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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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勝手にwebいまさら探検隊column

勝手にweb「つぶやき」と「いまさら探検隊」2    2005〜2006

<南1条から消える老舗書店>
 札幌市内の書店分布地図が大きく変わりつつある。中央区南1西3にあった専門書取扱店の丸善が東区の大型商業施設内に移転するというのだ。実はこれは札幌圏部じゃなくて経済部さんの抜き(特ダネ)なので、「どう知ってた?」って、あまり自慢げには言えないんだけど。
 哲学・歴史書や辞書、全集などが並ぶ古書店が連なる北大周辺とともに、南一条かいわいは多様な書物が手に入る読書人スポットだった。
 現在のパルコの場所にあった冨貴堂は本道を代表する老舗書店。文学者の島木健作や森田たまらにとって冨貴堂は思い出以上の場所だった。「人間形成の上に実に大きな影響を与えている」(森田たま)「札幌といふ時、私は何を描いても先づ冨貴堂を思はずにはゐられない」(島木健作)。2人ともすごい感謝しているのがわかる。
 さらに十字路には少し地味だけど維新堂があった。狸小路近辺にも大小いくつかの書店が並んでいて、30数年前の大学生のころは貧乏だったけど、本屋廻りをするのがとても楽しみだった。
 札幌の発展とともに本州の大手書店も続々進出してきた。大通・南一条・狸小路は書店街となった。地下街には「リーブルなにわ」など多彩な品ぞろえで頑張っている店もあるのはご存知のとおり。だが、近年は人の流れの変化が響き、パルコに入っていた冨貴堂は2年前に閉店、今度は洋書や専門書ではピカイチだった丸善の移転となった。
 一方で、大型店はJR札幌駅周辺への出店も目立つ。それに対しては「個性的な店づくりは業界を活性化させる」(大手出版社社長)との評価もある。
 とはいえ、中心街にファッションと遊興施設が増え、書店が消えていくのはマチの魅力を減らしかねない。都市は生き物だが、変化の底流にも目配りしながら報道していかなければならないと思う。 
<P.S.>
 老舗と言えば、もうひとつ。札幌と言えばラーメン! 久しぶりにススキノの「ラーメン横丁」を訪れてみた。にぎわいは昔と変わらないと言えば変わらないのだけど、気のせいか少しをトシを取ったような印象がある。
 近年は狸小路や駅前ビル、あるいは郊外、ファッションビルなどにも個性的なラーメンの名店が増えた。さらに、札幌というブランドに対する博多とか旭川とか他の名物も進出してきている。そのため、札幌のラーメンの名所はこの横丁だけではなくなったのだ。競争が激しくなると、勢いがある方に、あるいは若い力の方に目が向くものだ。これに対して、老舗ラーメン横丁の方は、一時代をつくっただけに「これから天下を取ってやろう」という強引さやギラギラ感はもうない。
 久しぶりに歩いてみて感じたのは、落ち着いたというか落ち着き過ぎたという雰囲気である。往時を知っているものとしては少し物足りない。最近は飲んだ後のために、一杯500円の「横丁お夜食ラーメン」の販売を始めた。午後11時以降の限定メニューで、通常のラーメンより200円安い。手ごろな価格で飲み会帰りの地元客にアピールする作戦という。激戦ではあるが、ススキノの活性化のためにも、老舗にはもっともっと頑張ってもらいたい。
(世界最強国のハリケーンの惨状にやり場のない怒りを覚えつつ)

【いまさら探検隊】★
<8>「開拓紀念碑」=札幌市中央区大通西6丁目

 先日、朝日新聞を見ていたら道内面に<宮沢賢治の詩「札幌市」−「描いた舞台は大通の紀念碑」>という記事が大きく載っていた。この話は最近の話じゃないはずで、新しいという意味での、ニュースなのかどうかは微妙である。とはいえ、宮沢賢治の北海道への思いは独特のものがあり、そうした位置づけの中で、宮沢賢治に関心が集まることはいいことだ。
 私も旭川時代に、賢治の「旭川」という詩に触れて、<賢治は1923年(大正12年)8月、サハリン旅行の途中に旭川を訪れた。「植民地風のこんな小馬車に/朝はやくひとり乗ることのたのしさ」で始まる「旭川」と題した詩には、カラマツやポプラ並木の六条通の様子が描かれている。だが、その夏も空は冷たく、風は十月のようだった。/「旭川中学校」として登場する旭川東高に、先ごろ黒御影石に賢治の筆跡を刻んだ詩碑が建立された。青年に未来を託した賢治を考えるきっかけになるなら、この寒い夏も救いがある。>という原稿を、冷夏が心配された2年前の8月に「今日の話題」というコラムに書いている。
  
