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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています
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シン・たかお=うどイズム β
Private House of Hokkaido Literature & Critic
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勝手にweb書評
REVIEW
勝手にweb書評8−8 68〜76
☆☆
<68>筆坂秀世「日本共産党」(新潮社)
「キワモノ」本なのですが、ずいぶん売れているそうです。セクハラ(本人によれば、まったくのフレームアップで、自分を失脚させんがためのいいがかりだったとのことです)で共産党ナンバー4の座を追われた著者の、一種のざんげ録であります。もちろん、ひかれ者の小唄(負け惜しみでする強がり)という側面もありますが、人生を賭けてきた党籍も名誉も失った人間の魂の叫びだけに、聴くべきものは少なからずあります。
筆坂氏の言いたいことは、党は民主集中制というけれど、少数特定の指導部(個人)に左右されており、自分はその人物に常に批判されて(あるいはいじめられてきて、さらに一部の女性グループのファクスによって)、ついに追い出されたということのようです。公安警察の標的にされ、緊張・対峙(たいじ)関係を維持せざるを得ない政党の奥の奥の世界ですので、筆坂さんの言うとおりなのか真相はわかりません。
一般的に言えるのは40年も50年も、特定の人物が指導部を形成する、というあり方は健康的でないな、と思うことです。会社でもどこの組織でもそうですが、終身的なトップというのは独善的なオーナーか別の支配論理(社会主義国のあり方ではスターリニズム)によるものと思えます。新左翼なんかには、いまだ教祖とされる哲学者もいるようですが、変わらなきゃなあ、と人ごとながら思います。本には党員の悪戦苦闘話なんかが紹介されており、読めば読むほど悲しくなります。付言すれば、本書で批判された党幹部側からは、筆坂さんの誤りについて反批判が行われているようです。
どこの世界にも「われは正義なり」という人や組織があり、それらが陥りやすい誤りを考えさせてくれます。もっとも、新左翼党派もそうですが、党やセクトをやめた人間は素直さを取り戻す半面、自分はもっと評価されてしかるべき人物のはずだったという恨みのようなものも色濃く残っています。筆坂さんがこの本を書くことは仕方がないけれど、なんだかそこがむなしいですね。
★★★
<69>野坂昭如「最後の林檎」(阪急コミュニケーションズ)
「火垂るの墓」の作者にして、エンターテナーの野坂昭如さん。しばらく見ないと思っていましたら、脳疾患に苦しんでいたのですね。「朝ナマ」でいいコンビだった大島渚さんも、当たってしまいましたが、無頼派勢力の晩年(末路)はいささか哀れというよりも見事な最後札の引き方のようにも思えます(皮肉ではありません)。
「最後の林檎」は2001年秋から1年間インターネット上に流された文章だそうです。「たとえば『創意工夫』というようなものについていうならば」というのがお決まりの書き出しで、そこに野坂さんの所感が加えられます。すなわち「『カミカゼ』『化学物質による無差別大量殺人』『自爆テロ』が、冠たるわがオリジナル」といった具合です。
私が一番気に入ったというか感心した一節を丸ごと示しておきます。
たとえば「戦争」というようなものについていうならば、「湾岸」の場合、米軍死者十数名。「アフガン」では、1名ないし数名。/「敵」側の兵士、民間人死者不明。あえて不明といっておこう。/アジヤ・太平洋戦争における最激戦地、硫黄島で、36日間の戦闘において、海兵隊を主力とした、攻めるアメリカの死傷者2万5851名。うち死者約7千名、これは島に埋葬された数。/日本側約2万3000名、ほとんど戦死。硫黄島までが、「戦争」だった。以後は虐殺。 2002/02/21 「戦争」
毒がある林檎です。さすが。
★★☆
<70>押井守「立喰師、かく語りき。」(徳間書店)
