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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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 札幌イーストサイド・ストーリー(イントロ)

札幌イーストサイド・ストーリー【引首−あるいは長い前書き】

 札幌のマチに僕が出てきたのは一九七〇年春、十八歳の時だった。若かったせいもあるが、今よりはだいぶん希望に燃えていた。苫小牧の公立高校を出て北大に入学することになったからだ。生まれ育った白老町は人口二万人に満たぬ田舎町。集落は国道三六号線沿いに社台、白老、萩野、竹浦、虎杖浜と五つに分かれており、僕の家の付近には住宅は数軒しかなかった。だから、札幌のような大きな都市で暮らすのは夢のようだった。

 最初に札幌を訪れたのは何歳のことだったろうか。はっきり覚えていないのだが、たぶん、小学校に上がる前だったか、母の妹の「札幌のおばさん」が、今の西区のほうにあった結核療養所に入院しており、それを見舞ったのだと思う。結核で肺を一つ取ったということだったが、「札幌のおばさん」はとても美人で、大きくなってから僕は美人とはほど遠い母の本当の妹かどうか不審に思ったことだ。

 それから小学校の修学旅行だ。「札幌市史(産業経済編)」によれば、昭和三十年代の札幌には二つの遊覧バスコースがあったという。Aコースは札幌駅前〜北大〜植物園〜円山公園〜大通〜時計台〜ビール会社〜雪印乳業〜古谷製菓〜大通を巡る。Bコースは札幌駅前〜ビール会社〜雪印乳業〜帝国製麻〜北大〜植物園〜円山公園〜浄水場〜中島公園〜大通だった。

 僕は間違いなくAコースを回った。ビール会社とはサッポロビール園のあるビール工場だ。そこで、炭酸飲料のリボンシトロンを試飲し、次に雪印乳業でアイスクリームをごちそうになり、古谷製菓でミルクキャラメルをもらった。甘いものに飢えていた田舎の洟垂れ小僧には夢のような数時間であった。最後にさっぽろテレビ塔にのぼった。一九五七年に大通公園の東の端に建てられた一四七・二メートルのこの電波塔はその役割を手稲山にただちに奪われたが、札幌のランドマークとして親しまれていた。九〇メートルの位置には展望台があり、三六〇度の札幌を遠望できる。僕は初めて飛翔することを覚えた。

 テレビ塔から大通公園に沿って、札幌郵便局、北海道新聞社、北海道拓殖銀行などが西に延びていた。札幌市史は次のように記している。「北海道新聞社はその昔北海道毎日新聞社に発して北海タイムス社として永く道民に親しまれた新聞社、戦時中一道一紙として道内有力新聞十数社が統合して北海道新聞社となり、戦後最新の科学技術の粋をあつめてその報道の使命を遺憾なくし、全国五大新聞社の一に数えられる大新聞社、北海道拓殖銀行は明治三十三年の開業であり、本道の拓殖のためにつくし来つた大銀行である」。今読むと、なんだか誇大評価との落差を感じさせる内容である。 

 三度目の札幌は高校三年生のことだった。一九六九年八月、僕は大学に進学するため、桑園にあった予備校に夏期講習に出てきたのである。食うのがやっとのような貧しい家庭だったが、しぶる父を教育熱心だった母が説得して二週間の特訓に僕を送り出してくれたのだ。その時の母の優しさを思うと、今でも涙が出る。子供は親の有り難さを知らないで育ち、それに気づいた時には母はいないものだ。

 僕は道庁前の共済会館から桑園まで通ったものの、しっかり勉強したかどうかは極めて疑わしい。覚えているのは授業などより、たまたま一緒に受講していた高校の同級生と二人で、よく講義が終わった夕方に西三丁目の大通公園の噴水の前で寝転んで空を見ていたことだ。遠くで、大学生たちのデモ行進の気勢が聞こえた。「安保粉砕!」だったのか、「日帝打倒!」だったのか、「大学解体!」だったのか、遅れた高校生には理解できなかった。ただ、時代が大きく揺れ動いているのだけがわかった。もしかしたら、世の中はひっくり返るのかも知れない。そんな予感をさせる時代であった。

 だが、肝心なのは大学入試だった。翌春の大学入試に失敗すると、僕はたぶん進学ができなかった。そうなると、貧しい我が家の経済力では、地元で勤め先を探して半農同然の生活に戻るしかなかった。北野武監督の映画「キッズリターン」のラストシーンではないが、「おれたち、終わっちゃうのかな」。そんなふうに思っていた。
 