 「札幌市」という詩は私の印象では、それほど有名ではない。「遠くなだれる灰光と/貨物列車のふるひのなかで/わたくしは湧きあがるかなしさを/きれぎれ青い神話に変へて/開拓紀念の楡の広場に/力いっぱい撒いたけれども/小鳥はそれを啄まなかった」。この詩は何度も改稿されているらしく、「開拓紀念」のくだりも、最初は書かれていなかった。だから、札幌市と言っても、やや抽象的なのだが、旭川高専の石本裕之助教授はその場所を大通公園6丁目にある開拓紀念碑だと早くから指摘しており、このほど札幌で開かれたセミナーで現地訪問のツアーもあり、話題になったのだ。

 賢治がこの石碑を思い浮かべて詩を書いたとの前提で、私もその前に立ってみた。賢治の詩を意訳すれば「私は灰色の光の中で湧き上がるかなしみを広場の砂にまいたが、それをだれも受けとめてはくれなかった」というものである。それほど、憂いは深いということだろう。するとなんだか、開拓を紀念する広場というものが似合わない気もするのだ。内面を歌い上げることを具体的イメージに収斂させることは難しい。(2005.09.05)


<開拓紀念碑の隣に宮沢賢治の詩碑を>
 「いまさら探検隊8」で大通公園の6丁目にある「開拓紀念碑」について書いた。朝日新聞道内面の<宮沢賢治の詩「札幌市」−「描いた舞台は大通の紀念碑」>という記事に触発されて、賢治の詩「札幌市」の舞台である開拓紀念碑を見に行って所感を記したのである。
 「いまさら探検隊」は言ってみれば、アクティビストの小田実じゃないが「なんでもみてやろう」という野次馬精神とフットワーク軽く動き回る現場行動主義が基本である。実際に見て、調べたことを少し加えて、あるものの意味を問おうという実験的試みだ。★マークは、私なりの感動度であるが、その評価は極私的であってバイアスがかかっていることをお許しいただきたいと思う。
 とりとめもない文章だが、宮沢賢治研究者の石本裕之・旭川高専助教授から、「読みましたが、まだ甘いぞ」といった厳しい指摘のメールをいただいた。素人のたわごとよりも、石本先生の研究をご教示していただいたほうが早いので小論をお願いしたところ、快諾いただいたので、再度取り上げることにした。
 ちなみに、私は2年あまり旭川で部長をしていながら、石本先生とは面識がなかった。本稿が縁で、先生と私は、今は亡き後輩の矢部君の知人であるということも明らかになった。賢治の熱心な法華経信仰の力とは全く関係ないだろうが、人間は何かの見えざる手でつながっているようだ。
 長いムダ話はここまで。賢治の詩「札幌市」と石本先生の論を転記する。
    「札幌市」
  遠くなだれる灰光と
  貨物列車のふるひのなかで
  わたくしは湧きあがるかなしさを
  きれぎれ青い神話に変へて
  開拓紀念の楡の広場に
  力いっぱい撒いたけれども
  小鳥はそれを啄まなかった

<< 詩篇「札幌市」は賢治からの贈り物。札幌の宝です。
 「ビュウティフル サッポロ」と、賢治は言います。1924年5月、花巻農学校生徒を引率して北海道を訪れた宮沢賢治の、修学旅行復命書の中の言葉です。賢治は23年8月にも、北海道・樺太を旅していました。前年に亡くした最愛の妹と魂の交信をしようとした「オホーツク挽歌」の旅です。賢治の北海道関連の詩は当然23、24年に集中します。

 「札幌市」は1927年3月28日に書かれました。自分の体験は当日の日付をつけてなんでもすぐにメモした賢治には珍しいことですが、この時の思いを「青い神話」として自ら受け入れるには、それだけの時間が必要だったのでしょう。「湧きあがるかなしさ」は「オホーツク挽歌」の旅に伴われた感情にほかなりません。なお、この日盛岡地方の天気は晴れ。27日の詩に「日がかうかうと照ってゐて」とあります。「遠くなだれる灰光」は無かったようです。

