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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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追悼雑記requiem

畏友・S・T君のこと

  ラディカリスト・S・T君を追悼する

 古くからの友人であるS・T君が二〇〇〇年三月九日に亡くなった。享年48歳。法名、釋敏生。死因は伝え聞くところに寄ると、脳溢血だったという。短いながら感性の赴くままに駆け抜けた波乱の人生であったと思う。冥福を祈る。

 Sとは、白老小学校、中学校、そして苫小牧東高校と一緒に通った。大学こそ僕は北海道に残ったが、杉林は東京に出て、DB大学で社会福祉を専攻した。もっとも、学んだというよりも僕らが通ったころの大学とは、社会変革を夢見た70年代初頭の激動の渦中にあった。元来、活動的であった杉林は、一時期ではあるが、そうした運動に積極的に身を置いたのであった。
 彼のアパートは東京・北区志茂にあった。そこには高校時代からの友人であるA君やE君ら数人が常時、起居をともにし、自由に語り行動しあい、さながら梁山泊の様相を呈していた。
 僕は七一年ころから幾たびか上京しては、志茂グループの一員となった。七二年ころだったと思う。当時、朝霞基地の自衛隊の九州・沖縄への進駐の動きがあり、Sはそれに反対する運動を組織していた。彼らのグループは朝霞反軍・派兵阻止行動隊Fを名乗り、埼玉大学や赤羽駅から志木・蕨方面に連日情宣活動を繰り広げた。ガリ版を切り、ビラを刷り、それを駅頭で配る日々が続いた。赤いヘルメットとビラを手に、対立していたであろうセクトや公安警察の目を警戒しつつ駅頭で通勤客を相手に動き回ったころを今でも懐かしく思い出す。実際のところ、そうした運動が果たしてそれ以降の自衛隊の増強の動きに対してどれだけの歯止めとなったか、定かではないが、何かをしなければという熱い思いだけは人一倍だったろうと思う。
 僕はまた札幌で友人たちと、「革自」という文学・哲学同人誌を出していたが、SはDB大文学哲学研究会の名前で幾度か論文を寄せてくれた。高橋和己をなぞったような学生運動で倒れた若者について論じた「墓碑の怨念」というような文章もあった。さらには今はアラブの地にある足立正生を意識したような映画論もあったろうか。
 朝霞基地周辺でのビラ配りが終わると、山手線から中央線に乗り継ぎ、同級生が勤めていた高円寺の店に直行して酒を飲んだこともあった。一方、志茂のアパートでは毎日のようにビールや日本酒を並べ、湯豆腐を肴によく宴を繰り広げ語り合った。さらに下駄を鳴らして三百bほど離れた銭湯まででかけるのも楽しみであった。青春だったろう。
 Sは本人の語るところによれば、十八歳で共産党員であったという。何事も大仰に語りたがる彼のことだから、本当か嘘かわかならない。僕はこの閉鎖的なスターリニスト党に一度もシンパシーを覚えたことがないので、どういう経緯でSがその党に関わったのか知らない。あえて言えば後進地域では、「日共=民青」ですら、社会変革の前衛に思えたということかもしれない。いずれにしても、かの党をクビになったか離脱したSは大学に入ってから、吉本隆明の影響を受け赤ヘルメットを被ることになった。
 だが、生来の無頼派であるから、どんなゆるやかなセクトも彼を満たすものではなく、結局は自由に活動していた。新左翼運動が退潮する中で、彼は地元に戻る。しばらく苫小牧の商工組織に勤めたはずである。ある時仕事場を訪ねると、「今は民商と底辺でぶつかっているよ」と笑っていた。だが、その勤めも長く続かず、その後はさまざまな仕事を転々とした。宗教にもはまった。「幸福の科学」を教えてくれたのもSであった。大川隆法の大ホラ話を本当に信じていたか疑わしいが、その宣伝に最後まで力を入れていた。そのほか、自民党やら自由党などの末端活動をしていたこともあった。先年の統一地方選挙では白老町議会議員に立候補した。だが、少数激戦の中で厚い地縁血縁の壁に阻まれ、夢を果たすことはならなかった。
 その失望・落胆・経済的負担がいかほどのものであったか。あとのことはよく知らない。最近はあまり外にもでず、暗い部屋でたばこをふかしていた、と知人は語ってくれた。彼の孤独がどんなに深くても、僕は手を差し延べてやれなかった。
 誰よりも感性が鋭く、しかも頭脳明晰だったSも、人格において優れていたとは言い難い。彼の言葉や態度はしばしば人を傷つけ、争いを起こした。誤解されもした。結婚生活にも恵まれなかった。不思議なことに僕は、あまり争ったことがない。本当のことを言えば、僕に対しても多くの不満があったのだろうが、それ以上に僕もまたわがままだったのかもしれない。
 共産党から始まり新左翼、自民党やウルトラ保守派などの思想や党派をわたり歩いたSの本心がいったいどこにあったか知らない。セクトとは無縁の僕のような人間と異なり、彼なりのオルガナイザーとして戦略家としての計算によって、右であれ左であれ、それらのセクトを自己実現のために利用しようとしていたのかもしれない。
 だが、僕はいつか赤いヘルメットを手に、「この赤い色にはプロレタリアートの真っ赤な血が流れているんだぜ」と笑って話してくれた素直さが痛烈な印象で残っている。そして、志茂のアパート裏を流れる荒川をただ黙ってみていた夢のような日々を思い出す。
 その人生はあまりに短く波乱に満ちていた。だが、僕らとて、この先どれほど生きられるものか。ビートルズではないが「LIFE is very Short」なのだ。僕は唯物論者なので、来世など全く信じないが、きっとSのような魂はあの世でも騒乱罪を引き起こしているだろう。感性が先鋭化した時代の申し子の死に、僕は一つの時代の終わりを改めて感じている。

