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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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「踊るシネマの世界」へ 
 なんというか、映画に嵌まっていた頃があり、雑文を書きまくっていた。

WEEKLY  TODAY'S CINEMA 5  2005~2006

★★★
*45 「スタンドアップ」(ニキ・カーロ監督。シャーリーズ・セロン。フランシス・マクドーマンド。シシー・スペイク。ウディ・ハレルソン。ショーン・ビーン)
 夫の暴力によりシングルマザーとなったジョージー・エイムズ。古里に帰って友人の勧めで、鉱山で働くことになった。しかし、そこは山男たちの職場。女たちは彼らの仕事を奪う邪魔者でしかなかった。日常的な性的嫌がらせの中で、ジョージーは1人立ち上がった。だが、職を失うことを恐れる女たちは口をつぐんでしまう。だが、彼女の高校事件の真相が明らかにされ、みんなの心は変わっていく。スタンドアップ!
 映画のポイントは葛藤=対立とその止揚です。メーンテーマの1つは親子です。ジェーシーと息子、そしてジェーシーと父親です。彼らはお互いにぶつかりあいますが、最後に自らに映し出される相手の愛情を知り、信頼を勝ち得ていきます。サブテーマ的には夫=父と妻=母やらにアレンジされます。そして一番のメーンテーマは同僚=友人同士です。ジェーシーは鉱山で働く女性たちと悩みを共有しながらも対立します。それは男の労働者同士、女同士などでもそうです。しかし、世の中の間違いを正すことを決断する時、そんな対立はコップの中の嵐に過ぎないことがわかります。1人1人対立を乗り越えて立ち上がる場面が圧巻です。思わず目頭が熱くなりますというより、私を含め結構泣いている人が目立ちました。
 冒頭、冬の道を向かっていたジェーシー親子の車は、ラストで春めいた同じ道を進んでいきます。激しい対立の季節が変わったことを浮かび上がらせます。ハリウッドは皮肉ではなく、こうした民主主義を伝える映画をしばしば作ります。アメリカは本当に奥深い。舐めたらダメですね。「モンスター」で殺人犯の女性を演じたシャーリーズ・セロンがまたしても汚れ役に挑戦しました。といっても、今度は本当に粉塵まみれの労働者です。それでいて、美人のオーラがあふれていますね。いい演技をしています。


*46 「グレート・ビギン」(クロード・ニュリザニー、マリー・プレンヌー監督)
 製作は「戦場のピアニスト」のアラン・サルドだそうだ。
 「人はどこから生まれてきたのか」とは、なかなか興味深い問いである。宇宙の開闢(かいびゃく)以来、物質から有機生命体が生まれ、人間が発生してくる。それは生命の個体の死と種の連鎖、そして物質の連続性などを考えると、なんだか気が遠くなる。
 本編はそうした、生命に関する問いをアフリカの男性のモノローグを通じて、さまざまな層で映し出す。たとえば、水の中から陸への動物の移動、子孫を残す愛の営み、弱肉強食の生存競争、受精から誕生に至る生命の系統発生を反復する個体発生の姿、さらに、時間にさからう生命を襲う死の運命を具体的な映像で捉え、描き出している。
 タツノオトシゴのダンスやイグアナの格闘や卵を飲むヘビなどの映像は感動的であると同時になんとも残酷である。とりわけ宣伝でもポイントが置かれた人間の胎児の映像が印象深い。「お腹の中で歌う赤ちゃんを見たことがありますか?」というあれです。ここでの胎児の姿は人間以前の生命連続の一コマである。人間の1個の生命もまたが宇宙史的存在であることを痛感させられる。
 「皇帝ペンギン」(リュック・ジャケ監督)「ディープ・ブルー」(アラステア・フォザーギル、アンディ・バイヤット監督・脚本)などの作品が生命と自然のドキュメンタリーとして優れたものとして近年話題になった。すぐ思い出せないが、「WATARIDORI」という鳥の旅を追った映像もあった。本編はわずか1時間21分の作品であるが、製作年数は16年に及ぶという。地球誕生46億年から見れば、2時間であろうと1時間であろうと同じだろうが、いささか短すぎる気もした。

