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「リベルタ」と「文藝復興」
更科源蔵という傑出したリーダーによって刊行された「北方風物」以外にも終戦直後の北海道では多くの雑誌が創刊されている。
時ならぬ出版ルネサンス到来の活況ぶりを反映した総合文芸誌が「リベルタ」(一九四六年七月〜四七年六月、全六冊)「文藝復興」(一九四七年十二月〜四八年三月、全三冊)である。
両誌の中心となったのが金田一昌三(一九一三〜八〇年)である。札幌生まれの金田一は東大大学院で学んだ後、日本出版協会北海道支部、創元社北海道支社、日産書房などで活躍、鎌倉文庫の創設にも参加した。後には道立図書館長として郷土史資料整理に尽力し、文化関係の多彩な顔ぶれを集めた「コックリ会」の発足にもかかわった。
「リベルタ」は発刊の辞で北海道を一大文化圏化すると宣言している。執筆陣には浅野晃、石塚喜久三、河野広道、中津川俊六、中谷宇吉郎、早川三代治、林房雄など道内外の著名な学者、作家の名前が並んだ。
金田一が提唱者となって実現したのが四七年五月末から六月初めに開かれた北海道出版文化祭である。東京などから川端康成、亀井勝一郎、河上徹太郎、久米正雄、小林秀雄、田中美知太カ、中村光夫、長谷川如是閑、柳田国男など超一流の文学者が札幌に集まった。丸井、三越両デパートでの出版文化展覧会、北大中央講堂をメーン会場とした記念講演会、北海道文学者大会などが開かれている。
その画期的イベントを記録したのが「文藝復興」の創刊号だった。こちらも執筆者は多彩で佐古純一郎や草野心平などが並ぶ。二、三号には武田泰淳、高橋義孝、風巻景次郎、八木義徳なども登場している。
出版ブームは首都圏の戦後復興が進む中で、急速に凋んでいくが、出版文化祭は北海道の文学運動の歴史に残る金字塔として記憶されている。(2016/07/21)
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宮沢賢治「春と修羅」
宮沢賢治(一八九六〜一九三三)は今年で生誕百二十周年を迎え、その多彩な文学世界があらためて読み直されている。故郷・岩手県花巻市の風土から幻視された「イーハトーブ」の世界は現代人の心に訴えかけてやまないのだ。
多くの作品を残している宮沢賢治だが、生前に刊行された本は一九二四年(大正十三年)四月の詩集「春と修羅」、同年十二月の童話集「注文の多い料理店」の2冊しかない。ちょうど宮沢賢治が県立花巻農学校の先生をしていたときである。
「春と修羅」は「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です/(あらゆる透明な幽霊の複合体)」という印象的な書き出しの「序」で知られる。詩集というより「心象スケッチ」という言葉を使っている。
東京の「関根書店」を発行所としているが、初版のみで、部数一千の自費出版だった。定価は「貳円四拾銭」。年譜などを見ると、寄贈以外周辺の知人の努力で少し売れたが、ほとんどがゾッキ本(見切り価格の本)にされたという。
文学史上の記念すべき詩集も商品としては恵まれなかったが、とても貴重なだけに、高値の古書となっている。そのうちの一冊が当館に保存されている。
装丁は豪華だ。大きさは四六判。紙箱入り、表には鳥獣植物文様。中心に白抜き枠があり、「春と修羅/心象スケッチ/宮沢賢治」と左読み3行横書きで書かれている。本体表紙は麻の生地の上にあざみの草の文様、背に右読み横書きで「詩集」、縦書きで「春と修羅 宮沢賢治作」と刷られている。図案は広川松五郎作、文字は尾山篤二郎筆。
奥付には印刷・発行関係を記すほか上側中央に朱で「宮沢」の検印がある。
収められた詩は六十九。「おれはひとりの修羅なのだ」という決意性を示す言葉と字下げの視覚効果が光る標題作「春と修羅」など、情熱と創意があふれている。(2016/10/20)