「うる星やつら」の押井守監督。1951年8月8日、東京・大森生まれだそうだ。そうか、ワシと同学年だったんだ。20世紀のど真ん中、隣国では朝鮮戦争の硝煙が上がっていた時代に生を受け、60年安保を小学生で眺め、70年安保を学生としてくぐり、その後の高度消費社会にはそれなりの恩恵を受けつつも、戦後世代としての貧困体験が根にあるために、新人類のようには乗り切れず、気がつくと半世紀を生きてしまった自分に驚いている。そんなウブさが1951年生まれの一つの特徴でしょうか。
もっとも、押井監督は「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」で日本アニメ界の生んだ世界的カリスマになり、「マトリックス」にも影響を与えたと言われる人物です。先年は「イノセンス」という作品を発表している。これは人間と機械とサイボーグの物語。人間はなぜ自分の似姿の人形を作るのか。哲学的な問いを続ける刑事の物語であった。その次に選ばれたのが実写パタパタ・アニメの「立喰師列伝」です。本書はその作品についてのメイキング版であり、笠井潔、鈴木敏夫氏らとの対談集でもあります。
押井監督は対談の中で、「吉本隆明全著作集・定本詩集」をかばんに入れて歩いていたと述べています。だからですか、映画の中で、吉本隆明の詩が繰り返し引用されているのは、とわかりました。私も吉本さんの詩集にはずいぶん感銘を受けましたが、そんなところでも体験の共通性を感じます。都市を野良犬が歩き、過剰な情念が人々に取りついていた時代を「総括」したかったというのが、押井監督の「列伝」だったようです。彼が覚えている言葉として示される、「東京中、見渡す限り火の海になるんだ」という破壊願望に坂口安吾ら無頼派のニヒリズムに連なるものを少し感じました。
<米原万里さんの死を悼む>
ロシア語通訳でエッセイストの米原万里さんが亡くなったという記事が5月末掲載されました。56歳だったそうです。米原さんは<日本共産党衆院議員だった父・故米原昶(いたる)氏の仕事の関係で少女時代を旧チェコスロバキアのプラハで過ごした。帰国後、東京外語大、東大大学院で学んだ後、ロシア語の通訳として国際会議や要人の同時通訳などで活躍。報道の速報に貢献したとして1992年に日本女性放送者懇談会賞を受賞した。通訳の裏話などを歯切れの良い文体でつづったエッセー「不実な美女か貞淑な醜女か」で95年読売文学賞を受賞。プラハ時代の級友の消息を追った「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」(大宅壮一ノンフィクション賞)、長編小説「オリガ・モリソヴナの反語法」(ドゥマゴ文学賞)などで広範な読者を得た。/テレビのコメンテーターとしても活躍したほか、道内各地で国際交流団体などの招きで講演を行った。ロシア語通訳協会会長、日本ペンクラブ常務理事を務めた。>と紙面にはありました。
私は旭川報道部長時代の2003年7月22日に、道新旭川政経文化懇話会(代表幹事・新蔵博雅北海道新聞旭川支社長=当時)の7月例会講師として米原さんを招き、講演していただきました。演題は「浮気のすすめ」。えっ、と思いでしょうが、なかなか思うようにはいかない外国語学習法についての語学の達人からのアドバイスでした。当日の模様を北海道新聞から転載します。「講演では、主要国首脳会議(サミット)で、他の国々は二国間で通訳されているのに対し、日本政府は、日本語を英語に訳したうえで、他国語に訳している現状を例に挙げ、『英語経由で日本を紹介し、または、世界を知ることを続けていては、本当の国際化はやってこない』と、英語に偏る日本の外国語教育のいびつさを指摘した。/外国語を学ぶ際の秘けつについても、『世界のどんな言語も、いくつかの共通の構造を持つ。英語を勉強するにしても、一辺倒ではなく、突き放し、もう一つ別の言葉を学んで構造的に見れば、楽になる』と、“浮気”の効用を強調した。」と報道されています。
米原さんの人気はものすごく当日は、政懇会員だけではなく、一般の人にも自由に参加していただきました。その様子について、私は政懇月報に次のように記しています。「7月例会は22日に、元通訳で作家・エッセイストの米原万里さんが『浮気のすすめ』と題して講演しました。米原さんは大宅壮一ノンフィクション賞受賞の『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』などユーモアあふれる著書に多数の読者を持っていることから、今回は会員以外にも開放したところ2百人近い参加者がありました。『外国語学習には英語一辺倒にならず、もう一つ別の言葉を勉強すれば楽になる』など“浮気”の大切さを訴えていました。ただ、話が大学の講義っぽくなり、トークショー的なスタイルにしたほうが米原さんの魅力をより引き出せたとも感じました」。行間から伝わってくるのは、ゴルバチョフやエリツィンについての本当はもっと面白い話を期待したのに、まじめな大学の講義になってしまったという意外感です。
