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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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情況論「閑日閑話」1    1995−1996年「黎」所収 

<某月某日>
 オウム真理教による犯行とされる地下鉄サリン事件に絡み、警察当局はさる4月6日、国立国会図書館に対する捜索を行った。その際、差し押さえ令状を提示して、94年1月から95年2月までの国立国会図書館利用者に関する資料を押収した。
 出版流通対策協議会によると、押収されたのは来館利用申込書53万人分、図書・雑誌・新聞の資料請求票142万(一説では70万?)冊分、来館利用者の複写申込書42万(30万?)件分にも上るという。この資料は6月段階で、図書館側には戻されていないという。
 同協議会は指摘している。
 「もし事実だとするならば、これは図書館が利用者の住所・氏名・年齢・電話番号などの個人データと、読書傾向を通して個人の思想までを含めたプライバシーを警察に売り渡したものであり看過できません」。
 国立国会図書館の資料を押収したという記事は私も読んでいるが、利用者ではない私は「警察はやりすぎだんあ」程度の感想と認識しか持っていなかった。しかし、この姿勢は極めて甘かったと、痛苦に受けとめざるを得ない。
 ひとつは、たとえオウム集団が世間を騒がしているとしても、不特定一般の市民の権利が蹂躙されてもいい、といういかなる理由もないのである。加えて、図書館は本来、利用者との信頼関係の上に、運営されているはずであり、にもかかわらず、全く常軌を逸した令状一枚に「ノン」の一言もいえず、簡単に信頼の上に成り立っている最良の財産を権力に売り渡してしまったのであり、これは断じて許されないことである。
 確かに、破防法状況というものが現実的に日常性の中にあり、まさにオウム関係者を捕まえるのならば、罪状は後から考えればよいとするかの傾向がまかり通り、そのことをマスコミも黙認というより、むしろ積極的に後押ししている状態はなんとも情けないものがある。
 出版流通対策協議会が6月16日に行った抗議に対して、国立国会図書館の総務課長事務取扱副部長の中野某は次のように答えている。「令状は警察が司法に要請し、裁判所がプライバシーと差押えを秤にかけて、押収と決めたのだから適法と思って押収を受けた。『抗議と申し入れ』に『毅然として拒否し』とあるが、令状があるし拒否できない。それに官公庁どうしでもあるし」と。
 官僚的、とはまさに、このような答弁を言うのである。
 まったく! 「官公庁どうしでもあるし」とは、よくも言ったりである。
 図書館には図書館の最低原理(綱領)というものがあろう。それは絶対に侵してはならないもののはずである。それは相手がいかなる「法律」などの公共性をふりかざそうと、曲げてはならないはずである。もし、それに従わないが故に、法的責任を問われたとしても、それがその組織にいる人間の「職業的倫理」として、むしろ名誉であると考えるべきであるし、そのような形で弾圧された職業者は利用者からむしろ尊敬され支持されることは疑いを得ない。
 誰がどのような種類の本を探しており、読もうとしており、読んだかといことは完全なプライバシーの領域に属する。それは国家権力がいかなる意味でも介入すべき領域にはないのである。にもかかわらず、オウム集団のバッコを口実に、わが国家権力はいとも簡単に100万を超す人々の嗜好・思想傾向・関心などのプライバシーを手にしたのである。流対協のメンバーは「警察は、いまアルバイトを使ってすべての情報をコンピュータにうちこんでいるかもしれない」との懸念を表明している。これは懸念にはとどまらず、もはや現実のものとなりはてていることは想像に難くない。図書館の象徴ともいうべき国会図書館が自ら、その信頼と理想に泥をかけたのである。情況は絶望的に暗い。        