 だが、幸い僕は北大に入った。東大や京大を目指していれば、前年、東大は入試を中止していることもあり、間違いなく激しい競争で受験は落ちていたことだろう。高校は首席総代で卒業したものの冒険はできなかったのだ。

 札幌の大学生になって、最初に住んだのはその名の通りの丸い形の山である円山の下にあった地方公務員の子弟を集めた寮だ。大学には円山公園口にある市電に乗り、駅前通りと交差する三越前で乗り換え、北十八条まで通う。そこには新入生がまず通う教養部があった。

 もっとも貧乏学生だったので、授業の合間を縫ってアルバイトに精を出した。大学には四年いたが、まじめに授業に出たのは一年半くらい、あとは肉体労働と社会変革運動に忙殺された。なにしろ、「大学解体!」という響きに、世の中を変える可能性を信じてしまったのだ。結果はともあれ、特権的な知の制度という幻想など、今でもたたきつぶせなかったことが残念である。

 閑話休題。アルバイトと言えば、九州から北海道くんだりまできたW・Tという同級生が北大裏の国鉄学生寮に住んでおり、彼とのコンビで仕事によく出かけた。Wは大学生なのに高校生のように学生服を着ていた。たぶん貧しかったのだと思うが、WはWなりに、ノンポリであったが、天下に一人相対峙しているのだ、という自意識があった。大なり小なり、その頃の学生は目先の利益ではなく、遠くの理想を見ていた。
 
 だが、まずは目先の稼ぎの話である。
 覚えているのは札幌の東のはずれに測量手伝いに行ったことである。春だったか秋だったか忘れたが、雪の降り積もった豊平川の河川敷で目印の棒を持って言われたとおりに走り回る仕事である。足元を甘く見ると、ズボッと雪の下が抜けて埋まってしまう。あるいは、まだ河岸だと思っていると、すでに水の上だったりする。命の危険と隣り合わせのアルバイトである。その測量がなんのためにやるのかよくわからなかったが、後にそれは国道二七五号の雁来バイパスの建設に合わせた雁来大橋の予定地であることを知るのであった。僕らの汗が雁来大橋建設の末端で貢献しているかもしれないとい思うと、ちょっぴりうれしい。
 
 工場跡地の解体片付けに行ったこともある。札幌ビール園の手前のほうで、あたり一面は瓦礫の山であった。僕らの仕事はその瓦礫の中から、釘や鉄筋などを拾い出すことであった。つまりは、更地にする前に資源となる鉄くずを回収しようというわけである。なんとも寂しい仕事であった。熟練の鉄くず拾いと思われるおじさんやおばさんも数人おり、彼らは仕事の要領を教えると、さっさとまだボロ小屋のような倉庫に引き揚げて行く。僕らがボウルに鉄片をいっぱいにして持って行くと、中では皆さんコップ酒を飲み、サイコロを転がしてチンチロリンをしているではないか。「まあ、あんまり気張ってもしょうがないよ」。おばさんはそんなことを言う。真面目に働くのがいやになって、僕らもそれからは手を抜くようにした。その後は今、ホクレンホームセンターという家具などの立派な大型販売店になっている。列車の窓から、ホクレンホームセンターを見るたびに、あの瓦礫の山だった作業場と「緩い」労働空間を思いだす。
 
 円山の寮生活時代は近くにあった「まるやまいちば」で二カ月ほど働いた。老舗の青果店で、僕は教育大学生と二人で、卸売市場からトラックで運ばれてくる野菜をおろし、店頭に並べ、そして売り子をした。ネットに入ったタマネギの束は二十キロくらいあったと思う。これを手で持とうとすると、肩は抜けるし、腰を痛めてしまう。だからトラックの下で腰を落として後ろを向き、背中に沿ってタマネギのネットを置いてもらう。すると重みを全身で受けられるので楽々だ。それを教えてくれたのは、店の娘婿の男だったが、何事にも要領というものがあるものだと知った。
 