 走り書きの筆跡は、回想の心象風景が「札幌市」をスケッチする賢治の脳裏を猛スピードで駆けめぐったようすをうかがわせます。題名のない最初のメモには「歪んだ町の広場のなかに」とあります。心象による歪みかと思います。次に「札幌市」の題を付し、ついで「開拓紀念の石碑の下に」と書き、作品の表現としては結局「開拓紀念の楡の広場に」に落ち着きました。透き通った美しい詩の誕生です。

 「開拓紀念碑」であることのポイントは、以下です。
(1)手直し前の「下書稿(三)」に「開拓紀念の石碑の下に」とある。
(2)中島公園「屯田兵招魂之碑」「四翁表功之碑」を考慮しても、大通「開拓紀念碑」が最適。
(3)通常「記念」と表記するところ、詩の「紀念」が石碑の表記と一致する。

 1990年に発表した拙稿「賢治と『札幌市』」では、当時確かとされた賢治の札幌滞在日の中から「23年8月1日午後説」を採用しました。現時点では日時の見直しを要するものの、「開拓紀念碑説」に影響は及びません。ヒントをさしあげます。「オホーツク挽歌」の旅の帰路、賢治の詩作は樺太の「鈴谷平原」(8月7日)から次の「噴火湾(ノクターン)」(8月11日)までの間が空白です。アヤシイ…。この期間の賢治札幌訪問の確かさを示す論料が提示されれば、それこそ、ゆるぎなき【いまさら探検隊】となりましょう。

 「札幌市」の舞台として「開拓紀念碑」を訪問されたことお礼申し上げたところ、折り返しのご依頼があり、要点をご紹介しました。賢治「札幌市」碑が大通西6広場に静かに建つ姿を、長いこと夢見ています。(石本裕之)>>
(9月9日は重陽の節句。高きに登りて考えた)

【いまさら探検隊】★★★
<9>「さっぽろテレビ塔」=札幌市大通西1丁目
 
 実は小説みたいなものを書いたりして遊んでいたことがある。主人公の男(新聞記者)が好きになった女の子と大通公園をデートをする。年の差もあるし、モテたい一心で知ったかぶりを気取って能書きを垂れる場面で、下のように書いたことがある。
 「このテレビ塔だってそうさ。ここはテレビ放送の本格化に備えて、昭和三十一年に公共放送局の電波塔として作られたものだ。ところが、せいぜい一五〇メートル足らずの電波塔じゃ、札幌の街をカバーするには役に立たない。作った後にふと見上げたら、この大通公園の真っ正面のところに手稲山が聳えていた。こちらはそれだけで一〇〇〇メートルほどある。どうせなら、そこに放送塔を作ったほうがいいうのは子供でもわかる。それで、ここはテレビ塔とは名ばかりの観光塔になってしまった」
 もちろん、デート中にこんなトリビアな知識を転がしてばかりいるから、男は、ぜんぜん彼女の心の悩みを思いやれないんだけどね。
 テレビ塔のホームページで確認すると、開業は昭和32年8月24日。高さは147.2メートル。展望台は約90メートルにある。昭和44年1月にテレビアンテナは手稲山に移転したとある。中年男の能書きはまあまあ当たっていたようだ。
 僕は昭和38年だったと思うが、小学校の修学(見学)旅行で札幌に来た。道新は訪れたかどうか覚えていないが、サッポロビールでリボンシトロンを飲み、雪印でアイスクリームを食べ、古谷でキャラメルをもらった。うれしかった。懐かしいし、とってもおいしかった。今はなくなってしまったところもあるけれど、小学生時代の思い出として、工場の人々から受けた親切は忘れない。企業はぜひ自分の工場を子供達に見学させてやってほしい。大人になっても忘れないことは僕が保証する。
 その時、テレビ塔に上った。世の中にこんな高い建物があるなんて、2階建てしかない田舎町に育ったので驚いた。今は街中に高層ビルが建つ。地方の子供だって、そんな感動を覚えるとは思えない。でも札幌に来ると、やっぱりテレビ塔を見上げてしまう。安心するのだ。そして上って偉そうに考える。この世の幸せが増しますように、と。
(2005.09.09)

