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研究批評CRITIC

佐藤泰志の方へ 2

佐藤泰志の〈場所(トポス〉
 〜函館から海炭市へ〜


 佐藤泰志(さとう・やすし、一九四九〜九〇)は四十一歳で自死したが、有島武郎の名を冠した北海道の青少年文芸賞で颯爽とデビューした十七歳から生涯を閉じるまで二十五年間にわたって、自己の内面と体験を凝視し、家族や社会、戦後という時代との関係を問う青春小説を、純文学の文体の緊張感を失わずに書き続けた作家である。

 文運に恵まれたとは言えず、一九七四年に東京の大学を卒業し「小説一本でやる」と決意を固めたが、中央誌ではなかなか機会を得られず、「北方文芸」などが発表の舞台だった。八一年、夢かなわぬまま故郷の函館に戻り、職業訓練校で大工修業などをした。ただ、その秋、「文藝」に掲載された「きみの鳥はうたえる」が八一年下半期の芥川賞候補となり、八二年、作家としての飛躍をかけて再上京、力作を相次いで発表した。
 函館での1年間の求職生活は屈辱でもあったが、同時に自分の原点を再認識する機会となった。さまざまな人と出会い、変わりゆく地域の姿を実感する中で、それまでは断片的な素材であった函館の人もようや風物が真正面から物語の〈場〉となって浮上してきたのである。
 急死した妹に捧げた渾身の長編『そこのみにて光輝く』(八九年)がその代表作だ。――連絡船が山を巡って入る北のマチ。経営危機でストライキの続く造船所を辞めた達夫と、砂山の中にあったバラック集落の最後の一軒で暮らす拓児、その姉千夏のせつない生命の輝きを描いた。
 『そこのみ……』の世界をさらに拡張し、故郷に対する忖度を捨てて、その〈トポス〉の抱えている光と影、変容と停滞、愛と憎しみ、喜びと悲しみ、希望と苦悩……それら一切を、その地で暮らす人々の群像劇として再構成したのが『海炭市叙景』である。

 知人への手紙には「今、《海炭市叙景》という、季刊ペースの連載を〈すばる〉でやっています。これも函館ととられそうです。その中で、僕は36人の人々の個別の話を書こうと思っています。(中略)全部やりきれば、800枚ほどになりますが、今度の本(=『そこのみにて光輝く』)にあるものを突き抜けたいと思っています」と意気込みを伝えている。
 同作は八八年から九〇年まで書き継がれ、十八の小さな物語が紡がれている。構想では三十六話になるはずだっただけに、未完の傑作である。
 海炭市はその名のとおり「海」と「炭鉱」の街である。それに造船所と国鉄(JR)があるが、今はもっぱら観光客に頼っている。
 砂州の上に作られた街はもともと島だったふっくらとした山に繋がっている。旧市街には戦争・戦後の残滓が色濃く漂っている。背後を見れば壮大なゼロとも言うべき炭鉱の跡地。その先には産業道路が南東から北西に弧状に延び、沿線は開発されて都市化が進んでいる。郊外の町や村は膨張する海炭市に飲み込まれている。だが、旧市街を支えてきた主産業は衰退しており、若い人には住みづらい街になっている。一方で、肥大化した周縁は高度消費社会の圧倒的な浮力に侵食され、人々の紐帯である共同体やまっとうな精神を壊されている――。
 本作を書くために、佐藤泰志は映画のコンテのようなメモを何枚もつくった。膨大な数の作品タイトルの下書きもある。夫人の手で整理された「創作ノート」には自ら描いた海炭市の地図も4枚残されている。一部は星座早見盤のように東西が逆に書き込まれてもおり、作家の脳裏には夜空に浮かぶように海炭市の世界があったのかもしれない。
 海炭市全図を見ると、函館の街並みが下敷きになっていることは明らかだが、作者は函館であることを積極的に物語ろうとはしていない。山に名はなく、高さも三八九b(当時の地図では三三五b)であり、主要な地名は若松町が古新開町、松風町が河南町、亀田川が押切川、帰郷した佐藤泰志が暮らした宇賀浦町は七間町と、記されている。「昭和町」「美原(町)」など実在する地名を採用しているところもある一方で、「向敷地」など他都市の地名も潜り込ませており、虚実皮膜の感がある。
 海炭市の人々は「山」を見上げて暮らしているが、反対側からは「墓地公園」が人々を見下ろしている。この構図は海炭市を象徴している。
 函館と言えば五稜郭がランドマークだが、海炭市では炭鉱跡地だ。どちらも夢の跡である。函 館帰郷時代の81年秋には多数の犠牲者を出した北炭夕張新鉱事故が連日報道されていたことや、炭鉱が佐藤家のルーツだったことが関係しているかもしれない。舞台を炭鉱マチとしたことで海炭市は函館だけにとどまらず、「海と炭鉱」で発展してきた北海道の(そして日本の)近代を透視するものとなった。都市膨張による周縁の破壊は不可避の過程であるが、函館のそれは首都の西郊で暮らしていた佐藤泰志には切実に映ったと思われる。
 海炭市の物語はバブルの時代を前にひずんでいく街を主役に、その様相を呵責なく描く(叙景する)が、「そこ」に流れているのは取り残されながらも不器用を生きる人間(自己)への賛歌であり、レクイエムである。

 (公益財団法人北海道文学館編『地図と文学の素敵な関係』、2022年6月18日所収)
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