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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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北海道文学館の所蔵する「宝物」たずねある記

ひと・もの・がたり2

■佐藤泰志の原稿「市街戦のジャズメン」
 函館出身の作家、佐藤泰志(一九四九〜九〇)が亡くなって二十五年が過ぎた。近年、高く再評価され、「海炭市叙景」など次々に映像化も進んでいる。
 佐藤泰志は早熟な作家である。函館西高校在学中に有島青少年文芸賞に応募、十七歳の六六年に日中戦争時代に戦場に送られた青年の葛藤を描いた「青春の記憶」で優秀賞受賞。六七年にベトナム戦争に反対する若者の姿に触発された「市街戦の中のジャズ・メン」で二年続けて優秀賞を得ている。
 「青春の記憶」はその年十二月の北海道新聞に全文が掲載されるとともに、七四年に有島青少年文芸賞作品集「風に」(北海道編集センター)に収録された。
 一方、「市街戦の中のジャズ・メン」は新聞紙面には掲載されていない。そのかわり、審査員の沢田誠一が選評に「いずれ何らかの形で発表されるべき」と記したこともあって、沢田誠一が関わっていた「北方文芸」誌の六八年三月号に転載された。その際、タイトルも「市街戦のジャズメン」とあらためられている。
 沢田誠一は「北方文芸」が「未知なる才能の密林に駈けこんだ」として、「その収穫をお目にかける」と作品を紹介している。
 「ホイットマンの詩の一節を、暗いダンスホールの椅子にすわって口ずさむ時、僕の夜の生活が始まる。」
 この印象的な書き出しで始まる生原稿が道立文学館に残されている。有島青少年文芸賞応募作品を改稿しているだけに、文字も丁寧で表現の乱れも少ない。後の書き下ろし原稿の持つ切迫感に比べると、まだ牧歌的に映る。(2015/10/29)

佐藤泰志「奢りの夏」と「遠き避暑地」
 佐藤泰志は一九六八年三月、函館西高を卒業後、浪人生活を送るが、七〇年、國學院大学文学部哲学科に入学のため上京している。同人誌などで執筆を続ける一方、故郷・北海道の「北方文芸」は大切な作品発表の場であり続けた。
 「市街戦のジャズメン」に続いて書かれたのが「奢りの夏」(「北方文芸」(七二年十月号)である。福間健二解説によると、「のちの代表作『きみの鳥はうたえる』が決定版となる、男二人とひとりの女性の、三人の物語であることに注目すべきだろう」(福間健二編「もうひとつの朝 佐藤泰志初期作品集」)という原型的な作品である。
 四百字詰め原稿用紙53枚の本作品は満を持して書かれたかのように、すっきりした感じである。青色の万年筆で、少し右に傾いた文字はマス目をいっぱいに埋める。
 約一年後の「北方文芸」七三年十二月号には「遠き避暑地」が発表されている。本作も男女三人の物語。
 原稿イメージは「奢りの夏」と大変よく似ている。ただ、生原稿をみると、タイトルは「受難の夏 祭りの果て」とある。執筆後に「遠き避暑地」に変更されたものと思われる。「夏」の文字入れた作品を多数書いているのに、なぜ変更したのかはわからない。
 続いて「北方文芸」には「朝の微笑」(七四年十一月号)、「深い夜から」(七六年八月号)を発表する。
 「深い夜から」は百号を記念した「北方文芸賞」に応募し佳作となった。受賞作は小檜山博の「出刃」であった。(2015/11/05)

佐藤泰志「もうひとつの朝」
 作家、佐藤泰志の初期の代表作である「もうひとつの朝」は「北方文芸」一九七九年三月号に発表された。
 佐藤泰志の友人であり、最も良き研究者である福間健二は次のように書いている。「一九七二年から、彼は東京の国分寺に住みはじめた。国分寺市のなかで住居は転々としたが、頭のなかに国分寺を中心とした東京の郊外とそこに住む若者たちとの世界を作りあげていった」(福間健二編「もうひとつの朝 佐藤泰志初期作品集」解説)。
 「もうひとつの朝」は、東京郊外の安アパートで暮らす「僕」と大家の老人がある夜、隣人の「大森」青年が起こす警察ざたの騒動に巻き込まれる姿を行き詰まる筆致で描きだした密度の高い作品である。
 「彼が大事に何度も書き直していたという記憶がある」(福間健二)というだけに、道立文学館に残されている生原稿にはその作品にかけたであろう作家の膨大なエネルギーの一端が伝わってくる。
 タイトルを見ると、「もうひとつの朝」であるが、最後まで迷ったことがわかる。原稿の最初の部分は赤字で消されているが、「夜の輝き」というタイトルも読み取れる。何か説明的な文章を書き込んだものの、徹底的に消した跡もある。ゴツゴツとした文字は原稿用紙のマス目を飛び出しており、強い自己主張をしているようにも見える。
 佐藤泰志はそれから三カ月後、「北方文芸」七九年六月号に「颱風伝説」を発表している。少年の切実なやるせない想いがあふれた作品だ。ただ、同じ力強い字体ながら、「もうひとつの朝」の過剰さは感じられない。(2015/11/12)    

