桜木紫乃の方へ
二〇一三年の桜木紫乃の方へ
ある時代の文学表現は、いつも話体と文学体とのふたつを基底としてかんがえることができるし、かんがえるべきだ。(中略)話体の表出は、もしそれを無条件の必然としてかんがえれば、文学体の方へとひとりでに上昇する。話体表出を話体表出として持続するのは、意識的な思想によるほかはない。
(吉本隆明「言語にとって美とはなにかT」より)
■はじめに
二〇一三年は奇妙な浮力のついた一年であった。政治的には「決められない政治」への苛立ちからの反動は前年末総選挙により与党絶対多数体制へ移行し、「アベノミックス」の威勢のよいかけ声の下、わずか一年でデフレからインフレへ、消費税引き上げ、TPP参加、沖縄基地県内固定化、特定秘密保護法強行があっという間に進んだ。
流行したのは「いつやるか。今でしょ」「やられたらやり返す。倍返しだ!」「じぇじぇじぇ」「お・も・て・な・し」といった一種の軽躁的な囃子言葉ばかりだった。「おもてなし」五輪のPR代表の首長にはイスラム圏への差別意識と不透明な巨額資金の「う・ら・が・あ・る」というオチがついて一年は幕を閉じた。
景気回復の傾向は見られるものの、賃金や雇用は安定していない。ほかの流行語には「ブラック企業」というものもあった。若者は就職したものの低賃金や度外れな長時間労働、パワハラなど劣悪な労働環境で酷使され、使い捨てにされている状況が増えている。一方、日本の子どもは国連児童基金(ユニセフ)などの調査によれば、幸福度が先進三十一カ国の中で、六位である。「教育」や「日常生活上のリスクの低さ」はトップである一方、「物質的豊かさ」は二十一位だという(北海道新聞二〇一三年十二月二十五日)。厚生労働省の平成二十五年版高齢社会白書によると、総人口に対する六十五歳以上の高齢者の割合は二四・一%。一方、十四歳以下の年少人口比は一三・〇%。子どもたちや若年世代が戦後社会の歪みをすべて背負う構造が深まりはしても減ることはない。そのような社会と気分の軋みの場所に私たちはいた。
出版科学研究所(東京)のまとめによると、二〇一三年の書籍販売額は前年比二・〇%減の七千八百五十一億円で、七年連続で前年を下回った。売れる本が一部にある一方で、多くの本が売れないという二極化が顕著になっているという(北海道新聞夕刊二〇一四年一月二十九日文化面)。ネットによる手軽でキャッチな情報があふれる半面、じっくりと読書をする習慣(新聞も同じだ)が減退していく。そんな中で作家や表現者たちは文字で時代を映し出そうと苦闘しているのだ。
■「北海道発」の新ベストセラー作家の誕生
二〇一三年の北海道文学についてジャーナリスティックに語るならば、「新官能派」作家として知る人ぞ知る存在だった桜木紫乃がキャラクターの魅力も加えて、存分に飛翔した年として記憶されるだろう。それほどに七月十七日の第百四十九回直木賞選考会で『ホテルローヤル』(集英社、一四〇〇円)の受賞が決定して以来、桜木紫乃は北海道内外で注目を集めることになった。
北海道新聞の年末企画「今年の顔」に登場した桜木紫乃は「寝る、食べるなどの時間以外は人と会っていた」「今までの人生で最長距離を移動しました」(二〇一三年十二月十三日)と慌ただしかった半年を振り返っている。
桜木紫乃はただの流行作家になったのではない。北海道にあって北海道を描いた作家として全国に躍り出たことを強調すべきだろう。
受賞決定の日の夜、東京・日比谷の東京會舘で行われた会見は作家の歴史に残る見事な言葉を重ねたものであった。
「北海道に生まれてよかった」
「(『ホテルローヤル』は)自分の生まれたところが書かせてくれたお話だと思っています」「目をつぶっていても書ける海や空の色というか、人を取り払って景色だけにして、そこに新しい登場人物を入れていける場所として北海道の景色を大切にしています」
功成り名を遂げた作家が故郷を懐かしむことはよくあることだ。しかし、桜木紫乃の場合は自分の足がその大地の上にあることを宣言していた。そして、作家の決意と果実への喜びも示される。
「書くことをやめなくてよかった」
「自分に起こることにはなにも無駄はないんだなと思える一冊でした。きっと私にしか書けない一行があると信じて書いたお話ばかりなもので。いいケリのつけかたをさせてもらったと思います」
桜木紫乃は一九六五年四月、釧路生まれ。受賞時は四十八歳。本人によると、父方の祖父は佐渡・津軽から北海道へ。母方は秋田から駆け落ち同然で夕張、標茶へ来たといい、内地から大きな「しょっぱい川」を渡って新天地に来た典型的な開拓三世という。床屋さんだった両親のもとに生まれ、中学二年生の時、貸アパートだった部屋に学生が置いていった文庫本を手に取る。初めて読む小説だった。それが同郷のベストセラー作家原田康子の『挽歌』であったという(雑誌「ダ・ヴィンチ」二〇一四年二月号の特集「桜木紫乃解体全書」で、桜木紫乃は「これまで書き手を目指した出発点は十四歳のときに読んだ『挽歌』だと言っていたけれど、ほんとうの発火点は、そのときその人=引用者注・小学校の頃、二年だけ過ごした弟子屈で出会った優しいお姉さんのような女性=に書いた手紙だったのかもしれない」と語っている。新しい記憶と体験の再構成という意味を含め非常に興味深い発言であるが、ここでは通説に従う)。
釧路北中学校から釧路東高校へ進む。このころ、父親は釧路湿原の近くでのラブホテル経営を始める。大学進学は断念し、釧路地方裁判所にタイピストとして勤務する。まもなく遠距離恋愛であったが、職場関連で知り合った男性と結婚する。退職、出産と二十代は家庭に入り子育てに追われる。だが、三十代になり、「十年後はプロ作家になる」と、文学の道に本腰を入れる決意をする。
一九九五年、函館を中心とした詩とエッセーの会「花あかり」の通信会員となり、作品を書き始める。九六年には釧路地方の文芸総合誌「釧路春秋」に「風景抄」として三編の詩を発表している。同時に、地元の詩誌「かばりあ」の会員となる。詩作品は基本的に本名で、小説類はペンネームだった。