<某月某日>
 わがジャン・ボードリヤール先生の最新作「世紀末の他者たち」(紀伊国屋書店、1800円)を読む。ボードリヤール先生を俗物だの通俗的だのくさす向きが少なくないが、私はとても優れた現代の思想家として評価している。
 先年、私は「『純文学』的現在」と題した1著を世に問うたが、その根底にあるのは、シミュレーションが現実を超えていく中でなお文学的な想像力は、どのような形で可能になるかについて、ボードリヤール先生を援用しつつ展開したものである。
 今回の書物はボードリヤールのみの文章ではなく、マルク・ギヨームというフランスのデカルト協会代表にして、ミッテラン政権下で経済政策を立案したところのエコノミストである人物との対論となっている。ギヨーム氏はボードリヤールをよく理解していると見え、かなり積極的にボードリヤール的な発言をしており、発言者名がなければ、ボードリヤールと勘違いするほどの鋭さである。
 さて、2人が語り合っているのは、西欧の社会に立ち現れているところのさまざまな他者たちについてである。そこで、2人は現実に起きている多数の移民者たちからひきおこされる人種差別の問題から、エキゾティックな他者としての日本、ツーリズム(地球そして宇宙への旅)、人工知能(愚脳)、子どもと異性、ウイルスなどについて縦横に語りまくるのだ。日本について言えば、極めて明快な記号論的分析がなされている。

》西欧の場合、テクノロジーは属領性という構造が失われる(=普遍化される)ことをその現実原則としているが、日本では、彼らはすでに向こう側にいるので、何でも吸収できてしまう。彼らの固有のコード、固有の規則、固有の儀礼の機能低下をまねくことなしに、資本主義であり、ヨーロッパそのものであるあの器官なき身体(アルトー経由の用語)を吸収することができる。(中略)
 日本にかんして、結論を引き出すことはないが、いずれにせよ、現代の技術文明の頂点にあってさえ、絶対に不可視で空虚な核のようなものが残っていることを、われわれは確認できる。それはバルトが「シニフィアンの空虚さ」として描いたものに対応している。

 言われていることは、西欧化されて、なおかつ残る日本の意識としてのアジア性であろう。
 これを2人は肯定的に捉えているのか、否定的なのかは定かではないが、ラディカルな他者論の中枢に日本が置かれているのは興味深い。
 多岐にわたっている対論を要約することは難しいが、訳者(塚原史)が的確な指摘をしているので引用させてもらう。

》「他者」という「同一者」に対立する異質な存在を「他人」の概念に還元することによって、西欧近代は異質な人びとを差異の組みあわせのうちにとりこみ、理解と同化の対象にしてきた。ところが、そのような操作が数百年にわたってくりかえされたあとで、他者性をめぐる場面に新たな展開が起こりはじめた。
 一方では、消費社会があらゆるモノと、とりわけあらゆる情報を記号化する過程で社会の構成要素の均質化が進行するにつれて「他者の省略」とでも呼べるような現象が生じ、「他人」はもはや情熱の対象にさえなりえない幻影(スペクトル)にすぎなくなってゆくが、他方では、何ものにも還元されず、共通項をもたない和解不可能でラディカルな他者性が生き残り、あるいは新たに生まれて、西欧世界に侵入を開始する、とギヨームは語るのである。 (「訳者あとがき」より)

 他者性を否認する方向に向かっている、と西欧を見る2人は、もはや人種差別は抑えられない、と悲観的に語るのが重く映る。

<某月某日>
 オウム真理教を巡り、吉本隆明氏が、公然もしくは隠然と「オウム擁護派」として多くの批判を浴びせられる中で、反撃を試みている。「サンサーラ」(徳間書店)95年7月号の「情況との対話」第28回の「オウム評価の原点」なる一文がそれだ。
 吉本隆明は言う。

》素人考えでいえば、麻原彰晃が特定の信者にサリンを製造せよと指示し、その特定の人物が実際にサリン製造実験に従事し、生成したサリンを溶液にして保存したものを、麻原彰晃が指示した特定の人物が地下鉄車内に運び、袋を破ってサリンを発生させたということが、物証や自供や目撃証言で確定的に結びつけられないかぎり、個々の実行者を殺人者にできても、教祖麻原彰 晃やオウム真理教の組織を殺人者や殺人集団と指定することはできないとおもえる。