★★
*47 「オリバー・ツイスト」(ロマン・ポランスキー監督。バーニー・クラーク。ベン・キングズレー。エドワード・ハードウィック。ジェイミー・フォアマン)
 監督のポランスキーは「戦場のピアニスト」でアカデミー賞を受賞している。本来は妖しい系のアーチストだが、なぜか近年はまじめ系に変わっているようで、本作はチャールズ・ディケンズの原作に挑んだ教育映画である。
 19世紀のロンドン。孤児のオリバー・ツイストは救貧院や奉公先での仕打ちに嫌気して7日間の放浪の旅で辿り着いたのだ。空腹と寝るところもないオリバーを助けてくれたのは、少年スリ団のドジャーだった。ボスの老人フェイギンのアジトに連れてこられ、盗みの技術を教わることになる。ある日、本屋の前でハンカチーフをドジャーたちが狙うが、オリバーが犯人として捕まってしまう。だが、被害者の老紳士ブラウンロー氏は憂いを含んだオリバーの顔に純真なものを見いだし、彼を我が子のように面倒みようとするのだった。盗みと殺人を厭わない者たちとオリバーを救おうとする人たちの格闘の中で、オリバーは両者を愛する心を失わない。
 貫かれているテーマは「人間への信頼と愛」である。逆境にあってもそれを忘れないことで、未来は明るく顔をのぞかせるのである。もちろん、そんなふうに世の中はうまくいくはずがない。少年スリ団にしても悪党に使われる女性にしても優しい心を失ってはいない。にもかかわらず、オリバーが幸せを手にするのに、少年や女性たちはそれから無縁の世界を生きて死ぬ。犯罪者もまた生きるための仕事だった側面もあるのだが、容赦なき見せしめの絞首刑が待っているのである。
 本作から、人はやはり向上心を失わないことだ、という道徳的結末が導かれるとしたら、この教育映画は成功ということだろうか。なんだか腑(ふ)に落ちない。
 
☆☆☆★
*48 「ミュンヘン」(スティーブン・スピルバーグ監督。エリック・バナ。ジェフリー・ラッシュ。ダニエル・クレイグ)
 1972年のミュンヘン・オリンピック。選手村にパレスチナ・ゲリラが押し入り、イスラエル選手ら11人を人質にし殺害する事件が起きた。本作はそれを題材に、その後、イスラエル政府がくだした報復のためのテロリスト暗殺計画。秘密警察のモサドを形式上離れ、それに関与した工作員らの姿を描く。
 もちろん、スピルバーグはユダヤ系アメリカ人であるから、本質的にはイスラエル(ユダヤ)の側に立っている。しかしながら、映像作家としての彼は、事件の当事者を描くことで、イスラエルの国家テロの残虐さ非道さをも浮き上がらせる。さらに、パレスチナ(アラブ)側のテロの背景にある民衆の悲劇を、あえて言えば「大義」をもしっかりと捉えてみせる。
 スピルバーグの結論は、ある意味で常識の範囲を超えていないが、ユダヤ系の彼があえて、この問題を扱った勇気は賞賛に値しよう。国家と民族のテロルの反人間性を描き出した彼が、それに対置するのは家族愛である。国家が自分と自分の家族へ強制力を行使するならば、どこまでも家族を守り抜くというものである。
 それにしても、イスラエルの国家テロルの執念というのは恐れ入る。それに対するパレスチナの側の反撃も容赦ない。実はこれは映画の世界ではなく、今なお続く世界の現実である。世界貿易センタービルの崩壊もまた、その延長線上にあったということに心を痛めざるを得ない。

★★
*49 「インサイド・ディープ・スロート」(フェントン・ベイリー&ランディ・バルバート監督)
 見逃しシリーズで恐縮である。
 1972年1本の映画がアメリカで公開された。「ディープ・スロート」。従来のセックス・フィルムの常識を覆す話題作だった。つまり、セックスのポイントを性器交接に限定せず、オーラルセックスへと転換したからである。わずか6日の撮影期間と2万5000ドルの製作費で、6億ドル以上の興行収入をあげた。だが、時のニクソン政権は保守支持層におもねり、監督の告発や上映禁止に追い込んでいく。
 本編はその時代のシンボルとしての栄光と、早すぎるが故の悲劇を抱え込んだ「ディープ・スロート」の喉の奥につまった違和感にさまざまな証言を通じて迫っていくドキュメンタリーだ。たとえば、監督のジェラルド・ダミアーノは弱みを突かれすっかり好々爺として登場する。男優のハリー・リームズは一時アルコール依存に、主演のリンダ・ラブレイスは映画に出たのを後悔してフェミニストと共闘したかと思うと、再びポルノの世界に戻り、事故がもとで死んでしまっているという。
 なんとも滅入る話だ。ドキュメントは権力の執拗なわいせつ狩りが今なお続いていることを明らかにする。さらに、セックスとハリウッドの融合というダミアーノらが想像した世界は薄味のままに実現する。ポルノはビデオの発達とともに家庭内に入り込み、安価で大量に消費されるだけになっている。まるで、私たちはなし崩しに解放された世界を生きているかのようだ。だから、問うのだ。「ディープ・スロート」は時代に何を持ち込んだのか、と。答えは迷宮の中で拡散するばかりだ。ナレーションはデニス・ホッパー。いかにも、インデペンデント的な作品である。

