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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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ふみくらの奥をのぞく2

「レクイエムJ・K ―天才少女画家が映す時代の青春
 渡辺淳一(わたなべ・じゅんいち、一九三三〜二〇一四) 作家。空知管内上砂川町出身、札幌育ち。代表作に『失楽園』『花摘み』『光と影』など。

 一九五二年四月、まだ雪深い道東・阿寒の山中で一人の少女の遺体が見つかった。右腕に光る金時計は二時十一分を指して止まったまま。「飢えと寒さにたまりかねて懐中のアドルム(=催眠鎮静薬)をのんでそのまま静かに眠ったものらしい」「(検視の結果)「外傷がなくアドルムを服毒した形跡はあるが直接の死因は凍傷である」と、新聞は伝えている。
 加清純子、十八歳。この一人の少女を襲った出来事が、失踪した一月二十三日から新聞に大きく伝えられたのは彼女が早熟の女学生画家として注目を集めていたからである。十五歳で北海道を代表する公募展の道展に入選し、さらには中央の自由美術、女流美術両展にも出品し、個展も開いていた。スターだったのだ。
 高校の同級生には後にベストセラー作家となる二人の青年がいた。一人は渡辺淳一、もう一人は荒巻義雄である。渡辺淳一はこの出来事と自らの体験を重ねて小説『阿寒に果つ』を書き、荒巻義雄もまた『白き日旅立てば不死』という作品を同じ時期に書いている。ヒロインの名はそれぞれ時任純子、加能純子とされているが、その永遠の魅力に変わりはない。
 アプレゲールと言われた自由希求の時代に誕生した天才少女。一方、戦争と革命の残り火と熱気がなお社会を覆い、若者を不定型な衝動へと駆り立てていた時代でもあった。
§2
 加清純子のまわりには芸術を愛する人々が集った。彼女自身も小説を文芸同人誌「青銅文学」に「二重SEX」「無筆の画家」などナイーブで新しい才能の出現を予感させる小説を書いていた。さらには自由な発想の挿絵も描いた。
 美術家たちもこの天才少女に惹かれた。その中には鶴岡政男や野見山暁治という後の大家たちもいた。報道写真家として名をなすことになる岡村昭彦の存在も忘れてはならない。
 だが、一番交流の深かったのが絵画の師であった菊地又男(一九一六〜二〇〇一)。札幌で活躍していた菊地又男は、彼女に非凡な才能を見出した。失踪死の三年前には阿寒山中へのスケッチ旅行にこの愛弟子を同道させていた。
 その菊地又男が彼女を追想し、ひっそりと残していた一枚の絵が見つかった。そこには雪の中に眠る少女を優しく見守る祈りが込められていた。「レクイエム J・K」である。初めて秘密を明かした荒巻義雄のもとから、その絵は文学館に寄贈され、今回の公開に至った。
 阿寒に消えた少女のおもかげを私たちは六十五年後の今、凝視することになるのである。

佐藤泰志・宇江佐真理・木下順一 函館から市井の人々を見つめ続け
 佐藤泰志(さとう・やすし、一九四九〜一九九〇) 小説家。函館市出身。少年の日に「作家になる」と記し、高校時代には「青春の記憶」「市街戦の中のジャズ・メン」で二年連続、有島青少年文芸賞優秀賞。「きみの鳥はうたえる」「空の青み」「水晶の腕」「黄金の服」「オーバー・フェンス」と芥川賞候補は五度に及ぶ。渾身の長編小説『そこのみにて光輝く』も三島由紀夫賞を逸した。
 宇江佐真理(うえざ・まり、一九四九〜二〇一五) 小説家。函館市出身。高校一年の時から小説を書き始める。図書館などで独学し時代物に転じ、一九九五年『幻の声』でデビュー。同作と『桜花を見た』『紫紺のつばめ』『雷桜』『斬られ権佐』『神田堀八つ下がり』で直木賞候補は六回に及ぶ。人情話を中心にした幕末ものや、故郷の函館・横浜などを舞台にした開港ものなども手がけた。
 木下順一(きのした・じゅんいち、一九二九〜二〇〇五) 小説家・編集者。函館市出身。七歳の時に結核性関節炎のために右足を失う。幼くして背負ってしまった重いハンディを真摯に見つめることが文学と人生の戦いの原像となった。代表作に後ろ足を亡くした犬に義足をつくろうとする義足の少年らを描く『片足のガロ』、死者を清め化粧を施す仕事をする男性を描く『湯灌師』など。

