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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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 直木賞作家・千早茜研究ノート

§1 『しろがねの葉』第168回直木三十五賞受賞千早茜さんについての管見

 桜木紫乃さん、西條奈加さんに続き北海道生まれの女性作家が直木賞を受賞したことは、優れた書き手が次々と登場する北海道の文学の層の厚みを示す快挙と思います。(その間に男性作家では佐藤正午=北大中退、馳星周が受賞しています)

 地方というと大げさですが、札幌から少し離れた生活や文化のある土地から育った作家の誕生は、文学を志しながら孤独の中で試行錯誤している若い人たちに大きな励みになると思います。チャンスは東京や札幌にだけあるのではないからです。
 千早茜さんの文学は「あやかし」というのか、固定的なものの見方を複眼化・相対化して、不思議な世界に誘う面白さが魅力です。「発展途上国帰国子女」という小説を書いていますが、自らが「異邦人」として小学校時代の大半を海外で過ごしたことが、発想に影響しているのでしょう。アイデンティティーの揺らぎを透明感にあふれた文体で描いてきているのが現代的だと感じました。『男ともだち』ではいわゆる男女関係を超えた生身の人間同士の心の揺れを描ききり、新しい時代の感性を優しくせつなく浮かび上がらせています。『しろがねの葉』では大地に生きる女性の苦難とたくましさを石見銀山というトポスを得て描ききりました。
 千早さんは高校を卒業してからは北海道を離れました。文学活動的には北海道の関わりは希薄ですが、作品の中には時々、故郷が顔をのぞかせます。たとえば、『森の家』では修学旅行で北海道を訪れたことから、「まりも」君と名付けられた少年が登場します。また、『桜の首飾り』のあとがきには「遅い北海道の春は花よりも鮮やかな新緑が目をひく」とも書かれてもいます。
  学生時代から暮らしている京都への関心が現在は大きいのでしょうが、いつの日か、多感な思春期を過ごした北海道を本格的な舞台にした物語を書いてくれるとうれしいことです。


§2 千早茜(ちはや・あかね)さん略歴
 ちはや・あかね 1979年8月2日生まれ。江別市出身。父親の仕事の関係で小学1年生から5年生までアフリカのザンビアで過ごす。北海道立大麻高校卒業。その後、京都の立命館大学文学部を卒業する。寺山修司の詩に触発されて書いた『魚神』(いおがみ)で2008年、第21回小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で2009年、第37回泉鏡花文学賞(金沢市主催)を受賞。2013年『あとかた』で第20回島清恋愛文学賞(日本恋愛文学振興会主催)を受賞した。同作で第150回直木三十五賞(日本文学振興会主催)候補となる。2014年6月、『男ともだち』で第151回直木三十五賞候補となる。2021年、『透明な夜の香り』で第6回渡辺淳一文学賞受賞。『ひきなみ』で第12回山田風太郎賞候補。2023年1月、『「しろがねの葉」で第168回直木三十五賞を受賞する。
 【参考】*ザンビア大学関係
   ザンビア大学獣医学部技術協力計画評価調査団報告書
       https://openjicareport.jica.go.jp/pdf/10820017.pdf
          (PDF15枚目=レジュメ5p参照)
   ザンビア大学獣医学部技術協力計画 12年半の協力の軌跡
       https://openjicareport.jica.go.jp/pdf/11451424_01.pdf
          (PDF18枚目=レジュメ10p参照)


§3千早茜さんの主な作品、受賞作・話題作など

第37回泉鏡花文学賞・第21回小説すばる新人賞受賞
■『魚神』(集英社 2009年1月)
 本作は2008年の第21回小説すばる新人賞と2009年の第37回泉鏡花文学賞(金沢市主催)の受賞作。文庫本では宇野亜喜良さんが解説を書いている。「遊女と雷魚」の巡り逢う伝説を持つ幻のような遊郭島で暮らす美貌の「姉弟」、白亜とスケキヨの物語。島に捨てられ拾われた2人は売られて離れ離れになるが、惹かれ合っていた。島一番の遊女となった白亜は、スケキヨとの再会を願うが島には独特の掟があり、人間関係が波乱を呼ぶ。至高の愛の形を求める魂の異境幻想譚。千早茜文学の原石が詰め込まれた作品だ。

