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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています
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シン・たかお=うどイズム β
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書籍短評
REVIEW
短評
2013年から2018年にかけて新聞用に書いた短い書評を転載する。
野坂幸弘監修『ふるさと文学さんぽ「北海道」』(大和書房)
アンソロジーの楽しみは地図のない旅に似ている。用意されたパンフレットで目的地を決め、観光スポットと交通機関を調べ時刻表に急(せ)かされる旅はいかにも現代的であるが、余裕のない合理主義には時折辟易する。それにひきかえ、足の向くままぶらり出かけてみると、街角の小さな路地にさえも驚きがあり、見慣れた風景の中に新しい発見がある。
都道府県ごとに、ゆかりの文学作品を集めている「ふるさと文学さんぽ」シリーズ中の北海道編である本書から立ち上ってくるのは、そうしたアナーキーな旅の快楽である。
取り上げられているのは作家や詩人、評論家、漫画家など総勢22人。「流浪」「海と港」「原野」「暮らし」「森と湖」「雪」の六つのパートに作品が並ぶ。国木田独歩の「空知川の岸辺」や伊藤整「海の見える町」(「若い詩人の肖像」の冒頭短編)、渡辺淳一「リラ冷えの街」といった北海道文学の定番名作の抜粋は盛られているが、ほかはまことにユニークな構成である。
詩作品で登場するのは伊藤整と同時代の左川ちか、現代詩人の松尾真由美と、歌手の中島みゆきである。中島みゆきはアルバム「夜を往(ゆ)け」に収録の一曲で、「北の国の女にゃ気をつけな」のフレーズが印象的な「北の国の習い」が紹介されているという具合。どうせ意外ならば幻の名曲「吹雪」でも面白かった。
「森と湖」の項には武田泰淳、加藤幸子、池澤夏樹、原田康子の本格作家に並んで、画家・随筆家の坂本直行「摩周湖」が収載されているのも、ひねりが効いた編集の妙か。
「時空を超えて」北海道を舞台にした多彩な文学作品にフットワーク軽く遭遇しつつも、ついには出合えなかった原生林の奥にある滋味豊かな葉脈を想像する余韻を与えてくれる魅力ある本でもある。
鷲田小彌太『「自分」で考える技術』(PHP)
本書が初めて世に出たのは一九九三年。それから二十年余、再編集されて出版された息の長い著作だ。この間、高度情報社会に突入、コンピューターは爆発的に機能が向上し、ワープロは専用機からパソコン・アプリの一つとなった。電脳技術の豊饒化にもかかわらず、著者の方法論は揺らがず、全く古びていないことに驚かされる。
ものの見方考え方(方法)を教える本はあふれている。一般的なのは人生の成功者による体験論で、これらはビジネス本、ハウツー本、自己啓発本として流布しており、すぐ役に立つ(気がする)。もうひとつは哲学・思索系。愛とは死とは人生とは何か−と問いかける。世界の哲学者の思想が下敷きに置かれているが難解で役に立たない(気がする)。
本書は軽装本の体裁を取っているので惑わされがちだが、その両極を超える充実の快著だ。本当は難しいのだがとても易しく、簡単なようでいて実に奥が深い。「現在」と向き合う哲学入門書でもある。
著者が強調しているのは特権階級の知から、知が普遍化し大衆化する状況の中で、主体性を持って新しい時代を生き抜こうということだ。そのためには「自分で考える」ことが必要であり、誰にでも開かれている「技術」を身につけようという。モラトリアム人間もそう悪くはないのだと知る。成熟した社会への著者の信頼は、晩年に「僕ならこう考える」と若者向き人生論で名人芸をみせた吉本隆明に通じるものがある。
例題がある。「国家」とは何かを小論文で書いてみよう。「都市・東京」論はどうか。思考を実践で鍛えるのだ。よりよく考えるためには書物の読み方や情報収集も大事だ、ということも教えてくれる。大胆に、謙虚に、学ぶ一歩を踏み出すために読む本。
◇
「鷲田小彌太書評集成T[1983〜1990] 甦る1980年代」(言視舎)
鷲田小彌太氏は1942年札幌市生まれ。現在、札幌大学教授。専門の哲学研究のほか文芸評論、自治体論、エッセー、人生論など守備範囲は広く著書は200冊を超える。異能の人である。
