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研究批評critic

佐藤泰志の方へ

一九八一年の佐藤泰志の方へ
   ―童話「チエホフの夏」を読み解きながら― 

序□■
 ここで論じる佐藤泰志(一九四九〜九〇)は北海道・函館に生まれ育った現代作家である。少年の日に「作家になる」と自らを鼓舞するように記し、函館西高校時代には「青春の記憶」「市街戦の中のジャズ・メン」で二年連続、有島青少年文芸賞優秀賞を得た。とりわけベトナム戦争への日本の加担が危惧される中で学生たちの反乱として現出した一九六七年十月八日の佐藤栄作首相外遊阻止の羽田闘争事件に触発された「市街戦の中のジャズ・メン」にあふれる時代を五感で受け止める感性は当時の若い世代に衝撃を与えた。同作はおそらく今でも佐藤泰志の代表作の一つである。
 佐藤泰志は二浪の後、一九七〇年春に國學院大学進学のため上京する。学生時代も卒業後も創作活動に力を注ぎ、同人誌を続ける一方、北海道の地元総合文学誌「北方文芸」(札幌)に「もうひとつの朝」「撃つ夏」など相次いで力作を発表する。ただ、東京郊外に暮らし、希望した仕事が選べないまま不安定で過酷な肉体労働に耐えながらの執筆はアルコールとともに彼の精神を次第に蝕んでいった。
 すべてのことをいったん精算するかのように、佐藤泰志は一九八一年三月―津軽海峡を連絡船で渡ってから十一年ぶりに―、故郷・函館に戻る。そして、職業訓練校に入り、大工の見習いとなった。そのどん底の中で、しかし、次の一歩も踏み出されている。それが「文藝」一九八一年九月号に発表した「きみの鳥はうたえる」である。同作は翌年一月、第八六回芥川賞候補となったのだ。候補には樹のぶ子、増田みず子、宮内勝典、木崎さと子、車谷長吉、飯尾憲士、喜多哲正といった実力派の新鋭が揃っていた。将来を嘱望されていた作家にようやくチャンスが訪れたかに見えた。しかし、同回はなぜか「該当作なし」で終わってしまう。
 それでも佐藤泰志は一九八二年三月、函館暮らしを一年で切り上げて、住み慣れた東京・国分寺へと戻る。気鋭の作家の一人となった佐藤泰志は文芸誌に次々と秀作、力作を発表していく。だが、当時、芥川賞選考は一種の負のスパイラルに突入していた。選考委員の眼にかなう作品は見つからない回が目立ったのだ。「空の青み」(第八十八回。受賞作は唐十郎「左川君からの手紙」、加藤幸子「夢の壁」)「水晶の腕」(第八十九回。該当作なし)「黄金の服」(第九十回。受賞作は笠原淳「「杢二の世界」と高樹のぶ子「光抱く友よ」」「オーバー・フェンス」(第九十三回。該当作なし)と芥川賞候補作は五度に及ぶが、佐藤泰志はいずれも賞を逸す。急死した妹に捧げた渾身の作「そこのみにて光輝く」も江藤淳と中上健次の評が真っ二つに割れる中、第二回三島由紀夫賞に届かなかった。新規まき直しを図るかのように一九八八年からは、故郷を模した架空の街・海炭市を舞台にした人間群像を描く渾身の連作短編「海炭市叙景」が断続的に書き進められるが、当初構想の三十六話の半分を書いたところで未完のまま打ち切られた。次の一手を模索する日々のその年一九九〇年十月九日深夜、佐藤泰志はロープを持って家を出たまま近くの雑木林で帰らぬ人となった。享年四十一。書くことが戦いなら、逃げることなく戦い続けた生涯だった。
 亡くなった翌年、彼の作品のいくつかが『移動動物園』『大きなハードルと小さなハードル』『海炭市叙景』の三冊の単行本となった。しかし、それらを含めすべての著作が品切れ絶版となって、次第に佐藤泰志という作家は忘れられてしまった。この幻の作家が再び光を与えられたのは世紀をまたいだ二〇〇七年のことである。『佐藤泰志作品集』という大著が小さな出版社クレインより刊行されたのだ。ページからあふれる社会と抗いながら生きる個の、かけがえのない青春の光芒とを描いた小説世界がずしりと訴えかけた。もちろん、古くからの友人たちによる「ジライヤ」六号の追悼特集、函館西高校関係者らによる「佐藤泰志追想集 きみの鳥はうたえる」といった地道な取り組みが定かには見えなくなっていた水脈を枯れさせなかったことは間違いない。そして、その魅力を大切にしてきた人々の手で、愛憎込めて描き上げた故郷を舞台にした『海炭市叙景』が二〇一〇年に映像化されたことで、佐藤泰志再評価は新たな層に広がったのである。映像化作品はドキュメンタリーの「書くことの重さ〜作家佐藤泰志」を含め、「そこのみにて光輝く」「オーバー・フェンス」と続いており、原作を文庫本に求めた読者を二重に魅了している。(「きみの鳥はうたえる」も現在映画化が進んでいる)
 筆者は北海道立文学館で二〇一六年四月から開催された「〈青春の記憶〉〈夢みる力〉佐藤泰志の場所(トポス)」と題した特別展を担当した。佐藤泰志の文学資料の多くは遺族である喜美子夫人から故郷の函館市文学館(函館市)に寄贈されている。一方で、北海道立文学館には佐藤泰志が雑誌デビュー作の「市街戦のジャズメン」(「市街戦の中のジャズ・メン」を改稿・改題)以来、寄稿を続けた「北方文芸」誌編集部が保存していた「奢りの夏」「遠き避暑地」「朝の微笑」「もうひとつの朝」「颱風伝説」「七月溺愛」「撃つ夏」といった小説原稿、父のように慕っていた「北方文芸」発行人の作家、澤田誠一や評論家の小笠原克、山田昭夫らに寄せた手紙・はがきが残されている。函館と札幌の二つの文学館の資料を合わせることで、佐藤泰志の全貌が初めて明らかになるわけで、遺族の理解で函館市文学館も資料貸与を快諾されたことで、「佐藤泰志の場所」展は佐藤泰志文学の全貌を知るひとつのエポックを刻むものとなった。
 資料の整理の過程で澤田誠一の遺族から新たな写真や書簡(生原稿)、元新聞記者から手紙(コピー)などが提供され、作家の内面を知らせるいくつかの発見ももたらされた。それらは断片的に紹介されていても、きちんと整理されてはいなかった。それらを読むことで、私たちは作家のいた場所に近づくことができることとなった。
 本稿でたどるのは佐藤泰志が故郷に戻った一九八一年から一九八二年までの心もようである。その一年間、函館山を遠く望む大森浜に近いアパートに彼はやるせない心を震わせていた。佐藤泰志の唯一の童話「チエホフの夏」はその夏に描かれた切ない戯画である。なぜ、童話が書かれたのか、その動機を探りながら足跡をたどる。

