子母澤寛研究 2
「石狩ルーラン」の残響を追って
――河合裸石と子母澤寛・三岸好太郎メモ――
§0 はじめに
北海道立文学館が特別展「没後五〇年 子母澤寛 無頼三代蝦夷の夢」を開催したのは二〇一八年春のことであった。
子母澤寛(しもざわ・かん、本名・梅谷松太郎、一八九二~一九六八)は「厚田村(現石狩市厚田区)」に生まれた時代小説家である。『新選組始末記』をはじめとした新選組三部作、『勝海舟』『父子鷹』などの傑作を持つが、勝新太郎主演の映画「座頭市」の生みの親といったほうがわかりやすいかもしれない。異父弟で札幌に生まれた三岸好太郎(みぎし・こうたろう、一九〇三~三四)は「猫」や「道化役者」「オーケストラ」「のんびり貝」「海洋を渡る蝶」など次々と新しい表現世界を描き出した夭折の天才画家である。
この〈異能〉の兄弟は敗残者の系譜と、複雑な血脈・家庭に生まれたことをバネにした。既得の財産やエリート教育による恩恵ではなく、自らの苦闘で活路を開かねばならなかった。それゆえ、変わることを怖れなかった。安住せず、常に挑戦した。三岸好太郎の絵画をなぞれば、彼こそピンをはねのけて「飛ぶ蝶」であった。子母澤寛の小説をなぞれば、無頼(頼らず、媚びず、妥協せず、信念の道を行く人)であった。異土にあっても、ほんとうの故郷を思い続けた。つまりは北海道という風土と歴史が生んだ典型的な「北海道人」であった。
筆者は「子母澤寛展」を通じて、郷土史家でジャーナリストだった河合裸石(かわい・らせき、本名・七郎、一八八三~一九四一)にも関心を持つようになった。裸石は厚田村北郊の懸崖「ルーラン」の紹介者として知る人ぞ知る存在であるが、これまでは子母澤の厚田小学校時代の恩師という文脈で語られてきた。しかし、裸石は三岸好太郎とも交流があり、三岸の訃報を執筆したほか、三岸が書いた「ルーラン」生まれとするファンタスティックな自筆年譜に濃厚な影響を与えていた――と推測するに至った。さらに▼裸石のアイヌ文化に対する理解は子母澤寛にも精神のリレーのように引き継がれたこと▼「鬼女」イメージのあった母三岸イシ像は実態と背離していることも指摘する。
裸石と子母澤については木原直彦『北海道文学史 明治編』『北海道文学散歩Ⅱ 道央編』に、同じく三岸については匠秀夫『三岸好太郎 昭和洋画史への序章』に、すでに十全の考察がなされているが、これらに紹介されている情報を整序し、連関させて総体化する形で、拙論にまとめてみる。
以下、本文は話し言葉で展開される。
§1 「ルーラン」の伝道者・河合裸石
河合裸石という人物はあまり知られていません。でも、三岸好太郎が出生地を「石狩ルーラン一六番地」と書いている、あの「ルーラン」の伝道者ですよ、というと、なんとなくわかる人が多いのではないでしょうか。
まず河合裸石のプロフィルです。この人は明治末から昭和十年代にかけて活躍した文筆家・ジャーナリストですが、探検家・旅行家であり、江差追分研究家であり、アイヌ民俗紹介者です。スキー紹介者でもあります。『薩哈嗹の旅 薩哈嗹洲案内』(いろは堂書店、一九二一)という尼港事件後の混乱期のサハリン北部ルポもあります。
一八八三年(明治十六年)新潟県生まれ。筆名は母親が病弱が治るようにと願掛けで通った「裸石地蔵」から採られたといいます。家産が傾くとともに一家は北海道に移住。岩見沢、小樽で育った後、十九歳ころに上京、国文・英語などを学びます。
遊学時代に〝ニキビ文学〟に親しみ〝へっぽこ雑誌〟を発刊したり、詩を読み書きしたと裸石は言っています。道内同人誌の草分け「サッポロ文学」(一九〇四創刊)に小田観螢らと参加。一九一二年には並木凡平らと「北国文壇」を創刊しています。
一九〇五年三月、帰道して厚田小学校代用教員(1)となります。教員生活は八年で終え、一九一四年五月からは小樽新聞記者、その後、北海タイムス(北海道新聞のルーツの有力一社)に転じ、社会部長や事業部長を務めます。優秀な後進を育てる一方、博覧会、航空事業、スキー普及などに活躍しました。
開道五十年記念で一九一八年に開かれた北海道博覧会では中島公園につくられた「演芸館」で長唄「紅燕情話」の華やかな舞台をプロデュースしています。これは石狩の源義経伝説を題材にした悲恋物語で、唄あり踊りありのステージは大好評、作中には「あな、おぞましや、我れこそは、厚田の峰の彼方なる、濃昼山の洞窟に年を経た、ルーランの森の精霊であるぞ」といった台詞も出てきます。
厚田小教員時代には北郊の山岳秘境に親しみ、洞窟を「法窟」(修行の場)と名づけて住処とし、各紙誌に寄稿した探勝記を『ルーラン』(近江堂、一九一二)として上梓しました。
これが裸石の「ルーラン」ライフワークの始まりでした。
ルーランは室蘭(モ・ルエラニ=小さな・下り路または下り坂)と同じアイヌ語の「ルエラニ」を語源とし、漢字では「留蘭」と書かれることもあったようです。知る人ぞ知る秘境でしたが、裸石はそこを全国に紹介したのですね。
同書自序には「北海の山水皆怪異。就中其尤なるを我がルーランとなす。蓋ルーランとはアイヌ語にして、懸崕の意なりとぞ」と記されています。「北海の奇勝たるルーランは、石狩国厚田郡厚田村から北へ去る一里の處から始まって、行程五里に連る海岸を言ふのである」とあるほか、別稿では「石狩川口より北の方七里の地点より、沿岸に連る人跡稀なる山道の総称にて候」などと紹介されています。現在の石狩市北郊の厚田区(旧厚田村)安瀬から濃昼、さらには浜益区、留萌の増毛町に至る濃昼山道・増毛山道周辺の山岳及び海岸一帯を広く指しているようです。
その魅力を語るのは裸石節ともいうべき文体で、「山妖海若の輩が巨斧を揮ふて快斫したやうな、日本海岸の一特色たる莽蒼跌宕たる懸崕は雲を刺して欹つてゐる。前にも述べたるが如く岩質は総て火成岩であつて、外皮一帯には白楊、羅漢松、蝦夷松、オンコ等の衣を纏ふてゐる。絶壁に佇立して海を望むと紺碧の色、物凄い程濃厚で、岩からして直ぐと二仞三仞の深さで、そして女の頭髪を梳くつたやうな、茶褐色の藻が奇礁に纏ふてゐる」「濱には奇巌數ふべからず、或るものは猛虎の一群大挙して雲を呼び雨を起さむと欲するが如く、或るものは數千の獅子集りて舞踏をなすが如く、或るものは麟鳳の來りて戯るゝが如きもの」などの名調子で引き込みます。