★★★★
*50 「ホテル・ルワンダ」(テリー・ジョージ監督・脚本。ドン・チードル。ソフィー・オコネドー。ニック・ノルティ)
 1994年のルワンダ。フツ族とツチ族の間で続いていた内戦が終息しかけていた首都キガリ。ミル・コリン・ホテルの支配人ポールはフツ族だが、妻はツチ族で、政治にはかかわりなく国際的なホテルのために働こうとしていた。しかし、フツ族大統領暗殺がされ、フツ族民兵が武器を手にツチ族を襲撃、虐殺を始めた。ポールは高級ホテルの支配人の地位を利用しつつ、国内外の要人にコネクションを作っていた。妻のタティアナと子供たち、隣人のツチ族難民をホテルに入れ、彼らを守ろうとする。しかし、民兵が次第に迫りつつあった…。
 いつもそうだが、アフリカの民族(部族)紛争には言葉を失う。まさに平然と虐殺が行われ、しかもその数は半端ではない。このルワンダでは100万人もの命がわずか3カ月あまりで失われたという。カンボジアのクメール・ルージュの虐殺は思想によって一直線に走ってしまったのだから、その思想の無効性を宣言すれば、解決できる。だが、アフリカの民族紛争はどちらが正当かということを簡単には言えない。いきなりやってきた帝国主義者が前近代社会のテリトリーを恣意的に支配し、軍事撤退後には民族相互の憎しみと武器を残していったことによって起きている。
 民族紛争は世界秩序のレベルに影響することはないため、国際社会は最低限の介入はしても、基本的には責任を取ろうとはしない。国連やら多国籍軍やらも所詮は無力である。ボランティアとメディアもそれなりに活動するが、世界の人々の関心を動かすまでには至らないのだ。人の命はこんなにも軽いことに言葉もない。それはしかし、アフリカの話、他人事で思ってはなるまい。そのツケは必ず先進国が払うことになるだろう。
 まるで、ドキュメンタリーのような迫力満点の映像である。憎しみ合う部族間紛争が現実に起きているかのようだ。しかもエキストラ(大衆)の混乱、残虐さまでもがリアルに描かれている。しかも、映画ではツチ族の受難が中心だが、終盤にツチ族の反乱軍がフツ族の政府軍や民兵を駆逐する姿がわずかながら描かれる。すなわち、今度はフツ族の難民が生まれるているのである。それらは映画には手の余る現実である。
 
★★☆
*51 「シムソンズ」(佐藤祐市監督。加藤ローサ。藤井美菜。大泉洋。森下愛子。松重豊)
 ちょっとだけ見ました。トリノ五輪。とりわけ、カーリングは面白かったですね。相手のストーンと自軍のストーンをいかにコントロールするか。テクニックと戦術、そして心理戦ありで、意外に奥が深いことがわかった。本作はそのカーリング女子チームの主体となった網走管内常呂町のシムソンズの誕生までの実話を基にした物語だ。
 常呂町はホタテと玉ネギの町である。それと、もう一つカーリングが名物である。地元の高校の女子生徒が五輪出場選手の言葉をきっかけにカーリングを始めることになった。かき集めた仲間はみな今の自分に納得できない悩みをかかえていた。そして、やってきた期待のコーチはフェアプレー精神でチームを負けに導いた問題をかかえた訳あり漁師だった。経験不足の上、思いはバラバラの少女たちは行き詰まったり、困難に出会う。だが、未来をしっかり見つめ、今に挑む少女たちはたくましく成長していく。
 スポ根的な鬱陶しさの全くないさわやかな青春映画に仕上がりました。ストーンとハウスの向こうに見えるステップアップした自分。限りない挑戦。その若々しさが伝わってきました。映画ではカーリングが2時間半も1ゲームにかかることや、ストーンの狙い方なども解説され、勉強になりました。大泉洋の「したっけ」漁師役もよかった。
 私の近くにいるオタク青年によると、常呂町の「シムソンズ」が「チーム青森」となっていくあたりに、もう一つのドラマがあるはず、とのこと。そうかもしれないが、それはそれで、この映画はドラマとしてはこれでいいんでないかい、と思った。