■『おとぎのかけら 新釈西洋童話集』(集英社 2010年8月、集英社文庫 2013年8月)
 西洋のおとぎ話「みにくいアヒルの子」や「白雪姫」「シンデレラ」など7編をモチーフに作者の縦横な想像力がここでも発揮される。冒頭の「迷子の決まり」 は「ヘンゼルとグレーテル」を原話としたものだが、母親の子ども(きょうだい)へのネグレクト、児童買春、子どものシンプルで残酷な犯罪などが少し遠回し に(おとぎ話風に)描かれる。作者のセンスが光る短編集だ。
(再読)あらためて、読んで最も印象的だったのは「凍りついた眼 マッチ売りの少女」であった。マッチ売りの少女は売春物語としてこれまでも語られてきたが、売春窟で出遭った薄幸の少女とある男の行為を覗き見するうちに、次第に正気を失って行く男の物語。人間はつくづく何かを反復しているのだと思った。
 私はいつも北海道との関わりで読んでしまう。覗き男が少年期に体験するのが「お隣の女の子」の死であるが、こんなふうに描かれている。
 <ある雪の晩、帰ってこないと騒ぎになって、雪解けの頃に見つかった。
 女の子はどこにも行ってはいなかった。彼女は自宅の軒下に埋まっていた。
 まだ結露の多い家ばかりだった時代だ。冬はどこの家の軒下にも大きなつららができていたし、それで怪我をしたり、屋根から落ちてきた雪に埋まってしまったりする人は、雪国では珍しくはなかった。
 女の子が埋まっていた軒下は、ちょうど私の部屋の向かいだった。>
 怖い!
 もちろん、希望を感じさせる短編もある。「金の指輪 シンデレラ」。シンデレラがガラスの靴なら、本作の「僕」はある少女の残して行った金の指輪を拾う。この靴ならぬ指輪がぴったり合う人を捜すのだが、なかなか見つからない。伯母の家で庭の手入れをしている女性(庭好き、植物好きは千早さんの作品の重要なプラス要素だ)に心惹かれるが、彼女の指はごつごつしていて指輪が合いそうもない。だが、リングはぴったりと嵌まる。それは「僕」が先入観に囚われていたからだった。彼女の中でリングはちかりと光る。なーるほど、のハッピーエンド。

■『からまる』(角川書店 2011年2月)
 帯によれば「もがき迷いながら”いま”を生きる7人の男女たちが一筋の光を求めて歩き出す」という7編の連作短編集。地方公務員の筒井武生を中心に、ちょっとずれた登場人物(たとえば、蝸牛を飼っている野良猫のような女=実は女医、職場の女性・田村、田村の親友の華奈子、武生の姉の恵、息子の蒼真)たちはそれぞれにせつない。さりげなく登場する恵と武生の母親は北海道の出身で「小さな頃むかでを見たことがなかった」と言っていたらしい。

■『あやかし草子 みやこのおはなし』(徳間書店 2011年8月)
 「いにしえの都に伝わるあやかしたちを泉鏡花文学賞作家が紡ぐ」と帯にある。どれもすごみのある奇想の物語である。「鬼の笛」は鬼から絶世の美女をもらっ た笛を吹く男の話。美女は人間の屍から作られており、百日前に触れると元の死骸に戻ってしまうという。だが、アンビバレンツな心の中で、男はついに禁を破ってしまう…。奇跡を起こす笛の音の秘話か。「ムジナ和尚」では人間の、というか古ムジナの孤独と絆が描かれる。
(再読)あやかしはこの世とあの世、あるいはもうひとつの世界の境界線が曖昧になってしまうときに現出する。
 あらためて読み直して印象に残ったのは「機尋(はたひろ)」という短編であった。染屋の柳という男と少女紅(もみ)は都の東の山に住んでいるが、月に1,2回都に下りてくる。目指すは「無数の細い路地があり、その路地の両側には格子張りの織屋が軒を連ねている」町である。あるとき、紅がひとりで得意先の宮津屋に使いに出たが、夕焼けが燃えている頃に、紅は姿を消してしまう。「遊ぼうぞ」。紅は異界に入り込んでしまった。そこは赤き町を織っている古機「機尋」が紡ぎ出している世界だった……。
 紅にとって異界は畏怖する場所ではなかった。むしろ、彼女が見ることができなかったある色を見られる幸運な場所でもあった。その上で、「この町の外に世界はもっと広がっているのよ」とあやかしの世界を抜けることを訴える。ここにも希望がある。