「挽歌の街」と題された作品で「挽歌の街で/息する女は/大海を想いながら/河を流れる」とつづっており、直木賞受賞後に書かれた最新作の『蛇行する月』の原風景を想起させる。この時期は短歌にも関心を持って活動していたことも知られている。ちなみに、詩作品は岩見沢の「蒼原」、小説は「文学岩見沢」、エッセーは函館の「海峡」などにも発表されている。
詩人として出発したが、次第に創作に比重が置かれるようになる。九七年の「釧路春秋」三十八号には初めて「北の宝石」を、続く三十九号には「三月の薔薇」を発表。第二作は九八年に最も優れた作品に贈られる釧路春秋賞を受賞、「非常に励みになる」と喜んだ。目覚ましい活躍ぶりを、多くの作家を育ててきた文芸同人誌が放っておく訳がなかった。九九年、原田康子を生んだ「北海文学」に八十五号から同人として加わった。早速執筆したのが「別れ屋 伶子」という長編で、三回連載で三百枚に及ぶ力作だった。新人の無謀とも言える挑戦に、「修練を積んだ力量が期待される」と見守ったのが編集・発行責任者であった園辺甲治、鳥居省三であった。二人は作家、桜木紫乃の育ての親となる。桜木紫乃は夫の転勤で網走に居を移すが、小説への意欲は変わらない。「タンゴ・アン・スカイ」「この雪がとけるまで」「瑠璃色のとき」「お別れの条件」「明日への手紙」など、二〇〇二年の九十二号まで作品を発表し続けた。また、この時期に北海道新聞が全道各地で活躍する人たちに依頼している朝刊の人気エッセー・コーナー「朝の食卓」に二年間にわたり、月一回程度の頻度で執筆している。
桜木紫乃の発表作品については北海道新聞の文化面で随時講評が掲載されており、評者の作家、寺田文恵が「細部と心理の描写がうまく、読ませる」(「この雪がとけるまで」評)、批評家の妹尾雄太郎が「この作者は『書く』ことを意識的に訓練してきた人であろう。力のある書き手だと思う」(「お別れの条件」評)など、丁寧な読み込みで、作家の可能性を的確に見通しているのはさすがである。
二〇〇二年三月、桜木紫乃は短編の「雪虫」を応募し「オール讀物」新人賞を受賞する。受賞が決まったのは恩師の園辺甲治が亡くなって十日ほど後のことだった。桜木紫乃は「育ての親」を失い、ジャンプ台に立ったのである。「先生、なんで待ってくれなかったんだろう」「先生はご自分の(小説の)神様を私に譲って逝かれたのだと思うことにしています。この神様は書き続けることが一番のおもてなしです」(北海道新聞二〇〇二年四月十一日)と悔しさを記している。
桜木紫乃は中央の文学賞を得たものの、作品はなかなか編集者の及第点を得られなかった。「雪虫」を含む北の大地を描いた作品群が、花村萬月の作品中の言葉から想を得て『氷平線』として一冊にまとめられるのは足かけ六年、二〇〇七年十一月のことであった。直木賞受賞会見での「書くことをやめなくてよかった」との言葉は、この苦闘の日々を思い浮かべてのことであった。二〇一二年一月の第百四十六回直木賞で『ラブレス』が候補となっており、同作は二〇一三年二月に第十九回島清恋愛文学賞に決定、直木賞への前哨となった。
桜木紫乃の活躍に戻る。『ホテルローヤル』は書籍取次大手のトーハン調べで、受賞発表後の七月三十日発表の週間ベストセラーで総合1位に躍り出た。以後、十月二十二日まで十週連続のベスト10入りを記録。一方、書店の協力でデータを発表しているオリコン本ランキングでも七月二十二日の週に1位を記録し九月上旬まで上位に並んだ。同調査で直木賞作品がトップになることは初の快挙であった。
ちなみにこの時期に『ホテルローヤル』のライバルとなったのは池井戸潤の『ロスジェネの逆襲』である。これは堺雅人主演の銀行員テレビドラマで視聴率四〇%超えを記録、「やられたらやり返す。倍返しだ!」の台詞が流行語となった「半沢直樹」の原作本であった。
トーハン恒例の年間ベストセラーランキングでは実用本・テレビと連携した原作本が上位に並ぶことが多い。二〇一一年の東川篤哉『謎解きはディナーのあとで』はテレビドラマ化の影響があるとすれば、作品自体の注目で近年最も売れたのは二〇〇九年の村上春樹『1Q84』である。二〇一三年もまた村上春樹の新作が話題を集めた。『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』は四月に出版されるやいきなり八十五万部を記録した。一方、桜木紫乃の『ホテルローヤル』は一月の刊行だが、数千部から一万部台の低い地上戦状態だった。
しかしながら、直木賞効果によって一変。十二月に発表されたトーハン年間総合ランキングによると、トップは近藤誠「医者に殺されない47の心得」で、『色彩を持たない―』が2位、『ロスジェネ―』が5位、『ホテルローヤル』は14位であった。文芸書に限れば、『色彩を持たない―』に次いで、百田尚樹『「海賊と呼ばれた男』(上・下)が2位、『ロスジェネ―』が3位、『ホテルローヤル』は4位であった。累計発行部数は50万部を超えた(もう一つの書籍取り次ぎ大手の日販のまとめによると、総合トップは村上春樹、二位が近藤誠、桜木紫乃は15位、フィクション部門の5位であった)。
北海道には過去、ベストセラー作家たる地位を得た者は四人しかいない。第一号は一九五四年に軽妙で辛口なエッセー集『女性に関する十二章』が大評判になった伊藤整。その後、五七年に釧路在住の美少女風の新人、原田康子が小説『挽歌』で、六六年に旭川在住のクリスチャンの主婦作家、三浦綾子が『氷点』でその年のナンバーワン。最後は恋愛小説の達人、渡辺淳一。渡辺淳一は八四年に『愛のごとく』、八六年に『化身』、九七年に『失楽園』で三度トップになっている。
残念ながら五番目の作家になることはできなかったが、本が売れないと言われる時代、文芸書が読まれなくなったと言われる中で、桜木紫乃の健闘は特筆に値しよう。
■メディア露出と 「文壇の壇蜜」という異化効果
二〇一三年年十二月の時点ではテレビドラマにも映画にもなっていない桜木紫乃の『ホテルローヤル』がなぜ、そんなに売れたのか?