1■□
  今、満夫が立っている場所は砂嘴(さし)だったのだそうだ。何千年か何万年かは知らない。とにかく想像もつかない厖大な年月をすぎて、砂や石が海底に堆積し、陸地としてのすがたをあらわし、海の中にぽつんと孤立して浮かんでいた島と繋った。その島は、今ではなだらかでふっくらとした山であり、砂嘴の上に作られた海炭(かいたん)市の、ほとんど、どの通りからも眺めることができる。人々は海からの潮の匂いと、山の姿になじんでいる自分を意識することもない。それは日常の中にまで入り込み、もし振返ったり、顔をあげたりした時に、山が視界の内になかったとしたら、どれほどこの市の魅力が色あせるか、といったことも考えない。
  満夫は十六歳の時、かつては島で有り、現在は山となったふもとの高校で、地理の教師にそれを教わった。だが、彼はとっくにそんなことは忘れていたし、その時の教師の名前も覚えてはいない。夏だったか、冬だったか、記憶になかった。
  あれから正確に十四年がたっていた。今、彼の心を占めているのは、約束の時間を一時間二十分もすぎたのに、まだ姿を見せない荷物を満載したコンテナだった。それに何ひとつ家財道具のない四畳半で、この底冷えする寒さに震えている三歳と一ヶ月になる娘と、娘の身体をさすってやったり励ましたりしている妻の涼子のことだ。一体、コンテナは昔からの繁華街の方から来るのだろうか。それとも、満夫が首都で生活しているあいだにできたローカル空港と墓地公園のある郊外の方から来るのだろうか。眼の前に防波堤が長々と続く海岸通りの、雪でかくれた路肩に立って、満夫は足踏みしながらその反対の方角を交互に見た。
(『海炭市叙景』〈第一章 物語のはじまった崖 3この海岸に)