本書は全4巻構成で順次刊行される鷲田版「紙つぶて」の第1弾だ。明快にして痛快。それでいて含蓄が深い。青春期に体得したマルクス主義的な本質抽出のテーゼ手法が錬磨され発現している。
言及されている名著・話題書は全部で275冊に及ぶ。「旧刊再読」もあるが、標題どおり80年代の読書空間が鳥観できる。
たとえばソ連論がある。「反体制派知識人」のクレムリン権力批判が切実に読まれた時代の証明。年配者には懐かしく、若い人には新鮮に映るか。村上春樹の「ノルウェイの森」は「うまくなった」「文字の裏側から言霊が立ち上がるような印象を強く与えるようになった」と評されており、中堅だった作家の位相がわかる。
文章が若くパワフルなのも特徴だ。老成たスタイルを感じさせはするが、対象との真っ向勝負に迷いはない。立花隆にはそのジャーナリズム精神を評価しつつも「警世家立花隆なんて、なんぼの値打ちもない」と忠言する。
原則論の一方で好みも明快だ。開高健、谷沢永一、長谷川慶太郎など関西系文化人にはやや甘い。それは悪いことではない。再評価されつつある佐藤泰志と同じく芥川賞に翻弄された道産子作家、寺久保友哉論に優しさがこぼれているのと呼応する。 =本稿のみ2011年7月執筆
岡和田晃編『北の想像力』(寿郎社)
常識超え、というのか。それにしてもすごい本が誕生したものだ。厚さ五・五a、八百nに及ぶ大著には大小二十本を超す力作論考が並ぶ。サブタイトルに「《北海道文学》と《北海道SF》をめぐる思索の旅」とある。論者らはいわゆる《北海道文学》が「同時代的な議論の対象となっていない」現状を危機であるととらえ、その再生のためには「SFという視点を導入」して、アクチュアルな可能性を解きほぐすことを目指す。その両者の交点に「北の想像力」という概念を屹立させる。
取り上げられている文学者は安部公房、清水博子、中野美代子、吉田一穂、荒巻義雄、円城塔、山田正紀、石黒達昌、佐々木譲、朝松健など多彩だ。論者によって切り口は異なるが、「迷宮」「氷原」「北方幻想」「垂直」など北海道のキーワードが並ぶのが特徴的だ。芥川賞受賞作の「コシャマイン記」で知られる鶴田知也を襲ったアポリアを解析した東條慎生、忘れられかけていた向井豊昭を発掘し再評価する岡和田晃、それらの地道な考究は刺激的、かつ示唆に富んでいる。
巻末にはジャンルを超えた約170作品をコンパクトに紹介するブックガイドが並ぶのも壮観だ。
違和感もなかったわけではない。それはトポスとしての文学を考える難しさだった。安部公房は「国家」「共同体」的思考を排し、「内なる辺境」を都市論的に提起したことで知られる。本書を読みながら鏡として思い浮かべていたのは、その公房が北海道を代表する文芸同人誌「札幌文学」に宛てて書いた「私は、地方という言葉を、風土的にとらえることは反対だ。あくまで、社会的に、地方的なものを否定するための強い批判の場所としての地方でありたいと思う」という厳しい自己批評であった。
乾ルカ『森に願いを』 (実業之日本社)
小さな魔法に満ちた言葉が紡ぎ出す異世界へ誘うような魅惑的な小説を書き続けている作者らしい世界観が本書にも満ちている。
「色づく木」「春めく木」「雪待つ木」など宝石のような七つの木の短編が「森に願いを」を形づくる。
その森は市街地の中にある。原生の森。グラウンドを含めた小学校の敷地が四つ五つは入ってしまいそうな広さ。マンションから見ると、夜の明かりの中に、底知れぬ大きな穴が口を開けているようだ。
だが、なぜかほっとする。だから不登校の子どもと母親、フリーライターの女性、不治の病と闘う男性、リストラ寸前の会社員など、心に傷を持った人たちが引き寄せられる。
迎えるのは「森番」の青年だ。長身の彼はテノールで言う。「ここはとても気持ちの良い森なんです。どうか歩いてみてくださいませんか」
森はさまざまな姿を見せ、人々に生き直す力を与えてくれる。たとえば、IT技能を必須とする現代社会で若者に遅れてしまう52歳の中年男は少年の日の「秘密基地」の夢が今も色あせていないことを知る。
作家はあちこちに興味を催させる仕掛けを施す。この街では大正七年に博覧会があったというから、札幌のようでもある。だとすれば、その森は野幌森林公園がヒントか? 札幌育ちの作家だけに、登場する風物に北海道を感じることができる。
森と「森番」には秘密がある。だれが、何を、森に願ったのか。ジェイコブス・ラダーの光が下りる先にある、あの場所―とは、という具合に。最後に季節がめぐり再生するように、物語は謎を明かす。
「生きることは、ゆるくない」。本書を読みながら、呟いていたのはそんな言葉だった。でも「捨てたものでない」。この森があるかぎり。