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三木露風「廃園」
三木露風(本名・操、一八八九〜一九六四)は日本近代を代表する象徴派詩人の一人だ。「邪宗門」の北原白秋とともに、その活躍ぶりは「白露時代」と称されるほどであった。
十七歳で第一詩集、代表作「廃園」(一九〇九年、光華書房)はわずか二十歳での刊行という若さであった。「はびこれる悪草のあひだより/美なるものはほろび去れり/青白き光の中より/健げなるものは逝けり」と、「廃園序詩」にあるようにロマン的な美意識にあふれている作風であった。
続く「寂しき曙」(一九一〇年、博報堂)、「白き手の猟人(かりうど)」(一九一三年、東雲堂書店)で露風の詩は絶頂を極めた。永井荷風らを介しフランス象徴詩の影響を受けたものだった。
後年、童謡詩も書いており、名高いのは山田耕筰の曲がついた「赤とんぼ」。両親の離婚で祖父に育てられた露風が子守りの少女の背中で見た故郷・兵庫県龍野市(現たつの市)の原風景をうたったものだ。しかし、詩作のきっかけは北海道生活にあった。
露風は次第にカトリック信仰へと進んだ。自筆年譜によると、一九一五年(大正四年)「北海道函館附近のトラピスト修道院に至り三週間とゞまる」と書かれており、「講師たることを依頼されて修道院に入る」(一九二〇年)と、約五年を北海道で暮らした。
その道南・上磯町(現北斗市)にあるトラピスト修道院で、窓の外に止まっている「赤とんぼ」を見たのが、幼少期の思い出と重なり名作童謡詩となった。一九二一年のことである。
道立文学館には「廃園」「寂しき曙」や修道院を描いた随筆などが保存されている。「廃園」は天金を施し豪華だが、背文字だけのすっきりとしたデザイン。章初めの詩には朱色の挿画を置くなど趣向を凝らしていて楽しい。だが、この所蔵本をよく見ると、最初の一、二ページが一〇一、二ページと組み違えている珍しい本でもある。(2016/12/08)
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岩野泡鳴「夕潮」
岩野泡鳴(一八七三〜一九二〇)は田山花袋、島崎藤村、徳田秋声、正宗白鳥と並び日本近代の自然主義五大作家の一人である。
兵庫県洲本市、淡路島の生まれ。本名は美衛(よしえ)だが、故郷の名所「阿波(泡)の鳴門」から筆名をつけた。その前には「阿波寺(あわじ)鳴門左衛門」と号している。
岩野泡鳴は北海道にゆかりの深い作家でもある。五部作「発展」「毒薬を飲む女」「放浪」「断橋」「憑き物」の物語の中心にはカニ缶詰の製造で渡った樺太(サハリン)から北海道内で暮らす中での愛人騒動をはじめとした波瀾万丈の体験が占めている。
小説については別の機会に譲るとして、ここでは当館の高橋留治文庫に残された詩集類を取り上げる。
詩人・泡鳴についてはあまり知られていないが、徳田秋声は「印象派或は象徴主義の芸術で、奔放熱烈、氏の刹那主義的な情感を表現するに於て、他の追随を許さゞる」と評している。
明治学院では島崎藤村が一年先輩。北村透谷とは一八九四年に彼が亡くなる直前に親交を持ったという。彼らと同様に泡鳴も西洋の影響を受けた新しい詩(新体詩)を書いた。
一九〇一年に第一詩集の「露じも」を自費出版しているが、当館には出版社から刊行され話題を呼んだ〇四年の第二詩集「夕潮」、〇五年の第三詩集「悲恋悲歌」と冥想詩劇「海堡技師」、〇八年の第四詩集「闇の盃盤」が保管されている。
「夕潮」は上田敏、大町桂月らが序文を書き、「海底の神」と題された表紙と挿画を近代日本を代表する画家となる青木繁が描くという豪華な顔ぶれ。海に思いを寄せる詩編が並ぶ。
「悲恋悲歌」では愛の苦悩を描いていたが、「海堡技師」では毒殺という突然の事件から海の底への人柱にされるという物語が夢うつつのように展開される。