★★
*52 「ブレイキング・ニュース」(ジョニー・トー監督。ケリー・チャン。リッチー・レン。ニック・チョン)
 高度情報社会である。戦争はメディアを制したものが主導権を握るというのは湾岸戦争以降のスタイルとなった。ならば、犯罪もそうか。本作は警察と犯罪組織のプレゼンテーション合戦を描きながら、メディア社会のもろさをも浮き彫りにする。
 中国本土からの強盗団を追い詰めていた特捜班の刑事たち。だが、思わぬ反撃に遭い、市民を巻き添えにした銃撃戦に発展してしまう。深刻なダメージを受け、マスコミに追及された香港警察は組織犯罪課の若い女性指揮官のアイデアで、機動部隊にカメラを装備させ、犯人逮捕の瞬間を「ブレイキング・ニュース」(ニュース速報)で伝え、市民の支持を得ようとするメディア作戦を展開することとした。しかし、犯人側もパソコンと携帯電話を駆使して、隠された捜査の実態を明らかにしていく。
 テーマが多岐にわたっているが、一番面白いのは犯人(リッチー・レン)と指揮官(ケリー・チャン)の駆け引きか。特に、人質とこもったアパートの一室で大食事会を送信する犯人に対して、指揮官側も史上最高レベルの高級弁当を警官や取材陣に振る舞うといううまいもの比べだろう。つまりはどちらがヒューマニズムの体現者かという大義のカリカチュアになっているのだ。
 見どころはいっぱいある。冒頭の銃撃戦、ビル内での爆発、バスでの逃走など。「冷静と情熱のあいだ」のケリー・チャンは気の強い美人指揮官役を熱演している。香港映画らしいハチャメチャぶりの一方で、腹の弱い古顔刑事と熱血刑事の掛け合いや、人質のいいかげんな父親としっかり息子のコントもあって笑いもとる。香港映画はいい。


*53 「ナルニア国物語」(アンドリュー・アダムソン監督。ウィリアム・モーズリー。アナ・ポップルウェル。ジョージー・ヘンリー)
 C.S.ルイス原作の世界的ファンタジーの映画化。本編は「第1章ライオンと魔女」とサブタイトルにある。文学作品を読んでいないので、原作と比べてどうかということは排除する。映画のみの印象を記せば、冒険物語としては想定の範囲内であり、感動度で言えばいまひとつであった。
 時代は第2次大戦中の英国。ドイツ軍の空爆が激しくなり、ペベンシー家の4人の兄弟姉妹は田舎に疎開する。その屋敷に布で覆われた衣装ダンスがあった。末っ子のルーシーはそこに隠れたが、実は奥には冬景色の世界が広がっていた。そこは白い魔女に支配されて、100年間の冬が続くナルニア国であった。4人は王となることを予言さえており、姿を消していた偉大なる王アスランも魔女を倒すために帰還する。4人は予言を実現することができるか。最後の戦いが始まる。
 スケールの大きい映像は素晴らしい。特にライオン=伝説の王アスランやビーバー夫婦などの動物たち、半獣人たちが人間たちと自然に暮らしているように見えるのだ。白い魔女を3頭のシロクマのそりが引くのだが、本当のように見える。冬から次第に春に変わっていく自然、大合戦も迫力満点だ。
 それにしても、子ども物語とはいえ、王となることを予言されている人間という設定が私には気に入らない。そして、その実現のためには敵を殺すこと(剣を握ること)を要件とするのもどうか。さらに、味方は異形の者でも美しいが、敵は醜悪で残酷という善悪感も一方的である。しかも、裏切りは最大の罪悪というのもどんなものか。
 もちろん私の言っていることが、近代的な人間主義に毒されていることは百も承知である。それでも、キリスト教的な黙示録、終末観で戦いを正義とするのを好まない。子供の映画であるからこそ、私はこだわるのである。