 この発言は一般論で言えば正しいと思う。また、かつてのロス疑惑・三浦事件でのマスコミの先行過剰岡っ引き報道の例を思い出せば、十分な反省の上にあるものと言える。
 だが、正直なところ、この発言はだれが見ても現実的には説得力を欠き、色あせたものに思われる。オレは権力によって誘導されて明るみに出ている事実と称するものの多くが疑わしいものである! という原則を自らの体験を含めて否定しない。それゆえ、まさしく見てきたような嘘に加担する何のいわれもないが、少なくとも現下のオウム真理教の上祐史浩緊急対策本部長体制が、明瞭ではなくとも逃亡中の「特別手配犯」を除名していることを見れば、オウム真理教が数多くの暗部を抱えてしまっていたことは否定しようがないのだ。
 まさに獄中での自供の信頼性など割り引いて考えなければ、どうしょうもないが、オウム集団の内外から少なからぬ犯罪への関与が「自供」され「物証」として示されていることは疑いようがない。
 私は吉本隆明が麻原彰晃を評価することには何の異論もない。私自身、ヨガを若干かじった経験からも、麻原が修行者にとっては、「導師(グル)」と呼ばれるのは当然であったろうと思う。さらに、警察権力が全く根拠のない理由によって、多くのオウム信者を逮捕している事実は何よりも批判されるべきであることは、その通りである。私も警察国家化の動きを、断固としてこの間の「視標」で批判してきたつもりである。
 だが、その上でオウム集団を陥れたであろう「反国家・終末幻想」と「武装化」の意味を問わずして、次のような大見得を切るのはいかがなものか。

》もっとも瞑想的で平穏なはずのヨーガ集団が無差別殺人に結びつけられ、もっとも進歩的で左翼的と思われた政党の首班政府 が、もっとも反動的な政治行為に結びつけられる。そこにこそえぐりだすべき現在があるのだ。

 吉本隆明は本当に、いつから、どうして余計なことを言ってはマルクスの偉業にドロを塗ってしまった晩年のエンゲルスのようになってしまったんだ!
 ヨーガ集団がもっとも平穏だ、なんて誰が決めたのだ。
 ヨーガは追求していくと必ず、超能力へと到る。それは少なからず膨大なエネルギーを発するものであること(闘争的)は常識である。ついでに、社会党がもっとも進歩的だなんて、吉本隆明は今も本当に思っていたのか? もう35年も前に「擬制の終焉」で批判していたのは社共に代表される既成左翼の退廃ではなかったのか!
 少なくともオレらは、党派としての社会党が進歩的だなどとは口が裂けても言えないと、我が吉本隆明から学んだつもりだ。こんな大切なところで大ボケかまして。本当にボケちゃったのかよ。我が導師よ、ポアされては困るのだ。

<某月某日>
 J・ボードリヤールと吉本隆明の対論「世紀末を語る−あるいは消費社会の行方について−」(紀伊国屋書店、1400円)は久しぶりに楽しい本であった。
 実は吉本隆明さんと外国の思想家の対談はどうしても、何か吉本隆明さん側に遠慮があって、これまで必ずしもうまくかみ合っているとはいえなかった。今回も本当はそういうところが少なくないのだが、周知のように、私は両者を現代の代表的思想家として尊敬しているが、吉本隆明さんもまた、ボードリヤールのよき読者だけに、すれ違いはすれ違いとして、とにかく読んでいて2人の考え方の場所的違いがよくわかった気がした。
 私がいかにも、ボードリヤールだなあ、と感じたところはたくさんあるが、次の2カ所を引用しておこう。

