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加清純子 小伝
加清純子(かせい・じゅんこ、「かせ」とも呼ばれていました。サインは「Kasei」)は一九三三年七月、教育者だった加清保、テル(創価学会第二代会長・戸田城聖の妹)夫妻の次女として、札幌に生まれました。
庁立札幌高等女学校(中学)三年だった一九四八年に「ほうづきと日記」(ホオズキと日記―とも表記。油彩)が第二十三回道展に初入選し、注目されることととなりました。(その年夏に絵画の師・菊地又男と道東にスケッチ旅行に行ったようです。釧路、弟子屈、摩周湖、硫黄山などをまわりました。雄阿寒ホテルに宿泊し、雌阿寒岳にも登りました。この時の体験をもとにルポ「雌阿寒岳に登る」をのちに札幌南高生徒会文学部誌「感覚」創刊号=一九五〇年に書いているようです。ただ、この旅行については一九四九年だったと書かれているものもあります)。自由美術展、女流画家アンデパンダン展、全道展などにも出品、野見山暁治ら全国の画家に強い印象を与え「天才少女画家」として一躍、画壇のホープと目されました。
北海道立の札幌女子高校に進みましたが、一九五〇年に学制改革があり、自宅から近かった札幌南高校二年生に転入しました。南高同期生には才能溢れた荒巻義雄、渡辺淳一らがいました。のちに直木賞受賞作家となる渡辺淳一にとっては初恋の人であり、珠玉の青春恋愛小説『阿寒に果つ』の中で、ヒロイン時任純子として描かれています(初版一九七三、中央公論社刊)。
画家として嘱望されていた加清純子は一方で、札幌南高校生徒会文学部誌「感覚」に「雌阿寒岳を登る」を発表して、その清冽な文章にあふれた才能が評判となりました。文学少年の樫村幹夫、岡村春彦らに誘われて同人誌「青銅文学」に創刊メンバーとして参加します。同誌は加清純子を「主役」とした雑誌で、純子は表紙・挿絵を担当したばかりか圧倒的な筆力による小説「一人相撲」「二重SEX」などを次々と発表しました。
しかし、美術から文学へと活動の幅を広げつつあるころ、加清純子を取り巻く環境は必ずしも安定したものではありませんでした。広がりすぎた人間関係をめぐるもつれ、一番頼りにしていた姉の蘭子さんの上京、さらに新しい恋人であった岡村昭彦(春彦の兄)が釧路で逮捕される事件などが重なりました。なにより、戦後的自由を謳歌したアプレゲール(戦後反権威世代)には厳しい冬の時代が訪れようとしていました。日本国内では米ソ間の対立を反映して、さまざまな事件が起きていました。激化する労働運動を押さえ込むようにレッドパージが進み、労働運動の最大拠点であった国鉄では下山事件・三鷹事件・松川事件など謀略とも思える不可解な騒擾が相次いでいました。中国では共産党の主導する中華人民共和国が成立し、朝鮮半島では戦火が立ち昇っていました。
一九五二年一月十六日、加清純子は交流のあった男性たちの家に赤いカーネーションを残して札幌の家を出ていきました。そして列車に乗って道東へ旅立ち、岡村昭彦を釧路刑務所に訪ねます。その後、以前スケッチ旅行に来たことのある阿寒湖畔に入り、二十三日に阿寒湖の滝口を見に行くと言い残し、宿泊先の雄阿寒ホテルから姿を消します。
「天才少女画家」の失踪を新聞は大きく報じますが、手がかりはありません。おりしも、札幌中心部の路上で現職の警察官が射殺されるという「白鳥事件」も起こったばかりで、純子の失踪と白鳥事件との関連が疑われるということもありました。
真冬の失踪から約八十日、少し春めいてきた四月十四日、阿寒山中の雪の中で遺体が発見されます。加清純子でした。検視の結果、睡眠薬の服用がありましたが、死因は凍死だとわかりました。享年十八歳でした。
ホテルには未完の絵画「阿寒湖風景」などが遺されていました。また、彼女の没後も「青銅文学」には樫村幹夫の尽力により、遺作の中編小説「藝術の毛皮」が三回にわたって掲載されました。
加清純子の没後、ともに作家になった高校同期生の荒巻義雄が『白き日旅立てば不死』、渡辺淳一が『阿寒に果つ』という彼女をモデルにした小説を同じ時期に書き上げました。とりわけ、渡辺淳一は「運命の女性」として終生、加清純子にまつわる思い出を作品化し続けました。