作品の内容をひとまず捨象すれば、「ラブホテル」が舞台の小説を美しい人妻作家が描いた素材性であり、メディアへの便乗ともいうべき露出を忌避しないしたたかなビジュアル戦略があったと思われる。
『ホテルローヤル』は釧路湿原を背にして立つラブホテルを舞台にして、さまざまな男女の哀歓をつづった七編の連作短編集である。本来なら秘匿されがちな情事、淫靡な世界に堕しそうな舞台装置を、人間のせつなさをとらえかす場として反転させてみせた。だから、通俗なエロス性へ後退するのではなく、人間に試練を与える「修羅場」としてラブホテルが浮上した。しかも、筆者は中学生時代からラブホテルの裏方を手伝ってきた「ホテル屋の娘」というリアリティ。
北海道新聞に「ホテルローヤル」で働いていた女性からの投書が掲載されたのを紹介する。「受賞作の題名の『ホテルローヤル』という文字が、ふと目にとまりました。実家が経営していた湿原のそば、昨年廃業という事実、まてよ。これは私が働いていたローヤルのこと? と思い、胸が高鳴りました。/あの当時の娘さんが、こんなに立派になって…という思いと、楽しかった職場がなくなったという思いが交錯しています。文学に無縁の私ですが、ローヤルを懐かしみ、本を買って読もうと思います」(二〇一三年七月二十六日)と書かれていた。
ラブホテル物語は陰花のように身を潜めるのではなく、前向きに昇華され、働く日常の世界で読まれることになった一例である。
そして、七月十七日夜の直木賞受賞会見。そこで桜木紫乃は見事な存在感を示した。同時に芥川賞を『爪と目』で受賞した藤野可織もまた清楚な美しい女性であったが、桜木紫乃は際だっていた。メガネをかけた顔は細面で色白、髪は少し金色、後ろですっきりと束ねられていた。青いジーパンに、白いTシャツと白い上着姿、だが、Tシャツの胸には赤と青地に白抜きの星の下に「TAMIYA PLASTIC MODEL」がある。若者に人気のビジュアル系エアバンド「ゴールデンボンバー」のボーカル鬼龍院翔の愛用のものだった。
記者 ゴールデンボンバーがお好きということですが、今回の作品に詰まるなかで、励みになったり励まされたりしたことは。
桜木 鬼龍院翔さんの言葉の選び方に大変刺激を受けます。「抱きしめてシュヴァルツ」という曲を聴いてファンになったんですけれど。何言ってんだろう私。「抱きしめて離さないで」でという出だしはありだと思うんですけれど、「慰めて隅々まで」っていう言葉は、なかなか思い浮かばない、すごく斬新な歌詞だと思っていて。こういう歌詞を書く人が長いもの書いたらすごいだろうなって今も思っています。
記者 ゴールデンボンバーと今後、対談されたりとか、歌を歌いたいとかはないですか?