■『森の家』(講談社 2012年7月)
 「水の音」「パレード」「あお」の3編構成。「森の家」に住んでいた佐藤(聡平)さんと、恋人の美里(みり)、佐藤さんの「息子」のまりも君の3人の擬家族の物語。希薄な人間関係の中でしか生きていない人間の叫び、寂しさの果てる場所(紐帯)はどこにあるのだろうか。、本作でも北海道が顔を出す。佐藤さんは昔、修学旅行で北海道に行き「まりものキーホルダー」を買ってきて、幼馴染の果穂子という女性にあげた。彼女は交通事故で亡くなるが、遺児の「父親は聡平だ」と日記にあった。子どもは「まりも」君と名付けられており、彼女の実家「森の家」で佐藤さん「父子」として暮らしている。

■『桜の首飾り』(実業之日本社 2013年2月)
 桜をめぐる7編の短編集。冒頭は「春の狐憑き」という作品。尾崎さんは「この管にはね。狐が入っているのですよ」と公園のベンチで言う。「狐はね、人の正気を喰います」とも言う。美術館に務める孤独な若林さんはついに桜見の約束をする…。「あとがき」で千早茜さんはアフリカで見た紫の花の「ジャカランダ(紫雲木)」が初めて見た桜だったと言い、「遅い北海道の春は花よりも鮮やかな新緑が目をひく。桜も最初から葉桜になってしまう」と書いている。
(再読)2023年春の北海道の桜はいつになく駆け足で、4月中旬には開花し、5月初めにはあちこちで散り急いでいる。北海道では「これが桜だ!」という納得できる花に出遭ったことがないという千早さんによる京都を舞台に桜が紡ぎ出す幻想譚。
 「春の狐憑き」「白い破片」「初花」「エリクシール」「花荒れ」「背中」「樺の秘色」の7編構成で、それぞれ独立した世界だが、桜咲く公園の小高い丘の上にある古い建物の美術館が背景画のように顔をのぞかせる。
 「春の狐憑き」の初老の尾崎さんが醸し出す現実離れした物わかりの良さが本作の基底音となっている。彼が狐から聞いたという「昔、桜守と呼ばれた庭師がいて」という何気ないひとことは「樺の秘色」ではキヌばあちゃんの家に、その庭師がいたらしいことと響き合う。「花の首飾り」という表題作はないが「花荒れ」にエピソードがある。5人も愛人がいたというなぞのユキちゃんは「昔、桜の花びらで首飾りを作ろうとした」ことがあるという。だが、綺麗な花の首飾りは一晩で汚いけしすみのようになって消えてしまった。男はなにか消えないものをと思い、ピンクパールの首飾りを贈る。ありがとう、とユキちゃんは言うが、それが彼女を見た最後だった。「(世の中に)たえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」(在原業平)という一首も引かれており、全篇に桜が醸し出す心のざわめきが刻印されている。

第20回島清恋愛文学賞受賞、第150回直木三十五賞候補
■『あとかた』(新潮社 2013年6月)
「ほむら」「てがた」「ゆびわ」「やけど」「うろこ」「ねいろ」の6編からなる連作短編集。うまく生きることのできない者たちの心に残る傷跡。「ねいろ」のフィドル(ヴァイオリンの民族楽器名)奏者、千影さんを見つめる水草君が言う。「この世は不安定で、何もかもが簡単に壊れてしまう。変わらないものなんかないし、何か遺せたとしても一瞬で消えてしまうかもしれない。それでも誰かを好きになって生きていくのはすごいことなんだって、おれは思うよ」。ストレートだけど、作者の思いと重なり合うメッセージか。