☆☆☆
*54 「ルー・サロメ 善悪の彼岸」(リリアーナ・カヴァーニ監督。ドミニク・サンダ。エルランド・ヨセフソン。ロバート・パウエル)
 1985年「善悪の彼岸」のタイトルで英語版で上映されたが、今回は20年の時を経て、イタリア語のノーカット版として日の目を見た。いうまでもなく、赤裸々な愛のドラマだけに、当初は40数カ所が修正されたが、今回はほとんどが復活して、衝撃的な場面も見ることができる。監督は「愛の嵐」のリリアーナ・カヴァーニ。
 19世紀末。神は死んだとして、道徳のしがらみを乗り越えて奔放に生きているフリードリヒ・ニーチェと友人パウル・レー。そこに、結婚を拒否して自由恋愛に生きる美ぼうの女性ルー・サロメが現れる。3人は三位一体の奇妙な同居生活を送るが、愛の独り占めをしたい男たちの嫉妬(しっと)で、生活は次第に狂っていく。そして、サロメもまた不本意な結婚を余儀なくされる。
 もちろんR18ですから、実質的に「成人向き官能映画」です。当然、男女のからみが多いわけですが、実は男同士の同性愛の場面のほうが圧倒的に目立つのです。男たちの同性愛が何度も何度も反復されて描き出されます。それが、私たちの近代の異性愛に対する誤解を照射するものなのかどうか、今ひとつ分かりません。いずれにしろ、呼び出されたパウル・レーの霊に「私は女になりたかった」と言わせ、映画のメーンテーマを明示しています。そして、錯乱したニーチェに「私たちの時代はこれからよ」とささやくサロメは現代の予言者を思わせます。
 ポルノ映画としての魅力はもちろんあるのですが、ニーチェが牧師の家庭に生まれながらも体験を通じて獲得した自由な精神の地平、さらに当時のヨーロッパに台頭してきた反ユダヤ主義の動き、その宣伝塔になるワグナーへの寓話(ぐうわ)的批判、さらに偏狭なナショナリズムと無力な社会主義思想の確執などをしっかりと描いています。そして、若気の至りの果てに大脳まひとなり妄想の世界に落ちたニーチェの末路なども印象的でした。問題作です。

★★
*55 「イーオン・フラックス」(カリン・クサマ監督、シャーリーズ・セロン。マートン・ソーカス。ジョニー・リー・ミラー)
 400年後の2415年の地球。人類は2011年に謎のウイルスのためにほとんどが死に絶えた。(ありゃ、もうすぐじゃないか!)科学者トレーバーが開発したワクチンによって、わずかの人類が外界と遮断された都市ブレーニャで生き延びていた。しかし、政治はトレーバーの一族が支配しており、その圧政に対して反政府組織モニカンがゲリラ活動を続けていた。人一倍の運動能力を持つイーオン・フラックスはその組織の女性コマンドだった。妹を殺されたことから、イーオンはトレーバーを倒すために政府のある要塞(ようさい)に忍び込んだ。だが、イーオンは不思議な既視感に襲われる。なぜか。
 まあ、アメコミの世界観ですから、大体は同じような結論になりますね。本作の一番の見どころは、シャーリーズ・セロンの肢体です。なんていったって、元モデルだけあって、抜群のスタイルで見栄えが違います。足が長い。アカデミー賞最優秀主演女優賞をとった「モンスター」の汚れ役や「スタッドアップ」で鉱山労働者を熱演していたことを忘れてしまいそうです。本作では体力づくりに励んだそうですが、長い足を生かした180度開脚はすごすぎますって。そのセロンを狙って、刃に変わる芝生とかが飛び出すなど、いささか趣味者的な装置も飛び出し、まさに忍者ワールドです。
 監督のカリン・クサマは「ガール・ファイト」で注目されました。主演のミシェル・ロドリゲスのあの鋭い目が忘れられないですね。まさにボクシングというスポーツのハングリーさと、女であることのハンディーを乗り越えていく闘う姿が本当にカッコ良かった。さて、本作は監督には日本人の血が流れているせいか、随所にジャポニスムがあふれています。日傘や掘りごたつ、満開の桜、そして独裁者のポスターの横にある赤い丸。監督の持つ美意識が伝わります。オタク映画ですね。
 最後にテーマみたいなものが提示されます。自然の復元力の素晴らしさ。つまり、ウイルスによって起こっていた人間の秘密(ここはネタばれになるので言及せず)が、時間とともに無効になっていくのです。それは、冒頭のハエなどの昆虫が飛ぶシーンで暗示されていたわけですが。そして、人間は永遠に生きるよりは1回きりの人生を生き抜くものだ、と宣言します。それはそれで当たり前だけど、すんなり飲み込めた物語だと言っておきます。

WEEKLY  TODAY'S CINEMA 6  2005~2006


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