桜木 すごく冗談だと思うんですが、もし受賞したら、オールナイトニッポンに出してくれるって集英社の偉い方が言ってくださって。ここで言っちゃったら本当になりますかねえ(記者―なると思います)。じゃあ出してください(会場に笑い広がる)」
ゴールデンボンバーは当時、カラオケの人気ランキングで五十週連続トップを果たそうとしていた。桜木紫乃の発言が遠くにある文学を身近な世界に近づけた瞬間であった。
そして、鬼龍院翔からも「いやはや、こんなヒネクレ理系野郎の書く文を褒めて頂きありがとうございます!m(_ _)m」「沢山の方々が見て頂ける会見で、あまり脚光の当たらない『ゴールデンボンバーの歌詞』を褒めて頂けるなんてビックリ仰天青天の霹靂で御座いますm(_
_)m」との反応が出る。八月二十六日深夜一時から放送のラジオ番組「ゴールデンボンバー鬼龍院翔のオールナイトニッポン」で、二人の共演は実現、桜木紫乃は見事な恋愛相談もやってのけた。また、直木賞授賞式当日には「笑っていいとも!」にも出演した。
(ちなみに二〇一四年一月十六日の第百五十回直木賞の受賞会見で、『昭和の犬』の姫野カオルコはナイキ製の首タオルとトレーニングウェア姿で「ベストジャージスト賞です」と言ってほぼすっぴんで登場、出身地の滋賀について問われると小さな沈黙の後に、「いつも美人と一緒にいて合コンとかで霞む目立たない子」、その心は「いいところを全部、京都に持って行かれちゃう…」と京都新聞の記者に答える倍返しならぬインテリジェント返しの笑いを誘う才女ぶりを見せた。素の面白さ、タレントとしてのポテンシャルは高く、思わず惹かれる魅力があったが、桜木紫乃の北海道人らしい開けっぴろげな剛胆さ、ど真ん中に会心の直球を投げ込む爽やかさに遠く及ばぬものであった、と筆者は感じた)
さて、ゴールデンボンバーと同じように、二〇一三年に大活躍した女性タレントに“黒髪の白拍子”壇蜜がいる。前年から媒体露出が増え、「ハァハァしてる?」との甘いささやきでじっと見つめる、美とエロスと知性が渾然一体となった存在感が話題を呼んだ。
その壇蜜と桜木紫乃を重ね合わせたのは、選考委員の作家、林真理子だった。「私は選考会で『これは小説の壇蜜だ』と申しました。昭和のエロスにあふれている。人間のずるさ、優しさ、悲しさが全部分かっていないと、切なさを書くことは難しい。桜木さんはそれを天性でやってしまう」と評した(BOOK asahi・comより)。一方、桜木紫乃も挨拶で「文壇の壇蜜、桜木です」と応じて見せた。
名前の挙がった壇蜜と林真理子は「婦人公論」九月二十二日号で対談、「『まさか!』と思ったのですが光栄です」と壇蜜は答える。そして「週刊ポスト」十一月十五日号では、壇蜜のグラビアに桜木紫乃が書き下ろし、「官能ポルノグラフィア」として短編を添えるコラボも実現している。同誌は中高年の男性層が読者の中心であり、ゴールデンボンバーの若者世代から高齢層に大きくウィングを広げてみせた。中高年世代に訴える例では桜木紫乃はストリップの大ファンとしても知られる。札幌にあった道頓堀劇場で清水ひとみに興味を持ち足を運んだ。東京では渋谷・道玄坂の道頓堀劇場や浅草・ロック座。このあたりが「昭和のエロス」と林真理子に言わしめた背景にあるだろう(『恋肌』収載の「フィナーレ」にはストリップ嬢が登場する)。
ゴールデンボンバーがそうであったように、ここでも本来無関係な存在同士の組み合わせによってエネルギーが増幅する異化効果が生まれたように思える。小説を読まない層にも、桜木紫乃の文学世界はゴールデンボンバーのように、壇蜜のように、近づいてみせた。(もちろん「色物」的な展開の一方で、編集者の石原正康による「ザ・インタビュー〜トップランナーの肖像」=BS朝日、十一月二十三日放送=のような作家の作品とその世界に迫る正統な特集も少なくなかった)
キャラの立った文学者の登場は芥川賞では珍しくはない。たとえば「苦役列車」で第百四十四回受賞者となった西村賢太。決定を待ちかねて「そろそろ風俗に行こうかなと思っていた」と語り、「僕は中卒ですからね」といった破天荒破滅型発言を繰り出す。あるいは第百四十六回を「共喰い」で受賞した田中慎弥。選考委員でもあった石原慎太郎を意識してか「都知事閣下と都民各位のために、もらっといてやる」という不機嫌尊大発言も記憶に新しい。これらと比べて、桜木紫乃はキャラクター的には決して目立つものではないが、狭い文学から越境するパワーにおいては同等もしくはそれ以上のものがあった。
有望なお宝発見≠ニいう趣のある芥川賞は一気にブレークする傾向がある。たとえば、西村賢太「苦役列車」の掲載された文芸春秋誌は八十万部を超えた。さらに、金原ひとみ「蛇にピアス」、綿矢りさ「蹴りたい背中」のヤングガールズの同時受賞となった第百三十回受賞特集の二〇〇四年三月号は百万部を超えている。
一方、手練れの作家をあらためて一流と認知する趣のある直木賞はそれほどに盛り上がらない。桜木紫乃の一つ前にあたる第百四十八回を『何者』で受賞した朝井リョウはすでに『桐島、部活やめるってよ』という完璧な青春小説を書いている。受賞作『何者』も高い評価を得ながら人気を博するには至らなかった。
むしろ贈呈式での選考委員渡辺淳一(第百五十回をもって選考委員を退任。連載小説「エ・アロール」の担当者として一年間を過ごした筆者としては渡辺淳一の作家としての戦いをいずれきちんと批評したいと考えている)の挨拶のほうが光った。少し長いが紹介する。