佐藤泰志「撃つ夏」
 佐藤泰志は一九八〇年代に入ると、「文藝」「新潮」「文學界」など中央の文芸誌に次々と作品を発表し、めざましい活躍をする。
 「きみの鳥はうたえる」「空の青み」「水晶の腕」「黄金の服」「オーバー・フェンス」で5回芥川賞候補となる(ちなみに、うち3回は「受賞作なし」)。
 当然ながら北海道の地方文学誌である「北方文芸」は次第に発表の場としての役割を失っていく。
 「七月溺愛」(八〇年三月号)、続く「撃つ夏」(八一年二月号)が「北方文芸」最後の掲載作となる。
 「七月溺愛」は値札付けの仕事をしている「僕」の鬱屈した青春の一断面を描き出している。タイトルは「溺愛? この糞熱い七月に?」という内面の叫びからとられた。
 ちなみに、佐藤泰志と同時期に注目され、のちに直木賞作家となる札幌出身の藤堂志津子の本名名義の詩集に「六月にひとり逝き七月溺愛八月水死」(七四年)があり、語感に同世代的関連を思わせる。
 「撃つ夏」は前回紹介した「もうひとつの朝」と同じような佐藤泰志の小説にかける意気込みがあふれている。半年後に「きみの鳥はうたえる」が「文藝」に掲載され、初の芥川賞候補となる。大いなる飛翔に向けた緊張感にあふれているとでもいうべきだろうか。
 佐藤泰志は新しい世代の書き手として注目を集めるが、芥川賞をはじめとした大きな文学賞には恵まれないままに終わる。「函館出身の新鋭作家、佐藤泰志さんが自殺 」と北海道新聞が佐藤泰志の不慮の死を伝えたのは90年10月。折しも日本社会は浮力のついたバブル時代の真っ最中であった。(2015/11/19)     

佐藤泰志の手紙
 北海道立文学館では現在「〈青春の記憶 夢みる力〉佐藤泰志の場所」展を開催している。作家、佐藤泰志は一九四九年函館に生まれ、九〇年に四十一歳で命を絶った。没後しばらくはほとんどの本が入手困難になった。だが、彼の作品に魅せられた人たちの手で再び光が当てられ、新たな読者を獲得した希有な作家だ。
 本展では佐藤泰志の直筆原稿やメモ類などを多数展示しており、独特の字体に込もる作家の創作への「熱量」が伝わってくる。
 今回の展示に際して、当館に貴重な資料の提供を申し出てくれる人も少なくない。その中の一つが「矢島収資料」と呼ぶことにした佐藤泰志からの四通の手紙(複写)だ。
 矢島収は佐藤泰志が「きみの鳥はうたえる」で初の芥川賞候補となった八二年一月、函館の自宅を取材した新聞記者だ。「落選」の報を一緒に聞いたいわば「同士」で、その時以来の信頼感からか、手紙には本音がつづられている。
 「遊園地のブランコが一つこわれていました。函館の遊園地が、どれほど腐っているか御存知ですか」(八二年四月十七日消印)
 「やっかいな仕事を引きうけています。新人賞の下読みで、二社分、約四万枚の原稿をひと月で読みます。頭、ぐちゃぐちゃ」(八五年一、二月ころ)
 「僕の酒は御存知でしょう。きっぱり、やめました。隣りで友人たちが飲んでいても、口にしません。(中略)とにかく、僕の酒はいかんのです」(八八年夏)
 「僕は、ガキのように、函館のことごとくをののしったり、大嘘をついたり、そんな具合でした。(中略)今度、僕は〈海炭市叙景〉の中で、その町に様々なかたちで住む人々を、36人書くことで、区切りをつけたいと思います」(八九年五月十日消印)
 自分の生活や故郷・函館に対する限りない愛情と違和を知ることができる。作家のせつないほどに純真な気持ちを、その直筆文字とともに見てもらいたいと思っている。(2016/04/28) 