一九一五年(大正四年)には続編『熊の嘯(うそぶき)』(求光閣書店)を刊行しています。「幽谷を出づれば、前面に奇峰突兀として、晴れ渡る秋空に聳えぬ、誰が結び與へけむ、紅く染めたる蔦の帯を其幅廣なる安山岩の腹に纏ひ、矮小なる岩松の緑葉を髪として、長く曳ける霜枯れたる千草の模様を點綴せり、一行はこの美しくも気高き山姫の裾を踏みて行く也。山を迂曲すること三度、近く西方を望めば日本海の波は深山の湖よりも静に、風は死して沖行く白帆の影遅々として蝸牛のそれの如し」と名文はいっそう冴え渡っています。
この『熊の嘯』には徳富健次郎と新島善直の二人が序文を書いています。徳富健次郎は徳冨蘆花の筆名で知られる国民的ベストセラー作家ですが、新島は林学博士で北海道帝国大学農科大学林学科の初代教授です。江差追分についての関心を裸石と共有していたようです(2)。
新島は同年代の札幌一中美術教師の林竹治郎らと共に札幌北一条教会を支えていますが、林は三岸好太郎の中学時代の恩師としても知られています。
北海タイムスでの部下には竹内武夫、佐野四満美らがいました。竹内は北海道美術協会展(道展)の提唱者。道展には特別会員として三岸好太郎も出品していますね。道展立役者の一人、漫画家の加藤悦郎もタイムスで筆を執っていました。
佐野四満美は童話、童謡などを掲載した雑誌「児童文芸」(一九二四年創刊)の編集発行人でもあり、同人には支部沈黙(はせべ・ちんもく)、上杉勇次、加清保(3)、塩谷羊友などがいました。支部は詩人で、裸石の後に厚田小学校に務めています。支部の教え子には宗教者となる戸田城聖(本名・甚一)がいます。城聖の兄の外吉は子母澤寛の一級先輩。城聖は外吉の縁で子母澤と東京厚田会で会います。塩原将行氏によると、城聖は「大道書房」を興し、子母澤の『国定忠治』『勝安房守』、戦後は日正書房名義で『男の肚』『勝海舟』――など三十数冊を刊行しています。
さて、『熊の嘯』の巻末には『ルーラン』の再版広告が掲載されているほか、「讀賣新聞」「報知新聞」「国民新聞」の各紙、「冒険世界」「武侠世界」という専門誌掲載の書評も紹介されています。一部を紹介すれば「本書は怪異の山水に富める北海の懸崕を背景として、其雄大の風景を叙し、神秘的並に豪快なる出来事を、雄勁なる筆にて細序せり」(報知新聞)「我が国山水の怪異なるは北海のそれに優るものはない、而して北海の山水中最も怪異なるものを求むれば、ルーランは即ち其最なるものである、上編には主としてルーランの奇勝を描き、下編には北海の風物を写して居る其文も亦莽蒼跌宕を極めてゐる」(武侠世界)など、絶賛されていたのがわかります。
ロマンチシズムを誘う秘境ルーランは、河合裸石の名とともに一九一二年頃から人口に膾炙することになりました。
(1)「創価教育の源流」編纂委員会『評伝 戸田城聖』(第三文明社)には戸田城聖の厚田小学校担任教師が一緒に海を見ながら歩いたり岩場に座って本を読み、水平線の彼方を眺めながら「あの向こうにはアジア大陸があるんだよ」と語ってくれた、と戸田から池田大作が聞いたというエピソードが紹介されている。河合裸石は二年間、戸田の担任をしており、『水滸伝』『三国志』やナポレオンの話などをよく語っていた。
(2)蘆花徳富健次郎は北海道とゆかりが深い。旭川の第七師団にいた小笠原善平をモデルにした小説『寄生木』を執筆しているほか、一九一〇年(明治四十三年)には家族同伴で北海道をめぐっている。その記録をまとめたのが「熊の足跡」(『みゝずのたはこと』(新橋堂書店など。一九一三)所収。河合裸石のルーラン続編『熊の嘯』に通じるタイトルであることは興味深い。
(3)加清保は戸田城聖と同い年の気鋭の教員であった。交友を持った二人は城聖の妹テルが加清の妻となることで、義兄弟となった。加清保、テルの長女蘭子は詩人で、上京して出版社の青娥書房を興す。次女が天才少女画家といわれた加清純子(渡辺淳一『阿寒に果つ』モデル)。純子の弟は詩人の暮尾淳となった。
§2 子母澤寛と河合裸石の往復エッセー
子母澤寛はその河合裸石の教え子です。裸石が厚田小学校に代用教員として着任した時に、高等科三年に子母澤寛がいました。四年生で卒業なので、二年間薫陶を受けました。
子母澤寛という作家は幕末ものや侠客もの作品で知られていますが、ひとことで言えば、「望郷」の作家と捉えるのが適当かもしれません。晩年はその傾向が強まりました。
子母澤寛は一九〇七年に十五歳で函館の商業学校に入ったあと、ちょっとだけ帰郷していますが、その後は故郷に戻ることはありませんでした。厚田村は鰊漁で栄えていたのですが、次第に不漁となります。このため、一九〇八年に育ての親である祖父梅谷十次郎が莫大な借金を残して厚田村から夜逃げしてしまいました。これはなかなか重い、地元にはもう足を向けられない事件です。室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思うもの」ではありませんが、故郷喪失者である子母澤の厚田村に寄せるエッセーは哀調を帯びた名文となりました。
同郷者向けの雑誌「北海道倶楽部」創刊号(一九三四年五月十五日)に「村を出て」というエッセーを書いています。
「村を出てからもう三十年に近い。東も北も南も山で、その山の間から、さらさらとした川が村を突っ切って流れて海へ出る。晴れた日は青い海、少し曇ると真黒い海に見えた」という書き出しで始まり、「私はもう生れた村に、家もなし、親類もない。今、ひょっこり村へ帰っても、恐らくは泊めていただく家さえない」と語り、「村はいい、ふるさとはいい。だが私はふるさとの山河のみを恋して、夢に見るべき人のないのを淋しくてならない」と結びます。
「夢に見るべき人」もないと言うが、文中には今も心に残る先生が二人挙げられています。一人は大場という女の先生、もう一人が「北海タイムスにいる河合裸石」先生です。
大場先生からは「久しぶりで先日お達者なおたよりをいただいて、本当にうれしかった」とあるが、河合裸石については「きっとおつむりが禿げられた事であろう」とあり、知っているのか知らないのか、直接の付き合いはなさそうです。