 若き日の同志・S・Tよ、楽しかった日々をありがとう。
 さらばだ。
2000年3月11日
今はなき朝霞反軍・派兵阻止行動隊Fに捧ぐ

追悼雑記 2

死者と生者~桐山襲・干刈あがた・中上健次
 一九九二年は七〇年代以降の後退戦を、表現の分野でよく戦い抜いていた「団塊―全共闘」世代の最良の部分が静かに退場を始めた年として感慨深いものがあった。もちろん、どの年にも思い出せば残念な死というものがないではなかった。しかし私の意識の中で多くの影響を受けた人たちの冥界への旅立ちはやはり際だっている。
 桐山襲。享年四十二歳。天皇制問題を正面から扱った小説「パルチザン伝説」の衝撃は今でも少しも薄れていない。「兄さんたちが腐敗せる前衛党との訣別と新たなる前衛党の創出ということを自らの出生地とし常に共産主義の世界的正統ということを意識していたのに対して、あの風の日々の首都において、ざらざらとしたバリケードの手ざわりのなかで夏の夜明けを迎えた僕たちは、《党》を媒介としない直接的なかくめいに身をまかせていた」と書く、桐山の感性は紛れもなく六〇年安保世代から遠く歩みだした全共闘世代のものであった。その後も彼は「スターバト・マーテル」「風のクロニクル」などの優れた作品を書き続けた。悪性リンパ腫に病んだ桐山が九〇年代の世界史的転換の中でどのような表現を見せてくれるか、僕は大きな関心を持っていた。それだけに我がことのように無念でならない。
 干刈あがた。享年四十九歳。「ウホッホ探検隊」や「黄色い髪」など話題作を書き続けた。この人もやはり癌であった。僕は彼女の「黄色い髪」を通じてロックの教祖・尾崎豊さんの「卒業」という歌(詩)を知った。「行儀よくまじめなんて 出来やしなかった/夜の校舎 窓ガラス壊してまわった/逆らい続け あがき続けた・・ひとつだけ 解っていたこと/この支配からの卒業」。その尾崎豊もまたねまだ明けぬ時代の闇の中をさまよい二十六歳の若さで急死した。親子のような二人の死は解体する戦後家庭を映しているような気がしてならない。
 そして中上健次。享年四十六歳。腎臓癌という。戦後世代のトップランナーとして中上はよく疾走した。「十九歳の地図」「岬」「枯木灘」。かれの小説、彼の発言、彼の行動。良くも悪くも刺激的だった。もちろん、駄目なところも多かった。だけどあのエネルギーは凄いと思った。吉本隆明の文庫版「共同幻想論」のユニーク解説者としても中上は記憶されるべきだろう。 
年の終わりに村上春樹が久しぶりに小説を書いた。彼は生きている。僕にはほとんど感慨もない。そのように九二年は暮れた。  