■『眠りの庭』(角川書店 2013年11月)
 「アカイツタ」「イヌガン」の二つからなるミステリータッチの愛の物語。美術準備室で見つけた、暗い目でこちらを見つめる少女の絵に魅せられていく臨時教員の萩原、3年暮らしている年上の女性が時折見せる怪しい行動を確かめようとする耀――美しくも謎深い運命の女性に、男たちは捕らわれていく。ヒロインの名はそれぞれ「小波(さなみ)」と「澪」という水に関わる名前となっている。「イヌガン」で謎は解けるが、本当のことはわからない。

■『明日町こんぺいとう商店街』(ポプラ文庫 2013年12月)=共著
 人気作家が紡ぐほっこりおいしい物語。スカイツリーを見上げる下町のかたすみに、ひっそりと息づく商店街、さあ、今日も店が開きます…というわけ。千早茜作は「チンドン屋」。「今宵をもって金毘羅屋清治郎、チンドン屋を辞めさせていただきます」。でも、春ちゃんが…。江戸言葉で語る人情の一幕。ほかに中島 京子、吉川トリコ、松村栄子、彩瀬まる、大山淳子、大島真寿美。7人の作家のアンソロジー。

第20回第151回直木三十五賞候補。第1回新井賞受賞
■『男ともだち』(文藝春秋 2014年5月)
 第36回吉川英治文学新人賞候補。主人公は京都で暮らす29歳のイラストレーター神名葵。大学を卒業してさまざまなアルバイトをして自由業のような暮らしをしている。ようやく自分の本が出せるようになり、恋人の彰人と同棲しているが、堅気の勤めをする料理人でもある彼は食事の支度をしてくれるほかはゲームを一人でしたりして干渉はなし。神名葵にはお互いに不倫関係の愛人がいる。学生時代から一緒に暮らす「兄弟」のような仲良しのハセオもいるが、性的関係はない。そんな葵をめぐる男たちと「男ともだち」との切ない物語。
(再読)本作を最初に読んだのは千早さんが直木賞候補になったときなので、もう9年前になる。あらためて読んでみると、ずいぶん勢いで書いていると読める部分がある。頭の良い作家なので、伏線など見事に回収していくのだが、本作ではなんとなく愚図愚図な感じがある。全てさらけ出して一回リセットみたいな。駆け出しのイラストレーターの「神名(かんな)葵」が主人公。まじめな料理人・彰人と同棲しているが、妻子持ちの勤務医・真司と愛人同然の関係にある。静と動。対照的なふたりとは別に、学生時代からの腐れ縁で「愛人でも恋人でもない」男ともだちのハセオ(長谷雄)がいる。学生時代からの女友達の人妻・美穂、宝塚の男役のようなバーのママ・露月などが話し相手相談相手として登場する。一緒に寝てもセックスもしない男ともだちがいるかどうか不明だが、本作のテーマは明快だ。不器用に自分探しを続けている女性がその答えを見つけるある種の巡礼の旅なのだ。登場人物はだらしなかったり、傷を負っていたりするが、つまりは彼女の影であり鏡たちである。そして、「ワイルドカード」が身近にあったことを知る。主人公は千早振る「神の名」を持つ「葵」。ワイルドカードは「長谷寺の男」である。『源氏物語』を連想しがちなネーミングで、「玉鬘」の巻にならえば、九州から流浪してきた玉鬘は霊験あらたかな長谷寺を詣で、自分を探していた光源氏との出会いが叶うのだ。神名とハセオの関係は人知を超えたものだ。面白い作品である。

