吉本隆明の方へ
吉本隆明・私記―いつも、そこに、ともに―¬
■護符の書『擬制の終焉』
私は一九七〇年に大学に入った。今は学生運動というと、風変わりな人間のするものと思われがちだが、誤解を怖れずに言えば、その頃はまともで優秀な学生ほど、積極的で、マルクス・エンゲルス全集(の一冊)くらいは読んでいた。クラス単位の討論会も普通で、デモがあれば半数近くが参加した。
よりよい社会実現は誰も否定できない理想だが、困るのは組織に入って、おのれを捨て革命の前衛になるべく献身せよと言う石頭連中がいたことだ。パルタイ(党)は、人間の解放を目指すと言いながら、個人の自由がなく、軍隊的であり、秘密結社的であった。
一学生として国際反戦デーなどに参加すると、反スタ党オルグがやって来る。喫茶店に監禁され、ピー缶片手に紫煙の奥からマシンガンのような小ブル党派批判、大衆団体の「兵隊」に加わるよう脅迫される日々が続く。
陰鬱な気持ちになった図書館で、なにげに手にしたのが『擬制の終焉』(現代思潮社、一九六二年)だった。そこに、吉本隆明がいた。
学生は小市民インテリゲンチャである。このことは善でも悪でもない。その生活実体は具体的なプロレタリアの生活以下のばあいも、それ以上のばあいもある。学生運動は学生インテリゲンチャの大衆運動である。
(「前衛的コミュニケーションについて」)
普通のアジテーターならば、学生はプロレタリア的人間となり、その前衛となるべきと訴えがちだが、吉本隆明は「自立せよ、その日常生活意識をとことんまで意識化してみよ」と、言うのだ。前衛などに何の意味もない!闘いの場にいた当事者による明快なコントラ前衛・自立論は目からウロコ……『擬制の終焉』はパルタイ除けの護符の書だった。
吉本隆明を読み進むうちに、彼が詩人であることも知る。その言葉は力に満ちていた。
ぼくを気やすい隣人とかんがへてゐる働き人よ
ぼくはきみたちに近親憎悪を感じてゐるのだ
ぼくは秩序の敵であるとおなじにきみたちの敵だ
(中略)
ぼくはきみたちの標本箱のなかで死ぬわけにはいかない
ぼくは同胞のあひだで苦しい孤立をつづける
(「その秋のために」)
私はそれから吉本隆明の詩を写経し、真似をした。その頃、学校制度とは無縁の場所から、独学で魅力的な思想を表現している戦後派論客が多くいた。黒田寛一、三浦つとむ、対馬忠行、田中吉六、埴谷雄高…。しかし、彼らは詩人ではなかった。『谷川雁詩集』(思潮社、一九六八年)の谷川雁がいたが、既に前線を離れていた。平岡正明のアナーキーな評論には惹かれたが、奇人奇行的だった。吉本隆明のみが全存在をかけて時代の隘路を切り拓こうとしている。吉本隆明がいる限り、この世の中も捨てたもんではない。
私はひとり自立派=(初期)吉本主義者となった。
■沖縄闘争と「異族」の論理
六〇年安保前後に書かれた詩や評論から始まり、七〇年代の情況に対峙する息づかいの伝わる批評文を読むのは快感であった。
折から七〇年安保闘争も終わると、七二年五月に迫った沖縄返還問題が一番の焦点であった。ベトナム戦争に加担し、侵略前線基地の性格を残したままの本土復帰でも、そのプラス面を声高に叫ぶ保守勢力に対して、進歩派・左翼・学生たちは沖縄の戦闘的復帰、奪還、解放、反復帰、独立などの主張を掲げて、運動路線的に対抗していた。
そこにも、吉本隆明がいた。喧しい論争から離れながらも、沖縄の持つ地理と歴史、共同体形成の特異性に照準を当て「異族の論理」(『情況』、河出書房新社、一九七〇年)を掲げていた。異民族支配から同一民族・祖国復帰という単線に対して、「異族」という補助線を引いたのである。吉本隆明はのちに「南島論」となる考究を共産主義者同盟(叛旗)主催の「一九七二・五・一三沖縄討論集会」で「家族・親族・共同体・国家―日本~南島~アジア視点からの考察」として講演するなど、思想の力で学生たちを後方から支えていた。
二月には連合赤軍あさま山荘事件(一九七二年)が起き、学生運動が終焉を迎えようとしていたその時期、ラディカリズムに前のめりの若者に語りかける吉本隆明は、やがて訪れる後退戦を照らすひとすじの希望であった。
■「きれぎれの批判」と怒れる人
太宰治が「(男性の本質は)マザーシップだよ。優しさだよ。きみ、その無精ヒゲを剃れよ」と吉本隆明に語ったという逸話がある。吉本隆明もまた優しい人であるが、一方で、苛烈な怒れる人でもあった。
私は自立誌「試行」も読むようになった。「試行」は直接購読が基本だが、札幌では駅前通りのアテネ書房が取り扱っていた。アテネ書房には感謝しかない。最終七十四号も一九九八年一月七日、同店で購入している。
「試行」でまず読むのが巻頭の「情況への発言」だった。「きれぎれの批判」シリーズは吉本無双の世界で、SNS時代の今ならば「吉本隆明、暴言で炎上だってよ」とネットを賑わせただろう。論敵に対しては「駄ボラ吹き」「夜郎自大」「とび切り頓馬」そして、「〈亡霊〉だから……死ね」とバッサリ。ブント魂的な平岡正明や柄谷行人にも容赦なかった。