遅い後悔記 星丈雄さんのこと

 人の死は突然にやってくるように見える。しかし、大抵の場合、その人は少しずつ病んでいく身体に気づき、たとえば、もう一度会っておきたい人や疎遠になっている人になんらかのサインを送っているものだ。しかし、不幸なことに、肝心の人には、そのサインが届かない。届いているはずなのに、そのサインがわからないままに過ぎてしまう。「大切なことは目に見えない」とは「星の王子様」のサン・テグジュベリの名言だが、僕らはすべてが終わったとき、大切なことを見落としていたのに気づき、言葉を失ってしまうのである。
 年の暮れになると、不意の客のように黒い縁どりのある葉書が届く。九一年十二月に訪れたいくつかの訃報の一つに僕はすくなからぬ感慨を抱かざるを得なかった。差出人は室蘭に住む星泰子さん。面識はない。しかし、文面には「夫 丈雄 十月三十日 永眠」とあった。
 僕は「星さんが死んじゃったよ」と、僕よりも古くからの星さんの知人であった女房に叫び、女房は案の定、絶句してしまったのであった。「そういえば星さんから、札幌に来ていますので、たまに会いませんか、って誘われていたのに」と、気を取り直して話したとき、僕は自分が大切なことを見落としていた人間であることに気づいたのだった。そう、後悔はいつも遅れてやってくる。
 星丈雄さん。享年五十四歳。室蘭に昭和五十年代に勤務した人なら「月刊ポケットむろらん」というタウン誌があったことを覚えていると思う。その発行人が星さんだった。どのような経歴の持ち主かは詳かにしない。しかし、明らかに一つの情熱を持って、本当にポケットに入ってしまうような雑誌を出し続けていた。そこには室蘭を代表する文化人や若い芸術家が原稿を寄せていた。
 創刊当時の室蘭は高度成長により、人口も増勢期にあった。しかし、まもなく「鉄冷え」といわれた造船・鉄鋼不況に入り、結果的には「ポケットむろらん」もそれに歩調を合わせるようにパワーを失っていった。
 雑誌をやめた後も星さんは「袖珍書林」などを拠点に優れた出版活動を続けていた。代表作は図書館員で夭逝した星さんの親友・前田享之さんの「チケウの海の親子星」。失敗作は有土健介「悲歌と断章」(私家本)。私が独身最後のわがままで作ってもらった詩集である。