子母澤寛のエッセーになぜ河合裸石の名が突然出て来たのでしょうか。その答えを裸石が「北海道倶楽部」第四号(一九三四年八月十五日)に書いた「村を出た子母澤さんへ」という子母澤への返信エッセーで明かしています。
「子母澤さん。/と呼びかけたものの、これでは何んとなく私には親しみが薄いから君が村を出た時の姓名、即ち梅谷松太郎君と呼びたい」「今では大衆作家の子母澤大御所として押しも押されぬ存在で、君の方がまさに先生である。私は未だに碌々として徒らに馬齢の嵩みゆくを恥じている始末だ。村を出て三十年と書いてあったが最うそうなるかな、今さら月日の流れの早さに驚かされる」「三十年の人の世の変化は君の想像以上のものがある。今では何のゆかりもない君であっても、君を育んだ村だ。機会を見て一度村を訪れて呉れ。但し其時は子母澤寛としてでなく昔のままの梅谷松太郎としてだよ」
裸石は一九一三年まで厚田村にいましたから、子母澤寛の実家が没落してしまい、一九〇八年に逃散した事情を知っているわけですね。でも、そのことには触れずに、「今では何のゆかりもない」ことになったとしても、「君を育んだ村」はいつまでも大切なんだよ、と語りかけているのです。裸石は大作家となりつつある子母澤に配慮しています。優しいですね。
子母澤寛は新選組モノを始めとした幕末・遺臣小説を書いていましたが、晩年には厚田や北海道を舞台にした作品が多くなります。月日が経ったということもあるでしょうが、東京厚田会での離郷者同士の交流や裸石の言葉に代表されるゆかりの人々の優しさに触れることによって、故郷に対するしこりが溶けていったということがあるような気がします。
実はここからが本稿のテーマにつながるのですが、裸石はエッセーの最後に、あるエピソードを記しています。
「ここまで書いて私は大切な事を真先に書くのを忘れていた。それは君の令弟好大郎、三岸君の冥福を祈る事だった。一昨年だったか三岸君がヒョッコリ札幌に来た時、私は何もかもさて措いて『兄さんは達者か』と聞いたものだ。其時『兄は健康がすぐれませんで』と顔を曇らせた。『あんまり稼ぐからだ、帰ったら身体を大事にしろと言ったと伝えて呉れ』と言ってやったが、兄さんの身を案じた其弟さんが先きに亡くなろうとは意外であった。私はお手のものの北海タイムスで三岸君の写真を探して入れたり経歴までのせて長逝を惜んだ。思えば私の机上にある本誌第二号の表紙を見るにつけても涙が誘われる」(現代かな遣いに変更、強調は筆者による)
一昨年というから「一九三二年」ですね。裸石はその年に子母澤の異父弟である三岸好太郎に会っているというのです。
札幌っ子の三岸好太郎は一九三二年八月から十月まで北海道で過ごしています。札幌滞在中は念願の個展開催や道展出品、東京日日新聞北海道樺太版での「初秋スケッチ」「大洪水スケッチ」連載などで万事に慌ただしかったようです。
でも、その合間を縫って、河合裸石を訪ねた。裸石は当時、北海タイムスの社会部長兼事業部長です。報道と興行の双方に睨みを利かすドンでした。三岸は北海タイムス絡みでは個展取材を受けたほか、道展感想や閨秀画家の寄稿、道展合評座談会などを行っています。「ヒョッコリ」というのですから、約束をしていたというよりは、逗留していた東繁造医師宅から、歩いてすぐの大通三丁目の北海タイムスに寄ったら河合裸石がいて、話し込んだという感じだったのでしょう。
三岸と裸石にとって、裸石の厚田時代の教え子で、売れっ子作家となった子母澤寛の消息は絶好の話題でした。発売中の雑誌「改造」十月号に子母澤は祖父らをモデルにした小説「続・無頼三代」を執筆、三岸の大洪水スケッチの載る東京日日新聞一面にはその広告も掲載されています。三岸の装幀・挿絵による子母澤の『笹川の繁蔵』も評判になっていました(4)。
「きょうだい揃って大活躍だねえ。それで梅谷君は達者かな」
「いや、兄は心臓の具合があまりよくありませんで」
「あんまり稼ぐからだよ。君が東京に戻ったら、働き過ぎるなよ、と河合が言っていたと伝えてくれたまえ」
そんなやりとりをしました。帰京した三岸は仲良しの兄ですから、子母澤に裸石の言葉を伝えます。
「札幌では河合裸石先生がよろしく言ってました」
「あのナポレオンが大好きの河合先生か。ルーランの話も聞かされただろうね。すごい先生だったなあ」
そんな話をしたからこそ、子母澤の「村を出て」の中に、今では夢にみる人もいないはずの厚田村なのに、裸石先生のことが思いおこされ、その名が出て来た――はずです。
つまり、三岸が裸石と会ったことを子母澤に伝えたことで、子母澤が裸石のことを思い出す。それで裸石の名前を挙げる、それを受けて裸石が返答に三岸と会ったことを盛り込んだ、というのがこの「北海道倶楽部」の往復エッセーの経緯だと思います。ちなみに、裸石が触れているように、三岸は六月十五日刊の「北海道倶楽部」第二号で表紙を飾っています。
三岸好太郎と河合裸石の懇談は子母澤寛の故郷観に影響を与えていると考えられるのです。
(4)三岸好太郎と子母澤寛が関わっている仕事として一九二四年三月の春陽会第二回展に出品された油絵「兄及ビ彼ノ長女」がある。三岸は同画などで最高賞を得て、新進の画家として脚光を浴びる。三十二歳の子母澤はまだ読売新聞記者であった。長女は八歳。同画は子母澤の骨太の感じこそ伝わるが、借り物のようで雰囲気は似ていない。「三岸好太郎を語る」(一九七六年十月、東京)で久保守は「どうせ見て描かないですから『兄および彼の長女』は、見ていてあとで夜中に描くんですから」(工藤欣弥『夜明けの美術館』所収)と回想している。
子母澤寛はのちに、名刺に「既往症 心筋梗塞、糖尿病」とし主治医をメモしている。一九六八年に心筋梗塞で亡くなった。
§3 三岸好太郎「自筆年譜」の謎
三岸好太郎と河合裸石の一九三二年の面談は子母澤寛に影響を与えたと書きましたが、実は一番影響を与えられたのがやはり三岸好太郎だったのではないでしょうか。
匠秀夫氏が編んだ三岸好太郎『感情と表現』(中央公論美術出版、一九八三)によると、三岸好太郎は札幌・薄野遊郭のはずれ(南七条西四丁目、豊川稲荷付近)で生まれたのですが、自筆年譜には「一九〇二―一歳 四月一六日北海道石狩ルーラン一六番地に生る」(「独立美術」第四号、三岸好太郎特輯、一九三三年一月)と記しています。
ルーランとは河合裸石の広めたあのルーランです。