泡鳴は翌〇九年には最初の小説「耽溺」を書き、散文へと進むだけに、当館の詩集は移行期の極めて貴重な著作と言える。(2016/12/22)
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岩野泡鳴「放浪」
岩野泡鳴は明治期に一世を風靡した新体詩詩人でもあるが、ここでは彼の真骨頂である小説にスポットを当ててみよう。
岩野泡鳴は「破戒」の島崎藤村、「蒲団」の田山花袋らと並び日本の自然主義作家の1人と言われる。現実を観察し、真実を描くのが自然主義文学の特徴である。しかし、自らの姿勢を「神秘的半獣主義」と称した岩野泡鳴は一方で実行即芸術とひた走り、他方では一元描写という主観性の強い表現を求めた。
一九〇九年二月発表の最初の小説「耽溺」は芸者を愛人にする自らの愛欲生活を描いたものであった。作家として評判を得るが、親類の勧めによりカニ缶詰事業を思い立ち、六月、樺太(サハリン)へと渡る。
だが、野心家が横行する土地でデカダン作家の事業が成功するはずもなく、八月には北海道へと入った。札幌では奔放に暮らし、道内を取材旅行し、十一月には東京へと帰って行った。
泡鳴の放浪記は五部作の「発展」「毒薬を飲む女」「放浪」「断橋」「憑き物」となる。樺太から引き揚げてきた泡鳴が小樽から札幌へ入ったところから始まるのが「放浪」である。
当館にはその『放浪』の初版本(一九一〇年七月、東雲堂書店刊)が保管されている。序文で泡鳴は「この作は若々しい北海道を舞台に、新思想の放浪者がその周囲の関係者等と共に登場する」と記す。次に人物リストを掲げて、田村義雄(刹那主義の実行哲理家)、清水お鳥(義雄の愛人)、井桁楼敷島(娼妓)という具合に紹介。さらに口絵には、麦わら帽子を手に事業の失敗に立ち尽くしているような泡鳴がいて、まるで芝居が始まるかのようだ。
「樺太で自分の力に余る不慣れな事業をして」こそこそと北海道へ逃げて来たのだが、新聞社幹部らから大人物の来道、と中島公園の料理店で歓待を受ける……。「青年諸子には必らず読まるべきもの」という波乱の日々がつづられた快作である。
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米坂ヒデノリ「火山灰地」「防雪林」
道立文学館は四季の彩り豊かな札幌・中島公園にある。来館された皆さんにまず見ていただきたいのが北海道の文学の流れを多角的に紹介する常設展示室。照明を落としたゆったりとしたスペースに、時代の推移とジャンルに分けて文学者の直筆原稿や著作物、写真など約1500点が並ぶ。
入って最初に目を奪われるのが彫刻家、米坂ヒデノリの2点の作品だ。ひとつは「火山灰地」(一九六六年、奥行き四〇a×幅三七a×高さ一四二a)、もうひとつは「防雪林」(六八年、奥行き三二a×幅三六a×高さ一四〇a)。道産の桂の木でつくられている。
「火山灰地」は札幌出身の劇作家、久保栄(一九〇〇〜五八)の代表作である戯曲がモチーフだ。「防雪林」は小樽育ちの小林多喜二(一九〇三〜三三)が自然と格闘する人間の姿を描いた同名作品によるもの。
この二点は一九九六年秋に道立文学館で開催された特別展「久保栄と北海道」に出品された後、寄贈されて常設展示室に置かれている。米坂ヒデノリは「火山灰地」について「計量数値化(=商業主義の世界的な横行)の風潮を何とかしなければ」という動機で制作したが、見る側に自由に想像してもらいたい作品である、と記している。
作者の米坂ヒデノリ(本名・英範)は北海道を代表する彫刻家である。34年に釧路に生まれ、釧路高(現釧湖陵高)、東京芸大美術学部彫刻科卒業。高校時代には油絵、大学で彫刻を学び、卒業後は教員をしながら本格的に創作を続けた。