 北海道のナガイモは白くてツヤがあっておいしいのだが、ものによってはすぐ赤くなってしまう。客はそれを嫌うので、なんとか「純白」であることを売り子としてはアピールしなければならない。そこで包丁でスパッと切って、客に切り口の断面を見せ、「ほら、真っ白、おいしいんだから」と言い終わらないうちに、新聞紙に包んで相手に渡す。そうすると、だいたいは納得して買っていく。不思議なものである。カボチャも中に「ス」というのかスジやらムラがあることを客は警戒する。こちらはカボチャを手に持って床に思い切り叩きつける。接触するのは円周の一点だけとするのがコツだ。すると、床面にぶつかった接点Pにすべての力が集中し、包丁で切った以上に見事にポッカリと割れる。その手際の良さに客は感動し、たちまち買ってくれるというわけだ。
 
 それから、夕方になれば、生鮮品だけに翌日に残さないように、お買い得セットをつくったり、量を多くしてまとめて売ったりした。僕はその内面よりも見た目には純情そのものだったので、客のおばさんたちにはすこぶる人気であった。少し年配の女性に「お嬢さん、買い得ですよ」などと言って声をかけるのだが、今になって思うと、結構、失礼であるが、それはそれで、なんか、「何、言っているのよ、このボンズが!」みたいな反応があって、そんな掛け合いがお互いに楽しかった。
 
 僕は青果店の仕事が終わると、円山公園界隈を歩いたり、近くのパチンコ屋に行ったり、少し遅れた映画を安く見せる二番館の円山映劇などで時間をつぶした。「男はつらいよ」という山田洋次の作品もそこで見た。円山界隈は雑然とした下町という感じが気に入っていた、寮の周辺にはお寺も多く、ちょっと霊界ゾーンっぽいのも好きであった。最近はなんだか少し気障に構えている印象があるが、僕には垢抜けないころの円山界隈のほうが原点である。そんなマチの景色の変化が影響あるのかないのかわからないが、「まるやまいちば」は二〇〇九年三月いっぱいで営業を終えた。

 円山の寮には1年半ほどいたが、同室の北海学園大の学生とつまらないことで喧嘩をしてしまい、気まずくなって、結局、飛び出した。次に暮らしたのは北二十三条西七丁目にあったTNという小さな下宿屋である。北大教養部のすぐ裏手にあたり、交通費がかからないのが魅力であった。部屋は四畳半一間であったが、二食付きである。ずいぶん安い下宿であるが、食事は水増しした卵焼きなんかが中心で、下宿代にふさわしい清貧さであった。

 北二十四条界隈はその後、地下鉄が通うようになり「北のススキノ」などと呼ばれて大いに繁華街がにぎわうことになるのであるが、一九七一年頃はまだ市電が麻生方向に延びている通過駅の一つであった。僕の下宿から二百メートルほど東に戻ったところには、オリオン座という映画館があった。いかにも時間が余っているけれど金はないという学生さんを相手にしたという小屋であった。なにしろ、三本立て興行である。もっぱら邦画しかやらないが、高倉健の網走番外地シリーズや昭和残侠伝などの任侠アウトロー映画が人気であった。それから藤田敏八監督の村野武範、テレサ野田出演の「八月の濡れた砂」が衝撃的だったことを覚えている。

 さて、貧乏学生は相変わらず働いている。そのころ、札幌駅の東隣に当たる苗穂駅の北側にあるサッポロビール工場内にあるサッポロビール園にウェイターのアルバイトに行った。まだポプラ並木など残る田舎然とした地域であった。僕が小学生の頃、修学旅行に来たことがあるのは前に述べたとおりだ。夜のお仕事に手を染め始めた最初であった。ビール園はジンギスカンと生ビールのジョッキがメーンのメニューであった。僕はビールも飲めないし、肉も食べられない。いわば、禁欲度が高い分だけモラルも高く、みんな好かれて働いた。

 アルバイト先で覚えたことで自慢できるのはジョッキ運びである。たとえば十人程度の団体が入る。オーダーはジンギスカン食べ放題、生ビール飲み放題のキングバイキングとなる。その際、ジョッキは一人ですべて運ぶのが基本である。人間には指が片手に五本ずつ十本ある。単純に言えば、指に一個ずつ引っ掛けると十個のジョッキが持てる。親指には三個かけると片手で七個ずつとなる。次に両方のジョッキの間に数個を挟み両方から押しつけると、十六、十七個は簡単に運べるのだ。そうやってジョッキを運ぶのは颯爽としており、快感であった。もっとも、両方の手の力が均等にかかっていることが大切で、バランスを崩すと、指に挟んでいない数個が落下する。たちまち、ジョッキは割れ、ビールは床に流れ出すのだが、それはそれで楽しいことであった。