実は当時、米原さんは介護に追われていたそうです。それで、家を空けるのも大変という状態で日帰りを条件に旭川まで来てくれたというわけです。私はそんなことも知らず、「★突然のファクス失礼します。私は北海道新聞の旭川支社報道部長をしております谷口といいます。今年の春まで、東京の新聞三社連合(東京新聞内)に勤務しておりましたので、文春の会でご挨拶させていただいたことがあります。★さて、今回ファクスしたのは7月中旬(14日から23日までの平日)に北海道の旭川で講演会をやっていただけないかというお願いです。北海道は梅雨がないし、熱帯夜もないので気持ちいいですよ、というのがセールスポイントというのは情けないことですが。おいしいものもいっぱいあります。」というファクスを送り、気候と食い物を餌に無理に来てもらったのでした。講演後、レストランでお茶を飲みましたが、やはり顔色もさえず、元気がありませんでした。今思えば、介護疲れと体を病変がむしばみつつあったのでしょうか。プラハで過ごした思い出を少し語った時や妹さん(作家・井上ひさし氏の奥さん)が北大で学ばれたことなどを話した時、元気がよみがえったように感じました。
ロシア流というのかもしれませんが、小話(アネクドート)が大好きで、文章の達人でした。ご冥福をお祈りします。
(今村昌平監督も亡くなりました。人間は死ぬ存在だとあらためて思いました)
★
<71>佐々木俊尚「グーグル」(文春新書)
インターネットを始めて、一番便利だなと思うのは、検索エンジンです。電子メールのほうは1日に何10本もの迷惑メール攻撃にさらされており、その掃除に腹を立てているのですが、検索エンジンは便利です。一応、ヤフーやグーやインフォシークなども使っております。でも、個人的な感想かもしれませんが、使い勝手がいいのがグーグルです。
そのグーグルのすごさの秘密に迫ったのが本書です。サブタイトルに「既存のビジネスを破壊する」とあります。各章にも「すべてを破壊していく 世界を震撼(しんかん)させた『破壊戦略』」「すべてを凌駕(りょうが)していく 小さな駐車場の『サーチエコノミー』」「すべてを再生していく 一本の針を探す『キーワード広告』」「すべてを発信していく メッキ工場が見つけた『ロングテール』」「すべてを選別していく 最大の価値基準となる『アテンション』」「すべてを支配していく ネット社会に出現した『巨大な権力』」とパンチ力満点のコピーが躍っています。
要するに、グーグルは広告のビジネスを変え、新たなマーケットをつくり、人々の情報発信をサポートし、同時にそれらを支配する権力=司祭になろうとしているということらしい。なにより驚くべきは「グーグルは1998年、ラリー・ペイジとサーゲイ・ブリンという2人の米スタンフォード大大学院生によって設立された」という一節です。つまり、8年足らずで、世界一のネット企業の一つになったということ。それが、わが新聞社を含めた既存のメディアを脅かしているのであるから、すごいことです。
まあ、インターネットがすべての情報テクノロジーじゃないけれど。などと、強がり言っても仕方ありません。電子頭脳より人間の頭脳のパワー(発想力)に感心します。
★★★☆
<72>梅田望夫「ウェブ進化論」(ちくま新書)
著者は1960年生まれ。慶応大学工学部から東大大学院に進んだ。94年からシリコンバレーに暮らす。さまざまなIT企業の起業にかかわり、「IT分野の知的リーダー」として圧倒的支持を得ているそうだ。すみません、知りませんでした。インターネットというと同じ慶応の村井純さんでしたね、有名人は。しかし、確かにウェブ関係者のバイブルにしてベストセラーと言っていいほど売れているようです。
本書はネット世界のことをリアルな書物で読むといういささかアンビバレントな性格を持っている。などと嫌みを言っても仕方がないが、なにしろやさしいようで結構難しいから、大変でした。要するに、典型的な視点提示部分を紹介します。
