見逃しミーハーシネマ館 1999〜2003
なんというか、映画に嵌まっていた頃があり、雑文を書きまくっていた。
シネマ・グラフィティ・ノート 2000年 その1
*1<214>「エンド・オブ・デイズ」
ピーター・ハイアムズ監督。アーノルド・シュワルツェネッガー。ロビン・タニー。ガブリエル・バーン。
1000年紀の最後の日に悪魔は選ばれた女性とセックスして子供を作ると、それからは闇の王国が開かれるのだそうな。 ほんまいかな。ってなこと言ってはお話は成立しませんがな。その選ばれた女性と、ひょんなことから関わり合ったアル中ボディガード、そして悪魔。
壮絶な戦いが始まる。
思うにキリスト教ってのは怪しい宗教だな。結局はゾロアスター教だとかなんだとか変わらないな。絶対神と同時に悪魔を信仰しているんだから。悪魔ってのも結構いい奴なんだが。盛り上げてくれるし。どっちにしろ神と悪魔とがセットで消えればいい、とオレは思っていたりして。
*2<215>「ハイロー・カントリー」
スティーヴン・フリアーズ監督。ウディ・ハレルスン。ビリー・クラダップ。パトリシア・アークェット。
第2次大戦後のニューメキシコ。ピートは相棒のビッグボーイと牧場をやっている。しかし、大企業化をめざすジム・エドが2人の前に立ちはだかる。そして2人はエドの手下のレスの妻モナに心惹かれていた。
カウボーイは車なんかじゃなく、やっぱり馬に乗り、広野を駆け回らなくちゃ。そんな熱い男の生き様と、秘めた優しさがいっぱいに漲っている。メルヘンである。そんな全ては幻だから。
3<216>「ゴースト・ドッグ」
ジム・ジャームッシュ監督・脚本。フォレスト・ウィテカー。イザーク・ド・バンコレ。カミール・ウィンブッシュ。
なにしろサブタイトルは「サムライへの道」だもんな。「羅生門」「葉隠」を通じて主君に尽くし身を犠牲にする古式の倫理=テイストが、がっちりと漂っているのである。凄いぞ。
主演のウィテカーはピストルを刀を納めるように腰に差すのだ。そして、オールドファッションのマフィアとの渡世の義理と人情に挟まれて戦い、そして死んでいくのだから。
伝書鳩が連絡役になってニューヨークの空を舞い、ビルの屋上には鳩小屋と自由に生きる人間たちがいるんだぜ。そして、言葉の通じないアイスクリーム屋、黒人の少女、ネイティブアメリカンなどがそれぞれに自分流の生き方を貫いている。それを悲劇であるとは知りつつ静かに共感している監督は凄いぜ!
フランスのセンスとニューヨークの町、日本のハートが真正面からヒートした傑作だな。
*4<217>「トゥルー・クライム」
クリント・イーストウッド監督・主演。アイザイア・ワシントン。デニス・リアリー。リサ・ゲイ・ハミルトン。ジェームズ・ウッズ。
オークランドの新聞記者エベットは女にはだらしがない。家庭は顧みない。禁煙論などどこ吹く風。ありゃ、ワシみたいですね。でも鼻が利く。そこがワシと違う。
冤罪の臭いにピンとくる。今回は死刑まで半日あまりの殺人犯。だけど走り出したら止まらない。いやな奴なんだけど、きっとみんなどこかでそういう人間を気にしている。
クリント・イーストウッドはそんなおいしいところをがっちり演じて魅せた。
*5<218>「シュウシュウの季節」
ジョアン・チェン監督。ルールー。ロプサン。ガオ・ジエ。シャン・チェン。
中国文化大革命の末期。共産党の下放政策で少女の秀秀は成都からチベットへと送られた。そこで遊牧民の老金と一緒に牧場作りをすることになる。しかし、文革は中央で挫折。地方官僚だけが残っていた。都に帰りたい秀秀は次々と甘言に載せられ彼らに体を許してしまう。そして彼女は未来をも断ってしまう。
監督のジョアン・チェンはツイン・ピークスやラスト・エンペラーの女優。文革の悲惨さをここまで描くとつらいものがある。ワシは一度たりとも毛沢東派だったことはないが、文革シンパだったと言われればその通りである。
転向したとしても世界革命派はこの痛みをまだまだ受け止めて行かねばならない。畳の上で死ぬことを夢見てはならない。
*6<219>「ゴジラ2000ミレニアム」
大河原孝夫監督。村田雄浩。阿部寛。佐野史郎。西田尚美。
僕が最初に思い浮かべた言葉かい。「死んだ者は殺せ」って奴さ。本当に。
ゴジラが復活した。彼は根室に上陸。太平洋岸を南下し、東海村の原子力発電所へ。一方、日本海溝から引き上げたナゾの巨大隕石。それはエイリアンのUFOだった。
ゴジラの生命力はオルガナイザーG1に秘められていた。エイリアンはその力を借りて自らの体をつくろうとしていた。自衛隊とエイリアンとゴジラの三つどもえの戦いが続く。
なんか「科学の暴走」「ゴジラは人間の中にいる」とか言うが、どうも無理があるんじゃないか。素直に戦い、壊す、荒ぶる神がゴジラ様じゃろ。そのカイカーンがないのだ。ピカチュウちゃんやガメラちゃんに負けている?