木野工「襤褸」
 旭川出身の作家、木野工(一九二〇〜二〇〇八)は文学者の心とジャーナリストの目を持って、粘り強く、息長く書きつづけた実力派である。
 木野工は旭川中学から北大工学部に進むが、学徒動員で海軍予備学生となる。千島列島の占守島防備にあたったのち、各地の基地を転々、敗戦を迎える。復員後、旭川で新聞社に勤める一方、同人誌「冬涛」で精力的に創作活動を行った。北海タイムスに移ってからは学芸畑で活躍した後、東京駐在となり論説委員として健筆をふるった。
 佐藤泰志は芥川賞候補に五回挙げられたが、木野工は芥川賞に四回、直木賞に二回―候補となっている。
 まず「新潮」に発表した「粧われた心」が一九五三年下期の第三十回芥川賞候補となり、第三十六回「煙中」、第四十四回「紙の裏」、第四十六回「凍」と続く。第四十七回からは直木賞に移り「怪談」、七一年下期の第六十六回に「襤褸」が候補となった。
 中央文壇の「賞レース」に二十年近く翻弄されることになったが、「襤褸」は七一年の第五回北海道新聞文学賞を受賞している。
 同作は「北方文芸」に発表された初めての長編小説。自らの少年時代の見聞をもとに、遊廓で働く女性の薄幸の運命を描いた。木野工は「続襤褸」も書いているほか、「旭川中島遊廓」の著書もあり、社会の最深部で苦闘する女性たちを見つめ続けた。
 ちなみに、「紙の裏」は五九年の東京の大手新聞三紙の北海道進出という〃大事件”で揺れ新聞業界を舞台に、人生を狂わされる少年を描いている。ストーリーテラーであると同時に、「ドキュメント 苫小牧港」などルポ作品でも力を発揮した。(2015/12/10) 

坂本亮・綴方教育資料
 文学館には次々と新しい「宝物」が寄せられる。近年、大きな話題になったのは札幌の「坂本亮資料」であろう。
 坂本亮(一九〇七〜二〇〇七)は一九三五年に道内教員有志が設立した北海道綴方教育連盟の中心メンバー。だが、坂本らは自由な教育姿勢を良しとしない軍国主義国家権力によって40年から翌年に弾圧を受ける(北海道綴方教育連盟事件)。それでも坂本の情熱までは奪えず、戦後は札幌市で北海教育評論社専務、同社長を務めるなど教育分野で大きな足跡を残した。
 文学館には二年ほど前、遺族から資料一式を、寄贈するとの話があった。分量は書斎二部屋に文学書単行本と全集、教育研究書、児童書、論壇誌・文学誌等の雑誌類など一万点を超す。あまりに膨大で全面受け入れは難しく、主要書類・書籍に印をつけるなどして準備に取りかかっていた。
 その最中、独自に綴方教育連盟事件を調査報道していた北海道新聞釧路支社の佐竹直子記者が坂本亮資料の中に「獄中メモ」があるというスクープを発した。「教員弾圧 獄中の記録」との大見出しの記事は大きな反響を呼んだ。
 今にも破れそうな薄い紙に書かれた「メモ」は31ページ。天下の悪法である治安維持法下での「叩く。ける。座らせる。おどかす」などして「赤化」を認めさせ、えん罪に陥れていく弾圧の姿が記されている。
 このほかにも、予審終結決定書、公判記録と裁判長との面談記録(コピー)なども残っている。
 この事件は三浦綾子の小説「銃口」で知られるようになったが、逮捕された先生は生徒に理由も告げられないまままま教室から消えていった。その数は五十人とも七十人とも言われる。
 当館に託された資料はそうした時代の再来を戒める貴重な証言といえる。
■□
 一九四〇年から四一年にかけて、次々と教員が治安維持法違反容疑で逮捕された北海道綴方教育連盟事件では十二人が起訴されて、十一人が有罪となった。残る一人は無罪となったのではなく、裁判を前に二十八歳の若さで亡くなっている。
 横山真。十勝管内の小学校教員の時に逮捕されたが、彼が根室の厚床時代に発行していた「ぶし 原野に春はきっと来る」「まごころの旗」という文集が坂本亮資料の中に残っている。二色刷りの表紙、綴じ紐の色はイラストに合わせており、おしゃれな中に情熱が伝わってくる体裁。畑仕事を手伝う開拓地の農家の小学生の生活ぶりや思いが素朴な作文に綴られている。可能性を秘めた実践教育は弾圧事件で永遠に閉ざされてしまったのである。
 リーダーの坂本亮は99歳の天寿を全うした。執念のように関係資料を収集し保管することで、この非道な事件と教員たちの活動を甲世代に伝えたのである。
 北海道綴方教育連盟は教員たちによる作文教育の研究グループであった。メンバーたちは横山真と同じように、それぞれの地域の学校で「生活・島の子」「ひやま作文」「北日本海の子供」「原野」などといった文集を出していた。
 全体での研究誌が「同人通信」だ。当館には三六年九月の創刊号のほか、欠号が数号分あるが、弾圧直前の39年秋までに発行されたものが保管されている。
 「綴方の出発の仕方」といった方法論から、相互批判、近況を伝えるエッセーなど内容は様々だ。
 粗末なザラ紙に印刷され製本された「通信」は経年劣化によって、紙が破れてきたり、文字が読めなくなってきたりしている。温湿度管理などに最大限気をつけても、状態の悪い資料の研究と保存をどうするかというのは「宝物」につきまとう課題でもある。(2016/05/12,19)