》解放(リベラシオン)によって、自由(リベルテ)はむしろ消去され、清算され、真実の検証のために、真実は消え去り、共同体(コ ミュニティー)はコミュニケーションによって清算され、吸収されました。形態(フォルム)は情報(インフォーメーション)とパフォーマ ンスのために消滅しつつあります。いたるところに過剰と現実をもたらすことによって思想に終止符を打つのは、この逆説的な論理なのです。

》現実が完了して、バーチャル・リアリティーといったもののなかにわれわれが入りこんでいくときには、われわれはあらゆる領域である一線を越えてしまう。そしてある限界を越えると、われわれは判断がもはや不可能な地点にたどりつきます。つまり何が正しくて何が誤りなのか、何が善で何が悪なのか、そして、何が美で何が醜いのか、そういったことの判断がもはや不可能な、極端な現象がつぎつぎと出現することになります。このとき、われわれは政治的なものを越えて(トランス・ポリティック)、経済的なも のを越えて(トランス・エコノミック)、美的なものを越えて(トランス・エステティック)ハイパーリアルな世界に入っていく・・
     
 フランス語特有の言葉のデフォルメと、それを駆使した弁証法的思考が、とてもよく出ていると思う。そして、西欧社会が「歴史の終わり」状況の中で「透明な悪」と「他者」の問題に直面しており、ハイパーリアルな領域へと移行していることが、わかりやすく語られている。
 一方、吉本隆明さんの言っていることは、もうお馴染みのものである。

》経済的な消費を基にしてひとりでにリコール権が成り立っていますが、これを顕在化するにはどうすればいいか。それは、とても 簡単なことです。たとえば憲法のなかに、国民の半数以上が賛成だったらば直接無記名投票によって、国会とか代議士の賛否を介さないで、政府をリコールすることができるという条項を明文化すればいいわけです。そういう条項を設ければ、「明文化されたリコール権」が成立することになります。
 もし現在、「死」を見通せるかぎりの社会で、おこなうべき政治的課題があるとすれば、それだけです。

》ボードリヤールさんのいわれている日本だったら、日本人は起源をもたないため宗教も文化も猿真似じゃないかといってもらった ほうが、ほんとうな気がします。
 ぼくらが内側から考えていることは、まるで違うことです。アフリカ的段の日本まで遡行することです。    

 私は初期の限定つきだが断固とした吉本主義者であるが、両者を比較する時、ボードリヤールのメタファーに富んだ表現に圧倒された感じがした。

<某月某日>
 オレはいろいろな意味で心配している。何を、って。もちろん、わが吉本隆明尊師についてである。オウム問題で、なんとも仕方がないボケをかましてくれたが、今度は政治状況・阪神大震災・自衛隊にまでボケをかましてくれているのだ。ひょっとして、ぼけているのは小生の方かな、と冷静に自問してみるが、どうもアルツハイマー予備群の自分にしても、そこまでは間違ってはいないように思える。
 素材は「諸君!」95年9月号。評論家の芹沢俊介さんの質問に様々答えています。では、わかりやすいところからいきます。

》まず、阪神大震災に関して言えば、僕は企業家として、スーパー「ダイエー」会長の中内功の対応ぶりは、とても評価に値するものだったと思っています。「ダイエー」は、日本の高度な消費社会の中で、最も鋭敏に大衆の願望に対応している企業体です。

 ええーっつ。
 大局的に言えば、スーパー・ダイエーが日本の消費社会に果たした意味を否定できないとは思います。しかし、個別的なレベルでは相当ひどいことをやっているのは、いわゆる庶民なら誰でも知っているのではないでしょうか。ダイエーには安くていいものもありますが、そうでないものもたくさんあります。それなのに、ここまで1私企業を、わが吉本隆明師がヨイショしていいのでしょうか。
 ボランティアとして神戸に入った田中康夫さんが私怨もこもったダイエー・青リンゴ事件を書いていますが、いかにもかのダイエーがやりそうなことだと、私は思いました。
 あの中内というおっさんの顔を見ていると、そんなに立派な人にはとても見えません。事実、私の知り合いの女性はかの中内さんの企業で売り子をしていたのですが、大衆の願望とは別のレベルの「計算」でダイエーが商売をしていたことを話していました。
 西武の堤をヨイショしていたのは文化人としての、まあ一種の武士の情け、と思いましたが、ここまで来ると情けなくなります。