一九九四年八月二十四日。そのときも、電話の向こうで怒っていた。
「僕は腹が立って、腹が立ってしょうがないのですよ」
私は地方紙の東京支社デスクで、六月末に誕生した自民党と社会党が手を結んだ村山富市政権についての論評をお願いしていた。初めて電話をしたのは物象化論の廣松渉の追悼集会がお茶の水であった七月十七日で、「今は忙しくて難しい」との返事。間を置いて八月十四日に二回目の電話をしたが不在。そして三度目の電話が怒り声の、それだった。
「ほんとうに馬鹿なことをするんだ、社会党は」
私は既成左翼批判を地声で聞かされた。怒りは収まらず、あらためて電話をすることで切れたが、結局、原稿はもらえなかった。
■吉本隆明・遠見の思い出
思えば吉本隆明と直接話したのはこの電話だけだ。見かけたことは幾度かある。
最初は一九七六年五月十日、北大クラーク会館講堂、埴谷雄高の『死霊』にちなんだ講演会。このことは「みゆき・マイ・クロニクル」(『中島みゆきの場所』所収、青弓社、一九八七年)という文章に書いたことがある。
東大安田講堂闘争から二十六年の一九九五年一月十八日、東京・星陵会館での記念集会で吉本隆明は講演をした。私は二次会に同席したものの、挨拶しかできなかった。
九五年は阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件と大きな出来事が続発、オウム真理教の麻原彰晃評価をめぐる論戦に吉本隆明も巻き込まれていく。そして、九六年八月三日、伊豆・土肥海岸で遊泳中に溺れ危篤となる。私は訃報を準備するが、奇跡的に回復した(それから十六年後、二〇一二年三月十六日に八十七歳で逝去した際に、私は勤め先の新聞に小伝を書いた)。
二〇〇〇年十一月十一日、吉本隆明が「将たる器」と評した島成郎(六〇年安保ブント書記長)の葬儀が東京・青山斎場であり、古参闘士たちのなかに、車椅子の吉本隆明らしき小さな姿を遠く見た。それが最後だった。
■往相から還相へ、信の解体へ
吉本隆明に出遭っていなければ、現在の自分はなかった。大袈裟ではない。そう感じる世代があり、私はそのようなひとりだ。
政治の季節が終焉後の一九八〇年代、九〇年代のサブカルチャー全盛の渦中にも還暦を超えた吉本隆明は切り込んでいく。言語論、共同幻想論はハイ・イメージ論、マス・イメージ論、世界視線へと転換される。
吉本隆明が先頭に立って疾駆するから、私たちもまた同じく追走して来られたと思う。
若い読者には興味がないかもしれないが、『最後の親鸞』(春秋社、一九七六年)という本がある。ここで示された「往相」と「還相」「面々の御計」―などは、前衛的な知(信)と組織(党派性の論理)を解体し、最終訣別を告げるものであった。それまで重い荷を背負ってきた世代の心にとりわけ染みた。私には野崎六助という人の『幻視するバリケード 復員文学論』(田畑書店、一九八四年)とともに、来し方を振り返る契機となった。
大学卒業後、私は新聞記者になり、物書きの端くれに加わった。力不足で一流にも二流にもなれなかったが、肝に銘じていたのは「知識を販(う)ること、文を売ること…は怖ろしいことである」という吉本隆明の言葉だった。
私は「吉本主義者」であるが、「吉本教」信者ではない。戦闘的自意識から紡がれる詩と批評の緊張感漲るリズムは好きだが、化学者としての公害論や原子力論、体系化し整序される理論には異和を覚えた。あまりよい比喩ではないが、純文学を生きる、私小説家的で葛藤する吉本隆明の表現が好きなのだ。
吉本隆明は学問的にみれば「傍系」の人であり、古今伝授―親分がいて子分がいての縄張り学閥学派―専門家とは無縁である。彼我の位相には「千里の径庭」がある。にもかかわらず一方で、吉本「訓詁」の神学者たちも後を絶たぬが、親鸞にならえば、「吉本隆明は弟子ひとりももたず候」というのが本来の面目なのだと思う。
心がさびしくなったとき、今も吉本隆明『定本詩集』(勁草書房、一九六八年)を取り出して読む。
なぜたれのために一篇の詩をかくか
われわれは拒絶されるためにかく
この世界を三界にわたって否認するために
(「告知する歌」)
永遠の不服従こそが自立の熱源なのだ。国家・共同幻想はいぜんとして個に対して逆立している。
なにかあると、私は吉本隆明を思い出す。吉本隆明ならどうするだろうか、と考える。直接声は聴けないけれど、今もいつも、そこに、吉本隆明がいる。
(公益財団法人北海道文学館編『歿後10年 吉本隆明-廃墟からの出立』、2022年10月29日所収)
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