということをはっきりとした口調で話していた。
親不孝者としては、母を呼びよせて一緒に暮らそうと言えなかったことが悔やまれる。
母には万が一の場合に一発で連絡できるように、通話先を3人の子どもに指定してあるPHSを渡しておいた。
これなら、ベッドからでも話ができるサインを出せる。母は一度だけ電話をしてきたが、後は病院の人に仕舞われてしまって、PHSは役に立たなかった。せめてもの罪滅ぼしであったが、世の中はうまくいかないものだ。
思えば、そんなふうにコケてばかりのわが57年であったことだ。
(2009年12月1日)
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