 ★函館は北の玄関口の港町である。早くから多様な外国文化に洗われた街並みには新しさとロマンチシズムがあった。陸繋砂洲のこの街の先端にあるのが函館山である。
 その山を見ながら暮らす名もなき人々の哀歓を描いた連作短編『海炭市叙景』の作者が佐藤泰志だ。両親は青函連絡船で物資を運び、朝市で売る「かつぎ屋」だった。大学進学と同時に過ごした東京での生活で見落としていた絆が十年ぶりの帰郷で再発見される。作品を貫く底辺に生きる人々の優しさと暴力的な怒り、戦後世代の批判精神―それは青春の姿でもある―が、その自死から四半世紀を経て静かに、深く読み直されている。
 早くして有望な新人作家となっていく佐藤泰志を、同じ街から見守っていたのが宇江佐真理である。彼女もまた文学少女であり、小説を書いていた。芽が出ないまま二十九歳で結婚、主婦となる。それでも諦めず、北海道にいて江戸時代物を書く無謀な挑戦が一気に花開くのは三十代後半になってからであった。その人情ものに光るのは職人の夫を持ち、苦労を重ねた作家の持つ人間観察力だった。

 ★木下順一は函館の「街」に溶け込んだ作家である。その名を持つタウン誌「街」を四十年以上にわたって編集し、刊行し続けた。彼が編集方針として掲げたのは「そのまちの人々がどう働き、愛し合い、死んだか」という視線だった。その精神は佐藤泰志や宇江佐真理と重なるものであった。ドストエフスキーに正対し、自らの生きる意味を問い続ける姿勢は函館の若い世代に多くの影響を与えた。

三浦綾子「氷点」原稿と色紙
 三浦綾子(みうら・あやこ、一九二二〜一九九九) 作家。旭川市出身。『氷点」が懸賞小説に当選し主婦作家としてデビュー。代表作に『塩狩峠』『銃口』など。

 ★五十枚ずつ束ねた千枚の原稿用紙。その山のような原稿を、三浦綾子が夫の光世に郵便局まで出しに行ってもらったのは、一九六三年十二月三十一日のことだ。締め切りぎりぎりの消印をもらった原稿は翌年一千万円懸賞小説にみごとに当選する。不朽の名作となる「氷点」の誕生である。
 一夜にして構想はできあがったが、実際の執筆は大変だった。体の弱かった三浦綾子はまさに「氷点下」の家の中で、布団に腹這いになって書き続けた日もあった。
 北海道・旭川に暮らす雑貨店の一主婦が書いたこの作品は、単行本化されて一躍ブームとなる。物語の舞台には外国樹種見本林を始め、旭川や札幌のホテルや街並みが巧みに採り入れられており、地元っ子を喜ばせた。推理小説のように綿密に織り込まれたストーリー、人間の原罪とは何か、愛することとは何か、を問う倫理感の新しさ。何よりも「氷点」というタイトルが美しかった。
 三浦綾子はキリスト者であるから、その文学の根底には愛を信じる宗教心があった。しかし、物語作者としての構想力にはたぐいまれな才能があり、人間凝視の観察眼には、戦争に翻弄された運命、自らを襲い続けた病魔―との対峙という切実さを抜きには語れない。