清水博子さん さよならも言えなくて
 旭川出身の作家、清水博子さんが十月に死去された。謹んでご冥福をお祈りするとともに、さらなる活躍が期待されていただけに、その死が惜しまれてならない。
 清水さんは一九六六年生まれ。旭川東高校卒業後、早稲田大学で文学を学んだ。九四年、「本の写生」で第十八回すばる文学賞最終候補になり、九七年『街の座標』で第二十一回すばる文学賞を受賞した。二十九歳であった。二〇〇一年に『処方箋』が第百二十五回芥川賞候補となった。同作は第二十三回野間文芸新人賞を受賞した。さらに〇六年、『vanity』が第134回芥川賞候補となっている。
 「処方箋」が芥川賞候補となった第百二十五回には北大卒の佐川光晴さんが「ジャムの空壜」で、室蘭・登別育ちの長嶋有さんが「サイドカーに犬」で、それぞれ候補になっている。佐川さんは桜木紫乃や馳星周らと同い年で六五年生まれ、長嶋さんは円城塔と同じ七二年生まれで、6六八年生まれの清水さんを含め、力量ある北海道ゆかりの同年代作家たちが中央の文芸誌に相次ぎ登場した時期でもあった。
 清水さんは不確かな社会や自らの内面との格闘をつづる、いわゆる純文学作品を書き続けた。初期の「街の座標」「処方箋」とも難解さとともに存在の危うさを感じさせる不思議な世界観の表出作であった。エンターテインメント性を加えた『vanity』でも世の中との異和は変わっていない。
 都会の孤独を描いた清水さんだが、故郷・旭川を舞台にした作品に「亜寒帯」「ぐずべり」がある。揺れ動く少女たちの内面を批評的に描き出しており、もちろん一筋縄ではいかないが、北国の風土感が色濃い。物語では地元出身の藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」を母はくちずさみ、寒暖差六十度の盆地の学校で少女は「石炭庫は教室より天井が高く、電信柱ほどの高さまで石炭の築山がきずかれ」ているのに苦闘している姿が懐かしい。
 清水さんは時折、里帰りしては飲食店などに立ち寄っては楽しげにお酒を飲んでいたと聞く。しかし、体調は必ずしも万全ではなく加えて東京では文学をめぐる雑事も多く、やむなく旅をしては気を紛らしてもいた。
 「小説を書くのに定年はない。おばあさんになっても書こうと思えばかけますよね」とあるインタビューで語っている。「読書家というほど量を読んでるわけじゃない」と言いながらも、本が大好きだった。次のステップを多くの人が期待して待っていた中での突然の訃報に驚きを禁じ得ない。平易に流れる私たちの足元を揺るがす作品を書き続けてもらいたかったと、悔やまれる。享年四十五。(2013年10月)

約束と信義―直木賞作家 北原亞以子さんを悼む
 北原亞以子さんが二〇一三年三月十二日午前四時五十二分、東京都内の病院で心筋梗塞のため亡くなった。七十五歳だった。謹んでご冥福をお祈りする。
 新聞の訃報によると、「 東京・新橋の家具職人の家に生まれる。高校卒業後、写真スタジオ勤務などを経てコピーライターに。一九六九年、子どもの視点で教育熱心な母親を風刺した小説『ママは知らなかったのよ』で第一回新潮新人賞を受けた。その後、隣近所の付き合いが濃厚だった幼時の記憶を生かし、時代小説へ活動の場を移して市井の人々の喜怒哀楽を情感豊かに描いた 」(Doshin-Web)という。北原さんは北海道新聞夕刊に二〇〇五年三月から六年二月まで、幕末の医師父子を主人公にした小説「情歌」を連載しているが、その前段であったいくつかのことを懐かしく思い出した。
 北原さんと初めてお会いしたのは、二〇〇〇年十二月十五日の午後であった。新聞小説の配信をしている私の勤め先を訪ねてこられて、早い話が「連載のお話はどうなっていますか」とお尋ねされたのである。私たちはその話があるのをまったく知らされておらず、「ひえーっ」と心の中で叫び、しかし、その非礼を詫びたのである。そのとき、北原さんと親しかった私の先輩記者が付き添ってこられていたのでもめ事にはならず、「しっかりしてね」と励まされて済んだのであった。
 調べてみると、いつものことであるが、本当に新聞小説は作家次第というところがある。延々と長く続く人もいれば、すぐ終わる人もいる。あるいは連載開始直前になっても、まだほかの仕事が長引いていて、何も準備をしていない人などがいっぱいである。そんなスケジュール崩れのなかで、紙面に穴を開けるわけにはいかないので、誰かに書いてもらわなきゃという緊急事態になり、それぞれがいろいろなコネで作家に接触したことがあった。北原さんもその一人で、いい線までいったようだ。ところが、別のやりくりがうまくいったのか、窮地を切り抜けたところで、北原さんの話は宙に浮いてしまったのだ。
 私はその混乱の後に新聞連載の担当者になったのだが、何も引き継がれていなかった。その一件を契機に新聞各社に連絡し、北原さんをきちんとラインアップしなおした。その後、二〇〇一年六月の山本周五郎賞のパーティーの日に、北原さんにあらためて正式に連載小説執筆をお願いした。ところが、北原さんも売れっ子で当時は別の新聞に連載をしており、さらにその後二年間は雑誌連載が入っている、「書くなら二〇〇四年ころがいい」と話された。つまり、三年後ならOKという返事であった。私はその時期には担当をはずれており、きちんと引き継がなければ、再び混乱すると、しっかり文書をつくることを心がけたように思う。
 何を書くか打診したところ、「うな丼を考案した異色の人物物語を書きたい」と当初は話されていたが、次には「長崎の通詞ものを書くことにした」と話されていた。しばらくはファクスで情報を届けた。しかし、結局、新聞連載開始はお会いしてから四年後の二〇〇五年からで、内容はシーボルト絡みの医師ものとなった。小説はまことに生き物である。当然ながら、私はもう東京から離れた場所にいた。いずれにしろ、北原さんと会い、私の上司(五木寛之さんと同郷)の理解があったからこそ、北原さんの新聞小説は実現したと思っている。
 お会いしたころ、北原さんは六十三歳くらいで、ほぼ今の私と同じ年ごろだったことになる。私から見れば、ずいぶん華奢で、小柄の人であった。それでいてエネルギッシュ、作家の中には浮世離れした人もいるものだが、その意味ではずいぶん大人のように思えた。作家仲間との東北旅行や趣味の工芸など、いろいろな話をされていた。
 引っ越しをするうちに最近は年賀状も欠礼していた。だが、私には約束の大切さ、信義の重さということを今も思い出させてくれる作家である。どうぞ安らかにお休みください。  (2013年3月)


