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追悼雑記REQUIEM

谷川雁の方へ

さらに深く原点の意味を  ー追悼・谷川雁覚書―

 谷川雁が一九九五年二月二日、死んだ。
 七十一才だった。
 ここ数年闘病生活を続けており、死因は肺癌だった。
 もちろん、この稀有のアジテーターもすっかり過去の人となりはて、若い人を相手に文学めいた活動を続けていることや、故郷の西日本新聞に絶筆覚悟の幼年期の思い出を綴った文章を掲載していることは、遠くから聞こえてきてはいた。ただ、突然のようにやってきた訃報に、いささか驚き、彼とは無縁の場所にいる現在の私としても、少しばかりは書いてまとめておきたい感慨のようなものがあるのに気づいた。
 谷川雁の名前を聞くと、私は決まって思い出すふたつの詩編がある。ひとつは代表作でもある次のようなものだ。

    おれは砲兵

 海べにうまれた愚かな思想 なんでもない花
 おれたちは流れにさからって進撃する
 蛙よ 勇ましく鳴くときがきた
 頭蓋の窪地に緑の野砲をひっぱりあげろ

 神経のくぬぎ林が萌えだす月曜日
 影のようにそよぐ寺院をねらうのだ
 みろみろ 敵の砲弾は村の楽書をぶちこわし
 もやのなかで咲いたあやめが処刑される

 電話はどうした 星は青く空は黄に
 それその土色にめまいするわらびにつなげ
 たてよこに蜘蛛の巣をこぐ舟からは
 大昔の戦闘命令を鼻歌まじり
     (中略)
 とどまる砲兵には死があるだけなのだ
 蚊ばしら立つ炭焼党の都の方へゆっくりと
 左へ さあ輓馬の鞭をふりかざせ

 この詩の中にあふれている戦闘シーンに象徴される左翼行動主義の残滓が、私を鼓舞するということはもちろんある。加えて、私が南島とは無縁の、浜茄子咲く北国とはいえ、同じ海辺の田舎町に育ったという出自が私の体験と共通することもある。だが、本当は作品中にあふれるユーモラスな比喩の高度な展開がとても私には心地好く思われるのだ。
 やはり、雁はその散文を含め文句なく日本における喩的言語の最高の達成者であったろうと思うのだ。
 そして、もう一つの詩編は次のようなものである。

   毛沢東
 いなずまが愛している丘
 夜明けのかめに

 あおじろい水をくむ
 そのかおは岩石のようだ
 
 かれの背になだれているもの
 死刑場の雪の美しさ

 きょうという日をみたし
 熔岩のなやみをみたし

 あすはまだ深みで鳴っているが
 同志毛のみみはじっと垂れている

 ひとつのこだまが投身する
 村のかなしい人達のさけびが

 そして老いぼれた木と縄が
 かすかなあらしを汲みあげるとき

 ひとすじの苦しい光のように
 同志毛は立っている   
 
 「ああっ」と私はため息をつく。この様式美の極限にあるようなイメージの結晶。比喩は毛沢東の実体を超えて、雁の美意識の発露になってしまっている。そうだ、この「毛沢東」に集中的に現れているように、雁には幻想化された実体への度はずれの思い入れがあったように、改めて思われる。