 小説『海炭市叙景』の中には佐藤泰志の帰郷の様子が色濃く反映されている。引用した部分は佐藤泰志が函館に戻ってきた日の風景がデフォルメされて描かれているのだろう。その帰郷の様子を記したエッセーでも次のように描かれている。

 ともかくその時僕らが借りたアパートは浜辺のそばで、東京からのコンテナが着く日は海は荒れ、みぞれ混じりのひどい寒さだった。アパートの火の気のない、板の間には、三歳の娘とやっと這うようになった息子と妻が待っていた。強風の海岸通りに出て、僕はコンテナを待った。早く石油ストーブが欲しかったからだ。だが約束の時間を大幅に過ぎても、コンテナは現れず、防水の利かないヤッケはみぞれでぐしょ濡れになった。
(佐藤泰志「十年目の帰郷」北海道新聞一九八七年一月二十日付夕刊)

 小説では一月となっているが、実際に帰郷したのは一九八一年三月である。函館は北海道の道南にあり、温和な気候と思われるが、実際には津軽海峡の風の通り道にあり、天気は変わりやすく、冷たい風が春先まで吹く。気象庁のホームページから当時の天候をみてみる。一九八一年三月の函館の平均気温は〇・三度、とてもではないが暖房なしには過ごせない。佐藤泰志が直面していたのは早熟な作家候補が十年たっても大きな芽も出ないまま都落ちしてきたという悔しい現実である。「故郷に対する愛憎がいいとか悪いとか、そういう問題ではない。どんな情況でもどんな年齢でも、故郷と向きあわねばならない時というものは確かにあり」という中で、耐えられない寒さと意のままにならぬ事態(いつになっても引っ越し荷物を積んだコンテナは来ない!)の洗礼を受けているのだ。
 このみじめさから出発しなければならないという覚悟。いきなり訪れた逆風が佐藤泰志の中の「故郷」に対する甘えを一掃する。「十年目の故郷の冬、コンテナを待っている時、僕は確かに、ひとつのフィルターを通過したのだと思う。とても愚かではあったけれど」。
四月に入ると、佐藤泰志の函館生活も少しは落ち着きをみせる。同月十五日付消印のある雑誌「北方文芸」(札幌)発行人の作家、澤田誠一宛てのはがきにそのことが書かれている。

 「(札幌から)函館に帰ると子供たちは、もう、友達ができていました。今日は、その子たちを連れて、大森浜へ行き、たっぷり遊んできました。すっかり春で、海はすんでいました。函館山の雪もすこしずつ消えて、ああこれは北海道の春だと思いました」
「(妻を)静岡くんだりから、ここまで引っぱってきたのです。僕の小説の代筆までは、させるわけにはいきません。僕はイイフリコキだから、少々困りますが、すっぱだかになって、堂々たる親父になろうと思っています。ここで。」