「インターネット」「チープ革命」「オープンソース」という「次の10年への3大潮流」が相乗効果を起こし、そのインパクトが閾値(いきち)を超えた結果、リアル世界では絶対成立しない「三大法則」とも言うべき全く新しいルールに基づき、ネット世界は発展を始めた。/その「三大法則」とは、/
第1法則:神の視点からの世界理解
第2法則:ネット上につくった人間の分身がカネを稼いでくれる新しい経済圏
第3法則:(≒無限大)×(≒ゼロ)=Something’あるいは、消えて失われていったはずの価値の集積
といった具合です。次いで、「ロングテールとWeb2・0」ということも言われています。長いしっぽは今まではスカだとして見向きもされなかったものにインターネットにより光が当たる可能性です。そして、ウェブ2.0とは「誰もが自由に、別に誰かの許可を得なくても、あるサービスの発展や、ひいてはウェブ全体の発展に参加できる構造」だそうです。つまり、双方向性メディアとしてのインターネットが現実のものとなるということですね。
さらに「ブログと総表現社会」がやってくるそうです。プロもアマも関係なく、いいものが認められていくようなのだ。大変ですね。本書で、私が気に入ったのは著者が執筆を通じて意識していたこととして「オプティミズム(楽天主義)」を挙げていることです。私も創造性のある仕事の基本には楽天主義があると感じています。私の場合は「前進的・向日的・楽天主義」というのがスローガンです。異議なし。です。
★
<73>茂木健一郎「ひらめき脳」(新潮新書)
「アハ!体験(Aha! experience)」って、知っていますか。知りませんでした。人間が絵などを見て隠されていたものが見えてくる「これだ!」という瞬間があるそうです。それが「アハ!体験」だそうです。そうした瞬間のひらめきの大切さを詳しく書いたのが本書です。茂木さんは言います。「(インター)ネットの普及によって、ひらめきの大博覧会の時代に突入したのです」。よし、わしもひらめき王になって、ぐぐっと業績をあげるのじゃ。って、上昇志向の塊になったのかよお(って、一人突っ込みです)。
いろいろ書いています。「魂が『危機』に陥る時にこそ、『創発』は起こるのです」。なるほど。「ど忘れ」は「FOK(Feeling Of Knowing)」と脳科学的には言われているそうで、「ペンローズ(という人)は、この『ど忘れ』の状態と、創造性のひらめきを要求している脳の状態が非常に似ていると言っているのです」。そうか。ど忘れも大脳活性化にはかかせないのですね。そして、創造性は「体験×意欲」だそうです。この意欲があれば岡本太郎氏の「芸術は爆発だ!」というのもわかるというもの。
まあ、最後にこうも言っています。
「世界の見方が変わってしまうようなひらめきは、脳にとって最大、最良の快楽の一つですが、そのひらめきを掴まえるためには、充分な記憶のアーカイヴ=『安全基地』が必要です。そのためにも、最初からオレは天才だ、などと思わず、まずは地道に学習することが必要です」。あっは。「無からひらめきは生まれません」か。そのうえで、「セレンディピティ」という「思わぬ幸運に偶然出会う能力」がなければならないそうです。要は「天才とは、1%のひらめきと99%の努力のたまもの」(エジソン)というのもそういうこと。なにごとも、安易な道はないようですね。とほほ。
★
<74>小川洋子「ミーナの行進」(中央公論新社)
テレビの影響は大きい。「王様のブランチ」で松田哲夫さんが「今年一番の作品」とおっしゃっていたので、ついつい買ってしまいました。オビにも「ぼくは、この作品に出会えた幸せを、いま噛みしめています」とあります。いやはや。確かに、寺田順三さんの装丁・挿絵は素晴らしくて、絵本的な楽しみもできました。でも、本当に感動しまくったかと言うと、私にはそれほどでもなかった。でも、きっと、多くの個性的な登場人物たちに感情移入できる人は多いだろうから、愛される作品であることは間違いないでしょう。