元旭川市長、五十嵐広三さん逝く
 元旭川市長で衆議院議員―村山富市内閣の官房長官を務めた五十嵐広三さんが2013年5月7日、入院先の札幌市内の病院で急性呼吸不全のため亡くなった。87歳だった。
 元秘書の方から「五十嵐先生は札幌で入院中ですが、あまり具合は良くなくって」という話を少し前に聞いていたので、やっぱりそうだったか、と思う反面、あらためて戦後民主主義の大きな担い手が亡くなったことを感じた。
 五十嵐さんが旭川で多くの足跡を残したことは知られている。旭川商業出身で、実業の世界に入りながら芸術家としても活動、時代の流れによって社会党に入り、37歳で旭川市長に当選する。市長時代の業績は旭山動物園の開園、駅前の師団通りといわれた商店街を歩行者天国の「平和通買物公園」にしたこと、さらに旭川医大の誘致などが挙げられる。忘れていけないのは、ゆかりの彫刻家・中原悌二郎を記念して全国的な美術賞を生んだことである。
 北海道知事選に2度敗れた後は、衆議院議員となり、政界再編の中で、細川護煕内閣の建設相、村山富市内閣の官房長官となり、頂点を極めた。その間に、阪神大震災、オウム真理教事件などがあり、一国民の目から言えば、よくやった部分と物足りないと思うところはあった。
 個人的に、五十嵐さんに会ったのは、私が編集・執筆した「馬場昭追悼集 三・六街大舟あり」の取材の時である。経営している札幌の会社を訪ねた。今から4年ほど前のことである。三・六街で居酒屋「大舟」を営んでいた馬場昭さんは、ほんとうに名物店主であったが、五十嵐さんが官房長官時代、首相官邸に毛ガニ料理を差し入れしたのは有名な話である。五十嵐さんと馬場さんは政治家−支持者を超えて、友人の関係であったから、追悼集の序文をお願いしたのである。もちろんすぐに快諾いただき、まもなく玉稿が送られてきた。
 思い出話の最後はこう結ばれている。
「馬場君は私より一まわりも若いのだから先に逝かれたのが口惜しい。いくら本郷新さんがデザインの立派な墓を造ってあったと言っても早すぎる。あの世でも木内綾さんや三浦綾子さんに叱られているだろう。/もっとも、松井恒幸君はようやく来てくれたかと早速二人で焼酎を飲み交わしているに違いない」
 2008年11月3日に馬場さんは亡くなり、それから4年が過ぎ、2013年5月7日に五十嵐さんが亡くなった。この世は寂しくなるが、天界はにぎやかになるだろう。
 取材の帰り道、先輩曰く、「五十嵐さんのところには戦後の芸術運動や社会運動の資料が山ほどある。それを生かさないとならないんだが」。それはどうなっているのだろうか。五十嵐さんの業績を整理するのも後世代の務めであろう。   (2013年5月)