    #
 私は吉本隆明について多く論じてきたし、実際のところ私は一貫して初期・吉本隆明を高く評価し師事してきた吉本主義者である。それゆえ雁についてはまともに論じたことはないし、積極的に彼から学ぼうとしたこともない。しかし、それでも、学生時代の一時期に、明らかに雁から多くのことを密輸入的に取り入れていたことは否定のしようがない。
 雁は本当に、優れた運動家(オルガナイザー)であり、アジテーションの名人であった。たとえば「東京へゆくな、ふるさとを創れ」あるいは「原点が存在する」「瞬間の王は死んだ」「イメージからさきに変れ」「乗りこえられた前衛」「定型の超克」「不可視の党」「自立」などの言葉は雁の思惑を超えて広く人口に膾炙しているところであろう。私もある時期、原点について考えようとし、権力を超えた「アモルフ」な存在への共感を軸に大衆闘争を続けた時期がある。
 たぶん、雁は七〇年代は単なる沈黙した詩人であったが、語らぬがゆえにかつての戦闘的発言が、時勢におもねて駄弁を重ねるだけの多くの似非イデオローグを超えて、現場の活動家に受け入れられていた。陽気なプチブルジョア娘・高野悦子が、精一杯の人生に「二十歳の原点」を語り、自ら命を断ったのは雁の思惑を超えて多くの学生に雁の言葉が受け入れられていたことの証左であろう。
 谷川雁とはまさしく日本のランボオであったろう。彼が詩を捨てたとき、詩人の言葉はまさしく大衆のものとなったのである。これを詩人の栄光といわずしてなんと言おう。私達は雁の姿をほとんど知らない。その言葉が雁に出自していることを知らずして、「権力止揚」と「自立組織」を語り、アモルフな大衆存在の内発的・自発的エネルギーこそに、レーニンの考えたロシア・マルクス主義を超える道を探っていたのである。まさしく私達は雁から「戦闘への招待」状を受けていたのであり、それゆえに、今、返礼せねばならぬ。

    #
 とりとめもない所感はこのくらいにして、雁の思想の核心をばがっちりと押さえ、その意義と限界を確認しておくのが、残された者の責務であろう。
 大衆に対しては知識人、知識人には大衆として!まさしく戦略的かつアクロバチックな「工作者宣言」に象徴されるように、雁の思想は極めてスリリングであり一筋縄ではいかない。
 「工作者宣言」とは畢竟「パルタイ宣言」であった、と私は思っている。実際、雁を見ていると、戦後の共産主義運動者のある種の典型を見るような気がするのである。
 雁は六〇年安保の主役となっていく学生達の多くが五六年のハンガリア革命に、スターリニズムの限界を見、世界でも類例のない新しい左翼の旗を掲げていったのに対して、極めて「鈍感」であった。彼は依然として、党人として革命の行方を考えていたきらいがある。彼がスターリニズムのくびきを脱するのは、自らの行動が党の論理を超えていったが故であった。では雁はどのようにスターリニズムを超えたのか?
 結論を急ごう。アモルフな大衆の発見! ここに雁のコントラ前衛理論の根拠があった。

 「段々降りてゆく」よりほかないのだ。飛躍は主観的には 生れない。下部へ、下部へ、根へ根へ、花咲かぬ処へ、暗黒の満ちるところへ、そこに万有の母がある。存在の原点がある。初発のエネルギイがある。
             (「原点が存在する」)
  無名民衆の優しさ、前プロレタリアートの感情、…それらを理念として表現すれば東洋風のアナルコ・サンジカリズムとでも呼べばよいと思う。これは封建社会における多くの暴動の底にすべての民衆的経世家の胸奥に植えつけられていた苦い情熱のイデオロギーである。
        (中略)
 僕は歴史学者でもなければ社会学者でもないが、すくなくとも感性の領域で共同体の破片と記憶は農民はむろんのこと大部分の労働者にも今なお生きていると主張する。日本文明の一番下の階段に生きていると主張する。そしてそれを破壊することが真の反封建主義闘争でも何でもなくて、むしろこの破片と記憶をめざめさせて新しい共同体の基礎 にしなければならないと主張する。
              (「農村と詩」)

 要するに、谷川雁は大衆(農民)をマイナスの存在と見、彼らを都市プロレタリアートに、さらには労働者前衛に組織するというロシア・マルキシズム以来の左翼啓蒙主義にノンを宣告したのである。まさに、モダニズムの変種にすぎぬマルキシズムではなく、日本の、アジアの、現実に足を踏みしめての運動者としての自負と夢が、まさしく党を超えたのである。
 大衆はそのままにして権力を超えた存在で有り得る。そこを根拠として、解放の未来像を構想すること。それが雁の課題であった。前近代による近代の超克! ここに雁の独創性があり、原点があった。
 こうした大衆論は「大衆の原像」を鏡として、権力の止揚を考えた吉本隆明と一瞬交錯するものであったことは間違いない。それ故に、自刃した村上一郎を加えた三者による自立同人誌「試行」での共闘も実現したのであろう。そして私達もまた全共闘運動に「アモルフな行為の共同性」を見、三里塚をはじめとした農民の自発的・内発的エネルギイに権力を超えていく大衆存在をどこかで確信していた。
 だが、雁の論理を改めて反芻しているうちに、私は東北農民の原像を通じて、その負性から解放の未来を構想しようとした黒田喜夫のことを思い出した。黒田喜夫がそうであったように雁もまた、本当は自らの夢を「あるべき像」に向かって語りかけていたように思われる。
 大衆への絶対的信頼。その上に組織される運動。それは大正炭坑闘争に典型的に示されたように、圧倒的な強さを発揮したことは間違いない。危険な誘惑! しかし、大衆は雁のイメージしたような「幻影の革命政府」につながる絶対アンチの存在ではなく、実はもっと複雑な矛盾に満ちた存在ではなかったのか。