 ウェイターのほかにウェイトレス、さらに厨房にいて、ジンギスカンの肉を切り分けたり、もやしなどの野菜を盛りつける調理場補助も十数人ずつおり、いずれも学生アルバイトで、にぎやかであった。そうすると、必ずリーダーができてくる。組織というのはそういうものだ。そのボスが仕事のスキームを按配する。ついでに、男女関係も按配する。あれだけの男女がいると、小さな恋が芽生えそうなものだが、僕にはまったく縁がなかった。根っからの自由な個人主義者である僕には、上下関係を軸に形成される秩序が苦手だったのだろう。ビール園ではいろいろな人に出会ったが、北海学園大学生だったK・K君もその1人だ。彼は正義感の強い青年だったが、若くして隣町の町議会議員になり、のち市議会議長となった。
 
 ビール園のある苗穂まで行くには北二十三条西七丁目ではいささか遠い。しかも、ビール園では夕食が出ることもあって、二食付きの下宿では夕食分がもったいない。そこで、北十三条西一丁目のFIという家の二階に間借りすることにした。六畳間で家賃は一畳千円で、一カ月六千円である。そこは裏口から二階に上がるのだが、一階には共同トイレ、共同洗面場があり、二階には三人が暮らしていた。一人は労働者風の青年、もう一人はOL風の若い女性、そして苦学生の僕である。僕の部屋は天井が斜めになっている屋根裏部屋だった。窓を開けると、一階の屋根が目の前にある。本当に屋根だらけの部屋だった。電話は家人の住む部屋の中にあり、緊急の場合は取り次いでくれる。もっとも、電話なんてものはまったく高価で自分には関係ないものだった。たまにかかってくるのは大学の教授会あたりから「処分するぞ」みたいな電話で、居留守を使ったりして、ほとんど無視しておいた。
  
 当時は学生や青年労働者に反戦運動をはじめとした新左翼運動を支持する人たちが何百万人もいて、世界同時革命みたいなことをそれぞれの立場で叫んでいたものだ。日本で革命が起きるなら、それらの中心になっているプチ・ブルジョアではなく、僕らのような貧しい屋根裏部屋の労働者が最初に蜂起するのだと夢想した。生きることにカツカツの暮らし。いかにも貧しさが漂い、みじめなようであるが、物質的な諸関係から自由だった。失うものは鉄鎖しかない。だから、僕は今でもその部屋が大好きだ。後年、「落ちていく/西日しか入らぬ六畳一間の傾いた/窓を開けると傾いた/窓の向こうに/傾いた〈時代〉が笑っていた」「赤と黒の溶け合った日射しはとても/とてもブルーで/僕は傾いた/窓の向こうの/傾いた〈時代〉に/「さようなら」と言った」「夢ばかり追いかけていた/傾いた六畳一間/札幌市北区北十三条西一丁目仲通り藤井方/労働者プロレタリアと貧乏学生の為の安アパート/あの屋根裏からは/今も〈世界〉が見えるだろうか」と、「屋根裏から〈世界〉が見えた」という詩に書いた。それから三十数年後、その家を探したが見つからなかった時、自分の青春の唯物論は終わったのである。
 
 さて、アルバイトの続きである。飲食店でのサービス職は苗穂駅北エリアが振り出しだったが、次は水商売の定番どおりススキノに進出した。ススキノでは、まず三八というお菓子屋がやっているレストランでウェイターをした。そこは南四条西三丁目のススキノ交差点の角・すすきのビルの二階にあった。ビルの斜め角にはニッカウ井スキーのひげのブラックの看板が飾られている。そのレストランはもっぱらバーやスナックに行く前の待ち合わせスポットで、ポークチャップやらチョコレートパフェなど、わけの分からない注文が夕方になると殺到した。仕事は午後十時くらいには終わり、その足で南三条西一丁目にある須貝ビルに深夜映画を見に行った。そのころはやくざ映画は下火になっており、疾風怒濤の時代が急速につまらなくなり始めていたことを象徴していた。洋画では「猿の惑星」シリーズが評判だった。「猿の惑星」にはベトナム戦争にのめり込むアメリカ社会に対する批判があふれており、さらには黒人に対する差別への批判もあった。映画は時代の空気を伝えるのだ。
  
