本文へスキップ

北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

電話でのお問い合わせはTEL.

ふみくらの奥をのぞく3

北海道の短歌人
 小田観螢(おだ・かんけい、一八八六〜一九七三) 歌人。岩手県出身。一九〇〇年に北海道に移住。その後、「潮音」入社。一九三〇年に「新墾(にいはり)」を創刊。北海道歌壇の草分けとして活躍した。
   涛音ききて寝むとすはるかなるものには慰安ある如くにて(色紙より)

逆境を乗り越えた歌人・小田観螢
 岩手県出身、代用教員、歌人ーと聞いて、誰を思い浮かべるだろう。大方の人は石川啄木と答えるかもしれない。しかし、ここでの正解は小田観螢である。
 小田観螢は北海道を代表する歌誌「新墾」を主宰し、第一回北海道文化賞、第十回北海道新聞文化賞を始め多くの栄誉に輝き、八十七歳の長寿を全うした短歌界の巨人である。
 しかし、その半生は啄木にも劣らぬ苦難の連続だった。岩手県久慈市の名家に生まれるが、没落して北海道に渡ってきた。苦労の末に免状のないまま代用教員となったものの、五十年余の教員生活の前半は道内各地を転々とするものだった。
 富良野とその周辺の山間部で約十七年を暮らした。だが、想像を絶する逆境の連続だった。貧窮のうちに、妻は幼子たちを残し病気で亡くなっている。その試練を生きる決意は荒ぶる火山と対峙した「十勝岳火は生くかぎり絶えせねばけはしき道もわれは行くべし」との歌碑となって残されている。
 過酷な運命を押し返すように、小田観螢は歌を作る。彼の元には山名薫人(山名康郎の父)、野原水嶺(「辛夷」主宰、中城ふみ子、時田則雄らを育てる)ら俊秀が集った。そして、小樽の中学に落ち着いてから五年、ついに大きな歌の流れを形成する歌誌「新墾」を立ち上げるが、齢は既に四十代半ばとなっていた。小樽にある歌碑から北国人の雄大な抒情の一首。
距離感のちかき銀河をあふぎをり身は北ぐにに住みふさふらし

 山下秀之助(やました・ひでのすけ、一八九七〜一九七四) 歌人。鹿児島県出身。一九二二年に来道。一九二四年に第一次「原始林」創刊。四六年、第二次「原始林」を再創刊し、北海道歌人会の結成につとめた。
傾きし星を樹氷のうへにあり果しらぬかもこの橇道は(色紙より)

 伊東音次郎(いとう・おとじろう、一八九四〜一九五三) 歌人。江別市出身。青年期に西出朝風の現代短歌に共鳴。主に口語短歌運動の先覚者として活躍した。小樽の「橄欖樹」刊行に参画した。

 山名康郎(やまな・やすろう、一九二五〜二〇一五) 歌人。上川管内南富良野町出身。歌人の父親・薫人の影響で短歌結社「潮音」「新墾」に入る。新聞記者の傍ら作歌を続け中城ふみ子らと同人誌「凍土」を創刊。北海道歌人会設立にも尽力した。

 中城ふみ子(なかじょう・ふみこ、一九二二〜一九五四) 歌人。帯広市出身。一九五四年短歌研究社の「第一回五十首詠」に「乳房喪失」が入選。自らの苦難の体験と華麗なロマンが多くの反響を呼んだ。続く「花の原型」五十首には川端康成の推薦の辞が付された。ふみ子をモデルにした小説に渡辺淳一『冬の花火』がある。
冬の皺よせゐる海よ今少し生きて己れの無惨を見むか(『乳房喪失』より)

 宮田益子(みやた・ますこ、一九一五〜一九七一) 歌人。新潟市出身。野原水嶺らの影響で作歌を始める。「女人短歌」で「石」が最優秀作品に選ばれ、歌壇に登場した。歌人の枠を超え、道内の文化運動にも参画した。
藻岩嶺のひくきなだりにみだれつつ春降る雪の卍あたらし(自筆短冊より)
 
 戸塚新太郎(とづか・しんたろう、一八九九〜一九九五) 歌人。群馬県出身。小樽で暮らす。作歌を始め、一九一九年「くろばあ」を創刊。戦後は第二次「原始林」創刊に参加、新聞選者を務め、北海道歌壇の指導的存在として活躍した。
森にひそむかの妖精もいでて遊べ木もれ日うごく羊歯の葉の上(自筆色紙より)

 中山周三(なかやま・しゅうぞう、一九一六〜一九九九) 歌人。札幌市出身。高校教員を経て藤女子大教授。作歌は北原白秋「桐の花」との出会いに始まる。戦後、「原始林」に参加、「北海道歌壇史ノオト」などの労作を発表する。短歌研究のための厖大な資料を残し、北海道文学館に寄贈されている。高校生だった渡辺淳一(作家)を文学の道に導いたことでも知られる。 
氷海をしりへに帰る丘のみち人見かけねば馬なりと出よ(番場敬華筆の色紙より)