まさきとしか『きわこのこと』(幻冬舎)
著者は札幌在住。母子や家族の問題を見つめた『完璧な母親』『途上なやつら』などを発表してきた。その問題意識を受け継ぎ、多元な視点による叙法に挑戦した力作だ。
「衝突事故男性の死因『窒息死』と判明」「『超熟女専門』売春クラブ摘発」「他人のベランダで暮らす男逮捕」―。三面記事と呼ばれる興味深いが脈絡のない他人ごとの事件ニュース。それらを入り口に五つの人間模様の物語が紡がれていく。
たとえば「衝突事故男性」の章。男は「終活」を意識するような一人暮らしの78歳。まるで「後妻」を狙うかのような30代の女が流れ着く。周囲の懸念をよそに、二人の心がつながり大切なものを取り戻すとき、常識を超えた決断が生まれる。
あるいは「ベランダ男」の章。50歳を過ぎてから会社を辞め、「こんなはずではなかった」と荒れた生活を送っている男。生きがいはある男を見つけ殺すこと。そこに幸薄い女が現れる。「ありがとう」の言葉に動かされ、男は金を渡し続ける。
それらの物語の先に浮かび上がるのが「きわこ(貴和子)」という存在である。貴和子は決して物語の主人公としては語られない。だが、イメージは鮮烈だ。十歳ですでに女の妖しさを身につけていた。「全部私にちょうだい」とつぶやき、「完璧な家族」を夢見る。目立たないが、ブラックホールのようにすべてを飲み込む。同級生や職場などで出会う人たちは運命を狂わされ、時には死へと導かれてしまう。貴和子もまた願った幸せから弾きとばされる。
人間の孤独と紐帯へのせつない渇望を描き出す本作、実はミステリーでもある。ラストに置かれた三面記事を前に、読者は「きわこ」という存在について、書かれざるもう一つの真相に想像力を働かすことを試されるのだ。
山下澄人『壁抜けの谷』(中央公論新社)
山下澄人は少し前のことであるが「しんせかい」(「新潮」七月号)という力作を書いている。そこには多くの人が知っている演劇塾のある北海道の【谷】での生活と【先生】の存在感が克明に描かれている。私小説として読むことも可能なリアリティーにあふれていた。
それで、本作。「しんせかい」にあった記憶や輪郭のはっきりとした世界は放棄されている。固有性も差異も本質じゃないと言いたげだ。
「気がつくとぼくはうつ伏せに倒れていた。どれぐらいそうしていたのかわからない。とても長い間のような気もするし、そうでない気もする」という書き出し。この「そうでない気もする」という曖昧さが二段組百九十五ページの作品を貫くのだ。
この冒頭エピソードは「というような夢を見た、という話をぼくはどこかで誰かにした」と入れ子になっており、「しかしどこで誰にしたのかを忘れた」とさらに覆される。次に主人公は「長谷川」という友人に会うのだが、その人物の存在はとんでもない形で否定されてしまう。
主人公と書いたが、「ぼく」がそうであるのに違いないのだが、「ここはどこだ」と言っているところで「わたし」に変わってしまう。そしてダンスでもするように、主体は交錯していく。作中に登場する「一人でもあり、二人でもある」星型の人間もテーマを反復し強調する。
あらすじを紹介するのは難しい。「ぼく」「わたし」、友人、父母、子どもや孫、犬や猫たちとの思い出の時間のフラグメントが、その存在の生死を超えて、夢かうつつか切なげに舞っている場所があるようだ。
思えば山下澄人の小説は「ギッちょん」や「コルバトントリ」にしても、主体(視点)や時間が揺らいでいる世界が特色であり、本作はそれをさらに堪能させてくれる。
成田康子『高校図書館デイズ――生徒と司書の本をめぐる語らい』(ちくまプリマー新書)
私は高校生のころから本好きになったが、読み方はまったくの自己流で、面白そうな本を見つけてはアトランダムに読んでいる雑読派だ。
そこで補助線を一本引いてみる。初めて迷い込んだ本の森に案内人がいたらどうだったか? きっと谷に降りる道、山に上る道、哲人たちのいる里などを教えてくれたに違いない。雑読がダメだったとは思わないが読書の楽しみ方も変わっていた。
本書を読みながら、第一に考えたのはそういうことだった。
舞台は道立の札幌南高等学校の図書館。そこには司書の先生がいる。ぶらりと立ち寄った生徒たちはそれぞれ気に入った本を読んだり、思いも寄らぬ世界の奥深さに触れたりしていく。迷ったとき、司書の先生と話してみる。小さなきっかけから、本を介して自分が無意識に探しているものが見えてくることもある―。
本書では、そんな生徒たちと学校図書館司書との「対話」と「自己発見」の13のエピソードが紹介されている。高校の先輩作家(円城塔)との交流、ビブリオバトルの体験、文字と言語の魅惑的な世界の発見、スマホから文庫本への関心…。それは生徒たちの成長の物語でもある。