》事実として自衛隊が存在しているということは認めざるをえない。では、この存在の根拠をどこに求めるのか。僕はやはり、非常 災害に対する救援ボランティア活動に、それを求めるのが一番いいと思います。つまり、合憲でも違憲でもない「非憲」的存在として、国家の費用で賄う一種のボランティア的活動部隊であるという位置づけを明確にする。

 なんですか、これは。災害救援部隊としての自衛隊なんて俗論。もう語り尽くされてますよ。「非憲」なんてのインチキです。こんなことを言っていては、自民党はもちろん、かの社会党にすらバカにされます。政治思想としてはかなりプリミチブです。

》都市博は都民の利益以外の何物でもなかったということに都民の側は無意識のうちに気づき始めている、そうした事実がはっきりしつつあるんだ、というように、僕には思えます。

 本当ですか? 青島・ノック現象を評価しながら、そう言うのは大衆が見えていないような気がします。都民がそう思っているとしたら、もう名前も思い出せない石原ノブオとかいう官僚候補に投票しておけばよかったと大衆は思いだしていることになります。

》昨今の状況を見ていると、小沢一郎の理念、つまり『日本改造計画』の理念を中心とした勢力が担うべき時代が、どうもすっ飛ば されてしまって・・・

 ここは重大。吉本隆明さんが最も小沢一郎を評価していたはずで、吉本さんの見方がすっ飛ばされたことを意味するのでは・・・

<某月某日>
 私は吉本隆明さんが小沢一郎を高く評価していたとき、そりゃマキャベリストを文学的に読んでいる誤差があると、批判的意見を述べておきました。でも、思想者に今になって、小沢一郎がすっ飛んだなんて言って欲しくはないんですよ。
 昔、吉本隆明さんは、エンゲルスを批判してマルクスは原理的なレベルのことしか言わなかったのに、エンゲルスは言わなくてもいいことまで言って、マルクス主義を誤解させ俗流化させた、というようなことを語っていたと思います。
 今の吉本隆明さんには、1吉本主義者として、同じ言葉を言いたい気がします。「初期・吉本隆明に戻れ」とは、私の吉本隆明論のキャッチフレーズですが、もちろん昔はよかったということではなく、物事に対する構えとして、初期・吉本隆明は全くスキがなかったように思います。
 前の頁で述べた対談の中で、転向について吉本さんは自らの立場を清算しています。
 すなわち住井すえさんが戦争中に翼賛的な文章を書いていたことを批判している人がいることについて、自分も昔は同じような方法で壷井繁治や岡本潤を批判した。しかし、今はそれが違ってしまった。なぜなら当時は「人が無意識に近いところから時代の影響を受け、次第に意識的な考え方まで変わっていこうとする。その変わり様を、個々の理念とか、思想とかで防ぎとめようとするのは、じつは不可能に近いほど困難なことなのです。そのことを当時の僕はあまりよく考えていませんでした」と語っているのです。
 僕は「芸術的抵抗と挫折」「抒情の論理」の2冊を読んで、文学者という存在の意味の重さを教えられ、つまりは自らを合理化しながら、世の中に迎合していくプロスターリニストたちの生き方だけは、どのような時代にあっても選ばない。
 それが自立・自律ということだということを徹底的に学びました。
 それを、我が師はいとも簡単に「当時の僕はあまりよく考えていませんでした」と捨ててしまうのです。要するに、下司な言い方をすれば、吉本さんはダイエーの商法や小沢一郎を翼賛する自分を弁護するために過去の偉大な自立派の思想的地平を清算してしまっているように思えます。