    #
 吉本隆明が「大衆の原像」を繰り込むことを自らの思想的課題にしたのに対して、谷川雁は「原点としての大衆」に絶対的に依拠することであった。 

 われわれがもし正の符号を持つ工作者であるなるば、負の記号を持つ工作者が沈黙している大衆の底部にいるのだ。私有を離れようともだえながらなお不可避の占有を拡大している者に対して、私有の形式では絶対に所有することのできない者が存在する。   
           (「現代詩の歴史的自覚」)

 ここにも「毛沢東」の詩的世界に典型化された美意識の絶対化がある。僕等の大衆とは何か? その実存においては、欲望し逸脱していく日常の積み重ねの上に、辛うじて秩序的存在である生活者である。それを「絶対者」のごとく観念の上で祭り上げるのは倒錯でしかあるまい。
 吉本隆明が語る「大衆の原像」とは、生まれ育ち対を結び死んでいく生活の原イメージを思想の価値の根底とするものであった。これに対して、谷川雁の「原点としての大衆」とは欲望し逸脱する日常性の皮を剥がしていくはてに見える実体であった。原イメージを繰り込むことで思想の自閉性を打ち破ろうとするのが吉本隆明であるならば、吉本隆明は「実体としての大衆」がどのように変ろうとも(たとえば、農民であろうと労働者であろうと高度資本主義社会の消費的大衆であろうと)常に自らの思想を浮遊動点のように社会の動向の中で緊張感を孕みながら、自らの思想を鍛えていくことができる。それ故に、戦後の思想者の多くが時代の変転の中で古びていったのに対して、ひとり吉本隆明だけが「マス・イメージ論」や「ハイ・イメージ論」などで自らの思想的営為を持続できたのである。
 だが、雁はどうか。彼は前近代的な大衆(農民、部落民)の中に存在する優しさ・反体制・反権力を実体的な根拠とする。とすれば雁のそうした前近代的な大衆が、社会の膨化とともに変容していく時、思想は停滞することを免れ得ない。雁的発想をマンガ化したならば、私達は大田竜にいきつくことを知るだろう。文明化を拒否し抑圧された民族への観念的同化による代行主義が、アイヌ民族や琉球や世界の先住民にどれほどの害毒を流したか。
 雁の思想の有効性は、具体的場面においては六〇年代までであったろう。六四年の東京オリンピックを契機とした高度成長の進展は、一方で新たな中間層ともいうべき膨大な都市の小市民層を生み出し、他方で農村の解体・縮小を迫った。依然として心の遠い記憶のように逸脱し反乱する大衆のアモルフは残っていたとしても、既に原点とはなり得ないことは明らかであった。雁が六五年に表現者としての世界から退いたのはある種、必然であった。
 雁はその後、まさに私達の「原点」として、無意識のうちに引用されていったのである。まさに「連帯を求めて孤立を恐れず」(「工作者の死体に萌えるもの」)というように、優れた警句の作者として。

    #
 筆を捨てた後の、雁のこども達を対象とした教育活動や経営者としてのトラブルなどは私にはどうでもよいことに属する。私の関心は雁の思想に結果的にとどめを刺すことになった高度資本主義・市民社会状況に対する雁の現在的思いだけであった。
 雁の死を契機としてこのほど発行された二冊の本を読むことで、私は雁の最後のタンカを聞くことができた。