中村勘三郎さんとの遭遇
 闘病を続けていた歌舞伎俳優の中村勘三郎さんが二〇一二年十二月五日、急性呼吸窮迫症候群のため、惜しまれて、本当に惜しまれて、亡くなった。五十七歳。
 三代目中村歌六、六代目尾上菊五郎の二人を祖父に、父は先代の中村勘三郎、伯父に「鬼平」の二代目中村吉右衛門、従兄に萬屋錦之介など、実力派の役者がそろっている名門に生まれた。
 斬新な演出の「コクーン歌舞伎」、江戸風の芝居小屋を再現した「平成中村座」、米ニューヨークでの公演など常に新風を吹き込み続けたが、その情熱の根っこには大衆と歩んできた歌舞伎への計り知れない愛と情熱があった。
 二〇〇五年に十八代目勘三郎を襲名したが、それまで半世紀近くにわたって名乗った五代目中村勘九郎のほうが親しみ深い。
 藤山直美、柄本明とのトリオによる「浅草パラダイス」や「地獄めぐり」などの舞台では歌舞伎では収まらない異才ぶりがあふれていた。
 加えて男前なのでよくモテたのはご存じの通り。一方で、名伯楽として映画「ピンポン」でブレークする前の中村獅童を連れている姿も見かけた。
 十年前のこと。東京・歌舞伎座や新橋演舞場での公演がはねた後に流れてくる夜の銀座の路地裏にあったバー「アイリーンアドラー」。たまたま居合わせた将棋の青野照市九段と芸能論、勝負論を戦わせている姿を目撃したことがある。
 将棋とは何か、歌舞伎とは何かから始まって、段位や「名人」などのタイトルや大名跡などをめぐっての「異種格闘技戦」。
 どちらも譲らず、議論は未明まで及んで、ひとまず(たぶん)大団円。私はバーのカウンターの中で立ち飲みしながら、理論派棋士と歌舞伎俳優の熱闘舞台を最後まで堪能した。飽くことなき探求心、その真面目さが新しい試みを続けるエネルギーだと思ったことであった。合掌。   (2012年12月)

将棋を愛した作家、団鬼六さん死去
 「作家 団鬼六 (本名 黒岩幸彦)は5月6日午後2時6分 胸部食道がん 都内順天堂大学病院にて永眠致しました。(1931年9月1日生 享年79)
 ここに生前のご厚誼に深謝申し上げ謹んでご通知申し上げます。
  葬儀、告別式の日程は未定です。改めてお知らせいたします。
 ブログ ツイッターをご愛読頂き、またたくさんの応援メッセージを頂き誠にありがとうございました。            団鬼六事務所」

 団鬼六先生のオフィシャルブログに先生の訃報が掲載されている。しばらくまともに使っていなかったのだが、フォローしているtwitterに五月六日午後八時十五分のタイムスタンプで「鬼六Blog」 : かねてより病気療養中ではございましたが 団鬼六 (本名 黒岩幸彦) 本日5月6日……と配信されていた。
 将棋好きの先生との思い出はいくつもありますが、どれも楽しいことばかりでした。官能小説雑誌にサインをいただいたり、あるタイトル戦の表彰会場で「×××××持ってきたんやけど」というビックリ発言をいただいたり、作品の世界を含めて本当にスケールの違う書き手でした。こんなに突然亡くなるなんて思いませんでした。合掌。(2011年5月)