》それは単に迎合というようなものではありません。社会のうちの何かが変わりはじめれば、人は不可避的にその社会の流れに飲み込まれていく。その力はちょっとすごいものだ、といまは考えています。

 当時だって、社会が膨化していく力は大きかったことは百も承知でしたよ。だから、まさに胆力を鍛え、思想を鍛え、単独者の栄光を担わされてきたのではありませんか。
 吉本隆明はかつてこう言っています。「知識を販ること、文を売ること、思想を売ること、政治運動を売ることは怖ろしいことである」「なぜ怖ろしいかといえば、これらは『行動』を売ることではなく『幻想』を売ることだからである。『やってみるだけ』を販売ることではなく『言ってみるだけ』を販ることだからである」(「自立の思想的拠点」)と。僕はその言葉を噛みしめています。あなたは言っていたじゃありませんか。「いつだって困難な道を選ぶものは少ない」とも。そうした道を選ぶ時、大衆の原像を鏡とするから、私たちが孤立しているように見えても、本当に孤立しているのは、大衆路線を強調しているだけの論敵であった花田清輝や新日文だったのではありませんか。
 戦後最大の最後の思想者の壊れていく姿を僕は見せつけられている思いです。
 僕は市井に生きる身ですから、会社のために働いています。小さな権威として若い社員には振る舞っています。そのことが<迎合>と、批判されるなら僕は何も言いますまい。そうした社会過程を見通した上で、我が自立論は存在したはずです。本当に私は親離れが遅すぎた道楽息子だったのかもしれません。

某月某日>
 谷沢永一『こんな日本に誰がした』(クレスト社、1600円)。そりゃオメーラだろうが、と言いたい。文学に対しては、知識の積み重ねによって、それなりにまっとうめいたことを言っていたのだが、その文学論も、現代になると、どうしょうもない俗論であることを暴露してくれるようだ。
 サブタイトルに曰く「戦後民主主義の代表者 大江健三郎への告発状」とある。これだけで、谷沢が大江が嫌いな理由がよくわかるというものだ。でも、結論だけは聞いておこう。

》大江健三郎が、反日本・反国家・反天皇の言説を、ほかならぬ日本国民に対して凛然として、明確に、率直に説き続けること四〇年を越すのであれば、その考えは根本的に間違っているのであるが、すくなくとも確信犯と見なすことができる。
 しかし、大江健三郎は、国内に向かっては、右顧左眄して、おちょぼ口で、口ごもって、どうにでも意味がとれる文学的修辞にかくれて、風呂のなかで屁をこくような調子で、言ったような言わなかったような態度に終始した。そして外国人に対するときだけ、打ってかわって明白に日本歴史と日本国民を罵倒して弾劾した。晴れの授賞式で演説した国際的活動 であるとの触れこみにすがって、ようやく(「あいまいな日本の私」を)日本で本にした。このような卑怯卑劣な使いわけには、確信犯の美学がひとかけらも 認められない。

 ここでのキーワードは「卑怯卑劣」であることはいうまでもない。要するに、大江が言っていることは、けしからんが、それ以上に物の言い方が外国では本音をいうが、国内ではごまかしているのが許せないというものである。
 大江が卑怯卑劣なら、その同類と対照的なのは誰か。同類は言うまでもなくオウム真理教の教祖・麻原彰彰であり、麻原が逮捕状が出た後、サティアンの隠れ部屋に篭ったのが卑劣であり、警察で自己主張をしないのは卑怯である、と言うのだ。一方、毅然としたものとした谷沢に賞賛されるのは戦前の日本共産党である。「昭和三年の日本共産党および関係者には、人間としての尊厳をなによりも重んじる昂然たる気概があった」。
 スターリニストだなあ。そりゃ、生きる上での態度はあるよ。しかし、それで、すべてを批判できるわきゃないじゃない。要するに、大江の態度が気にくわないことにかこつけて、大江を批判するのは卑怯卑劣である、とオレは思う。
 残りで出されている大江批判は結局は得意の進歩的文化人批判の繰り返しである。
 「国家の恩恵を享受しながらの反国家主義者」だとか「反防衛・反皇室・反自由経済」「暗黒史観・狂信史観・自虐史観・謝罪史観」とか言うものである。
 オレは戦後民主主義者でも進歩的文化人でもないから、その批判をどうこう言う気はしない。しかし、谷沢のような「天皇が大事」「国家が大事」という人間は自分を相対化できていないことがわかっていないことが滑稽なだけだ。
 マルクスじゃないが、本当にこういう反動は自分の殻に合わせて世界をみているだけで、自分を鏡に映してみようとはしないから理想主義者の愚劣を論じてもアホに見えるだけだ。
 