■『きみのために棘を生やすの』(河出書房新社 2014年6月)=共著
 窪美澄、彩瀬まる、花房観音、宮木あや子、千早茜の女流5人による女性のための書き下ろし官能短編集。千早茜「夏のうらはら」は夢かなわず狭い故郷に戻り人妻との浮気を繰り返している恭一が主人公。今の相手の明菜と車で一緒のときに、訳ありげにとぼとぼ歩いている絹子の姿を見かける。彼女とは学生時代に忘れられない思い出があった。大嫌いと言われつづけてきたが。

■『西洋菓子店プティ・フール』(文藝春秋 2016年2月、文庫2019年2月)
 昭和の香りのする東京下町の商店街にある西洋菓子店「プティ・フール(小さな窯)」を舞台に、頑固な「じいちゃん」の下で修業中のパティシエールの亜樹を中心に、婚約者の弁護士・祐介、彼女を慕う後輩職人・澄孝とその恋人のネイリスト・美波、夫に不審を抱いている主婦の美佐江―などのほろ苦い恋と甘いスイーツの味が錯綜する。「菓子の魅力ってのは背徳的だからな」「女を昂奮させない菓子は菓子じゃねえ」。魅惑的なスイーツが行間に溢れ出す快感作。

■『夜に啼く鳥は』(KADOKAWA 2016年8月)
 不老不死と、人間と超人にまたがる化け物(ヌエ)のようになってしまった一族をめぐる物語。「蟲宿し」となる「シラ」の誕生の民話から始まり、その能力を受けつぐ「御先(みさき)」を中心とした者-付き人の雅親、両性具有の四(よん)―たちの葛藤する現代奇譚が描かれる。一族に与えられた超能力は人間の傷を癒やす一方で、反作用のように一族に多くのハンディを与えていた。同じような息苦しさを感じている少女たち(鈴子、なつめ)に寄り添うことで少しずつ何かが変わっていく。

■『人形たちの白昼夢』(PHP研究所 2017年9月、集英社文庫 2020年6月)
 12編の掌編からなる人形を絡ませた幻想物語。フラグメントの寄せ集めのような世界であるが、本好きの少年と少女のファンタジーへの憧れが繰り返され、ミヒャエル・エンデ体験のようなもの(「モンデンキント」)が基調を流れている。作者の原風景がこぼれ落ちているようにも見える。幾度か変奏される殺戮用の自動機械人形(オート・ドール)と片眼鏡(モノクル)の時計職人、そして人形たちの手に舞う青いリボンの奇妙な絶望的世界(「リューズ」)は戦禍の続く現代のようでもある。

■『クローゼット』(新潮社 2018年2月、同文庫 2020年12月)
 18世紀くらいから現代までの洋服1万点以上をコレクションし、研究・展示する一方、傷んでしまった洋服たちを元の姿に戻す活動をしている服飾美術館が舞台。幼い頃から友情を育んでいる学芸員の青柳晶と補修士の白峰纏子(まきこ)、自らのジェンダーに息苦しさを感じている下赤塚芳(かおる)という青年が中心人物。芳は衣装に込められた身体性との歴史的関係を知る中で、辛い事件で機縁のあった纏子とともに心の傷が癒やされていく。

■『正しい女たち』(文藝春秋 2018年6月、 文庫kinndle版 2021年5月)
 「温室の友情」「海辺の先生」「偽物のセックス」「幸福な離婚」「桃のプライド」「描かれた若さ」の6篇からなる連作短編集。中学校の時から友情を温めてきた遼子、環、麻美、恵奈の女子4人組。濃密な友情で「わたしたちはなんでも話した。それぞれの彼氏のセックスの癖からペニスの形状まで知っていた」という<共>心身感覚の温室から離れていくに従い、それぞれの人生も友情も変わっていく。その絆をあえて形容すれば「正しさ=普通であること」への意志というべきか。不倫に走る友を救うべく密告をしたり、彼女らの鏡のように浮気をする夫に対して「正しいセックス(婚姻外セックスの禁止と婚姻内結婚の完全なる自由)」を主張する女が登場したり、普通から抜け出ていた才能(タレント性)の持ち主がヒエラルキーの世界に戸惑い、普通の世界の団塊としての暴力性に気づかされたりする。正しく生きることは大切だが、幸せになるとは限らない。
 女子4人組のメーンストーリーのスピンオフが「海辺の先生」。スナックの娘とひょんなことから彼女の先生となってしまった会社員との成長物語。スナックの母娘の圧倒的な正義パワーに対し、弾みで善人になってしまった「先生」はすこぶる純情である。少女の出発のお祝いに先生はブルーの万年筆をプレゼントする。その瞬間、お互いの手が触れるのだが、それだけ。万年筆は使われないまま、少女の机のひきだしの奥に仕舞われている。読者の私は「先生」になり「万年筆」になって物語を追体験しながら、男はつらいよ、とトラさんのように夕暮れの道をとぼとぼ歩いてみるのである。