 函館の天候を調べてみる。四月十日は一日中雨が降っており、十一日雨、十二日曇り時々雨、十三日晴れ一時雪、十四日雨時々雪と不順な日が続く。一転十五日は晴れとなっていることから、消印のある四月十五日に自宅アパート(函館市宇賀浦町)のすぐ近くの大森浜へ子供を連れて行ったのだろう。とすれば、大森浜で子供と遊んで帰ってきてすぐに、佐藤泰志は澤田誠一にはがきを書いたことになる。ここには尋常ならぬ距離の近さがある。佐藤泰志にとって、澤田誠一はデビュー作「市街戦のジャズメン」を見いだしてくれた恩人である。だが、それだけに留まらない。擬似的な父のような存在であり、中央の文学世界へとをつなぐ唯一の「希望」ではなかったのか。だからこそ、彼は大切なことを手紙として書くのだ。

2■□
 五月になって佐藤泰志は生活を安定させるため、職業訓練校大工科で学び始める。本当に大工になろうとしたのかと言えば違う。

 はじめてこの町の川っぷちにある職安に行くと、係の男が、実は職業訓練校の建築科に三人欠員がある、行かないか、と勧めた。大工になる気はない、と僕は答えた。男は鷹揚に笑った。なる気などなくてもいい、入校すれば、失業保険は一年間、継続的に支払われる、その他日におよそ五百五十円の受講手当が出る。いい話ではないか、三カ月の保険が、一年間延長されて、しかも手当を貰えるし、技術も身につく。この町は全国的にみても不況だ。造船会社でさえ傾きかけている。一年、遊びに行くつもりで入校してはどうか、と男はすすめた。彼は職安にあふれている失業者をひとりでも減したがっていた。それに技術を覚えるならきみの年齢は最適だ、といった。
(「オーバー・フェンス」 「文學界」一九八五年五月号)

 七月六日に書かれ、八日消印の澤田誠一宛て手紙がある。

 「僕が職業訓練校の建築科で、一年学ぶことになったのは以前お知らせしたでしょうか。大工修業です。やれること、望みの持てそうなことはすべてやるつもりです。生活面は、今しばし、苦戦を強いられそうですが、それとても戦後の二十四年に僕が生れた時代の両親の苦戦に比べれば、なんということもありません。」

 この手紙には先の大森浜のことを彷彿させる貴重な家族写真が同封されていた。もうひとつ、重要なのは「小熊秀雄も、なんだか馬鹿馬鹿しいほどの手元不如意で、童話集だけ残して、古本屋へ行ってしまいました」という一節があることである。佐藤泰志は小熊秀雄の童話を読んでいたのだ。だが、小熊秀雄はつまらないのか?
 そうではない。佐藤泰志は一日をおかず、澤田誠一にもう一通の手紙を出している。原稿用紙の切れ端に、ぎっしりと一篇の童話が書かれたもので、童話以外の文面はない。

  童話:チエホフの夏  佐藤泰志
 海辺に大工がいました。大工は、眼と手と鉛筆で、雨降りの砂浜に、一軒の家を建てました。
その日は、七夕で、町の子供たちが、夕暮れになると、桃色の提燈を持ち、家々の玄関をびゅうとひらいて、「竹にたんざく七夕祭、おおいに祝お、ローソク一本ちょうだいな」と唄っては、ローソクや、アメ玉をもらって歩く日なのです。大工は、それで朝から、雨のざんざん降っている海辺に、一日がかりで子供たちの願いをかなえてやろうと、屋根ばかり大きな、雨やどりのできる家を、建てたのです。
 提燈の明りが消えないように、子供たちが風邪をひかないように。大工はいっぱい汗をかきました。そして、建て終ってから、ロシア人のチエホフという人の手紙を少し読んで、子供たちを待っていました。
 でも、子供たちはきませんでした。大工は、家を、明るい商店のほうへ建てるべきだったと思いましたが、雨が降っているのだから、この屋根ばかり大きな家に雨やどりにこないはずはない、と思って、じっと、待っていました。
 でも、子供たちはきませんでした、なんて、薄情な子供たちだろう。大工はそう思って、外へでてみました。
 すると、すばらしいコバルト色の晴天です。大工はずっとずっとこの海浜で育ったのに、こんな晴れた海を見たことがありませんでした。子供たちの、家々をまわる声が、遠くからきこえました。大工はふり返って、浜辺を見ました。すると家がありません。眼と手と鉛筆で建てた家は、海水で、ぼやけて、消えてしまいました。砂のくぼみに、チエホフという人の手紙を集めた本が一冊、ぽつんと置き去りになっていました。大工は、おおいそぎで、その本をひらきました。ページは、めくってもめくっても白いままでした。その時、大工は、一番最初の、子供になって、泣きましたが、眼も声も耳もつぶれてしまっていましたから、その泣き声は誰にも届かず、大工の耳にさえ届きませんでした。一九八一・七・七
(文頭の一字下げなどは筆者による)