》日教組・進歩的文化人らに教育されてきた戦後世代、なかんずく全共闘世代には「正しきこと」をすべての尺度の最上級に置くメンタリティーが強い。

 絵に描いたようなポンチ絵の構図での全共闘批判だ。全共闘、なかんずく関西大学の諸君が谷沢を批判しておけば、こんな馬鹿がバッコしなかっただろうにと、思う。

<某月某日>
 1・18に星陵会館で開かれた全共闘を問う集会で、若い世代の代表としてカマセ犬役を演じた切通理作君が『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社、1900円)なる本を出した。切通はさりげなく「被爆二世の僕は」というあたりに無意識で自身のスターリニズムを暴露しており、大江の作品を批判するのは自由だが、そんなときに「大江は被爆者でもないのに」なんて言い出す感性が気になった。
 だから、神津陽に「大江チルドレン」などと的外れなレッテルを張り、先の全共闘集会で神津陽が述べた阪神大地震に対しても、「関係のかくめい」の内実が問われるのだという全共闘的原則的発言を「大人たちの造ったものがぶっ壊れて楽しい」と、はしゃいでいるなどと、全く低レベルで曲解して自分の方が大人だよなどという結論を誇示してしまうのである。
 先日、朝日新聞で、切通は先の集会の後に、中野で開かれた集会での小阪修平や吉本隆明のオウム真理教に対する「革命」発言や、「擁護」発言を、老成した小市民意識で批判していたが、誤解を恐れずに言えば、切通が言っていることより、思想と体験に真っ当に向きあってきた小阪や吉本隆明が言っていることのほうが、聞くべきことが多いのははっきりしている。
 さて、彼がシンパシーを感じているのが、あの連続企業爆破事件の狼やパレスチナでの日本赤軍のテロリズムだというのだから、うなってしまう。本当に、政治的日常にもまた重さがあるということが分からないで、夢想だけが先行する。

》逮捕された彼ら(狼)は、ごく普通のおとなしい人間たちだった。セクト活動との関わりさえ希薄だった。日本の侵略戦争を戦後民主主義教育で習い、その「教室での正義感」のみで行動した・・そんな彼らを、革マルや中核といったセクト集団は「小ブルラディカリスト」、つまり、甘えん坊の「おうちの子」の過剰な正義感に過ぎないと馬鹿にした。

 切通には革マルや中核が普通の市民とは無縁のセクト集団としか見えないようだが、オレは全くそうは思わない。革マルなど大嫌いで、多くの歴史的闘争の場面で反動として登場したことを今でも許せなく思っている。だが、それでも革マルのほうが切通よりはまともである。遅れてきた文学青年として、青春期にぶつかる自己に対する痛切な懐疑の哲学的自覚がクロカンを通じて革マルに行った多くの人間をオレは知っている。そして、全くまじめな労働者であるが故に、反戦派(中核派)へと進んだ人間も。革共同への理論的批判を除けば、彼らの多くこそ普通の学生市民であり、70年代ラディカリズムの無惨ではあれ、ひとつの帰結である、と思っている。それ故に連赤を含め両派の内ゲバは他人事ではない、と思ってきた。 