匠秀夫氏は三岸好太郎の生年(一九〇三年四月十八日生まれであるが、一九〇二年四月十六日とした)を含めた自筆年譜の仮構性を指摘しており、「この『自筆』は諸事、正確さからほど遠く、無頓着な三岸らしさを反映したものである」と、『三岸好太郎 昭和洋画史への序章』(求龍堂、一九九二)で述べています。
三岸好太郎の本籍は母イシの籍の置かれていた「厚田郡厚田村大字厚田村十六番地」となっています。ですから、誕生の地が「厚田村十六番地」ならわかるのですが、「石狩ルーラン一六番地」としたのは不思議です。匠氏は
「実際に厚田を知らなかった三岸は幼時、主として母イシから聞かされた鰊漁に賑わった往年の厚田の浜の様子に好奇の夢を走らせ、生来のロマンティシズムも手伝って、生地として『石狩ルーラン(・・・・)一六番地』と書いたものであろう。ルーランなるちょっと風変わりな呼び名が西洋好みの三岸の気に入って使ったものであろう」
と推察しています。
三岸好太郎は確かに幼時期に母親のイシから鰊漁場として賑わった厚田の浜のことを聞かされていたかもしれない。でも、ルーランのことを聞かされたとは考えにくいのです。
匠氏の前掲書では、不思議なことに松太郎(子母澤寛)の恩師である河合裸石については全く触れられていません。
すでに述べてきたように、裸石は一九〇七年ころから、雑誌や新聞に「ルーラン法窟」探勝を発表しており、それらをまとめて一九一二年に『ルーラン』を上梓しています。この本により、知る人ぞ知る厚田村北郊の難所懸崖の地ルーランは、初めて全国の冒険譚ファンの耳目を引いたのです。
三岸好太郎の母イシは一八九九年までに、追い出されるように厚田村を離れ、本が出た頃は札幌で暮らしています。ルーランは厚田市街にいては全貌はとても望めないし、秘境ですから、少女の足で行けるところではありません。『ルーラン』が話題になったことも、知らなかったでしょう。ですから、イシが好太郎にその魅力を語ることなど不可能です。
とすれば、三岸好太郎はなぜ、厚田ではなく石狩、そしてルーランという名前を挙げたのでしょうか(三岸は一九一八年の北海道博覧会の「紅燕情話」を見て、ルーランを知っていたかもしれないが)。
推測されることはひとつだけですね。河合裸石に会った時に、直接聞かされたのです。そう、一九三二年秋の懇談です。自筆年譜にルーランの名前が飛び出すのは、懇談直後の三三年一月ですから、頭の中には裸石のルーランが弾けていた。
三岸と会った時に、裸石がなぜ「ルーラン」のことを話すのか、という疑問があるかもしれません。話すのです!
ふたりは子母澤寛のことを話題にしていますね。子母澤の話をするということは厚田村時代の思い出を話すということです。厚田村の思い出を話せば、必ずルーランの魅力を裸石が語ったはずなのです。なぜなら、裸石にとって厚田とはなによりもルーランだったからなのです。教員時代の八年間はある意味でルーランでの八年間なのです。
「予に恋なるものありせば、そはルーラン」「予を斯程まで悩殺せる初恋のルーラン」というのが裸石です。三岸の死の翌一九三五年に裸石最後の著作『蝦夷地は歌ふ』(富貴堂書房)が刊行されますが、〝ルーラン愛〟が変わっていないことがわかります。俗な言い方をすれば、プロ野球の長嶋茂雄がミスター・ジャイアンツなら、河合裸石はミスター・ルーランなのです。
三岸は裸石と会うことによって、戸籍に書かれていただけの「厚田村十六番地」というものが、「ルーラン」という異界へ、スペクタクルな物語へ、と広がったと思います。
田中穣は大胆な推論の多い『三岸好太郎』論を書いていますが、三岸の出生地ルーランについては匠秀夫論を踏襲し、「年譜に犯したうそは、自分の出生にまつわるこの暗い現実をかくそうとした、かれの羞恥のあらわれとみられる。本当の出生地である薄野を、恐らく母親からしばしば聞かされていたにちがいない夕映えのきれいなルーランにすりかえたい思いが次第にふくらんで、いつかそれが本当のものに信じこめるようになったといえなくもない」と述べています。
澤地久枝は「好太郎のハイカラ好みの創作である」(『好太郎と節子』)と言っています。新選組作品の先駆者として子母澤を敬愛していた司馬遼太郎は、三岸にも関心が深く、厚田村を訪れて、三岸が「厚田という文字や語感を好まず、母親が少女のころそこで貝拾いなどをしたであろうルーランのほうを好んで」出生地にした(『街道をゆく15 北海道の諸道』)と記しています。急峻な山道、舟でやっと訪れることができる海岸で、少女が貝拾いをするのは難しく、ルーランを「厚田の南」としているのを含めて誤解があるように思われます。
論者の多くがルーランを「海岸」に矮小化して捉えがちですが、裸石が三岸に伝えたルーランは四季に表情を変える深山水であり、急峻な山道であり、壮麗な海岸を含む聖地です。
日本海に対峙するように広がる懸崖ルーラン。そこを一種の精神の楽天地であり、「法窟」(修行の場)として語る河合裸石の言葉に、自らの急ぎ足の人生と表現の根底にある懸崖と響き合うものを感じたからこそ、三岸は生地としてその名を記したのです。
なぜ「厚田ルーラン」でなく「石狩ルーラン」だったか。
もちろん、俗物らの視線にさらされる札幌・薄野を隠蔽したかったことは田中穣の指摘どおりでしょう(5)。
それと同時に、「厚田」というトポスに対する屈折した思いがあったのは確かですが、それは司馬氏の言う「厚田という文字や語感を好まず」というのとも違うと思います。
そのためには「厚田村十六番地」に刻まれた一族の苦難を、あらためてたどらねばなりません。
(5)子母澤寛はある雑誌で「おやじが遊郭を十五六年やっていた」「そのお祖父さんが之又やくざ」「そういう環境に育っているから(中略)(子母澤寛は)突飛な男だった」と侮蔑的かつゴシップ的に書き立てられたこともあった。
§4 「厚田村十六番地」をめぐる物語
北海道について、「ここは植民地だった。すべてはこの事実から始まる」と書いたのは池澤夏樹氏(「日本文学史の中の北海道」、「北方文芸」2017)です。「集団で入った元下級武士、流刑囚、左遷されて戻れなかった官僚、食い詰めて、あるいは起死回生を夢みて移住した貧民たち。日本列島の余り者。そして侵略され土地と文化を奪われた側の先住民」などを深く思うことが北海道と文学を担う者の宿題と思います。