*7<220>「聖なる嘘つき その名はジェイコブ」
ピーター・カソヴィッツ監督。ロビン・ウィリアムス。アラン・アーキン。マチュー・カソヴィッツ。
最近は映画界に於けるユダヤイズムがちょっと気になるわたしです。でも「ライフ・イズ・ビューティフル」はよかったです。そう評価しました。しかし、これはダメですね。
ジェイコブはトリックスターなのでしょうが、ちょっと無理です。だから、ポーランドのゲットーのユダヤ人も救われるんだか救われないんだか。
中途半端で、終わってしまいます。なんかフェイクですね。
*8<221>「カーラの結婚宣言」
ゲーリー・マーシャル監督。ジュリエット・ルイス。ダイアン・キートン。トム・スケリット。ジョバンニ・リビージ。
軽い知的障害を持つカーラは裕福な家庭に生まれた。が、彼女を心配するあまり母親は普通の生活をさせようとしない。そのカーラが次第に自立し、恋をして結婚していくまでをほのぼのとしたヒューマンドラマとして描く。
いやあ、分かっているだが、それなりに泣きましたねえ。実際の知的障害者の家族は一つの希望を見たかどうかわからないけれど。同性愛も障害者もみんな差別されないような社会に、と思いました。
*9<222>「地雷を踏んだらサヨウナラ」
五十嵐匠監督。浅野忠信。川津祐介。羽田美智子。ロバート・スレイター。
カンボジアで死んだ戦場カメラマン一ノ瀬泰造。その人生。
72年のインドシナは戦争と革命の時代だった。そこに特ダネ写真に憑かれたフリーカメラマン一ノ瀬泰造がいた。彼はアンコールワットを撮影するべくクメール・ルージュの解放区に入っていくが。
なんとも胸くその悪い映画だぜ。戦争をやっている人間が愚かしくて。カンボジアの戦争と革命では数百万人が死んだ。その重みと一人の日本人の重みが釣り合わない。このアンバランスがかなわない。妙に甘ったるい感傷も不快だった。
*10<223>「M/OTHER」
諏訪敦彦監督。三浦友和。渡辺真起子。高橋隆大。
妻子と別れた中年実業家とCGデザイナーの若い女性の自由な暮らし。そこに、事故のため前妻の元から8歳の男の子が飛び込んでくる。にわかに形成された新しい家族。当たり前だが、自由な暮らしは少しずつ崩れ始める。その新しい感情と生活の揺れをドキュメントタッチの濃密さで描く。
一種の私小説である。それだけに、ちょっと息苦しい。繰り返される<間>と、ヴァイオリンの音は成功かどうか。2時間27分という長さに耐えられなかった。
私小説はもっと無駄をそぎ落としたほうがよい。
*11<224>「シュリ」
カン・ジェギュ監督・脚本。ハン・ソッキュ。キム・ユンジン。
いやあ、スケールのでっかいメロドラマ見せてもろた。前宣伝に曰く「ハリウッドを超えた」韓国映画である。そうかな。いろんな意味で韓国エンターテインメントだと思う。いや、別に悪口なんかじゃないぜ。
朝鮮戦争が50年前にあった。南北分断が50年も続いている。2つの国は今も一緒になりたいのになれないでいる。そうした「38度線」状況があって生まれたエンターテインメントである。
女は北朝鮮の工作員。男は韓国の情報部員。2人は任務に忠実な組織活動員である一方、お互いに恋している。女工作員の上司(若いときの火野正平?)も実は女工作員を愛している。女工作員の上司は腐敗した指導部(金日成−金正日体制)を倒し、朝鮮半島に戦争を起こし祖国を統一したいと考えている。
おっ、革命戦争論だね。2・26事件の青年将校みたいなもんだ。そのために欺瞞的な南北和解のシンボル・サッカー統一チームの試合を吹き飛ばし、両国の首脳を叩きのめすことだ。奪った「液体爆弾」でスタジアムを火の海にせよ。それを阻もうとする韓国情報部員との必死の攻防に突入する。
もちろん韓国映画だから北朝鮮工作員の計画は失敗。女も死ぬ。でも彼女は事前に、爆弾を仕掛けたことを教える電話をしていたのだ。任務より愛を選びながら、最後は任務のために女は死んでいった。しかも彼女は子供をお腹に宿していたことを隠して。