「朝井さんはまだ二十三歳だそうで。このあとどう生きていくのかな。直木賞受賞者もね、かなりの人が消えていってるんですよ。編集者も最初はやさしいけどね、あっという間に周りからいなくなりますからね。生き残るにはギラギラしてないといけない。品良く落ち着いてたら、消えます。消えていったのは知的で上品な人ばかり。作家はね、我欲を持ってやって欲しいね。金が欲しいとか女にモテたいとか家を建てたいとか。なにしろ作〈家〉っていうぐらいだから。品良く生きるほうが楽なんです。でも、どの世界でもスターはギラギラしているよ。松本清張さんも金で寝る女しか書かなかったネー。何の話かわからなくなっちゃったけど(会場・笑)。欲望ってのが作家の原点ですから。魅力ある、チャーミングな作家になってください」
一九七〇年同賞を『光と影』で受賞して以来、四十年以上も第一線を走り続けてきた作家の言葉には重みがあった。
堅実なステップアップである同賞で、桜木紫乃が先にも書いたようにオリコン調べで、直木賞作家として初めてトップに立ったのは、芥川賞的な注目のされ方であった。伸びシロの大きさはしかし、桜木紫乃が知る人ぞ知る作家であったというマイナー性の証左でもあった。
■スタイルの模索―苦節六年 「ブンゴーへの道」
二〇〇二年に「雪虫」がオール讀物新人賞となったものの、桜木紫乃の単行本デビューは遅れ、『氷平線』は二〇〇七年刊である。書いても書いても編集者がOKを出さなかったということもあるが、作家としての方向性が固めきれていなかったと思われる。
桜木紫乃は新人賞受賞後、北海道新聞夕刊に「ブンゴーへの道」というコラムを二〇〇三年八月から十四回、毎週書いている。その中で「普通の新人賞作家を待っているのは、ズバリ『修業の日々』」「『受賞後第一作』を華麗に決めるべく、せっせと書いて出す、ボツ。泣きながら書いて出す、ボツ。笑いながら出す、ボツ。怒りながら出す、ボツ」「なかなか変身させてもらえない新米仮面ライター」と自虐的に書いている。受賞から一年半が過ぎても離陸できない苦衷がある。「年間1000枚書いて、50枚活字になればいい方ということが何年も続いた」(北海道新聞二〇一三年九月二十四日)ともいう。
そして「デビューできなくてもいいかなって思った時に」第一作品集『氷平線』が出る。編集者は「桜木作品の読みどころはふたつ。ひとつは、北海道の道東を舞台とし、普通の田舎町とはひと味違う渇いた閉塞感を見事に描いていること、もうひとつは、北の大地の生活感あふれる性を描いていること。…『楢山節考』を髣髴させるような、陰々とした中にもある種の明るさと諦念が漂う北の大地の現実が活写されます」(文春HP)と書いている。桜木紫乃もインタビューで「「『氷平線』の中の『霧繭』という短編は、松本清張賞に応募したもの。三〇〇枚あったのを二五〇枚捨て五〇枚に削った」(web本の雑誌)と言っており、何げない言葉の中に苦闘が滲む。とはいえ、『楢山節考』を連想させるというところに、作家として進むべき桜木紫乃らしい立ち場所の難しさがうかがえる。
第二作『風葬』(二〇〇八年)は「レポ船、拿捕――北海道裏面史をえぐるミステリー」とのふれこみで「新官能派」女流作家が挑むミステリー作品とされた。第三作『凍原』(二〇〇九年)もまた釧路湿原を舞台にしたミステリー。第四作『恋肌』(二〇〇九年)では性愛を描く「新官能派」が強調された。第五作『硝子の葦』(二〇一〇年)はノンストップ・エンターテインメント・ミステリー。つまり、初期の桜木紫乃は土着乾いたエロスを描く「新官能派作家」と「ミステリー作家」の間を往還、もしくは走り回っていたように思われる。
試行錯誤状態を脱したのは第六作『ラブレス』(二〇一一年)から。道東の開拓村から飛び出した女性主人公の波瀾万丈の物語を世代を超えた重層的な視点で描き出した力作だった。桜木紫乃の持つストーリーテラーの力量が爆発的に発揮されている。同作で初めて直木賞候補になり、島清恋愛文学賞を得た。第七作『ワン・モア』(二〇一一年)で連作の中にもテーマ性は高まり、続く第八作『起終点駅 ターミナル』(二〇一二年)でさまざまな人間模様を描きながら、作者の問題意識が鮮やかに貫かれる。「タイトルの『起終点駅』は、終わったところが次の始まり、という意味を込めています。必死で生きていてもどうにもならないことがあるなかで、それでも生きていく、ではなく、受け入れ、人はこうして生きていくという姿が伝わればうれしいですね」(日刊ゲンダイ二〇一二年四月三十日)と桜木紫乃は語っているが、このあたりで作者のスタイルは確立したと言える。第九作『ホテルローヤル』(二〇一三年)は釧路湿原の前に立つ冴えないラブホテルを舞台に、そこに吸い寄せられるさまざまな男女の哀歓をつづった連作短編集。ストリーテラーとして連作を通じてテーマを絞り上げていく方法の到達点を示すものであった。同年は第十作『無垢の領域』、第十一作『蛇行する月』が刊行された。とりわけ、『蛇行する月』は高校時代の自身を投影した苦闘しながら女性たちの生きる姿が見事で、『ホテルローヤル』に劣らない傑作となった。
プロ作家・桜木紫乃のスタイルが確立するまで、「雪虫」から『ラブレス』まで十年がかかったということになる。
もう一つ言っておかなければならないことがある。桜木紫乃と言えば、極貧、貧乏を描く作家と思われていることだ。直木賞の選評でも、宮部みゆきは「桜木紫乃さんは、〈生活苦〉を書いたら天下一品の作家です」と書いている。桜木紫乃が宮部の指摘を意識していたかどうか解らないが、編集者が「極貧」を売り文句にしがちなことに触れて、「サクラギの書いているのは日々の生活にカツカツだけど、なんとかやりくりしてるひと。…誰も極貧じゃないし、貧乏でもないんだよ。なんでかっていうと、自分でそう思っていないから」(北海道新聞二〇一三年十月二十一日「帰ってきたブンゴーへの道」)と書いている。「特に道東は炭鉱と漁業だからヤマ師が多くて、女がたくましく働く。私は一生懸命生きている人が大好きだし、そういう人たちを書いていきたいんです」(北海道新聞二〇一三年八月七日)というのが桜木紫乃の基底音なのだ。それは大衆小説を支えてきた世界観につながる。