三岸好太郎が自筆年譜に記すことを回避した「厚田村十六番地」というトポスについて考える時、池澤氏のこの言葉を思い出します。同地は祖父母の梅谷十次郎とスナ、母の三岸イシ、そして子母澤寛、三岸好太郎兄弟の本籍地ですが、そこはまた、ある種の彷徨う夢の廃墟のように思えます。
「厚田村」は三岸にとって単なる戸籍上の故郷である以上に、親子三代、一族にとって「兵(つわもの)どもが夢の跡」だったと感じられていたからではないでしょうか。
木原直彦氏の『北海道文学史 明治編』『北海道文学散歩 Ⅱ 道央編』や工藤欣弥氏の「三岸好太郎の源流をさぐる」(北海道立三岸好太郎美術館報)、子母澤寛『無頼三代』と戸籍資料を参照しながら、このトポスの物語に迫ってみます。
一族の始祖となる梅谷十次郎は微禄でしたが徳川幕府に仕える御家人で、上野の山で薩長官軍と戦った彰義隊生き残りで、箱館戦争(一八六八~六九)では榎本武揚や土方歳三らの「蝦夷共和国」軍に参加しました。しかし、敗北し官軍に囚われた後、士分を解かれて函館から札幌に移されました。三岸スナは小雛という美人芸者(6)だったと言います。数十両で売られていたのですが、十次郎を札幌まで追いかけてきて、一緒になりました。
十次郎は札幌のはずれ、今の円山あたりを開拓せよと言われるのですが、江戸の遊び人ですから、「やってられるか」と、石狩へと遁走します。開拓使が札幌に置かれた(一八七一年)ころのことです。
十次郎は石狩に入ると得意の博打を生業にします。石狩は鮭漁の千石場所ですから、巷にはあぶく銭が飛んでいます。石狩で二十年ほど稼いでから、隣の厚田村の鰊漁網元の権利も得たので、厚田に根を下ろすことを考えます。
こうして、十次郎とスナは一八九四年(明治二十七年)四月二日、それまでの「石狩郡本町東八番地」から「厚田郡厚田村十六番地」に転籍します。この時に婚姻も届けています。幕末の混乱から蝦夷地にわたり、流浪を続けていた十次郎夫婦はようやく終の住処を得たのです。
この時に、一緒に厚田に来たのが三岸イシです。函館で石川ハルの長女に生まれ(父親は記載なし)ましたが、口減らしのため九歳で近在七飯村の三岸卯吉養女となりました。だが、数年もせず、卯吉の妹スナの縁で、石狩にもらわれてきたのです。血はつながっていないイシは家族としてより、下働き(労働力)として迎えられたでしょう。
厚田村は鰊漁で栄えており、漁業労働者で浜には活気がありました。十次郎は「角鉄」という貸座敷や料亭、女郎屋、こっそり博打もやる旅館の主人となって成功しています。もめ事があると顔役として仕切ります。渡世人も草鞋を脱ぐので、ちょっと怖い系でした(7)。
イシは一八九一年に三岸家の当主となっていますが、一八九九年(明治三十二年)五月二十三日に、「亀田郡七飯村字三股三十番地」から梅谷十次郎と同じ「厚田郡厚田村大字厚田村十六番地」に戸籍を移しています。一八九四年に十次郎夫婦と一緒に移せばよかったはずなのに、なぜか五年遅れです。
さらに不思議なのは、その日に松太郎(子母澤寛)の出生届が出ていることです。母親は「三岸スナ」となっています(スナの実年齢は五十歳を超えていたはず)。スナが三岸姓のころに生んだが、十次郎と結婚しているので、二人の子として認められます。この時に戸籍に書かれた出生日が一八九二年二月一日。こちらは七年も遅れてます(8)。
子母澤寛の半生記「曲りかど人生」(一九六四)によれば、イシが育児放棄をしたため、スナが松太郎を育てたということになっています。おまけに、イシは新しい恋人である橘巌松との関係を十次郎に痛罵されて、札幌に追い出されたようになっています。ですから、身勝手なイシではなく、聖女の如きスナが母親になったというわけです。
しかし、転籍を届けているわけですから、イシは一八九九年までは厚田村にいたはずです。それなのに松太郎(子母澤寛)にはイシの思い出がないのが不思議です。十次郎スナ夫妻は松太郎が懐かないようにイシを遠ざけていた、とさえ思われます(9)。
子母澤寛の父親は伊平という東京から来ていた学生だとも、出稼ぎの人だったとも言われています。家庭的に孤独な少女がやさしさを持つ異風の男性に惹かれるのは自然です。特別に発展家であったはずもありません。ところが、十次郎がふたりを許さず、伊平を追い払った結果、イシは十七歳のシングルマザーとなります。
独りで松太郎を育てるのは大変です。でも、イシは札幌で好太郎と妹チヨを大切に育てていますから、松太郎を産み捨てる女性とはとても考えられません。むしろ「角鉄」で労働力として期待されたイシは、祖父母に懐いた松太郎から引き離されたのが真相と思われます。
一八九九年五月二十三日の戸籍変更をめぐる謎は尽きないのですが、なぜ松太郎(子母澤寛)がイシの子とならなかったのか、なぜ七年も遅れて出生届が出されたのでしょうか。
筆者は、▼七飯村と縁の切れた三岸イシの戸籍を梅谷十次郎の「厚田村十六番地」に移す▼戸籍のないまま育てられて、学齢期に入っている松太郎をイシではなく、跡取りのいない十次郎夫妻の子どもとする▼そのかわりこれを機にイシには子どもに縛られない自由な行動を認める――というような取り引きが、十次郎主導でこの時に一挙に行われたのではないか、と推測いたします。
イシには不利なものでしたが、じじばばっ子になっていた松太郎を諦め、恋仲となっていた橘巌松と新しい人生に踏み出そうと決めたのではないでしょうか。巌松は東京から来た医学生くずれで、無頼に身を落としていたが、「賭場に座ればきツと敗ける。敗けて、それでうまい」という天才博徒。クールな姿にイシは惹かれたのでしょう。
のちにイシは唐突に好太郎を追って上京(一九二三)するのですが、彼女の心底には十次郎を含め伊平、巌松ら無頼の男たちが醸しだす江戸・東京の匂いへの憧れがあったのだと想像します。
厚田村を出たイシと巌松が流れ着いた先は札幌・薄野遊郭。大店「高砂楼」(丸山直吉経営)(10)でした。幼い時から家族に恵まれなかったイシは、ようやくその温もりを手にします。
やがて、三岸好太郎が一九〇三年(明治三十六年)四月十八日、遊郭の南郊(南七条西四丁目)の仮寓で生まれます。巌松とは内縁関係のため、イシの子として四月二十三日に札幌区に届出された後、イシの本籍が残っている厚田村役場に送られました。こうして生粋の札幌っ子の好太郎も十次郎ゆかりの「厚田村」の人となります。