冒頭に登場する生徒のひとりが学校図書館について、仕事帰りのおじさんがふらっと寄りたくなる「居酒屋みたいなところ」「きらきらしているところ」と言うのが印象的だ。私たちの社会はある種の没個性化を高校生に強いているが、葛藤しつつも自由な自分を発見していく知と思考のアジール(避難所)としての希望が学校図書館には残されているようにも、本書を読みながら思った。
「みんなでつくろう学校図書館」など、現場から発信を続ける著者の第3作。巻末には文中に登場する本のリストも付されていて楽しい。
中原清一郎『人の昏(く)れ方』(河出書房新社)
中原清一郎は国家や民族幻想の相対化を迫る話題作『未だ王化に染(したが)はず』(福武書店、一九八六年)を発表後、長く沈黙が続いた。いわば幻の覆面作家≠ナあったが、『カノン』(河出書房新社、二〇一四年)で復活。石川啄木をモチーフに青春の漂泊を描く「北帰行」で七六年に第十三回文芸賞を受賞した外岡秀俊であることが明らかにされた。
札幌市生まれの外岡は全国紙の新聞記者として活躍、米欧での取材経験も重ねた後、編集局長を務めた。二〇一一年に早期退社。札幌に戻って、現在はひとりのジャーナリストとして「三・一一」の東日本大震災から浮かび上がった社会の諸問題などに迫る発信を続けている。
前置きが長くなったが、物語作家とジャーナリストの二つの顔を持つのが著者とすれば、その交点に生み出された連作小説集が本作である。
主人公は新聞社カメラマンの矢崎晃。花形ではないが、自分の生き方を貫いてきた男の心もようが端正な文体でつづられていく。4つの章には「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」のサブタイトルが付されており、主人公の人生の移ろいが重なり合う。
最初の中編「悲歌」は晃が20歳になった日に自ら命を絶った父親の物語。何も語らなかった父親は満蒙開拓団を襲った悲劇を背負い続けていた。戦争にいるのは死者たちだけなのだ。生き延びた者にも触手を伸ばし「暗い穴に呑み込んでしまう」。
このテーマはコソボ紛争を題材にした「消えたダークマン」において現在の問題として多彩に変奏されている。特派記者本人の知らないうちに机上で作られていく署名記事、湾岸戦争で流布された油まみれの海鳥のエピソードなどもリアリティーがあり、本書はメディア批評の優れた物語としても読むことができるだろう。
沖藤典子著「北のあけぼの 悲運を超えた明治の小学校長」(現代書館)
安田貞謹(やすだ・さだもり、一八五〇〜一九一一)と言っても知っている人は少ないだろう。明治期北海道の教育者。盛岡新田藩の江戸詰め家中に生まれ、開成所(幕府の洋学研究機関)で西周、安井息軒に学んだ。士族には厳しい「ご一新」の激動の中、一八七一年(明治四年)人材育成のために来道。札幌に入り、開拓判官松本十郎の残した「先にきた者が後からきた人を助ける」という心遣いに触れ、感銘を受けたという。
安田貞謹はエネルギッシュだ。私塾を皮切りに教育者の道を歩み出し、開拓使雇いとなる。函館を経て室蘭では旧友の本多新(自由民権家)のつくった常盤学校の校長を25歳で務めた。
札幌では自由な気風の初等教育をめざし私立育成小学校を創設した。夢は叶ったかに見えたが、10年ほどの歳月が過ぎ新校舎を建設したところで、悲劇は起こる。放火らしき火事で、校舎が灰燼に帰すのだ。膨大な借金をかかえたまま理想の学校は廃校となる。
失意の中、札幌に別れを告げ、赴いたのが網走。そこで二人の仲間とともに一九〇六年に「だれもが、ただで本を借りて読むことができる「網走図書縦覧所」を開設する。北海道で初めての図書館となった。若き日に西周から聞いた「書物への尊敬、学問への尊崇」を形にしたものだった。振幅の大きい安田貞謹の漂泊の旅はその後も比布、函館へと続くが、六十歳で亡くなり、幕を閉じた。
この安田貞謹とは著者の母方の祖父だ。道庁赤れんがの文書館でささやかな「履歴短冊」を見つけたことをきっかけに、時間の彼方に埋もれていたファミリーヒストリーに光を当て、「無名」の先人たちの情熱と苦闘の日々を浮かび上がらせた。ノンフィクション作家の著者は室蘭生まれ、池田(十勝管内)、札幌などで過ごし、神奈川県在住。「女が職場を去る日」「銀の園・ちちははの群像」など女性や介護に関する多くのルポを執筆している。
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