桜木紫乃から『楢山節考』を連想したような感覚は東京や中央の編集者にはありがちな傾向だが、その登場人物は北海道の開拓地から見れば普通の貧困(日常)というべきだろう。
ちなみに、現代の文学者として多彩なストーリーテラーの第一人者は宮部みゆきである。時代小説を書かせても、ファンタジー、SF、ミステリー、何を書いても傑作となる。その宮部みゆきと経歴が似ているのが桜木紫乃である。@根負いの表現者―深川・釧路A父親が職人(的)B高校卒―墨田川高校・釧路東高校Cタイピスト―法律事務所・裁判所勤務Dオール讀物―推理小説新人賞・新人賞EストーリーテラーF直木賞作家―などである。このうち、BCの共通性が二人の初期の作品形成に影響しているのでは、と思っている。もちろん、現段階では作家としては宮部みゆきのほうが圧倒的に勝る。しかし、桜木紫乃は「貧困・新官能・ミステリー」ではなく、ストーリーテラーとしてもっと多彩に飛翔する可能性を秘めている。
■原田康子の再来―原点・釧路からの反攻
北海道には地域を代表する文学作品がある。たとえば旭川には三浦綾子の『氷点』、小樽なら伊藤整『若い詩人の肖像』、室蘭なら八木義徳『海明け』というように。そして、釧路なら原田康子の『挽歌』。その釧路に新たに『ホテルローヤル』が加わった。
地元のフィーバーぶりをもう少し瞥見しておこう。直木賞受賞が決まった直後の七月二十五日には桜木紫乃の母校である釧路東高校で「先輩」の受賞を祝う垂れ幕、釧路北中学校では「北中三十一期」の先輩の受賞を祝う張り紙を校舎の窓ガラスに掲げている。図書館の予約殺到は全道的現象であったが、市立釧路図書館では八月中旬に貸し出し用の十冊の本に約二百件の予約があり、数カ月待ち状態。受賞第一作の「無垢の領域」も同じだった。書店でも『ホテルローヤル』はしばらく品切れ状況が続いた。例のTシャツはタミヤ商品を扱う模型店で一カ月に三百五十枚が売れた(北海道新聞二〇一三年八月二十二日)。釧路市生涯学習センターでは釧路高専の小田島本有教授による桜木作品を学ぶ公開講座も開講された。
行政の取り組みとして、桜木紫乃は釧路のPRに貢献したとして釧路市長特別表彰、釧路観光大使に任命された。さらに、市幹部からは桜木紫乃作品に登場する地元スポットを紹介する地図を作成することが明らかにされた(北海道新聞二〇一三年十二月五日)。観光マップはA3二つ折り、六万五千部が新年二月に発行された。
直木賞発表から一カ月後の釧路の書店でのサイン会に八十人、九月二十二日のトークセッションには九百人が集まった。(ちなみに、九月五日に札幌・道新ホールで開かれた講演会「北で書く 北を描く」には七百人、応募者数は二千人を超えた)。過去の釧路での桜木紫乃講演会では百五十人から百八十人だったので人気ぶりがよくわかる。
ことほどさように、地元の喜びは大きなものであった。その理由は桜木紫乃が文学的全体重を釧路に置いていたからにほかならない。たとえば、「桜木紫乃」というペンネームを聞いて、ずいぶん色っぽい名前だなあ、と思うのが一般的印象かもしれない。しかし、ペンネームの由来は「釧路の桜ヶ岡に住んでいたことと、近所にあった『紫雲台』という墓場から取った」(北海道新聞「ブンゴーへの道」第十回)というだけに極めて釧路的な記号でもあるのだ。
筆者の知見では、桜木紫乃は『氷平線』デビューまでに「釧路春秋」に十編、「北海文学」に六編、「文学岩見沢」に二編など多くの作品を書いている。居住地は一時的には網走であったが、釧路が根っこであることは変わっていない。「雪虫」でオール讀物新人賞を得た時は網走に住んでいたが授賞式では「釧路で創作する人間にとって原田(康子)さんは神様、『挽歌』はバイブルのような存在。作家はすべて東京にいるものと思いがちだが、原田さんはそうではないことを教えてくれた」と述べていることからも明らかだ。
桜木紫乃が常に名前を挙げる原田康子について、確認しておこう。原田康子は一九二八年東京生まれ。すぐに釧路に移るが、曾祖父は釧路開祖の一人である。その一族の女三代の物語が晩年の傑作『海霧』となった。高等女学校を卒業後、地元の東北海道新聞の記者となる。まもなくライバル社の北海道新聞記者だった佐々木喜男と結婚。鳥居省三が一九五二年に創刊したガリ版刷りの「北海文学」に参加、五五年六月の第十七号から十回連載されたのが『挽歌』。さいはての町に暮らす兵藤怜子の愛の物語である。連載終了後、東京の出版社から刊行されるや七十万部を超えるベストセラーとなった。立ち枯れの林の中に立つコート姿の女性を載せた広告は反響を呼び、映画でヒロインを演じた久我美子のファンションは大流行した。霧の街、湿原の街・釧路は全国に知られることとなった。道東観光、北海道ブームの火も付けた。
原田康子は夫の転勤にともない一九六〇年以降は札幌で暮らすことになる(隣家の子どもが後に『聖の青春』『将棋の子』を書いて作家となる大崎善生だった)。しかし、『挽歌』は繰り返し注目を浴び続けた。九八年九月に釧路市ぬさまい公園に「挽歌の碑」建立。そして、二〇〇〇年から北海道新聞をはじめとした各紙で『海霧』を連載開始、実に二年三カ月、六三三回に及んだ(ちなみにそのときの新聞配信事務局の部長を筆者が務めた)。連載終了後の二〇〇二年十月、『海霧』は講談社から上下二巻で刊行され、翌年第三十七回吉川英治文学賞を受賞した。五月には札幌グランドホテルで受賞祝賀会開催。その他、多くの賞を贈られている。二〇〇九年十月二十二日死去。