三岸家はその後、豊川稲荷付近から高砂楼と並びの南五条西二丁目に移ります。同地の一丁東には創成川が流れ、さらに豊平川もあり、遊郭の喧噪と札幌の自然に挟まれて小学生まで育ちました。
さて、三岸らを紐付けた厚田村ですが、三岸が五歳の年に「厚田村十六番地」には誰もいなくなります。スナは亡くなり、十次郎は鰊の不漁とともに商売が傾いて、松太郎を連れて夜逃げしてしまうからです。三岸はこの時、故郷を失った祖父の落魄の姿を見たはずです。
母親のイシがまず自由を求めて逃げ出したのに、今度はイシを追いやった十次郎もまた逃げ出したのです。無頼言葉で言えば、再び「故郷(くに)を売って」飛び出してしまった。義理にあつい子母澤寛は十次郎と夜逃げして以来、迷惑をかけた人のことを思ってか公然とは帰郷していませんでした。
十次郎にとっては無念の場所であり、イシにとっては帰りたくない場所であり、子母澤にとっては帰れない場所であり、三岸にとってはついに見ることのなかった場所になります。離散から四半世紀が過ぎて、戸籍の上だけに残る「厚田村十六番地」は流亡の墓碑銘のようにも思えたでしょう。
血涙の磁場から飛び立つ言葉として、最後の世代たる三岸の心に浮かんだのが「厚田」ではなく、「ルーラン」であり「石狩」だった。「北海の奇勝たるルーランは、石狩国厚田郡厚田村から北へ去る一里の……」といった裸石節――石狩の、ルーランは――が、神が降りるように思い出されたはずです。
行政区画としての石狩町、石狩郡ではなく、一八六九年(明治二年)九月、千島と合わせて十一国八十六郡で構成された「北海道」がスタートした時、石狩湾から東方に伸びる形で本道中西部の広大な一帯を占めていたのが「石狩国」。この「石狩」は「北海道」と言うに等しいスケール感もあります。
三岸好太郎は一九三二年秋に河合裸石と会ってルーランの魅力を初めて実感したからこそ、三三年一月掲載の自筆年譜に出生地として、自らの新しいルーツの場として、「石狩ルーラン一六番地」を創出した――と筆者は考えるのです。
(6)工藤欣弥「三岸好太郎の源流をさぐる」(北海道立三岸好太郎美術館報第11号、一九八六)でも指摘されているが、三岸スナは三岸又六の次女として文久元年(一八六一年)生まれとなっている。箱館戦争で敗れ(一八六九年)捕虜となった十次郎は嘉永元年(一八四八年)生まれで、箱館で恋仲になるにはスナが幼すぎて年齢が合わない。武士の娘の芸者小雛はスナと別モデルであったか、戸籍が正確でなかったか、どちらかである。
(7)厚田村出身の作家の楠田匡介の「ふるさと厚田村のこと」(「まんてん」一九六五年十月号)によると、楠田の実家は料理屋で、子母澤寛の家は「女郎屋」、「(子母澤)氏の父君と私の父は、旦那ばくちの兄弟分であった」という。
(8)子母澤寛の出生にも謎がある。一八九二年二月一日に「厚田村十六番地」に生まれたというが、一八九二年にはまだ梅谷十次郎もスナもイシも厚田村には籍を移していない。厚田ではなく、石狩郡本町東八番地時代に生まれた可能性もある。
(9)子母澤寛の「曲りかど人生」で、ひどい鬼女として描かれているのが実母の三岸イシである。「母親はわたしを産みっぱなし。祖母が藁の上から育てた」「(夜逃げをして)生母の家へ泊めてもらったが、生母が祖父の前で掃除をしながら『ゴミが多くなって困った』とつぶやいた」。だが、これはあくまで梅谷十次郎に重ねた子母澤寛の立場で、イシの言い分もあるはずだ。イシと巌松はしっかり好太郎と千代(チヨ)を育てているので、育児放棄の傾向があったとは考えられない。札幌で懸命に働いているイシにとっては十次郎は闖入者だ。松太郎の親権を奪い、自分を追い出しておいて、突然、「親なら金を貸せ」とやって来る。十次郎の言いなりになっては、苦い経験を繰り返すことになるだけに、イシは人一倍身構え、強気に対峙しなければならなかった。非道なイシに対して巌松のほうは松太郎を世話してくれた恩人として描かれるが、金銭的な支援は巌松ひとりの判断ではできまい。それを許しているイシの理解があってこその、巌松の侠気だったろう。子母澤寛のイシに対する怒りは、どんな事情があれ彼を手放した母に対する愛情の裏返しである。井上美香は、厚田時代のイシを「十分に恥知らずだ。(中略)春には、網に群がるヤン衆が夜ごと狂態を繰り広げ、冬になれば、凍てついた陸の孤島と化す。そうした環境で育った少女が刹那を生きても、すぐに非難する気にはなれない」と書いているが、本文で述べたとおり普通の十代の働き者の少女だったと考える。
(10)高砂楼は山形県鶴岡市出身の丸山直吉が経営して発展、昇月楼とともに薄野遊郭の妓楼の双璧となる。丸山は質店も営み、のちに妻の親戚の村山太一郎が相続した。イシは信頼を得て村山質店支店(北九西五)を任された。丸山質店は南五条西三丁目にあったとされているが、当時の広告では南三条西三丁目となっている。正誤は不明。
§5 おわりに――共生社会へのまなざし
河合裸石は子母澤寛の恩師であるが、三岸好太郎自身もいつのまにか裸石と縁を結んでいたようです。
機縁と言えば、三岸は札幌一中の二年生であった一九一六年(大正五年)の夏休みに東北帝大農科大学(北大)の林学教室で害虫標本作成のアルバイトをしています。父親の橘巌松が七月四日に亡くなった直後のことであり、小遣い稼ぎと言うより気分転換もあったかもしれません。その林学教室の教授こそ、新島善直です。裸石の『ルーラン』続編の『熊の嘯』(一九一五)の序文の執筆者ですね。当時の三岸にそのことが意識されたはずもないのですが、のちに裸石と新島の関係を知って、驚いたのではないでしょうか。
新島は芸術にも造詣が深く、絵画詩誌「さとぽろ」の仲間に相川正義、菅野利助、服部光平、伊藤義輝らがいます。短歌誌「原始林」にも参加(必ずしも作品は多くないが)、同誌には並木凡平、山下秀之助らがいました。山下は「さとぽろ」でも同人仲間。「さとぽろ」の小熊捍(有島武郎らが参加した北大美術グループ「黒百合会」の名付け親)、今裕とは北大教官つながりです。ちなみに新島に三年遅れて北大昆虫学初代教授となったのが松村松年。松村は同時期に英語教師をしていた有島武郎とも交流がありました。子母澤寛は恩師の裸石を懐かしく思いながらも再会を果たせなかったが、皮肉なことに札幌の美術仲間との交友が楽しかった三岸は裸石と会う機会を得て、「天啓」を受けていたというのは面白いことです。