 菱川善夫(ひしかわ・よしお、 一九二九〜二〇〇七) 短歌研究家。北海学園教授。小樽市出身。一九五四年「敗北の抒情」で「短歌研究」評論賞を受賞、以来「菱川理論」といわれる前衛短歌論を展開した。「菱川善夫著作集」全十巻がある。

★菱川善夫は北海道大学文学部国文科出身の風巻景次郎門下であるが、早くから「新墾」で短歌に親しんだ。北海道にあって、戦後の塚本邦雄、岡井隆、寺山修司らの前衛短歌を評価する論陣を張って、理論的な牽引役となった。前衛短歌運動の拠点として結成されたのが〈北の会〉で、細井剛、笠原勝子、田中綾らが優れた評論を書いている。山名康郎は自らにゆかりの中城ふみ子、齋藤史論、山本司は坪野哲久論などを書いている。また、若い世代からは穂村弘、山田航らも多彩な才能を見せている。

北海道の俳句人

 土岐錬太郎(どき・れんたろう、一九二〇〜一九七七) 俳人。空知管内新十津川町出身。僧侶。日野草城に師事し、「アカシヤ」を創刊した。知性と抒情の均衡の上に立つ俳風で、新聞俳壇の撰者などを務め指導者としても活躍した。
  拓農列なす冬日の縞の青深め(自筆短冊より)
 齋藤玄(さいとう・げん、一九一四〜一九八〇) 俳人。函館市出身。大学時代に「京大俳句」に入り、西東三鬼に師事。銀行勤めをしながら、「壺」を創刊。個人誌「丹精」も発行した。
 蜩や岩根のザイル巻きて輪に(自筆短冊より)
 細谷源二(ほそや・げんじ、一九〇六〜一九七〇) 俳人。東京出身。少年時代口語和歌に親しんだ。国家権力による新興俳句弾圧により辛酸をなめる。一九四九年に「氷原帯」を創刊主宰、「はたらく者の俳句」を提唱して多くの俊秀を育て北海道俳句の革新に貢献した。
  地の涯に倖せありと来しが雪(自筆色紙より)
 寺田京子(てらだ・きょうこ、一九二二〜一九七六) 俳人。放送作家。札幌市出身。少女期から肺結核で闘病するが、俳句に親しむ。天野宗軒の「水声」同人。「水輪」「壺」「寒雷」「杉」にも参加、戦後北海道の生んだ女流俳人の代表と目された。
  落日の百合からだ燃ゆるは簡単に(自筆色紙より)
 近藤潤一(こんどう・じゅんいち、一九三一〜一九九四) 俳人。大学教授。函館市出身。一九四六年「壺」に入会し、のち編集同人、主宰。叙情性豊かな作品で異彩を放ち、評論活動でも活躍した。
  他人みな消して接近雪の鶴(自筆色紙より)
 水野波陣洞(みずの・はじんどう、一八九七〜一九八〇) 俳人。名古屋市出身。鉱山技師として来道し、札幌で居住。「ホトトギス」に参加していたが、一九四六年「はまなす」を創刊、のち主宰となる。
  白鳥の翼の唸りふり被り(自筆短冊より)

新興俳句と細谷源二
 戦前の軍国主義は多くの表現者の自由を奪ってきた。本書は小林多喜二の虐殺、綴方教育の教師たちへの弾圧に触れているが、俳句や川柳といった短詩型文学にまでそれは及んだ。
 伝統を超えた表現を目指した新興俳句は権力にとって好ましからざるものであったからだ。弾圧は「京大俳句」を皮切りに「広場」「土上」「日本俳句」「俳句生活」などと続き、広範な俳人に暴虐の牙が及んだ。
 東京生まれの細谷源二は「広場」のメンバー四人とともに一九四一年二月に逮捕され、二年余の獄中生活を強いられている。そして戦火が拡大する中、一九四五年には空襲で家財のすべてを失う。やむなく開拓移民団に加わって渡道し、十勝管内に入植したものの、厳しい環境の中で辛酸をなめた。「なんと云うさだめぞ山も木も野分」
 国家権力に翻弄された半生であったが、俳句の可能性を諦めることはなかった。工場俳句から出立し工員として勤め上げたが、その傍ら口語俳句を基調にして、一九四八年「北方俳句人」、四九年「氷原帯」創刊に至る。「はたらくものの俳句」を提唱し、多くの俊秀を育成し、北海道俳句の革新に貢献した不屈の情熱には誰もが頭を垂れざるを得ないだろう。

「リラ冷え」という季語
 「リラ冷え」は六月に入っても寒さの戻る北海道の季語。「リラの花は、まだ底冷えのある初夏の暮れどきによく似合う」(渡辺淳一「北国通信」)のである。この美しい季語を渡辺は北大の先生であった植物研究の辻井達一(一九三一〜二〇一三)の小さな著作「ライラック」(HTBまめほん、一九七〇)で知った。『リラ冷えの街』(一九七一)は渡辺淳一の出世作のタイトルとなった。
 そのリラ冷えの句を初めて詠んだ俳人は滝川市江部乙町出身の榛谷美枝子(はんがい・みえこ、一九一六〜二〇一三)。榛谷は庁立札幌高女(現札幌北高)卒業後、「ホトトギス」などへ投句。北海道俳句協会役員などを務めたほか、はしばみ俳句会を主宰した。第一句集の「雪礫」(一九六八)の中にそれらの句は収められている。
  リラ冷えやすぐに甘えてこの仔犬
  リラ冷えや十字架の墓ひとゝころ
  リラ冷えや睡眠剤はまだきいて
と、一九六〇年ころから「リラ冷え」という言葉が登場している。