原田康子『挽歌』と「北海文学」
 原田康子(はらだ・やすこ、一九二八〜二〇〇九) 作家。東京都出身、釧路育ち。代表作に『挽歌』『風の砦』『海霧』など。二〇〇三年吉川英治文学賞を受賞。

 ★原田康子が小説「挽歌」の連載を始めたのは一九五五年初夏発行の文学同人誌「北海文学」十七号からである。物語の舞台は道東の釧路と釧路湿原であるが、作品にその二つの名前は出てこない。湿原はまだ「ヤチ」とだけ呼ばれていた。「北海文学」もまた粗末なガリ版刷り、発行部数も百部程度の小さなサークルに過ぎなかった。
 だが、同誌主宰の鳥居省三は執念で鉄筆を握り、作品を送り出し続けた。評判を呼んだ「挽歌」は五六年十二月、東都書房から単行本となる。題字と帯は伊藤整で、「繊細にそして痛々しく描かれた、少女の青春を送る歌である」と記し、新しい作家の誕生を告げていた。
 小悪魔のようなヒロイン、兵頭怜子が中年男性に惹かれていくという愛と喪失の物語。単行本の最後のページには釧路の高台に物憂げに立つヒロインのような原田康子の写真が添えられている。
 読者は誘われるように、まだ見ぬ道東の地へとロマンをかき立てられた。これ以降、釧路湿原には観光ブームが訪れる。だが、時の人となった原田康子は一九五九年には夫、佐々木喜男の転勤により札幌の人となるのである。
§2
 原田康子はその後、初の時代小説『風の砦』やスペイン取材の話題作の『聖母の鏡』などを発表するが、自分の故郷(生まれは東京だが)釧路に真正面から向き合った作品を執筆するのは『海霧』(二〇〇〇年から新聞連載)を待たねばならなかった。
 作品は原田康子のルーツをたどる一族、とりわけ女性三代の物語である。釧路がまだクスリ(久寿里)と呼ばれた時代に人々はいかに生きたのか。深い海霧に覆われる街と人々の息づかいを、宝物を磨き上げるかのように丁寧に描き、大河小説となった。釧路在住のベテラン日本画家、羽生輝が新聞挿絵、全六百三十三枚を飾った。
 同じころ、北の大地に移住した祖先の物語「静かな大地」を、池澤夏樹が別の新聞に連載していた。あまり知られていないが、原田康子がこの年若い作家の作品と自作を日々、読み比べては励みにしていたということも記しておきたい。

北海道を愛した詩人・百田宗治
 百田宗治(ももた・そうじ、一八九三〜一九五五) 詩人・児童文学者。大阪出身。民衆詩から出発し、詩誌「椎の木」を通じて多くの文人と交流する。東京空襲で家を焼かれたが、上京した更科源蔵の案内で北海道に移住する。三年間の道内生活であったが、多大な文化的影響を残した。各地を講演旅行で訪れたほか、雑誌「北の子供」「北の女性」などにもかかわった。童謡「どこかで春が」でも知られる。

 ★札幌で暮らすことになった百田宗治を感動させたのは市街に生えていた楡の巨木だった。「ささの 生えた はらっぱの まんなかに 大きい、たかい にれの 木が たつて いました」。次々と楡をテーマの作品を紡いでいった。
 詩誌「椎の木」は百田宗治が編集発行人で一九三二年一月一日に第1号が発行された。主な執筆者は室生犀星、三好達治、伊藤整、左川ちか、竹中郁、阿部保、丸山薫、春山行夫などがいた。
 百田宗治は滞道中に各地を訪れているが、交流の深かったのが上川管内愛別町。大雪山系を望む安足間(あんたろま、愛山)の地は永住を考えるほど愛したという。「安足間愛」を描いた詩が残されている。 

              宗治
  安足間から来いという
  縁側から大雪山の雪が見えるという
  石狩の上流があふれて
  泥やなぎの根をあらっているのを見に来いという
  山魚を食いに来いという
  望むなら手ごろの住居も作ってやる
  薪にも不自由はさせぬという

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