島成郎さんお別れ会
 戦後史最大の闘争・六〇年安保を領導した第一次共産主義者同盟(ブント)の輝ける書記長、島成郎(しま・しげお)さんが十月十七日に沖縄で死去した。六十九歳だった。死因は多臓器不全であるが、心筋梗塞・胃癌などを患っていた。
 十一月十一日には東京・青山葬儀所で「島成郎さんとのお別れ会」が開かれた。会場には医療関係者のほか、車椅子の吉本隆明から六〇年・七〇年ブント、鬼っ子の連合赤軍まで、かつての同士・後継者らが参列。顔ぶれの広さは島さんの「将たる器」(吉本隆明)の大きさを示す。ブント系は独自に二次会へと結集していき、同盟員でもなんでもない田舎者のラディカル小僧も後を付いていった。二十代から六十代まで現役・リタイア関係なく自由に談笑する姿は革共同や革労協にはない大衆運動党たるブントの魅力だなあと思った。
 だが、この現在に彼らは何をなせるのか? そこはすこぶる疑問だ。古典左翼の従属論に対して戦後の日本資本主義の自立を最も鋭敏に指摘したのが彼らであった。「終わりなき日常」の続く高度消費・情報化社会に対して、〈変革〉思想の核心を如何にラディカルに指し示し得るのか。それは栄光と没落を生きた者たちだけの課題ではないだろう。   (2000年11月) 

「破天荒伝」荒岱介さん死去
 インターネットを見ていたら、荒岱介さんの訃報が流れていた。
 地方紙サイトの共同通信社配信とみられる記事によると、「荒岱介氏(あら・たいすけ=戦旗・共産同元議長)3日午後8時15分、前立腺がんのためさいたま市の自宅で死去、65歳。千葉県出身。」「60年安保闘争の中核だった共産主義者同盟(ブント)から分派した戦旗・共産同のリーダーとして、成田空港の建設反対運動を展開した。」とある。
 後半部の六〇年安保からいきなり戦旗・共産同に行くのは飛躍のある書き方であろう。荒さんは確か六〇年代後半、いわゆる再建された社学同の委員長を経て、東大―安保闘争に揺れた70年初頭の共産同分裂で主流を自称した戦旗派のリーダーとなり、さらなる内部分裂で「戦旗・共産同」となり、その後はパラチェンして環境論を全面に出した市民運動を続ける一方、多くの団塊運動世代の回顧録を書いていたと思う。
 闘病中とのうわさは聞いていたが、六十歳代半ばとは、ずいぶん早い死である。このところ、既成左翼に対する独立左翼として、賛否や異論は多々あろうが、大学闘争真っ盛りだった私たちの世代には一廉の雲上人であった動労千葉の中野洋さん、安保全学連の北小路敏さん、動労―JR総連の松崎明さん、ベ平連・思想の科学のいいだももさん―など思想・社会・労働運動分野のリーダーが相次いで亡くなっており、時の流れを感じざるを得ない。
 荒さんの著作はずいぶん出ており、違和を残しつつ勉強のつもりで読んだ。衒学的というか理論癖が強く、それでいて、どこかにそれでは済まない余剰が感じられたのはアクティビティストゆえであろうか。人生長く生きてしまったので、はっきりしないが三度ほど遭遇もしている気がしている。たとえば一九九四年七月十七日の東京・お茶の水での廣松渉さん追悼の催しあたり。廣松渉さんは私たちのような田中吉六初期マルクスの疎外論感動派に対して後期マルクス物象化論であるが、超絶漢字趣味の一種のマッハ主義的傾向やその後は近代の超克(アジア)派的な言辞に傾きもしたが、なんと言っても難解ドイデを再構築した日本でも一番のマルクス主義哲学者であり、どうしたわけか晩年は荒さんグループの理論的後見人のような人だった。二〇〇〇年十一月十一日には東京・青山で精神科医の島成郎さんの葬儀、懇親会が開かれている。島さんは日本の地域医療、精神医療における献身的第一人者であったが、なによりも国論を二分した六〇年安保闘争をブント書記長として指導した傑出した日本には二度とでない戦後ナンバー1リーダーであった。当然、荒さんは来ていたはずだが、自立思想家の吉本隆明さんが車いすで移動していたことや荒さんグループの人たちと意見交換をしたことを覚えているが、記憶がないのだ。
 それでも一九九六年四月、東京・新宿での居酒屋飲み会では荒さんはやはりグループの方をたくさん連れて姿を見せていた。間近に座って話したのだが、理論家というよりは、老成した社長のような印象であった。まわりの団塊オヤジが禿げたりデブったりしている中で、未だ賞味期限が切れておらず、ずば抜けていい男だなあ、やはりリーダーは男前じゃなきゃ、などと性もないことを考えていたものだ。
 近年は後継世代との対立で、往時の勢いは失われていたとのことだが、倶に天を抱かずとばかりに激突したかつてのラディカルな論敵たちとも、時が経ちどこかでわかり合っていたようにも思えるし、著作から見れば表現者として為すべきことは為しているようにも見えた。ご冥福をお祈りしたい。              (2011年5月)