<某月某日>
 藤原伊織『テロリストのパラソル』(講談社、1400円)。第41回江戸川乱歩賞受賞の話題作。著者は麻雀大好き人間を自称している人物だそうで、その名も藤原利一。電通に勤めているが、東大全共闘・駒場共闘OBを広言しており、今回の受賞作もその全共闘体験を基に書いたようである。巻頭の言葉にも、「私と同時代を生きのびた友人たちにそうすることなく去った友人たちに−−」と記されている。
 久々の全共闘ハードボイルド小説。これは北方謙三の「あれは幻の旗だったのか」以来というべきか。例によって机上に1ヶ月位放っておいたのだが、某日一気に読んだ。さて読後感だ。江戸川乱歩賞の選考委員は皆さんベタホメというが、オレには今ひとつだ。
 どうしてかって? 
 オレは「世界の悪意」とかいうものは好きではないが、一応は認める。しかし、それに個人的な嫉妬や裏切りのようなものをからませていくのが好きじゃないのだ。つまり、ちょっとそういうモチーフによる矮小化を見ると、小説とはいえ、そんなレベルで運動の足元を掬うな、と言いたいのだ。オレの生きる上の作風がそういうもんを忌避するのだな。そういう意味で、「テロリストのパラソル」には、かつての兵藤正俊の「全共闘記」シリーズほどではないにしろ、陰湿さになじめないところがあった。
 推理小説に、あらすじの紹介はまずいだろうから、オレが良くも悪くも気になったいくつかの点を列記しておく。
 まず事実と事実もどきの混在。たとえば、駒場の理論的リーダーとして、Sさんなる人物が登場する。これが最首悟さんだ、とすぐ分かるし、本人も最首さんだと明かしているのだ。これはノンフィクションを装っているようで、虚実が皮膜1枚なのかも知れないが、小説が虚構なのか事実を素材にしているかの線引きが微妙で、その曖昧さがプロレスの反則に近い感じだ。
 爆弾を嫉妬からつくるという情念とその継続。おおらかな肉体派に対する観念派のコンプレックスって、のは確かにあるにしても、それが爆弾になって、実存化するものかどうか。妄執が爆弾に結実するというのは、ひどく貧しい想像力ではないか。そんなふうに爆弾事件が起こってしまう滑稽さと重さ。そのバランスの取りかたに疑問を感じた。
 偶然のテロリストが本物のテロリストに成り果てる原因の一つに、ある拷問装置が関与している。暗澹たる気持ちである。オレは拷問による人格破壊をありうることだと思う。
 オレはそのくだりを読みながら、政治というシステムの悪を感じた。だが、そうした拷問装置は個人を狂わすだろうが、それは類としての人間の尊厳を破壊することはできない。きれいごとのようだが、オレは絶望しない。
 物語はすべての当事者が新宿中央公園というひとつの公園にそろうというできすぎた状況に於いて、爆弾事件が発生するというところから始まる。そんなことがありうるだろうか、と言ってしまえばおしまいだが、そこのところがダメというと。物語は成立しなくなるというのが、良くも悪くもフィクションということかもしれない。
 オレは東大的特権意識にも、爆弾にも直接縁がなかった。強いて言えば、オレたちがバリケードを解いた翌日に、大学の民族資料室が、反日グループの爆弾らしきもので破壊されたということがあった。学部の活動家はみんな公安にマークされ、連日のように宿所に私服がやってくるということがあった。爆弾闘争は大衆運動つぶしだなあ、ってのが、その当時のオレの感慨だ。人間の共同の力を疎外して革命なんて、あるか。そう思った。
 閑話休題。「テロリストのパラソル」でオレが、好感を持ったのは犠牲者にして、主人公の昔の恋人の娘だろうか。この手の底抜けの明るさが、影と傷ばかり背負った登場人物の醸し出す重苦しさを異化してくれている。それだけが救いに見えた。

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