 作品の末尾には「七月七日」とされているが、ただし、手紙を記した日付として裏面には「七月六日」とある。七月六日に書かれた手紙の続編としてこれは書かれた。だから「七月七日」の日付があるのは自然だが、「七月六日」という日付も気になる。
 例によって気象庁のホームページから一九八一年七月七日前後の空模様を見てみよう。函館は七月に入ってから雨の日が目立つ。それでも七月四日にはいったん曇りとなる。だが、翌日からは雨。特に七月六日の日中は大雨となっている。一方、七日になると昼は晴れ、夜は一時雨となり、消印のある八日は曇り、降水なしである。
 童話の中の「朝から、雨のざんざん降っている海辺に、」とあるのを実景に近いものと考えれば、作品が書かれたのは七月六日だろうと思われる。だが、佐藤泰志は七夕の物語を書きたかった。だから作品には「七月七日」と記された。しかし、手紙自体は末尾にあるように「七月六日」に書かれたと考えるのが妥当だろう。
 佐藤泰志は一日に二通の手紙を澤田誠一に書いたことになる。繰り返しになるが、そこには澤田誠一という「父親」的存在への甘えや依存に近い信頼がある。
 佐藤泰志の唯一の童話「チエホフの夏」が書かれた背景を想像していくことにしよう。
 函館に約十年ぶりに戻ってきた佐藤泰志は将来を期待された作家から、今はその日の生活に追われる身である。そのプライドはすでに帰郷の日からずたずたに引き裂かれていた。やむなく、職業訓練校で手に職を付けようともがいている。時々、原稿を書くのだが、見通しはない。楽しみは子供たちを連れて、アパートから歩いてすぐの大森浜で遊ぶことである。浜辺の先には函館山が見える。
 「チエホフの夏」というタイトル。なぜチエホフなのか。普通はチェーホフであるが、ここではチエホフである。調べてみると、改造社の文庫に『チエホフ書簡集』(内山賢次訳、一九二九年八月)という本がある。「チエホフ」と「書簡集」の二つから、この文庫を佐藤泰志は実際に読んでいたのだろうと推測する。
 この書簡集は400を超すページの中に、チェーホフの人柄があふれている。読んでいて一番興味深いのは後に『サハリン島』としてまとめられることになるシベリアを越えて、韃靼海峡を渡り訪れた旅行記録である。それはドラマチックだ。

 「明日私は日本を、松前島を見るでせう。いま夜の十二時です。海は暗く、風が吹いてゐます。私は何も見えない時に、殊に韃靼海峡のやうな、荒れた知られてゐる所の少ない海を、 どうして汽船が航行できるのか分りません」(1890年9月11日 汽船『バイカル」号上にて)
「私は家が恋しい、サガレンには飽きました。(中略)早く日本へ渡って、日本から印度へ渡りたい」(1890年10月6日 サガレン島にて)

 この変奏する望郷(出郷)の思いを、そのページをめくりながら感慨深く読み続けたことは想像に難くない。あるいは比較的前半部分には次のような手紙もある。

 「私は病んでゐます。喀血と衰弱。何も書いていません」(1886年4月6日)
 「貴方は 金がないのを赦して下さる奥さんをおもちですが、私は私が月に十分の金を稼がなければ崩潰してしまふ。崩潰してしまふ、崩潰して重い石のやうに私の肩上に落下して来る一大家族を背負って居るのです」(1888年4月18日)