三岸は松村にインスパイアされた蝶や蛾をはじめ、貝殻、オーケストラ(11)などをテーマにした多くの作品を描き、精力的に活動するが、一九三四年七月一日夜、旅先の名古屋の銭屋旅館で胃潰瘍の吐血で倒れ、心臓麻痺で亡くなります。夫人の三岸節子と前後して子母澤寛が駆けつけ荼毘に付されました。
「北海道倶楽部」で、子母澤寛が河合裸石を懐かしむエッセーを発表したのが一九三四年五月、三岸が表紙絵を描いたのが六月、裸石が子母澤への返答文の中で三岸との出会いを悼んだのが八月でした。その間には裸石が三岸の死亡記事と小伝を書いています(12)。
河合裸石と子母澤寛を貫くテーマとして、本稿の最後に強調しておきたいことがあります。それはアイヌとの交友・理解・敬意の深さということです。
裸石は『ルーラン』の扉にはアマッポ(アイヌ民族の使う仕掛け弓)を自ら描いています。「シャモがアイヌと雑ってゐます」と吹聴するのが同書なのだとも書いています。装幀は「竹馬の友」の和田菱峰(保郎、大網元・佐藤松太郎の娘婿とも)が手がけ、ハートの中からアイヌの男女飛び出す裏表紙カットが印象的です。最初から裸石の本はどれも、アイヌ民族のことを考えさせるものとなっています。
裸石のルーラン法窟にはしばしば隣窟の老メノコ(ご婦人)がやって来て、囲炉裏端で一夜楽しく語り明かしていきます。雪のルーランを行く時には「メノコより到来せる高尚なるアツシを着し、上に熊の皮の大外套を纏い」といういでたちをしています。アイヌ語への知識も深く、アイヌ語由来の北海道地名解題もしています。その中で、ある種の趣味的で恣意的な漢字地名の読みにくさに対して、「北海道の地名は皆なアイヌ語也、されば当然発音の儘、仮名文字を以て書き表すべき也」と批判しています。
一九二五年にはジョン・バチェラー収集のアイヌ民話を翻訳した『アイヌの炉辺物語』を刊行していますが、「近来怪しげなアイヌの童話や、シャモの作ったアイヌの伝説とか神話とかが続出」していると批判し、バチェラーの仕事は「石の河原にダイヤモンドの光を放つ」と評価しています(13)。
北海道には源義経が海を渡ってやって来たという「義経伝説」が多数残されています。裸石はそれらが、「牽強附会に近い」と考えています。それでも裸石は石狩に残るその一つを題材にした「紅燕情話」を書いています。裸石はこの伝承を何度も作り替えており、人間の愛と悲劇というテーマの普遍性のモチーフを得て、文学として描きたかったのだと思います。
裸石自身、アイヌの国に住んで育ってきたので「アイヌの物語は幼年の頃から耳なれていた」と明かしています。英語と同様にアイヌ語も聞け、話せたようです。生活・文化に親しみ、言葉を学び、隣人を知るという態度は今でも通じます。
裸石最後の単行本『蝦夷地は歌ふ』(富貴堂書房、一九三五)は「本道に住む人は元より内地方面からの観光客に取って本道を知る上に必読の書」(北海タイムス)と絶賛されました(14)。
箱絵には魚を食べる子熊を連れたアイヌ男性が描かれ、左下隅には四角囲いで「らせき」とあります。これを署名だとみれば、裸石の絵画作品なのかもしれません。
また前後の見返しには「北里酔民 藐阿画」の標題で、踊りをするアイヌの人たちの絵が載せられています。和歌には「志ら雪のつばさなほしてえぞ人が袖うちはぶく鶴の舞かな 藤光」(読みはいずれも私見)とあります。松浦武四郎の「蝦夷漫画」を連想させます。
裸石はアイヌの人たちや民俗の深い理解者でありました。だが、「人口減少で絶滅が近い」と見る時代思潮的な限界はもちろんのことですが、差別的であったり、生活に対する偏見や思い込み、空想に遊びすぎた文章もあります。軍国主義とも無縁ではいられなかった。それらのことは当時のアイヌ理解総体と裸石自身の発想の両面から問題点を辨別していかねばならないと思います。
子母澤寛が小学生時代に河合裸石からアイヌ民族の物語をどの程度聞いたのかはわかりません。教室よりも、祖父の十次郎から教えられることのほうが多かったかもしれません。でも、裸石と共通するものがあることがわかります。
「箱館戦争の敗残者、江戸の侍が、蝦夷石狩の厚田の村に、ひっそりと暮らしていた」との書き出しで知られる子母澤寛のふるさと厚田三部作の「厚田日記」(一九六一)という作品は蝦夷地に流れ着いた江戸の武士たちが、アイヌ民族の文化に学び、隣人として生きていく覚悟を固める物語です。
この中で、祖父梅谷十次郎をモデルに造型されたと思われる主人公、斎藤鉄太郎はアツシ判官と言われた松本十郎と友人であったという設定になっています。ここが物語の肝で、子母澤寛の想像力というか、発想力の凄いところですね。
厚田に流れ着いた敗残の七人の侍は一人減り二人減りで、今では四人になり、蝦夷地になじめずに江戸への郷愁を抱く者もいます。だが、鉄太郎は「自分一人になったら、本気でアイヌの中へ入って、名も無く死んで行く」と覚悟を決めています。
厚田に視察にやってきた松本判官は鉄太郎に語ります。
「おれはこうしてアイヌのアツシの着物を着ている。それを見て和人(シャモ)達はアツシ判官などと異様な目でおれを見てね、何にか珍奇をてらってでもいるように言っている。馬鹿な奴らだ。これはね、古代のコロポックルは知らんが、アイヌ人が太古からこの蝦夷に住んで、食べ物でも着る物でもここに一番適したものを自然に作り出して来ているのだ。蝦夷に住むには、われわれアイヌの真似をするに限る」
これは子母澤寛の思いを語っていると思います。
明治政府の樺太・千島交換条約でのアイヌ強制移住政策に納得できず、松本は開拓大判官を辞め、郷里山形に帰るのですが、アイヌの人たちと生きると決めている鉄太郎はアイヌの長とともに石狩河口から松本を見送ります。この後、鉄太郎にはアイヌの娘の祝言の媒介人の仕事が待っています――。
松本十郎や斎藤鉄太郎の言葉には、後から来た者への戒め、北海道を生きることのメッセージが込められていますね。