<祭りのあとの淋しさは……いやでもやってくる>
 第44回衆院選は自民党の歴史的大勝で終わった。自公連立政権両党は320議席を超え、国会内の保守勢力を考えると、戦後60年に及ぼうとする平和憲法の改正すらも十分射程に入ることとなった。「保革伯仲」的な対立軸などは既に無効になって久しいが、政治傾向から見れば時代は確実に新しい段階に突入したと考えざるを得ない。
 今回の総選挙は郵政関連法案を参院で否決された小泉純一郎首相が「郵政民営化」の是非を最大争点に掲げて衆院解散に打って出たものである。自民党が明快に郵政と改革を止めるなをキーワードに、小泉流の劇場型戦術で大衆意識を鼓舞獲得したのに対して、民主党は「政権選択選挙」と位置づけたものの、肝心の郵政民営化には説得力ある反論を徹底できなかった。「官から民へ」はこのところの流行であるが、その問題点を民主党は根底的に批判することができず、「官から民」論がもはや止められない絶対的な時代のイデオロギーとなったのである。
 そして、この自公連立勢力の圧勝という厳然たる事実によって、廃案になった郵政関連法案は多少の衣替えはあろうとも再び国会に上程され、成立することになろう。自民党内の造反派や野党勢力が主張した懸念は小選挙区選挙のゼロサムゲームによって一掃されるのだ。地方もまた新自由主義的な競争原理の大波に洗われ、郵便局ネットワークは静かに解体、再編されていくことだろう。そして、郵貯や簡保に集められていた国民の蓄えがどういう回路で流動化していくかは、少し長い目で見れば明らかになるだろう。
 立派な役所に用事を足しに行った庶民の多くが、不親切な官僚的な対応に泣かされたことがあるはずだ。だから、郵便局であろうとなかろうと、お役所仕事の持つ庶民感覚とのズレが是正されるのはいいことだ(しかしながら、実際のところ今は郵便局はどこも親切である)。だが、公共性の部分が競争原理と採算性の重視に移行すれば、受益者負担の論理が一段と幅を利かしていくことになろう。
 選挙は終わったが、問題はその後である。「郵政改革」の行方をまずは見守らねばならないが、有権者の一番の関心は「年金・社会保障」に代表される暮らしがどうなるかという身近な足元の課題である。にぎやかな政治の祭りが終われば、これから厳しい冬に向かう生活の日常の切実さが始まるのである。私たちは心して、祭りのあとの現実を見つめていかなければならない。
(吉田拓郎を枕に、「そんな時代もあったね」という中島みゆきの声を聞きながら)

【いまさら探検隊】★★
<10>「北海道立文学館」=札幌市中央区中島公園1の4

 北海道文学の殿堂である。9月10日から11月13日までは「原田康子の北海道−小説『挽歌』から50年」が開かれている。開館10周年記念の特別企画展という。少し小ぢんまりだが、吉川英治文学賞を得た最新作の「海霧」まで、北海道を代表するこの作家の歩みが一目で分かる。
 中島公園は趣きある都市公園である。散歩道あり池あり伝統的建築物あり音楽堂あり。そこに堂々たる偉容を誇る同館はある。中に入ると、堅牢(けんろう)な書庫と展示室が目立つ。特に常設展示の「北海道文学の流れ」はアイヌ民族の文学から、石川啄木や有島武郎らの明治・大正期の先駆的文学者、さらに伊藤整、小林多喜二から原田康子、三浦綾子、渡辺淳一ら昭和をにぎわせた作家らの仕事が紹介されており、圧倒される。
 こうした資料の保存・展示は個人の力ではできない。収益性の低いことを思うと、企業にも難しいだろう。アメリカのネオコンと我が国の新自由主義の跳梁(ちょうりょう)に象徴されるように、「官から民へ」というのが現代政府のスローガンのようである。だが、その国と地方の文化を守るのは一義的には、政府であり地方自治体であり、いわゆる「官」の責任であろう。
 「これまでの人間の歴史とは書かれた歴史である」というようなことを言ったのは、かのエンゲルスだったかどうか。この整然と並んだ文学展示を見て、少しだけ心が痛むのはなぜか。多くの作家はこの豪勢な考古学館とは対照的な貧困の陋巷に客死同然で人生を終わったからか。多喜二でも小熊秀雄でも誰でもいいのだが、そうした生活空間・場をどこかに保存できると、先達の苦労と努力が体感できるような気がするのだ。
(2005.09.12)