いささか長くなったが、原田康子の半世紀に及ぶ執筆活動が桜木紫乃に大きな影響を与えたことは間違いない。たとえば「挽歌の碑」建立の記念写真に、まもなく「北海文学」同人となる桜木紫乃が少し離れた場所で一緒に映っている。「雪虫」が新人賞となった時、原田康子の『海霧』が輝きを放っていた。二〇〇二年十月十九日に釧路全日空ホテルで開かれた「北海文学」創刊五十周年記念祝賀会では中央・松のテーブルの原田康子を中央一番奥の柏のテーブルから桜木紫乃はしっかりと見つめていた。同じ日には原田康子の講演会もあった。
「北海文学が創刊されたころは新聞記者でした。警察担当で走り回っており、小説を書く時間もなかった」「『挽歌』が全国的に評判になった時、文壇から『通俗』と批判され、『とても悔しかった』」「作家は芥川賞を取っても、十人に一人しか残らない」「挽歌の原田康子だけでは終わりたくない一心で、ここまで書き続けてきた」などふる里に戻ったこともあってか原田康子は熱い思いを吐露している。(北海道新聞二〇〇二年十月二十日)
原田康子の札幌グランドホテルでの祝賀会には桜木紫乃は留萌から参加している。その死去から少し経った二〇〇九年十二月十二日夜、札幌・キタホテルで開かれた偲ぶ会にも江別から参加している。義理堅いという以上に、思い入れが半端でないことがわかる。
桜木紫乃は産業的には漁業と炭鉱の街である釧路が、小説の題材として光り輝く魅力のある場所であることを原田康子に教えられた。それは東京や札幌に出ることなく、土地っ子として過ごしてきた彼女に書くことを諦めさせなかった。「精神のリレー」という言葉を使うなら、釧路と文学の可能性を凝縮した存在である原田康子の作家魂は桜木紫乃に引き継がれるべくして引き継がれたのである。
先にも触れたが「挽歌の街」という桜木紫乃の詩はまさしく彼女のいる場所の精神的確認だったろう。『挽歌』のヒロインの名前は兵藤怜子。桜木紫乃の「別れ屋」の名前が「伶子」、『無垢の領域』の主人公秋津龍生の妻が「伶子」であることを見れば、愛着があるのは想像に難くない。『海霧』が女三代の物語であるように、『ラブレス』も同様であった。桜木紫乃の『硝子の葦』の節子が参加するのが「サビタ短歌会」というのも原田康子の『挽歌』の原型をなすデビュー作「サビタの記憶」を連想させるのだ。
■「明日への手紙」 表現の未来を信じて
直木賞受賞作のタイトルは『ホテルローヤル』ではなく、『ホテルカリビアン』だった? というのは冗談であるが、ラブホテルを描いた初期の作品ではその名前が付けられていた。二〇〇二年九月三十日発行の「北海文学」九十二号に掲載された「明日への手紙」がそれだ。
七月も終わろうとしている。それまで毎日霧に湿っていた空気もようやく渇き始めていた。空は忘れかけていた色を取り戻し、湿原に夏の風を運んでいる。私の家、ホテルカリビアンは街はずれの崖の上に建っている。荒野のように横たわる湿原を挟んで、遠い対岸には湿原展望台があった。私が高校へ進学すると同時におとうちゃんが手を出したのが、このラブホテル経営だった。なぜいきなりラブホテルなのか。ただ、受験勉強をする私のそばでくり返し「お前も手伝うんだぞ!」って言っていたことだけは覚えている。まさかその手伝いがホテルの掃除だとは夢にも思わなかった。 (「明日への手紙」より)
高校生の目線で書かれたもうひとつの『ホテルローヤル』とでもいうことになろうか。もちろん、官能性や表現力、ストーリーテラーとしての熟度は比べものにならないが、青春の初々しさの中にホテル屋の娘≠ニして投企された運命を「明日」へと進んでいく覚悟のようなものが伝わってくるのだ。
「爆発不可避、忘却不能の結末 ノンストップ・エンタテインメント長編!」と、帯の惹句が躍る桜木紫乃の第五作『硝子の葦』の舞台も実はホテルローヤル≠ナある。
釧路湿原を見下ろす高台に建つ『ホテルローヤル』は、築二十年の老舗ラブホテルだった。喜一郎が四十の年にそれまで経営していた看板会社をたたみ、ゼロから始めた商売である。景色がいいのと国道から奥まった場所に建っていることで、数年単位で通い続ける常連に支えられている。/白い外壁や紺色の屋根は、どんな季節でも湿原に映えた。外から見れば頑丈そうに見えるものの、客室は五年ごとに改築や改装を繰り返しているという。 (『硝子の葦』より)
『硝子の葦』ではそのように書かれていた。ここではまだホテルが何かの象徴的場所になっているわけではなかった。
北海学園大学准教授で短歌を中心にして文芸評論で活躍する田中綾は『硝子の葦』について、「ジャンルとしては、クライムノベル(犯罪小説)など広義のミステリーなのだろうが、私は働く女性たちの群像劇として注目した。たとえば、ホテルの管理をとりしきる女性の、比類ない働きぶり。また、家族の介護を抱えつつ、会計事務所で目配り良く働く年配の独身女性。さらに、若き日に単身でスナックを開業した節子の母の生。誰もが、なすべき事としての仕事をこなしている。各人の生をおろそかにせず、丁寧に筆を進めた作者の思いも感じられた」(北海道新聞二〇一三年九月二十九日)と指摘している。田中綾の卓越した視点は桐野夏生『OUT』の女たちの犯罪物語が女たちの労働の群像劇であったことを想起させてくれる。桜木紫乃の文学は確かにエロスの中に、「仕事」(労働)に生きる女たちを描いていることも魅力なのである。