 ところどころ、佐藤泰志のみじめさに迫る言葉が連なっている。函館の七月、それはまさしく「チエホフ体験の夏」なのだ。ちなみに、佐藤泰志は、その多くの作品タイトルに「夏」を使っている。それはギラギラと輝いていて、傷みのある青春の証である。
 一方、なぜ童話を書いたかと言えば、売らずにおいた小熊秀雄の童話集をやはり読んだからだったろうと思われる。小熊の童話集とは、『ある手品師の話 小熊秀雄童話集』(画・寺田政明、晶文社、一九七六年一月)であることは間違いない。
 この小熊秀雄童話集には十八編の作品が掲載されている。どの作品も小熊らしい視覚性にあふれた表現力と運命を凝視するエレジー(悲歌)のような世界観があふれている。佐藤泰志が小熊の童話でインスピレーションを受けたとすれば、「焼かれた魚」だろう。 
 焼かれた魚は秋刀魚(サンマ)である。都会の魚屋に売られ、奥様に買われた魚はちょうど焼かれたところである。彼はたまらなく海が恋しくなっていた。それで家のネコにほおの肉をやり、ドブネズミには片側の、野良犬にはもう片方の肉をやり、カラスには目玉をやり、骸骨で盲目の秋刀魚になってまでなつかしい海へ帰ろうとする。アリの行列に助けられ、海の横の崖まで運んでもらった。ついに海に落ちた魚は気が触れたように泳ぎ回る。だが、目もなく肉もない魚はもう自由がきかなくなっていた。やがて岸に打ち上げられてしまう。「さいしょは魚は頭上に濤の響きを聴くことができましたが、砂はだんだんとかさなり、やがてそのなつかしい波の音も、聴くことができなくなりました」となって終わる。
 故郷願望のこの物語を佐藤泰志はどのように読んだのだろうか。なつかしい海(函館)から都会(東京)に出てきた彼は焼かれた魚である。夢をかなえるために体はボロボロになるまで消費されてしまった。そして、なんとか故郷に帰ってきたものの、かつての生き生きとした青春物語はもうなかった。その切実さは「焼かれた魚」そのものだったろう。しかも、函館の夏が始まる七夕の前夜である。佐藤泰志はあふれ出した想いをそのまま小熊秀雄の童話の変奏曲として書き上げたのだ。
 「チエホフの夏」という作品をもう少し読み込もう。
 主人公の大工とは職業訓練校の建築科に通っている佐藤泰志自身であろう。「大工は、眼と手と鉛筆で」「家を建て」るのだが、これはまさしく「作家」を意味している。子供たちとはもちろん自分の二人の子供であるが、おそらく幼年期の自己像が投影されている。ここで七夕のローソクもらいにも触れておこう。北海道の風習で昭和二、三十年代にもっとも一般的だったのがローソクもらいである。筆者の地域では「ローソクだせよ、ださないとかっちゃくぞ」と子供連が町内の家々をまわり、ローソクよりもお菓子やお小遣いをもらって歩いたものだ。その台詞は地域差があり、函館市、七飯町などの道南では「竹に短冊七夕祭り 大いに祝おう ローソク一本頂戴なー」「竹に短冊七夕祭り 多い(追い)は嫌よ ローソク一本頂戴なー」「竹に短冊七夕祭り おーいやいやよ ローソク一本頂戴なー」(昭和50年代まで)「竹に短冊七夕祭り おーいやいやよ ローソク一本頂戴なー ローソクけなきゃ かっちゃくぞー」(昭和30年代より以前)。(この項はwikipediaを参照した)といい、佐藤泰志の童話では子供たちは「竹にたんざく七夕祭、おおいに祝お、ローソク一本ちょうだいな」と歌って歩いており、まさしく彼の体験した道南の風習が反映されている。
 大工(作家)のつくった家(小説)はどうなるか。「海水で、ぼやけて、消えてしまいました。砂のくぼみに、チエホフという人の手紙を集めた本が一冊、ぽつんと置き去りになっていました。大工は、おおいそぎで、その本をひらきました。ページは、めくってもめくっても白いままでした。その時、大工は、一番最初の、子供になって、泣きましたが、眼も声も耳もつぶれてしまっていましたから、その泣き声は誰にも届かず、大工の耳にさえ届きませんでした」。物語のラストには、佐藤泰志の置かれた悲しみがなんどもなんども刻まれていることがわかる。
 佐藤泰志は次の八月二日付の澤田誠一宛ての手紙で恥ずかしげに書いている。「あんな、童話などと名づけたいいかげんな、愚痴みたいな、殴り書き、それも原稿用紙の裏などに書いたものなぞ、送ってしまってから、ずっと、うじうじと後悔していました。本当に、あるまじきことです。弱い心の、澤田さんに対する甘えでしかありません」
 小説家の佐藤泰志は童話を書ける器用な人間ではなかった。それでも、小熊秀雄の童話にインスパイアされて、童話というスタイルを初めて試みて自らをさらけ出したかったのだと言える。
 「チエホフの夏」は澤田誠一に送られた後、書き直されて同人誌「贋エスキモー」三号(1981年8月)に掲載されている。走り書きに比べると、文章は整序されて物語はメリハリがしっかりしている。しかし、勢いに任せて書いた一篇のほうに切実な作者がいるように思われる。