 あの白鳥の騎士になろうとしやはった別の映画監督のことやけどな。あの方は〈暴力団は存在として悪である〉というあたりまえの命題を強調しはる。そら、たしかや。けど暴力団は存在の原基やおへん。そやさかい崖からぽろっとはがれて、雑木林ころげて、滝壺にとびこんだ小石みたいな暴力団員一人一人を描かんことには表現にならんくらいのことは、とっくにご承知のはずや。知っててそれをせんのは、どこかに悪意がある。市民の悪意に媚びてる。すくなくとも芸術に必要な無心さがない。そこのところに反発するのは根拠があるわな。顔切ったりするのは言語道断やけど、それがあかんいうて、反発の根拠まで消してしまうのは、暴力団を市民悪のイチジクの葉っぱにすることやおまへんか。悪い暴力団を利用する人はもっと悪や。暴力団を見世物興行の人気とりの材料に使うて恥ずかしゅうないかと問われて、頭かきもせんと、胸はって正義もちだす なら、それは〈市民原理主義〉とでもいわならん。
          (「大口真神を待ちながら」)

 戦後の労働原理主義は血盟軍と市民軍にわかれたんや。いまのところ市民軍は連戦連勝、市民こそすべてという旗 はマンションと建売住宅の窓を埋めつくしとる。せやけどいまの暴力団の戸籍、出してみておくれやす。遠慮のういわせてもらいますが、未解放部落と在日韓国が中心になっとるんとちゃうやろか。ほな一国の首相ともあろうお方が、机の前に手をつかれた敵役は、存在論的にいうならばやぜ、部落民と韓国人の連合やったんとちがいまっか。市民派はそれを怒ってはるのかもしれんが、あてらにしてみれば、ちぃとばかり胸のすうとする話やがな。日本開闢いらいはじめて、関白太政大臣が賤民連合に頭下げはった。えらいとほめてしかるべきやないか。はてな、これは新手のほめ殺しになるやろか。                (同前)

 この文章を読んで、雁は依然として懲りていないことがよくわかる。市民主義に対する怒り、最底辺に出自するものたちへの共感。いかにも雁らしいというべきか。だが、人間のイタミのわからない映画監督やほめ殺された宰相を、反市民主義の立場から批判してみても、情況の根底的批判にはならぬが故に文体は戯作調になり、結局は繰り言でしかないことを、雁自身が一番よく知っていたのではないか。それが、私には少し悲しく思える。
 雁の実体主義的存在論は、まさに具体的には一国の宰相を土下座させるような強さにつながるかもしれない。しかし、思想論としては、この高度大衆社会状況を突破できないことは明らかである。その限定の上でなお私は「状況論からすれば、自立とはまず後退戦における内的闘争のイデエである」という雁の言葉に、全共闘運動が敗北し少数化し、個を抹殺する党派闘争へと閉塞していく七〇年代の後退戦の最中に、それでも我々が権力を止揚していく視標として勇気づけられたものだ。一方で吉本隆明の「思想としての自立」に共鳴しつつも、運動者としては雁の「関係としての自立」に惹かれていたのである。
 雁の思想は教条的にとらえるのでなければ、「瞬間の王」たる詩人らしく、多くのきらめきに満ちている。そして、それ以上に、詩人としての活動は戦後の一達成として評価され続けることは間違いない。
 雁は本名を巌といった。なぜ、雁なのかについて遺稿「北がなければ日本は三角」の中で明らかにしている。

 雁ハ我ニ似タリ 
 我ハ雁ニ似タリ
 洛陽城裏    
 花ニ背イテ還ル

 ペンネーム否定派となった私であるが、これには、ちょっとしびれたぜ、と言って置こうか。
 「戦後最大のアジテーター」たる、この無頼の渡り鳥は、静かに高度市民社会状況というアジアの東はずれの島国の繁栄を横目に「ぎなのこるがふのよかと(残った奴が運のいい奴)」とばかり、時限爆弾のような毒を紙の上に残し、天空に却っていったのである。
           (文芸同人誌「詩と創作 黎」第74号、1995年春季号所収)  
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