北海道の川柳人
 田中五呂八(たなか・ごろはち、一八九五〜一九三七) 川柳作家。釧路市出身。新興川柳誌「氷原」を創刊、川柳に「生命主義」理論を打ち立て川柳文学運動を展開する。この新風は既成派作家などからの反響を呼び起こした。一九二八年に「新興川柳論」を発刊、現代川柳の指針となった。
  煩悩の親雨につけ風につけ(自筆短冊より)
 川上三太郎(かわかみ・さんたろう、一八九一〜一九六八) 川柳作家。東京都出身。井上剣花坊の柳樽寺川柳会に加入。一九三四年に「川柳研究」を発刊。詩性川柳を追求する一方で伝統川柳も発表した。
  わが上に屋根のある幸雨の音(自筆短冊より)
 北村白眼子(きたむら・はくがんし、一八九五〜一九七九) 川柳作家。愛知県出身。川崎で関東大震災に遭遇、のち函館に移り、道南各地で活動する。「川柳揺籃」「川柳漁火」などを発行する。
  想い出となれば憎めぬ人ばかり(自筆短冊より)
 越郷黙朗(こしごう・もくろう、一九一二〜一九九六) 川柳作家。函館市出身。一九三二年から作句を始め、小樽に転住後「小樽川柳会」に入る。各地を移り住むが、札幌で「川柳あきあじ」吟社を創立する。北海道川柳連盟発足とともに事務局長、のち会長。
  雪ぞふる ふるさとの雪音もなし(自筆色紙より)
 清水冬眠子(しみず・とうみんし、一八九九〜一九七二) 川柳作家。小樽市出身。柳誌「はららご」「番茶」などの編集責任者を務める。一九五九年には北海道新聞「時事川柳」撰者となる。北海道川柳連盟初代会長。 
  子の頃の性根ちょろちょろ顔を出し(自筆短冊より)
 斎藤大雄(さいとう・だいゆう、一九三三〜二〇〇八) 川柳作家。札幌市出身。札幌川柳社主幹。北海道川柳連盟会長。川柳普及のために全道各地を回っては川柳結社を興すことに尽力した。北海タイムス紙に川柳欄を新設し撰者を務めたほか、『北海道川柳史』『川柳の世界』など多くの入門・専門書を著した。家族と交友を大切にした人でもあった。「連凧のひとつに妻がいて落ちず」など。
  出稼ぎが帰る地蔵のかざぐるま(自筆色紙より)
 坂本幸四郎(さかもと・こうしろう、一九二四〜一九九九) 川柳研究家。函館市出身。青函連絡船の通信士を務め、一九五四年年九月二十七日、洞爺丸遭難の公電第一報を旧国鉄青函局に打電した。退職後に発表したノンフィクション『青函連絡船』は大きな反響を呼んだ。『田中五呂八遺句集』を手にしたことから新興川柳の研究に専心し『新興川柳運動の光芒』(一九八六)などの著作がある。

佐藤泰志と坂本幸四郎
 「北方文芸」が刊行百号を記念して公募したのが第一回「北方文藝賞」であった。一九七六年五月、井上光晴、野間宏、吉行淳之介による白熱した選考会の結果、受賞作に決まったのは小檜山博(一九三七〜)が追い詰められていく北海道の開拓農家の姿を描いた「出刃」であった。その時に、佳作となったのが、坂本幸四郎の評論「新興川柳派の成立と終息」と、佐藤泰志(一九四九〜一九九〇)の小説「深い夜から」であった。
 授賞式で並んだ坂本幸四郎と佐藤泰志はともに函館出身であった。坂本が青函連絡船の通信長、泰志は両親が連絡船で青森と函館を往復する「担ぎ屋」の仕事をしていたこともあり、縁があった。東京から帰道した泰志にとって、坂本は頼れる先輩であった。坂本は志半ばで倒れた人々に心を砕き、獄中死した川柳作家の鶴彬の研究者でもあった。佐藤泰志は一九八一年に一年間函館に戻った後、東京で気鋭の作家として五度芥川賞候補となるが、九〇年自死する。
 坂本はこの未成の作家に愛惜を込めて記している。「わたしは、泰志さんに何回か函館に帰ってこいと声をかけた。彼は少年時代、津軽海峡に突きでた立待岬で泳いでいた。都会砂漠で酒を飲んでいないで、海に帰れ、腹の底で彼に呼びかけていた。彼の死にざまは作家としての戦死にみえる。いまは安らかに眠れ」

ふみくらの奥をのぞく 4 へ
トップページに戻る

 ご意見はこちらへ

サイト内の検索ができます
passed