3■□
 「チエホフの夏」を書いた佐藤泰志はかつての心境小説家が死の淵から反転して復活していくように、意欲作を書き始める。澤田誠一に宛てたこの八月の手紙の中で佐藤泰志は「新潮」誌が作品を掲載してくれるという見通しを書いている。だが、そのころ「新潮」には掲載された作品はない。芥川賞候補作となる「きみの鳥はうたえる」は「文藝」九月号(河出書房新社)掲載である。
 翌一九八二年一月に「きみの鳥はうたえる」が芥川賞候補になったインタビュー記事で佐藤泰志は「出版社の求めに応じて、二カ月で書き上げた」(北海道新聞函館版一九八二年一月九日付)と述べている。つまり、「きみの鳥はうたえる」が書かれたのは「チエホフの夏」が書かれた同じ頃と推測されるのだ。
 芥川賞を逃したものの佐藤泰志は「きみの鳥はうたえる」の後に書き上げた作品について「かなり自信がある」と言い、「若い肉体労働者の青春を書いていきたいですね」と新たな構想を温めているとも述べている。(同一九八二年一月十九日付夕刊)
 前出のインタビューでは「当分は函館にいるつもり」とも答えているのだが、それから二カ月も経たぬうちに、佐藤泰志は東京に戻る。「僕は作家になる。文学をやるのが人生だ」と一途に生きてきた佐藤泰志の、こんなことをしている時間が自分にはないのだ、という「焦燥」が伝わってくるようだ。
 一九八二年三月―函館帰郷からわずか一年―彼は東京で「焼かれた魚」となって、生きる道を再び選ぶ。「底辺労働者」としての彼の体験から生まれた作品は次々と芥川賞候補となっていく(もちらん受賞しなかったのだが)。この短かった函館生活は作家にとって貴重な休息あるいは転機であったかというと、もちろんそうだ。
 しかし、文学的に考えて一番大きな収穫は佐藤泰志が故郷・函館を再発見したということである。それは函館に戻った彼をいきなり襲った過酷な風景の延長にある。

 「遊園地のブランコが一つこわれていました。函館の遊園地がどれほど腐っているか御存知ですか。女房は腹を立てて、こんな危い腐った公園をほおっておくなんて、と怒っていたものです。(中略)文化財もいい、観光地だといって旅人のふところをあてにすればいい、でも次の世代に対する配慮もない所で歴史も美しい風景もあったものじゃない、と僕は思ったものです。」
(新聞記者の矢島収への手紙 一一九八二年四月十七日消印)