風土に根ざした木彫作品で知られ、代表作に「開拓者」「凍原」「祖国」「北の柩」「呼ぶ」「間道を行け」など。ほかに最高裁大ホール正面レリーフ「神の国への道」がある。
一九八七年に空知管内栗山町に招かれて移住、次世代の育成にも力を注いだ。二〇〇六年からは故郷・釧路に戻り創作活動を続けていたが、二〇一六年四月に八十二歳で亡くなった。(2017/02/23)
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鶴田知也「コシャマイン記」
鶴田知也(一九〇二〜八八)は北海道ゆかりの作家による芥川龍之介賞作家の第一号である。
直木三十五賞とともに一九三五年に制定された同賞は、純文学短編作品に贈られる。主に無名もしくは新進作家が対象となることから、文壇への登竜門として最も知名度の高い文学賞である。
第一回は石川達三「蒼氓」、第二回は該当作なし、そして第三回が小田嶽夫「城外」とともに鶴田知也が「コシャマイン記」で受賞している。
鶴田知也は福岡県生まれ。一九二二年、東京の神学校に進むが、知人の紹介で北海道の八雲町を訪れ、酪農に関心を持った。さまざまな現場労働を経験後、労働組合運動に身を投じたが、翌年には本道を離れた。
「コシャマイン記」は勇猛なるセタナアイヌの長の後裔であるコシャマインを中心とした流浪と戦いの物語である。若き日に学んだ聖書とユーカラの語りを取り込んでおり、異貌の周縁地域から日本(文明)を相対化する魅力を持った作品だった。
「コシャマイン記」という戦いの物語はプロレタリア作家でもあった鶴田の貧困の中で格闘する自らの精神状態を映し出すものでもあった。
鶴田はその後も北海道との縁は切れなかった。文学館には戦後、札幌で発行された「北方風物」誌に寄せた「南瓜記」と題した原稿が残っている。
一九八五年、ゆかりの地・八雲町の丘に文学碑建立。実直な人柄を表すかのごとく「不遜なれば未来の悉くを失う」と記されている。
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寒川光太郎「密猟者」
鶴田知也が北海道ゆかりの芥川賞作家第1号とすれば、寒川光太郎(一九〇八〜七七)は北海道生まれの芥川賞作家の第一号である。寒川は「密猟者」により、三九年下半期の第十回同賞を受けている。
『サハリンを読む』(北海道立文学館発行)に収められた神谷忠孝(北海道文学館名誉理事長)の論考「寒川光太郎とその時代」を参考に、以下紹介する。
寒川光太郎は現在の留萌管内羽幌町築別の生まれ。教員で植物学者であった父親・菅原繁蔵が樺太(サハリン)で勤務していたことから、樺太との出会いが生まれた。父親の植物研究の助手として、鉛筆描きされた原図に墨入れをして「樺太植物図誌」の完成に尽力したという。
こう言うと、熱心な研究者のようであるが、寒川は父親の原稿を携えて上京してからは、古書店の二階にこもって小説の執筆に打ち込んだ。
折しも、石川達三「蒼氓」、鶴田知也「コシャマイン記」が創設まもない芥川賞を受賞するなど文壇は日本の周縁や外地に関心が向けられていた。
佐々木翠(のちに船山馨と結婚、本名・坂本春子)らと同人誌「創作」を創刊した寒川が満を持して発表したのが「密猟者」であった。同作は野獣の官能を持った猟の名人「豹」を主人公に、北方の大地と海での猟師の激闘をダイナミックに描いた傑作であった。
評論家の小笠原克は「密漁船、寒帯の氷島、狷介な猟人――題材の特異性が人眼を奪ったことは事実であるだろう。しかし、この一篇に流れる緊張した空気と鮮烈な描写は、俗事になずむ人間のよくするところではない」と評し、「人間的孤独」の力が読者の心を打つと述べている。
文学館には寒川の「私の処女作と自信作」と題した原稿が残されている。
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