私たちにとって故郷とは何か、北海道とは何でしょうか。意図せぬままにこの大地に流され無名のうちに死んでいった多くの蒼氓の声はまだ収まっていません。筆者もそうなのですが、系譜を遡ればある世代から先はぷっつりと途絶えてしまったり、養子縁組などを繰り返して直接の血縁にこだわらず〈家族〉〈一族〉を形成していることもよくあります。正式な結婚ではなく、母の子として生まれても大切に育てられています。近代の北海道の家族はしがらみや形式や権威ではなく、生きる上の必要に準ずる〈共同体〉であったとも言えます。
河合裸石、子母澤寛、三岸好太郎という人々の小さな物語をたどってきましたが、あらためて私たちの歴史の光と影も見える思いがしました。
(11)司馬遼太郎は『街道をゆく38 オホーツク街道』で「(三岸の)若い最晩年の名作は『オーケストラ』(一九三三年)である。キャンバスに白っぽい絵具をたっぷり塗りたくったあと、釘のようなもので、引っ掻くようにして、群像を描いた。古代の洞窟画に似ていた。(中略)『オーケストラ』が発表された翌年に三岸好太郎は死ぬ。幾度も羽化をくりかえした蝶のような生涯だった」と記している。
(12)北海タイムス一九三四年七月三日付の三岸記事は次のとおり。「三岸好太郎氏【名古屋発】北海道が生んだ画壇一方の鬼才独立美術会員三岸好太郎氏(東京都中野区鷺の宮五ノ四〇七)は旅行先の名古屋市西区御幸元町銭屋旅館で胃潰瘍のため二日朝急逝した。享年三十二歳。氏は春陽会から独立美術に転じその創立に参集した新興画壇の闘将である。」「憧れの巴里行を前に 大衆作家子母澤寛氏を兄に独立美術会員又道展の審査員だった三岸好太郎君は明治三十六年生れの当年三十二歳。札幌市に生れて大正十年札幌一中を卒業。上京し早くも画才を中央に認められて同十三年春陽会に出品して河野通勢氏等と受賞し同十五年には会友推薦となり毎年出品作に独自の異彩を放っていたが昭和五年冬里見勝三(ママ)氏等と計り新進洋画家の渇望の的たる独立美術協会を創ってその一方の覇をなし後進の道を拓き新進洋画家として前途を期待され憧れの巴里行きを目前にひかえ愛妻節子氏の故郷名古屋に於て突然死去されたことは我国並に故郷本道画壇に対する大いなる損失と言わなければならない。母堂と一男二女が残されている」(句点を補い、現代かな遣いに変更)。執筆もしくはデスク作業は裸石が行った。
(13)大正期の北海道のアイヌ民話や新聞記者の活動については阿部敏夫の考究がある
(14)「新札幌市史」第四巻一〇二九頁「北海道の富貴堂」
【主な参考文献・資料】
●北海道文学関係 『札幌百年の人びと』(札幌市史編さん委員会、一九六八)/『北海道文学史 明治編』木原直彦(北海道新聞社。一九七五)/『北海道文学散歩Ⅱ 道央編』木原直彦(立風書房、一九八二)/『北海道文学大事典』北海道文学館編(北海道新聞社、一九八五)/「函館児童雑誌コレクション及び北海道児童雑誌データベース 平成十八年度収録作品概要」阿部かおり、菊地圭子、柴村紀代、谷暎子、横田由紀子(北海道立文学館HP)
●河合裸石関係 『ルーラン』河合裸石(近江堂、一九一二)/『熊の嘯』河合裸石(求光閣書店、一九一五)『アイヌの炉辺物語』ジョン・バチラ著、河合裸石訳(富貴堂書房、一九二五)/『蝦夷地は歌ふ』河合裸石(富貴堂書房、一九三五)/『河合裸石著作目録 明治大正編(未定稿)』渡辺惇(一九九五)/国立国会図書館デジタルコレクション/『新札幌市史』(札幌市、一九八六~二〇〇八)
●子母澤寛関係 『無頼三代』子母澤寛(春陽堂文庫、一九三二)/『悪猿行状』子母澤寛(文藝春秋新社、一九六五、「曲りかど人生」収載)/『子母澤寛 人と文学』尾崎秀樹(中央公論社、一九七七)/「ふるさと厚田村のこと」楠田匡介(「さっぽろまんてん」十月号(まんてん社、一九六五)/「明治大学の中の地域文化 : 岸本辰雄・宮城浩蔵・矢代操と子母澤寛たち」吉田悦志(「明治大学国際日本学研究」6、二〇一三)/「子母澤寛と戸田城聖――子母澤寛の魅力」塩原将行(石狩市での講演レジュメ、二〇一七)/『評伝 戸田城聖・上』「創価教育の源流」編纂委員会編(第三文明社、二〇一九)/『子母澤寛 無頼三代蝦夷の夢』(公益財団法人北海道文学館、二〇一八)/『厚田川 第一章祖父、子母澤寛、その人と文学』脇坂遼(二〇二〇)
●三岸好太郎関係 『感情と表現』三岸好太郎、匠秀夫編(中央公論美術出版、一九八三)/『三岸好太郎 昭和洋画史への序章』匠秀夫(求龍堂、一九九二)/『三岸好太郎』田中穣(日動出版部、一九六九)/『三岸好太郎 夭折のモダニスト』工藤欣弥・寺嶋弘道(北海道新聞社、一九八八)/『画家たちの札幌 雪と緑のメモワール』苫名直子(北海道新聞社、一九九九)/『夜明けの美術館』工藤欣弥(共同文化社、一九九九)/『好太郎と節子 宿縁のふたり』澤地久枝(NHK出版、二〇〇五)/『街道をゆく38 オホーツク街道』司馬遼太郎(朝日文庫、一九九七)/『街道をゆく15 北海道の諸道』司馬遼太郎(朝日新聞出版、二〇一三)/「北方文芸」第六巻第七号「三岸好太郎と新善光寺附近の思い出」数納清(北方文芸刊行会、一九七三)/「北海道立三岸好太郎美術館報」第11号三岸好太郎の源流をさぐる(一九八六・三)/「北海道立三岸好太郎美術館報」第12号「三岸好太郎の源流」をめぐって(一九九一・二・二〇)/「北海タイムス」列伝体明治幌都花柳史(一九一二・一一・二)/「東京日日新聞」北海道樺太版 一九三二・九(初秋スケッチ、大洪水スケッチ)/「北海タイムス」脇哲「玉垣が物語るススキノ秘史」(一九八四・六・二七)/特集「北海道150年 北のインデックス 蝦夷から北海道へ 女たち3 三岸イシ」井上美香(朝日新聞デジタル、二〇一九)
☆『蝦夷地は歌ふ』の見返し画中の和歌の解読には北海道文学館司書の三井沙紀氏の助言をいただきました。
☆北海道立文学館「没後五〇年 子母澤寛 無頼三代蝦夷の夢」展に際してご提供いただいた宮川甲八郎氏ならびに石狩市からの資料と写真、北海道立図書館所蔵資料、札幌市公文書館資料を活用させていただきました。あらためて御礼を申し上げます。まだ調査中であるが、河合裸石遺族について札幌自動車・鎌田氏、平賀典明氏からご教示をいただきました。
(公益財団法人北海道文学館編『2020 資料情報と研究』、2019年3月31日所収)