<民主党らしさって? なんだろう>
 吉田拓郎と中島みゆきを口ずさみながら、総選挙が終わっての所感を前回記した。それに対して、小樽在住のTさんからメールをいただいたので、転載する。
<<12日のつぶやきを読みまして、一寸感想を述べてみたくなりました。
 今回の衆院総選挙結果について。
 マスメディアで聞こえる国民の声には、年金問題や景気の問題が多いにもかかわらず、郵政民営化1本で戦った自民党が圧勝した理由。
・「郵政民営化→官から民への突破口」というフレーズが解りやすく、その後に本来期待する改革が実現するのではないかという、切実かつ過大な期待感が投票へと繋がった
・本来改革という概念は、保守的な自民党ではなく与党側が訴える拠り所であったが、今回は先手を打たれてしまい小泉首相曰く「本来民主党が訴えなければならない筈なのに……」と言われる始末では、確かにそうだよなという感覚になっても仕方ない
・つまり、対立軸が明確では無い事が改めて明白となってしまった
・結局、民主党は寄り合い所帯であることを国民は知っており、自民党の二軍的なイメージから抜け出せない……脇が甘く頼りない
・小泉首相を批判する方は多いが、過去の首相と比べて明らかに解り易くリーダーシップを感じる……消去法で考えても替わり得る候補が浮かんでこない
 個人的には北朝鮮による邦人の拉致被害者救済を最優先課題として欲しかったので、今後一体どうなるのか心配です。>>
 はい、Tさん、ありがとうございました。小泉首相の戦術的優越性、同じく期待の大きさが国民の多くの投票行動につながったのに対して、民主党は脇が甘く、頼りなさしか残らなかった、というわけだ。本当に!
 民主党の現状を見ると、新しい代表選びの派閥(グループ)&世代抗争を含め、これでいいのか、という疑問が強く残る。小泉さんの新自由主義的な競争原理と、前原新民主党はどう違うのだろうか? 似ているような印象を持つのはこちらの知識不足か。古い人間なので、自由競争の論理には弱者救済の社会民主主義的なものが対抗軸のようにも思えるのだが、それじゃ社会党的なのかな。
 そして2大政党というけれど、もはや自民党一人勝ち。日本国民はバランス感覚があると言っても、どうなのか。もちろん杞憂(きゆう)ではありますが、雪崩を打って戦争に向かったのはわずか60数年前のこと。あまり政治が前のめりに走り出さなければいいのだけれど。
 私の結論は今回も同じだ。北海道はこれから積雪寒冷期に向かう。米国のハリケーンの影響やら、マネーゲームやらで原油高が今年は深刻そうだ。灯油も既に結構な高値になっており、暮らしはなんだか厳くなりそうである。内地では台風の被害はまだ回復していない。出来秋も生産者を豊かにするのか心配である。政治のダイナミズムとは無縁のところで多くの人は生きている。政治の幅より生活の幅のほうが遥かに広いはずだ。地に足を付けて生きている人たちが、政治の優位性をどう相対化するのかが、問われているように思われる。
(19日が「敬老の日」というのがしっくりこないのはなぜ?)

【いまさら探検隊】★★★
<11>「旭山動物園」=旭川市

 もはや敵なし、と言えば、甲子園の駒沢苫小牧と、旭川市の旭山動物園というところでしょうか。
 旭山動物園のすごいところは、一回行ってそれで飽きるのではなく、また行きたくなるというところです。たいていの人は年間パスポートを買って行っていると思います。入園料は大人580円、子供無料。動物園パスポート=写真=は1シーズン1000円です。格安であるのはもちろんですが、本当にまた行きたくなるので断然お得なのです。リピーターを増やすのですから入園者は普通の動物園より多くなるのです。
 旭山動物園の魅力は従来の希少動物を檻に入れて「どうだ珍しいだろう」と見せるやり方に対して、クマとかペンギンとか、さして貴重とも思えない動物を一種の自然に近い状態に置いて、その素晴らしい能力を見せる工夫をしたところです。コロンブスの卵でした。ペンギンは海の中を飛んでいるなんてことを、旭山動物園がなければ多くの人は実際に見ることができなかったでしょう。
 もう一つ、小菅正夫園長の指導力があります。獣医でもある小菅さんには役所の事務方の上がりポストとして動物園長が使われることが許せなかった。現場の人間として踏ん張った意地がありました。さらに、動物は生きているように、死んでいきます。生と同じように死も知らせているのが旭山動物園の特徴です。ペンギンの館に行けばそれを知ることができます。さらに、スタッフの優秀さは手づくりの看板ひとつを見てもわかります。
 最近、テレビを見ていると、透明の水槽を天井に作ったりして、旭山動物園と似た施設が日本中にずいぶん増えたことを知らされます。また、立って歩くレッサーパンダの風太クンが人気者になりましたが、マスコミには珍獣信仰傾向が依然として根強くあります(ちなみに私は、レッサーパンダが大好きでして、ぬいぐるみですが弟同然の仲ですので、風太クンには他意はありません)。
 どの世界でも「オンリーワン」で居続けることは難しいものです。でも、そう簡単には負けないと思われるのは小菅さんをはじめとしたスタッフに哲学にも似た動物園観があるからのように思われます。と、ここまで書いて気づいた。札幌に来てから、まだ円山動物園に行っていませんでした。しまった! その感想はまた別の機会に。(2005.09.19)