また、姉の加清蘭子さんは日野原冬子名義による労作、加清純子遺作画文集『わがいのち「阿寒に果つ」とも』(青娥書房、一九九五年)を刊行しています。
加清純子の絵画の多くは散逸してしまいましたが、弟の詩人暮尾淳さんらの尽力で奇跡的に十五点が遺族宅に保存されていました。それらは暮尾さんより公益財団法人北海道文学館に寄贈され、二〇一九年四月から五月にかけて道立文学館特別展「よみがえれ!とこしえの加清純子」が開催されました。加清純子の絵画をより原画に近い形に修復し保存していくために、「加清純子とこしえプロジェクト」も発足し募金活動を行っています。
(加清純子とこしえプロジェクト編『プレイバック加清純子』、2019年10月13日所収)
加清純子の面影を追って
加清純子の実弟、暮尾淳さんに「一回だけの涙」と題した詩がある。そこには阿寒山中で亡くなった純子への家族の思いが綴られていて、心にしみる。
一回だけの涙 暮尾淳
中学生になったばかりの四月だったが
寺の畳の上に
涙の雫が滴り落ちるのを
驚いておれは見ていた。
それは六歳上の姉が
白木の箱に納まり帰ってきた
葬儀のときで
あの厳めしい父親が
立って弔辞を受けながら
小刻みに肩を震わせ
声を殺して泣いているのだ。
それ以来父親の涙は
喜寿を過ぎてのその死まで見たことはないが
おれもそろそろ
その年齢に近づき
悲しい別れにはよく遭うのだが
塩辛い涙の味を
忘れかけているようなのは
老化ではなく
感情の歩みが生来のろのろで
涙に辿りつく前に
涸れてしまうかららしい。
(以下略)
(「小樽詩話会52周年記念号」二〇一五年十二月二十日)
悲しみに満ちた葬儀の様子が浮かぶ。加清純子は一九五二年一月二十三日にホテルから失踪し消息を絶つ。三カ月後の四月十四日に阿寒山中で遺体が発見され、二日後に釧路で荼毘に付された。その後、遺骨は実家のある札幌に戻り、薄野界隈の寺院で近親者によって葬儀が執り行われたのである。
加清純子が交流を持っていた札幌南高校図書部の資料には、渡辺淳一が新善光寺の前で悲嘆にくれていた――という逸話も書かれているが、親族の話では同寺ではないともいう。
いずれにしろ、才能に満ちた純子の突然の死に一度だけの涙を流す父親(加清保)の無念の思いを描いたこの詩を暮尾さんは二〇一七年五月六日、北海道立文学館で開かれた「文学ライブ」で朗読してくれた。
その加清純子は今、菩提寺とは別の墓苑に移され、父親・保(一九七八年没)、母親・テル(一九八二年没)、長兄・準(二〇〇七年没)さんら彼女を優しく見守った両親・兄弟とともに静かに眠っている。
位牌の表面には「心峰妙純大姉」、裏面には「昭和二十七年一月二十三日、俗名 加清純子 行年十九才」と記されている。
札幌南高校の資料によれば、加清純子は「一九五二年二月十日 家事都合により退学(死亡)」となっており、遺体発見の前に退学届が出されたものと思われる。
ところで、加清純子の遺影には、知る限り三枚の写真が使われている。
➊一枚目の遺影を証言するのは純子の美術部の先輩の辻(中谷)慧子さんだ。
純子が亡くなってから一年後に辻さんはお参りのために加清家を訪れた。しかし、仏前はまだ落ち着いてはおらず、整理のつかない家族の心を映すようだったという。
その時、母親のテルさんから「何もないけれど、これを純子だと思って持っていてくださいな」と渡されたのが、(赤い)トレンチコート姿で、未来を見つめるかのような颯爽とした表情をした純子さんの写真である。
この写真はお母さんによって焼き増しされて、何人かの来客に渡されていた。
どこで撮られた写真なのか。その答えを明らかにしてくれたのは加清純子の姉、蘭子さんの親族であった。「よみがえれ!とこしえの加清純子」展開催中のことであった。
「あの写真の純子さんは右手をかけているのですよ」と親族の方は言う。「一体、誰にですか」と訊ねると、「蘭子さんです」と言って、一枚の写真を見せてくれた。
確かに、純子に勝るとも劣らない美人の女性が写っている。それが蘭子さんであった。
一九五一年(昭和二十六年)四月、東京・江古田の画家・井上長三郎アトリエにて撮影されたものであった。
蘭子さんの部分を削除したのは誰なのかは定かでないが、蘭子純子姉妹の写真が最初の遺影だったのである。