湿原脇を走る国道から、数分山側に入った頃だった。林道と間違いそうな砂利道を進むと、道が二本に分かれた。車は細い方の道へと入り、白壁も半分剥がれ落ちた古いラブホテルの前で速度を落とした。(中略)側溝に突き刺さったままの看板はさんざんカラスにつつかれたのかデコボコだ。青いバックに黄色で縁取った赤い文字。「ホテルローヤル」というロゴの端はすべてくるりと巻きが入っている。
(「小説すばる」二〇一〇年四月号「ホテルローヤル」より)
こちらが直木賞受賞作の『ホテルローヤル』である。単行本では「シャッターチャンス」と改題された短編だが、小説誌の初出では「ホテルローヤル」となっていた。作品のテーマは精神であれ関係であれ、あるいは実際の存在であれ、鏡としての廃墟≠ナある。
すでに営業を停止し、残骸となっているラブホテル。そこを訪れる二十八歳で足の靱帯を損傷した元アイスホッケー選手。「すべて景色なんだよ」「景色を撮れば人間が浮かび上がってくる」「人間もまた景色のひとつなんだ」というのが持論だ。「もう挫折したくない。もう一回夢見たい」という人生に追い詰められた彼の趣味と目標は裸の投稿写真を撮ること。そこがスタート地点で、一緒にスーパーで働く彼女を誘い出しての撮影会となった。挫折と希望の両極には亀裂と空洞がある。モデルの彼女には「死体みたいに寝ころんでくれ」とリクエストする。もがく敗者の姿を作家は乾いた筆致で的確に描き出している。まるで、「すべて景色なんだ」とでもいいたげに。たぶん『ホテルローヤル』全編を貫く基調音となるものはこの短編と同じだろう。
(元アイスホッケー選手の主人公と言えば、筆者は直木賞を夢見ながら二〇一三年五月十六日に五十三歳で亡くなった八雲町生まれの作家、喜多由布子の『アイスグリーンの恋人』を思いだす。精一杯、希望を描こうとしていた作家であった)
一九七〇年代に青春期を過ごした筆者は等質化していく日本を撃つ「風景論」に通じるラディカルさを思い出しもする。桜木紫乃作品に色濃く見られる貧困や葛藤やエロスは、冒頭に記したような私たちの社会の閉塞感を共体験的に写し出しているからこそ、現代文学として心に迫る表現として実感を持って読まれているのだ。
もともとは「女性作家のセックス小説!」という刺激的な特集から生まれている『ホテルローヤル』が単なるセックス小説以上に読まれた理由はそこにあるだろう(その「至高の『セックス』特集」に、名を連ねていたのが千早茜の短編「かたち」だった。桜木紫乃の住む江別出身の千早茜は『あとかた』で桜木紫乃の後に島清恋愛文学賞を受賞、半年後の第百五十回直木賞の候補になっているのも興味深い)。
二〇一三年末、桜木紫乃は日刊ゲンダイ紙に初の本格新聞連載小説となる「それを愛とは呼ばず」を執筆、さらに根室を舞台にした新作も手がけている。二〇一四年初頭には札幌のFMラジオ局にも出演するなど勢いは落ちついてきたものの活躍は止まりそうにない。
個性的な文化人が案内人として登場する「通販生活」のCMで、「階段掃除が格段にラクになりました」とコードレス掃除機を山瀬まみ、吉沢久子、河瀬直美らとPRした。同じく「ひと晩でもう虜…」とミンシャン羽毛布団のCMにも登場している。
桜木紫乃は激動の一年を振り返って「小説を書くことは更正のきかない非行のようなものだろう。表現という中毒症状だから、苦と楽が絶妙なバランスで神経を侵している」「今年、ワタシの稼業は小説書きとなった。非行の第二歩だ」と書いている(週刊読書人二〇一三年十二月二十日号)。潔い「作家宣言」だろう。
桜木紫乃の作品を図式化するなら、エロス(セックス)とミステリーをx軸の両極に置き、y軸には個の生活(貧困と脱出)と社会の時間(人間史)を置き、そのキャンバスを彩るのは北海道である。
それぞれを深めつつも、さらなる柱となり軸となる領域を広げていくことも必要だろう。たとえば渡辺淳一は恋愛小説(男女小説)の名手であるが、もともとの本業である医師の世界・医療分野(医学小説)でストーリーテラーぶりを発揮した。過去の文学者や歴史上の人物を題材にした伝記・歴史小説をも得意としている。桜木紫乃の詩才はこれまでいわば現代詩であったが、直木賞作家として歌謡詩に転位したならどうなるか。あるいは「踊るシネマ天国」(北海道新聞道北版に二〇〇五年から四十六回掲載)のような自由自在な映画コラムにも不定型な才能の噴出があふれていたことはいずれ大きな強みとなって作家の活動を後押しするだろう。
筆者は吉本隆明の「言語表現(表出)」論に影響を受けた者だ。自己表出に力点を置く吉本隆明が、それでも指示表出を無視できないことが冒頭の引用文からわかる。元来は詩人であり、文学体で表現していた桜木紫乃が話体作家へと移行した背後にはある種の断念とそれを上回る意志力があったと思っている。その意志力(思想)が通俗に流れがちな話体作品の質を維持することになるはずで、文の業はまことに厳しいが、さらなる胆力を発揮してくれることを信じている。
桜木紫乃がどこへ行くのかはわからない。『ホテルローヤル』のような爆発的な人気は当面、一服する。それでも、北海道の「風景」と「人間」を北海道から発信し続ける新しい女性作家の動向が注目を集めることは間違いない。
「書くことをやめなくてよかった」と自らの文学活動を確信した二〇一三年から二〇一四年へと舞台は大きく広がる。桜木紫乃が前出の「ダ・ヴィンチ」で強調していることは、原田康子の影響もさることながら、幼いながら自分の人を恋うる思い(初源のエロス)の衝迫のようなものが書くことの原点であった、ということである。ここにはまぎれもなく現在という場所で、作家の持つ自己表出のオリジナルな力が再確認されているのである。自らの位相を捉え返した桜木紫乃の新しい「非行」のめざすところに期待し、注目していきたい。
(公益財団法人北海道文学館編『2013 資料情報と研究』2014年3月31日所収)