<ナナカマドの実が赤くなった>
 さわやかな秋を迎えた旭川から「マチがにぎやかですよ」との便りが届いた。人波のことではない。街角に並ぶナナカマドの赤い実がひときわ美しいというのだ。北海道の冬はとても厳しいのだけれど、雪の中でもしっかりと残るナナカマドの実は、ともすれば弱気になりがちな私たちの心を力強く励ましてくれる。
 ナナカマドの名の由来は、この木が七度かまどにくべても燃えきらないので付けられたという。これは道産子の常識だろう。家々の燃料に使う薪にはふさわしくなかったものの、ナナカマドはこの燃えにくさが幸いして、北海道の都市では火除けの街路樹に最適だとされて、旭川などで素晴らしい景色をつくることになった。
 北欧神話では雷の神様が大変な洪水でおぼれそうになったときに、偶然にもつかまったのがナナカマドの木だったそうだ。そこで人びとはナナカマドを航海のお守りとしたともいわれる。そんなご利益の多い木だけに花言葉が「安全」「慎重」「賢明」というのも諾なるかなである。
 札幌の街路樹のイメージはライラック(リラ)やニセアカシア、ポプラなどが代表的であるが、よく見ると、あちこちに多くのナナカマドを見つける。そして、実の赤い色は心を奮い立たせる。小さくても不屈の自己主張をしているようだ。その恩恵は人間だけは享受しているのではない。雪の中から顔を出した赤い実を鳥が啄んでいる姿もよく見かけるものだ。
 一番早いこの秋の印は最も長く私たちの目を楽しませてくれる。道を歩いても汗ばむことはなくなった。さて、1枚多く重ね着をして街に出よう。青い空とコントラストの美しさも目にしみる。この自然の贈り物を楽しんで歩こう。 
(「赤いハンカチ」をはじめ歌謡曲ではアカシアが人気なのはなぜ?)

【いまさら探検隊】★★☆
<12>「札幌ドーム」=札幌市豊平区羊ケ丘

 サッカー・コンサドーレ札幌とプロ野球・北海道日本ハムファイターズの本拠地となっている札幌ドームに初めて行ってきた。建設中に一度、視察させてもらったことがあるが、2001年の6月開業以降、実際に入ったのは今回が初めてである。「遅れているゾ」と怒られるのは承知だが、地方暮らしで格別用事がなかったのだからしょうがない。
 スタンドから試合場を見下ろすと、すごいところに来たものだと驚く。「世界初『ホヴァリングサッカーステージ』−縦120m、横85m、重さ8300tの巨大な天然芝のステージが、空気圧によって浮上し、34個の車輪でデュアルアリーナ間を分速4mで移動。天然芝のステージは試合のない時は屋外のオープンアリーナで良好な芝を育成します。野球モードからサッカーモードへの転換は、モビールシステムによって行われます」とのこと。実際に見てみたいものだ。
 もともとは、サッカーワールドカップがドーム建設のとっかかりだった。資料にも「1992年7月、 札幌市議会で2002年FIFAワールドカップ大会の札幌市への招致を全会一致で決議し、日本招致委員会に立候補」、「1996年1月、札幌市がワールドカップ大会会場を整備するにあたり、サッカーだけでなくプロ野球など多目的に利用できるドーム化を決定」などと記されている。
 総工費422億円という巨大施設。とはいえ、コンクリートのエントランスはなんだか無機質で、落ち着かないというか、バランスの悪さを感じたのはこちらの根性が曲がっているせいか。ドームに行った20日は西武に負けて、日ハムのBクラスが確定した「終戦記念日」だった。「730」チケットで見物しながら、ビールを飲んだ。ファンの熱い思いが球場に充満していて、なんだかとっても気持ちが良かった。やはり入れ物より人か。いろいろ課題はあろうが、ドームと日ハムは道民の財産だと感じた。(2005.09.26)