 レストランは2カ月ほどでやめて、次に行ったのは同じ南四条西三丁目で隣の第二グリーンビルの最上階にあった「パブウエシマ」というお店であった。今でいうディスコというナイト・ダンス・スポットの札幌でのはしりの店であったと思う。僕のような田舎者がなんで、そんな流行の最先端ゾーンに紛れ込んだのかはよく覚えていない。たぶん、ウエイターをやるなら、ビヤホールやレストランよりも時給の高い夜の店がよいと判断したに違いない。「パブウエシマ」はその名のとおりコーヒー会社の系列店であり、従業員の軸になっているのは社員と呼ばれる黒服のマネージャーたちだった。
 
 この店での思い出はいっぱいあるが、当時の僕は松本零士の四畳半純情青年マンガ「男おいどん」の主人公の大山昇太のような風貌をしており、黒服さんから「男おいどん」と呼ばれていた。インキンでもなければサルマタケを繁殖させてもいなかったが、老朽下宿の二階に間借りし、真面目に生きているのだが、極貧であり、可愛い子にはまったく縁がないというあたりはほとんど同じだった。僕は彼に好かれ、ずいぶん良くしてもらった。「君なあ、モテないだろう。でもなあ、そういう堅い男が水商売には向いているだ。大学なんてやめて、うちの社員にならないか」と、年末恒例の闇鍋会の後に、転職を誘われたこともあった。僕はきれいなお姉さんたちが頭に浮かんで、すこぶる心が動いたが、結局、いろいろしがらみもあって、大学は続けることにした。
 
 時折、もし、誘いに乗って夜の世界に進んでいたら、人生も変わっていたかなあ、と思うのだ。「パブウエシマ」はその後、ますます若者の集まる人気スポットとなり、一九七〇年代末から九〇年代初頭にはもはや天下無敵となり、その名も「釈迦曼荼羅(しゃかまんだら)」という、なんだか暴走族もビックリのビッグネームとなった。パブウエシマならぬ釈迦曼荼羅はバブルでゴーゴーという感じで、いけいけどんどんで一世を風靡したと聞く。もちろんその時代、私は全くの埒外にいたのであるが、サタデーナイト・フィーバーな自分を想像してみると、ちょっと楽しい。
 
 大学をなんとか卒業し、サラリーマンになった。道内各地をまわり、札幌に戻ってきたのは一九七九年、二十七歳のことである。住んだのは南区の真駒内だ。真駒内はお雇い外国人エドウィン・ダン記念館があるように、北海道の畜産研究の拠点であった。それから、定山渓鉄道の沿線地区の一つであったが、一九七二年二月、第十一回冬季オリンピック札幌大会(札幌オリンピック)が開催されて以来、札幌都心部へのベッドタウンとして発展した。地下鉄の真駒内駅が小さな山を背にあり、そこからバス停や住宅街が開けているものの、まだ田舎だった。

 僕はその真駒内の南町に三年ほど暮らしたが、妻が隣近所のうるさい社宅暮らしの不自由を言うようになり、一九八二年十一月にマンションを買った。それが、中央区の二条市場裏の現在の場所である。二条市場はあるものの雑然と商店が並んでいるだけだった。その周囲には旅館やら倉庫やらがごちゃごちゃと並んでいる。僕のマンションはそうした倉庫の一つを更地にして建てられた最初の高層マンションだった。売り出しからだいぶん経ってから、妻の意見でモデルルームを見学に行き、そのまま買ってしまったのだが、高層階は残っていなかった。中途半端な階は落ち着かないというので、結局、住宅エリアでは一番下の四階にした。僕はその後も転勤のため、二条市場に暮らし続けることはできなかったが、マンションを移ろうと考えたことは一度たりともなかった。そのマチは古いけれど、僕にはとても住みよい場所だったのだ。
 
 創成川の東側というのは中心街でありながら、全体に再開発が遅れ、古いたたずまいを残していた。身近でありながら、今ひとつそこがどういうマチなのか知ろうとしないまま、僕は暮らしてきた。ずいぶん見逃しているうちに多くの商店や会社、建物などが消えてしまった。「星の王子様」ではないが、大切なものは目には見えないものだ。さて、長いイントロ(引首)はようやくおしまいとなる。まさしく、脚下照顧。僕は自分の過ごしてきたマチへの感謝を込めて、もう少しこの札幌イーストサイド・ストーリーをつづってみたいと思う。 

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