■『犬も食わない』(新潮社 2018年10月、同文庫 2023年1月)=共著
 尾崎世界観との共著。ひょんなことから釣り合わないふたりが同棲してしまい、次々と繰り返される対立や喧嘩、それぞれの本音が機関銃のように飛び出す真剣勝負の恋愛小説。千早茜さんが派遣秘書の二条福という女性の目線を、尾崎世界観さんが桜沢大輔という廃棄物処理会社に勤める男性の目線を、交互に描き出していく。ふたりの喧嘩はまさしく「犬も食わない」レベルのものであるが、男と女の恋愛の本質を突いていて、唸らされる。

■『わるい食べもの』(ホーム社 2018年12月)
 千早茜さんの小説の特徴はおそろしく食べものや料理の描写が詳しいことだ。恋愛小説もセックスシーン以上に食のうんちくに多くが割かれる。その発想の秘密を語るのが本書と言えるかもしれない。グルメ通や美食家は尽きないが、千早さんはまず食べることが好きなのだ。「自分で選択して口に運んでいる」食べ方が好きなのだ。お仕着せではない、「自由の味」を求めて、食べまくる。幼少体験からアフリカでの異食との遭遇、偏食的な映画批評などなど、病理学者を父に持つ理系感覚の遺伝子が疾走する。北海道の味として、花咲蟹と室蘭のカレーラーメンも登場する。

■『神様の暇つぶし』(文藝春秋 2019年7月)
 突然、父が亡くなり、ひとりぼっちになってしまった20歳の柏木藤子の前に、父親と親しかった年上の男が飛びこんでくる。彼の名は廣瀬全。有名な写真家であったが、家を顧みない問題児としても知られていた。その2人がひと夏、かけがえのない一瞬を支える「神様」を見つけ合い、関係を深めていく。それが恋であったかどうかわからないが、いのちを燃え尽くした全さんは写真集を残していた。物語はインドカレー店から始まるのだが、食べて、飲んで、吐いて、―――食べるシーンが厚い。

第6回渡辺淳一文学賞受賞
■『透明な夜の香り』(集英社 2020年4月)
 天才調香師の小川朔の古い洋館へ、元書店員だった若宮一香が家事よろず承りのアルバイトで訪れる。朔は色で構成された世界を香りで感じられる不思議な才能を持っていた。一風変わった顧客と朔の姿を見て、一香の先入観は解かれていく。朔の能力は彼の苦しみと表裏のもので、兄を失った傷を持っていた一香と重なるものがあった。作中、一香がラベンダーの香りで、小さな頃に富良野に行ったことを思い出し、朔から「香りは、永遠に記憶される」と告げられる印象的場面がある。

第12回山田風太郎賞候補、第1回ほんタメ文学賞・あかりん部門大賞受賞
■『ひきなみ』(KADOKAWA 2021年6月)
瀬戸内海の小さな島で出会った桑田(松戸)葉と桐生真以。ともに、複雑な家庭の事情があって、島の子どもたちから孤立していた。信頼しあって行動をともにしていたふたりだったが、あるとき、真以は島に身を潜めていた脱獄犯と、消えてしまう。それから、月日がたち、葉は東京で会社勤めをしているが上司のハラスメントに苦しんでいる。そんな時、ある陶芸工房のサイトで真以の消息を知る。裏切られた思いを抱きながら、葉は元脱獄犯の男、真以に会って真相を知ろうとする。