 この故郷への異和により、佐藤泰志は物語の中の故郷を重層化して描いていくことになる。だからこそ、未完に終わった連作集『海炭市叙景』はいかにも函館らしい海港都市であるが、あくまでも架空の都市として描かれている。
 『海炭市叙景』で一番不思議なのは街の真ん中には「炭鉱」があることだろう。
 
 若い人間の生きにくい街になってしまった。炭鉱が潰れ、造船所は何百人と首切りをはじめた。職安もあてにはならない。この正月には炭鉱に勤めていた青年が、山で奇妙な死に方をした。もう希望を持つことのできない街になったのかもしれない。
(『海炭市叙景』3「この海岸に」)

 砂嘴の街に炭鉱があるはずがない。炭鉱を北海道の象徴として持ち出したかのように考える人も多いだろうが、筆者は佐藤泰志が炭鉱を持ち出したきっかけは別にあったと考える。佐藤泰志が函館にいた一九八一年の十月に大きな炭鉱事故が起きているのだ。
 北炭夕張新鉱ガス突出事故。死者・行方不明九十三人にのぼった。
 この事故は単に悲惨であるだけではない。エネルギー政策の転換の中で、北海道最後の優良炭鉱の一つであった北炭新鉱でも生産計画は追いつかず、採炭を優先する中で安全対策が疎かになり、事故が相次いでいた。そして、十月十六日、午後零時四十一分ごろ、坑口より約三千メートル下にある『北部区域北第五盤下坑道』の掘進作業現場付近で大規模なガス突出事故が発生する。入坑していた炭鉱員は八百三十八人、現場付近には百六十人がいた。坑内は火災がひどく、小爆発も続き、救出作業は難航した。事故から一週間後、二十三日には河川水が注入され、取り残されていた人々は安否が確認できぬまま地の底に「水葬」されたのである。
 この事故は連日、新聞のトップ記事となった。炭鉱とは無縁の函館で暮らしていた佐藤泰志の心の中にも、国策の非情さと文字通り底辺で働く労働者たちの切り捨てられる姿が切実に映ったことは間違いないと思うのだ(実際、北海道に暮らしていた者のほとんどはこのニュースを涙なしには聞けなかっただろう)。だから斜陽の街の大いなる空洞のシンボルのように炭鉱が置かれた。小熊秀雄やチェーホフなど読みかけの本を含めて、身近なところから発想する佐藤泰志に炭鉱事故が心に残らなかったはずはない。
 身近なところからの発想と言えば、『海炭市叙景』というタイトル自体、佐藤泰志がデビュー作「市街戦のジャズメン」を発表した「北方文芸」(一九六八年三月号)に、小説「轟沢」を書いている根室の作家、中沢茂の「海胆市八月叙景」(「北方文芸」一九七二年十二月号)に魅せられて付けられたものだ。
 中沢茂は「根室市」のことを「海胆市」と呼んでおり、「海胆市八月叙景」は太陽の照る日の少ない港町「海胆市」の〈市街戦〉のような風景をつづった作品だ。ちなみに、「海胆」は「うに」のことで、根室半島はコンブの宝庫で、そこでは海藻を食べて育ったウニが特産物でもある。
 文学者にとっての故郷を考えるとき、筆者は伊藤整の詩集『雪明りの路』の一節をいつも思い出す。伊藤整はこう言っている。
 「考えて甘い故郷なんて嘘だ」
 その苦さの中で文学者は自分を振り返る。故郷を再措定する。

 「今度、僕は《海炭市叙景》の中で、その町にさまざまなかたちで住む人々を、36人書くことで、区切りをつけたいと思います。」
   (新聞記者の矢島収への手紙 一九八九年五月十日消印)

 そう決意した作品は佐藤泰志の自死もあって半分の十八話で未完となった。だが、「区切りをつけたい」という彼の故郷への思いはすべて言い尽くされていると思うのは筆者だけだろうか。
 (公益財団法人北海道文学館編『北方文芸 2017』、2017年7月1日所収)

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