しかし、話はここで終わらない。
➋実は加清純子の遺影について渡辺淳一が『阿寒に果つ』の「序章」に書いているのだ。
「この春、私は久しぶりに札幌へ戻ったのを機に、二十年ぶりに時任純子の遺影に逢い、彼女の残していった絵と再会した。写真はコートを着てベレー帽をかぶり、陽が眩しいのかかすかに顔を顰めていた。当然のことながらその顔は二十年前と少しも変っていなかった。」
辻慧子さんが私達に見せてくれた遺影とは全然違うもののようである。
渡辺淳一に遺影を見せたのはやはり純子の母テルさんなのに――である。
小説『阿寒に果つ』が雑誌「婦人公論」に連載されたのは、一九七一年七月号からである。渡辺淳一は札幌医大を退職し、上京しており、そして一九七〇年七月に「光と影」で第六十三回直木賞を受賞した。その年十月に墨田区の山田病院分院(東向島病院)勤務を辞めて作家に専念し始めていた。
とすれば、『阿寒に果つ』のための加清家取材は七〇年末から七一年夏にかけて行われたと思われる。その間、七一年三月にはヨーロッパ旅行をしており、慌ただしさの中でのセンチメンタルジャーニーである。
渡辺淳一によれば、そのころ加清家で遺影に使っていたのは「コートを着てベレー帽をかぶ」った加清純子の写真であったのだ。
小説の中で遺影の「時任純子」に再会する場面に渡辺淳一の脚色が加えられていたとは思われない。とはいえ、ベレー帽姿は自殺が疑われ遭難死した少女の遺影にしては、いささか華やかすぎる印象であるのだが。
その写真は渡辺淳一文学館のご厚意により確認することができた(写真は同館提供)。岸壁に腰掛けポーズを取る加清純子の背後には、貨客船らしき姿が見える。小樽港あたりに思えるが、撮影時期や場所は不明だ。
蘭子さんとのツーショットから切り出したものと、トレンチコートが似ており、ここにも青春の面影が漂ってはいる。
➌道立文学館の特別展「よみがえれ!とこしえの加清純子」のために、純子の長兄である加清準さんのご遺族のお宅を訪ねたのは二〇一八年十二月から二〇一九年一月にかけてのことである。そこで、私と担当の苫名直子主任学芸員(現課長)は「ほうづきと日記」(ホオズキと日記)「静物」「阿寒湖風景」(未完)の三枚の絵を寄贈された。わずか三枚であるが、画壇デビュー作から遺作まで、溢れる才能で疾走した純子の画業が目の前にあるわけで感動を否めなかった。
二回目に訪問した時に遺族から「これが加清純子の遺影です」と渡されたのがセーラー服姿の加清純子である。
私たちふたりは辻慧子さん、渡辺淳一さんに続く第三の遺影を目にしたことになる。
前髪を切りそろえ、裾はカールしている。眉毛は線を引いたように描いている。少しエキゾチックな愁いのある顔立ちである。アプレゲール、アンファン・テリブル――反逆の天才少女画家――にしてはむしろ少し早熟なだけな一人の普通の女子高生にも見える。
加清家の中で、純子の遺影が、姉妹写真から切り出したものから、渡辺淳一の見たベレー帽姿へ、制服姿の正面写真へ、いつ、どうして、変えられたのかはわからない。
母親のテルさんも一九八二年に亡くなり、渡辺淳一もまた二〇一四年に亡くなった今では、その真相に手は届かない。
一方、加清純子自身による自画像は二枚あることが知られている。
➊一枚は幼さの残る純朴な少女である。髪は少し赤く染められているが、頬も赤ければ、着ているセーターも赤いので派手さもなく、なんの違和感も覚えない。
➋もう一枚は有名な、とてもモダンだけれども何か別世界で眠るかのような、白い氷の美女像である。この対照的な自画像は見るものに駆け抜けた時間の残酷さを感じさせる。
加清純子の面影を追うことは、ある種の迷宮に踏み込むのに似ている。
「純子の死を思うとき、わたしはいつも若さの痛ましさとともに、奢りの春ともいうべき、青春の傲慢さを覚える」
と書く渡辺淳一の背反する真情が、彼女の面影をたどることのできるいくつかの写真や画から立ち昇ってくるように思える。
(加清純子とこしえプロジェクト編『プレイバック加清純子』、2019年10月13日所収)
カーネーション幻想
渡辺淳一の『阿寒に果つ』(中央公論社、一九七三)を読んで一番印象に残るシーンは、加清純子が札幌の街を離れる決意をした後、親しかった男性の家の前に赤いカーネーションを一輪置いて、風のように消えていく場面だろう。