第168回直木三十五賞受賞
■『しろがねの葉』(新潮社 2022年9月)
 著者初の長編時代小説。関ヶ原の合戦のあった戦国末期から江戸時代の石見銀山が舞台。「夜目が利く童」だった少女ウメは一家離散の果て、天才山師と言われた喜兵衛に拾われて育つ。間歩(坑道)の闇の中でも素早く動けるウメは喜兵衛から鉱脈の知識を教えられる。銀堀(鉱員)の男たちの中で才能を発揮するが、女性の体になってからは差別や性暴力に苦しむ。それでも、ウメは信頼する男たちに愛され、過酷な労働に命を縮めていく男たちを愛し、子を産み、暗闇の向こうに光を求めるように生ききる。
 石見銀山は北海道と縁遠いような印象があるが、北海道を代表する女性作家のひとり、原田康子の名作『海霧』にはやはり石見銀山が登場する。『海霧』は釧路の名家だった原田康子(物語の中では「平出家」となっている)のルーツをたどる女性三代の物語であるが、平出家を支える男たちがやってくるのが石見銀山のある五十猛(島根県大田市五十猛)に育った神部修二郎、啓三郎兄弟である。彼らはそこの大浦の入り江から北へ向かった。近くの温泉津は北前船の寄港地で、その船は北海道の岩内へとたどり着く。原田康子は『海霧』執筆に際して、実際に石見銀山の町を訪れて取材している(作品中巻「北へ」の章に詳しい)。

■『赤い月の香り』(集英社 2023年4月)
 第168回直木賞を『しろがねの葉』で受賞した千早茜さんの受賞後第1作が本書となる。2021年10月から22年5月まで「小説すばる」連載作を加筆・補正した。やはり同誌に連載されていて第6回渡辺淳一文学賞を受賞した『透明な夜の香り』(集英社、2020年4月)の続編に当たる。
 登場人物の骨格は同じで、世界にただひとつの秘密の香りをつくり出し、その香りから依頼者が忘れていた記憶を蘇らせる天才調香師の小川朔(おがわ・さく)を主人公に、相棒の探偵、新城(しんじょう)、庭師の源(げん)さんがさまざまな業を抱えた人間たちに「気づき」を与えていく。前作のヒロインともいうべき若宮一香(わかみや・いちか)や血が好きなワイルド女子の仁奈(にな)さんの現在も語られる。もしかして、天才調香師物語はシリーズ化されるのだろうか。
 さて、本作のメーンゲストは「赤い月」の夢魔に追われている朝倉満(あさくら・みつる)である。なじめないままカフェレストランで働いているところに小川朔と新城のコンビが現れ、自分のところで働くよう誘う。渡された名刺には「la senteur secrète」とあった。そんなふうに小川朔の庭園のある調香工房で働くようになった朝倉は、風変わりな香りの依頼人たち-歌姫リリー、「小学校の教室の香りをつくって欲しい」という営業マンの持田青年、「嗅覚を取り戻す香りをつくって欲しい」という橘夫人、朝倉が盗み出した香りの虜になった歯科衛生士の茉莉花(まりか)など-の心の秘密を小川朔によって知らされていく。だが、本作の一番の心の闇の持ち主は朝倉であり、彼を常に追い込む母親との暮らしと事件の真相を薄皮を剥がすかのように、明かしてみせる。そして、小川朔がなぜ、見も知らぬはずの朝倉に声をかけ、仕事に誘ったのか、新城との関係を含め、その驚愕の真実も告げられる……。
 「香りは脳の海馬に直接届いて。永遠に記憶される/けれど、その永遠には誰も気がつかない。そのひきだしとなる香りに再び出会うまでは」(『透明な夜の香り』)という小川朔の信念。そのための天才的な洞察と調香術は本作でも縦横に発揮される。一方で母親との哀しい体験やギフト(天賦の才能)を持つものの孤独が基調低音となって物語の背景で鳴り続けている。

§4 千早茜さんの作品を解くキーワード

   

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