中沢茂の「海胆市」の世界
 中沢茂(一九〇九〜九七)は石川県生まれであるが、北海道の東端、根室に暮らした孤高でいて揺るぎない自意識を持って現実に相対した作家である。「北方文芸」編集人だった小笠原克は「中沢茂を語ることは、北海道を語ることである」と評している。
 中沢茂の経歴をたどれば五歳で来根。病気のため根室商業を中退、その後二十二歳の時、マルキシズムに誘われて両親に無断で上京するが、一カ月半ほどで帰郷。一九三二年個人誌「測量船」を、三五年同人誌「どろの木を育む人々」を創刊する。金物店を経営しながら、「札幌文学」に入会して作品を発表。五九年「助命嘆願」、六二年「連帯孤独」刊行。七八年「紙飛行機」で北海道新聞文学賞を受賞した。
 中沢茂は根室市のことを「海胆市」と呼んでいた。
「北方文芸」一九七二年十二月号には「海胆市八月叙景」を発表した。「まったく一九五六年の海胆市の夏は本気とも思えない。白雲の夏らしく湧いた日は八月中三日だけしかない」と、太陽の照る日の少ない「海胆市」の〈市街戦〉のような風景をつづった。七〇年発表の代表作「太陽叩き」では照ろうとしない太陽を覚醒させようとする辺境の想念をドラマティックに描いていた。
 ちなみに海胆とは根室の特産であるウニのことだ。「ものも云えないものほど悲しみはふかい。もし海の底の海胆のことばをきけたら、どんな詩人もだまるだろう、と思います」とも書いている。
 「海胆市」「叙景」と聞けば、佐藤泰志の『海炭市叙景』を連想する。佐藤泰志の作品名が中沢茂から啓示を受けたものかどうかは筆者には断定できない。ただ、佐藤泰志のデビュー作「市街戦のジャズメン」が掲載された「北方文芸」六八年三月号には中沢茂も「轟沢」を発表、二人の名前が目次に並んでいる。
 当館で現在開催中の「佐藤泰志の場所」展では中沢茂の作品も紹介しており、共振する作家の世界をぜひご覧頂きたい。(2016/05/26)

木下順一の函館「街」
 作家、木下順一は一九二九年函館に生まれ、二〇〇五年函館で亡くなった。函館を強調したのは木下順一こそ永年、北海道の玄関口のこの港町で文学と文化的な諸活動を育んできたリーダーだったからである。
 木下順一は七歳の年に、結核性関節炎のために右足を大腿部から失っている。幼くして背負ってしまった重いハンディを真摯に見つめることが文学と人生の戦いの原像となる。後ろ足を亡くした犬に義足をつくろうとする義足の少年らを描く「片足のガロ」をはじめ「少年の日に」「神様はいますか」などの作品に、その思いが表されている。
 九八年に第三十二回北海道新聞文学賞を受賞したのが「湯灌師」。死者を清めその顔に化粧をすることを仕事にする男性の物語で、生死を見つめるテーマを追究し続けることは作家の基底を流れるものであった。
 木下順一のもう一つの顔は文化運動のオルガナイザーのそれである。六二年に月刊タウン誌「函館百点」の創刊にかかわり、「月刊はこだて 街」を経て、タウン誌「街」を二〇〇五年の五百十号まで発行した(「街」は有志らの手で二〇一二年の五百三十六号まで続けられた)。
 ひとりの編集人が四十三年にわたり続けたタウン誌は珍しい。「街」編集にあたって木下順一が掲げた三つの柱がある。「一つは、そのまちで人びとがどのように働いているか。次は、そのまちで人びとはどのように愛し合っているか。そして三つめは、そのまちで人びとはどのように死んでいくか」だった、と長女の渡辺絵里子は記している。
 当館には本人から寄贈を受けた自筆のエッセー「私怨・組織・革命」「地下室からの『私』」などの原稿が保管されている。標題からも明らかなように、ロシアのドストエフスキーや親交のあった埴谷雄高など思索的文学者の影響が強くうかがえる。(2016/06/16)

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