<成熟と経験を評価しない社会>
 先日、コンサドーレの関係者(エライ人らしい)にお会いする機会があった。その人が言うには、「札幌の駅前通りをテープと紙吹雪の舞う中、大優勝パレードをするのが夢なんですよ」ということだった。当事者ってのはそうなんだねえ。まあ、ドリーム・カム・トルーと言いますので、願いはいつか叶うでしょう。そのためにはまず実力アップ。
 さて、閑話休題。
 熱いと言えば、職場のOBの人たちに会うことがあるのだが、みなさんそろって熱血です。「おれの若いときは…」と昔の武勇伝を語られます。そして、当然ながら、返す刀で切るのは後輩の不甲斐なさ。「若い記者は礼儀を知らぬ、ものを知らない」「もっと足で書かなければダメだ」となるのです。
 人のいい私は、「お説ごもっとも」と肯きます。しかし、待てよ、わがまま放題したのは先輩のほうじゃないのか。今なんてかわいいものだ、という思いになります。だから、「そういう、あなただって昔は●●だったでしょ、斬り!」と言いたくもなります。
 茶化してますが、実は言いたいのは経験を伝えることの難しさです。人間は無から秩序を創ることなどできません。大抵は先人の教えに従い、形式を創っているわけです。ところが、最近は老人力を馬鹿にしても、おじいちゃんやおばあちゃんはもちろん、おじさん、おばさんの智恵が余り大切にされていないことが、いささか気になります。
 つまりは中年おやじを含め高齢者を、若い人はただ長く生きているだけの存在と見ているのじゃないか、という不審を覚えるのです。私がそうだからって言うわけじゃないのですが。あらゆる分野で、経験を含め成熟が正当に評価されなくなっていませんか?
 競争原理で言えば、年配者は給料が高いけど作業能力は低いと思われていませんか。年功ってのはもうダメだし、団塊の世代が握っているのは組織権力だけだとすれば、それは張子の虎ですね。政治の世界では小泉チルドレンが跋扈し幼児化が進行中です。価値観の転換をどこかでしない限り、高齢化社会ってのは随分生きにくそうな気がします。
    (「くらがりへ人の消えゆく冬隣」角川源義−秋はメランコリーですね)

【いまさら探検隊】★★★
<13>「なんもさストーブ」=札幌市中央区北2西1

 団塊世代の役に立たない「革命おやじ」群と比べても、あちこちに波紋を広げているのが、天才彫刻家の流政之さんである。80歳を過ぎて、あのエネルギーはすごい!
 「地方の用心棒」とか言って、各地にユニークな彫刻を残しているのはご存じのとおりでしょう。ニューヨークの同時テロの影響で撤去された「雲の砦(とりで)」は有名だけど、奥尻島の彫刻公園北追岬やら流山温泉やら、北海道内には作品がいっぱい。
 二、三度会ったことがあるけど、インパクトがとても強い。なにしろ、昔はゼロ戦に乗っていたとかで、そこからススキノが見えたとかいう、ウソかホントかわからないような伝説を作っている。歯に衣(きぬ)着せぬ発言にお役人はいつもハラハラしている。旭川で会った時には「橋に彫刻を置くだけではダメ」「砂澤ビッキをもっと評価すべきだ」などと関係者にげきを飛ばして続けていた。写真は旭川でのスナップ。目が輝いているでしょう。芸術家ってのは内面が露出するのがわかります。
 僕が流政之さんの作品で最初に印象に残っているのは、道新文化部時代に見た「なんもさストーブ」である。「なんもさ」って言うのは、「そんなことはどうってことないよ」という意味の北海道弁だ。僕の先輩にもお酒を飲んで酔っ払うと、「谷口君、なんもだ」と言うのが口癖の困った人がいた。実は本人にはなんでもないことなのだが、私にとっては結構迷惑だなんてこともあったものだ。
 なんもさストーブは1982年制作。ホテルニューオータニの前に静かに立っている。僕には意味不明だけれど、裏には榎本武揚の名前も彫り込んである。量感というか迫力満点。今年は原油高のあおりによる灯油の高騰で、早くも生活への影響が出ている。このストーブがたくさんあれば、少しは元気が出るのだけれども……。(2005.10.01)

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