「新左翼とは何だったのか」(荒岱介著。幻冬舎新書)
 著者は「悪魔の第三次ブント」などと叫びつつ、近年はNPOとか称して環境市民運動をしている共産同戦旗派のトップだった。輝かしい新左翼党派官僚の経歴の持ち主である。
 本書は若い世代に向けて書いた新左翼入門書だ。正直、現在45歳以上の人間にはいささか冗長でかったるい内容である。通史をわかりやすく書いているつもりだろうが、何かパッションのようなものが足りない。自治会の利権構造を批評してみても、中大や明大などの自治会や大衆運動をまともにやったわけではなく、早大を離れてからは党派指導者に転身したためか、大衆運動の内部の苦闘が見えない。同じ学生運動活動家でも、その現場にこだわり続けていた島泰三「東大安田講堂1968―1969」(中公新書)や神津陽「極私的全共闘史 中大1965―68」(彩流社)に遠く及ばない。パラダイムチェンジ。軽いから姿を変えられる。当然であるが。
 もちろん「破天荒伝」などの人物ものはおもしろいので、その方面の秘話をどんどん書いてもらいたい。       (2008年1月31日)

野村義一さんの死
 アイヌ民族の権利拡充のために尽力した野村義一さんが二〇〇八年十二月二十八日午前八時三十分、肺炎のため登別の病院で死去した。
 一九一四年(大正三年)十月二十日、一男二女の長男として白老町にて出生。一九三六年白老漁業会就職。四九年―七四年、白老漁協専務理事。五五年―八三年、白老町議会議員。七六年―二〇〇二年、白老町遺族会会長。九十四歳。戒名は永幸院法徳日義居士。通夜は平成二十年十二月三十日午後六時、告別式は三十一日午前九時から白老斎場で執り行われた。
 北海道ウタリ協会理事長(一九六四―九六)。以後、顧問。アイヌ無形文化伝承保存会会長(八七―二〇〇六)。一九八四年、中曽根首相の懇談会と皇居赤坂御苑の園遊会に招待される。九二年、国連本部で先住民族代表として演説した。八三年白老町町政功労賞。九四年北海道開発功労賞。九七年勲五等双光旭日章、北海道新聞文化賞。二〇〇五年アイヌ文化賞。
 新聞などでは、アイヌ民族の代表的リーダーとして功績が紹介されているが、葬儀のしおりでは叙勲受章者と町政功労者ということが見出しになっていた。
 そうした大局的な部分とは異なる私的感想を言えば、野村義一さんは白老小学校のPTA会長として、私たちの前に現れた。それから、町の政治を主導する町議会議員、しかも、会派は覚えていないが、保守系政治家であったと思う。
 もちろん、その後の社会的活躍に異論はない。だが、労働者の子として権力批判に向けて自己形成をしていた若いころの私には国家権力と野村さんの位相がよく理解できなかった。階級闘争と民族問題はいまだに苦手である。
 野村さんの経歴(表彰)の中に、私の想像の及ばない骨太の、しかし葛藤を抱えた人生の一端を知ることができる気がする。合掌。         (2009年1月3日)


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