だから、女工作員はいけないが、彼女は恋人だった、と男は思うのだ。いっやあ、メロドラマだね。メロドラマにいつも政治は格好の材料だもんな。男と女は愛し合っていることの意味は、南と北が愛し合っていることだ。だが政治の顔は2人の愛を奪い、生まれようとした子供(統一)まで死なせてしまう。でも民族の心の奥では求め合う愛は決して破れることはない。
つまり、この映画は壮大な入れ子状態で<愛>が絡み合っている。それがこの映画の魅力であると同時に、<韓国>的限界だろう。エピローグが長すぎるのとか、プロローグが宣伝映画っぽいとか、ビルを壊すのがやっとという新兵器「液体爆弾」ってセコすぎるぞとか、「サッカーで統一なんてお笑いだぜ」なんて気の利いた台詞がうますぎるとか、ハン・ソッキュは「8月のクリスマス」のほうがよかったとか、いろんな毀誉褒貶があろうが、日本のエンターテインメントより上質だと言っておこう。
わが高倉健さんの「ゴルゴ13」はどこにいったんだ?
*12<225>「マトリックス」
ラリー&アンドリュー・ウォシャウスキー兄弟監督。キアヌ・リーブス。ローレンス・フィッシュバーン。キャリー・アン・モス。
世上、日本政府機関のコンピュータにハッカーが入ったとかで大騒ぎである。しかし、ハッカーは正義の騎士。悪いのはクラッカーである。とはいえ、この世界が実はマトリックスであるなら、もちろんそれは正義の戦いである。
マトリックスが描いているのは、恐ろしいほどリアルなバーチャルワールドである。人間を資源として扱うコンピュータの発想の根には実は人間の悪魔性がある。そして幻想に安住して真実を見ようとしないのも人間の性である。アンダーソン=ネオ=キアヌは、それらと格闘しつつ覚醒していく。
超能力とかカンフーとか戦闘とかはコンピュータのシミュレーションと考えたほうがいい。もちろんそこにこそ映像は渾身の力を込めたのだが。コンピュータ社会の中でも、大切なのは人間の五感である。「バウンド」の監督はその解放を愛を通じて表現して見せた。
ちょっと体を動かして世紀末をリセットしようぜ。そんな気分になった。
*13<226>「ラブ・オブ・ザ・ゲーム」
サム・ライミ監督。ケヴィン・コスナー。ケリー・プレストン。ジョン・C・レイリー。
ビリー・チャペルはデトロイト・タイガースのエース。19年に及ぶマウンド人生は最後の時を迎えていた。オーナーは球団の売却を決め、彼はトレード要員となるか引退するか迫られていた。優勝目前のニューヨーク・ヤンキースとの試合。それが彼の最後の舞台だった。
痛む肩には、恋人との思い出と野球人生がのしかかっていた。だが、言ってしまうと彼は40歳最後の試合で完全試合を成し遂げるのだ。
甘い映画である。しかも長い。でも飽きない。分かりやすく見事に涙腺を刺激する演出はソツがない。いいじゃないか。野球は国民的娯楽。こんな幸せな奴がいたって、ってそう思うのだ。
*14<227>「雨あがる」
小泉堯史監督。寺尾聡。宮崎美子。三船史郎。吉岡秀隆。仲代達矢。原田美枝子。
剣の達人・三沢伊兵衛は素浪人である。長雨のため足止めをくらい安宿で愛妻たよと旅の荷を解いている。貧しいがゆえに諍いの絶えない同宿の人々を慰めるため、彼は賭試合で金子を稼ぎ、人々に酒肴を振る舞う。また若い武士の争いを止めたことから藩主に見込まれ指南番の口もかかる。だが、あまりに優しすぎる男ゆえに他人の自尊心を傷つけてしまう。
夫婦人情物語に、民衆のフォークロアを重ねた。それにしても宮崎美子がいい。なんか、こういう女性が細君だと悪いことはできないなあ。三沢伊兵衛も所詮はお釈迦様の手の上で暴れている孫悟空のようなものか。近代的自我ってのは強者の論理であり、一見前近代的な共同体のなかに大切なものを発見する。これは背筋をピンと伸ばした現代批判の作品でもある。
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