「博士の愛した数式」は、本当に心に染みました。でも、本作、朋子(主人公)とミーナ(いとこの女の子)の過ごした、なんというか芦屋のブルジョア御殿での甘美な世界は素晴らしい思い出かもしれませんが、私には「それはよかったね」というレベルで終わってしまうのは、貧乏人の私の想像力の貧困が足を引っ張ってしまうからでしょうね。カバのポチ子を飼っている家や、ホテルのシェフが料理を作りに来る家なんて、そうはありませんて。まあ、とっくり司書と朋子の恋のような読書問答がいいね、ってこともあるでしょうが、司書さんも知に走りすぎて、どうもなじめません。それから、それから水曜日の青年とミーナの淡いそれも。それはそれで、いいか。でも、ヌレッシーじゃなかったフレッシー飲み過ぎだな。糖尿病の私としては、気になりました。って言っても仕方がないが。もちろん、素直に読めば、いい作品です。私の心にすさみがあるのか、うまく読めない時もありますね。いずれ、あらためて読み直したいと思います。
★
<75>保阪正康「松本清張と昭和史」(平凡社新書)
昭和史研究の第一人者となった保阪さんによる「清張史観」の分析の書であります。保阪さんは処女作の「死なう団事件」を上梓(じょうし)した際に、「著者は、事件関係者への入念な取材と豊富な資料によってこの事件を記録しています。新進気鋭の記録者として、今後の活躍が期待できる人だ」との推薦文を清張氏に書いてもらっているということで、いわば清張の後を継いだ記録者として、恩人への返礼の書ということになろうか。
そういう意味で、本書は若干のやさしさで貫かれています。たとえば、「清張史観は、(中略)戦後占領初期の左翼史観を補完しさらに提示する傾向が強かった」と書く一方で、「私は清張史観が、既成左翼とどのような関係があったかを十分に知らないが、既成左翼もまた清張史観というものについて、どのように対応するかを十分に確認できなかった時期があるのではないかと思う」と補足するのです。だが、清張の年表を見ると明らかなように、「池田大作創価学会会長と宮本顕治共産党委員長の会談を松本宅で行う」(1974年)とあるように、十分に立場は鮮明であったと思うので。清張が「謀略」を重視したことは明らかであるが、「『日本の黒い霧』はアメリカの謀略によるといいつつ、いずれにしても説得に値する資料、説得に類する論理を明確にしている。それゆえに謀略史観から一線を引いた重さがある」という時、いわゆる謀略史観との差別化が十分ではないように思えます。
オマージュを含め、非常に丁寧に作家・清張の宿命にも似た場所をたどっています。私は史観の問題はともかくとして、清張が36歳まで本当に不遇と言うべき半生を送り、さらには朝日新聞に勤務しながらも学歴ゆえに差別された苦労を思い、その志の高さに強く打たれました。そして、1951年、41歳で「西郷札」が直木賞候補となってようやく人生に光が当たり始める。それは私の生まれ年であり、感慨深いものです。そして、その後の一気呵成(かせい)の作家活動に驚かされます。そして、47歳で糊口(ここう)をしのぐための勤め先だった朝日新聞を退社し文筆専業となります。61歳の1970年に第18回菊池寛賞を取っており、作家としては20年くらい休みなく駆け抜けた。その姿に私は正直、勇気づけられたと言っておきます。あらためて人間の情熱に打たれました。
★☆
<76>田辺聖子「田辺写真館が見た“昭和”」(文藝春秋)
田辺さんの実家は大阪市福島区の写真館だったそうです。と、書いて気づいたのですが、私はまったく大阪の土地勘がない。梅田とかミナミとかは少しわかるが、あとはまったく不明です。北海道の人間にとって、東京は比較的身近ですが、大阪がいかに遠いかということに気づきました。
写真館の力作スナップに文章を添えて、過ぎし昭和をしのぶという趣向です。大阪のいいところの娘さんの華やかな姿が随所にちりばめられ、ああ家族はいいなあ、と思わされました。もっとも、文章の枕には川柳が置かれています。「高梁(コーリャン)は戦車に起きるよしもなし」(岸本水府)「日の丸はオリンピックのためにある」(北浦太朗)「塵箱(ごみばこ)に突っ立ちあがり訣別す」(須崎豆秋)「泰平をひらけと解いた巻脚絆(まきぎゃはん)」(木下愛日)といった具合です。そこには戦争の影が隠すべくもなく漂っています。
「紋付を脱いで、ついでに、専門学校卒業、という学歴・プライドも、かなぐり捨てて、私は金物問屋の〈女事務員〉になった。昭和22年、私は19歳、『万骨をすてて市井のちりにまじはらむ』−小説も歌も捨て下町で雑貨屋を開いた樋口一葉の心境だった」。戦争で写真館を焼かれ、まもなく父を亡くした若い娘が一人で生きていこうと決意する場面です。田辺さんの意地のようなものを見せている一節ですね。
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