加清純子と赤いカーネーションのイメージはこの『阿寒に果つ』から喚起されてきた、あるいは渡辺淳一の証言から流布されてきたと言ってよいだろう。
しかし、あらためて『阿寒に果つ』を読み直してみると、若き作家となる主人公・田辺俊一(渡辺淳一)の部屋の前には時任純子(加清純子)からのカーネーション(カアネーション)が置かれたようには書かれていない。田辺俊一が「窓から外を見ると、軒端からナナカマドの樹の横を抜け二十メートル先の通りまで雪面に点々と足跡がついていた。それはかつて純子が夜遅く、気紛れのように訪れてきて窓をたたいた時と同じ足跡であった」となっている。それから、慌てて外に出てあたりを見回すのだが、「雪の止んだ路は月ばかり蒼」いだけで、人影もなかった。もし、窓辺にカーネーションが置かれていれば気づかない筈はないのであるが、そのことには触れられていない。
渡辺淳一には同じく思春期を回顧した『影絵』(一九九〇年)という小説がある。渡辺淳一と加清純子の交際も描かれており、別れの場面は次のようになっている。高校三年生になり大学受験を控えた主人公・高村伸夫(渡辺淳一)は時任純子との交際を諦めてしまっている。だから、彼女が札幌を離れる別れの場面も淡々と過ぎていく。
「純子が雪の阿寒へスケッチ旅行に発ったと知らされたのは、受験もさし迫った一月の末だった。/『しばらくは釧路にいるらしいけれど』/今度も怜子に教えられたが、伸夫はもはや特別な感情は覚えなかった」とあるだけである。
赤いカーネーションは『阿寒に果つ』では新聞記者・村木の部屋の窓辺にそっと置かれていたものである。
純子に別れを聞かされていた村木はしばらく札幌を離れていたが、戻って三日後の朝、なに気なく窓を見た。ガラスには冷気で氷の縞ができていて、その氷紋の中に赤く光るものがあった。「村木は不思議に思い窓に近づき、冷えたガラスの表面を指先でこすった。氷がとけ、小さく開いた空間から見えたのは赤いカーネイションであった」。それで村木は純子がいなくなったことを知る。
このように『阿寒に果つ』では村木にからむ出来事として紹介されていた別れのカーネーションだったが、渡辺淳一はその後、加清純子から恋人たちへの重要なアイコンとしてそのことを強調してていく。
たとえば『マイセンチメンタルジャーニイ』(二〇〇〇年)では「驚いたわたしはすぐ窓を開けてあたりを見廻したが、純子の姿はなく、かわりに窓の下まで積もった雪の上に、赤いカアネーションが一輪置かれていた」とある。
他にも「ふと異様な気配を察して目覚めたが、彼女はすでになく、深夜の雪明りのなかに、赤いカーネーションが一輪おかれていた」(『ラブレターの研究』二〇〇五年、『キッスキッスキッス』二〇〇二年を改題)、「自宅の部屋で勉強していると、なにか冷んやりする。そこで窓ぎわに近づくと、少し開いていて、その下の積もった雪の上に、赤いカーネーションが置かれていた。/咄嗟に純子が来たのだと思って外に出てみたが、雪の夜道に彼女の姿はすでになかった」(『瓦礫の中の幸福論』二〇一二年)などとなっている。
カーネーションは今では五月の母の日の花として広く知られている。一年を通じて栽培されるが、高温多湿を嫌う一方、日照は欠かせない。北海道内ではハウスや温室内でなければ冬場は栽培できず、雪に覆われる一般家庭での栽培は難しい。とりわけ加清純子が生きていた昭和二十年代後半(一九五〇年代)は流通量は限られていたことだろう。
それならば、加清純子が置いたのは本当にカーネーションだったのか、との疑念も浮かぶ。あるいは造花ではなかったのか、とも。唐突に札幌の街を出て行く加清純子に何本も造花をつくる精神的余裕があったかと言えば否定的にならざるを得ない。
しかし、――である。おそらくは本当のカーネーションだった。そのことを証言しているのが姉の加清蘭子さんである。
度々、上京はしていましたが、正式に札幌を去ったのは、昭和二十七年三月です。その日も、その前の日も雪の降る日でした。私は前の日の夕方、数本のカアネーションの花を買いました。雪の日に華やかな花を買うという、このキザな行為は私の特別に気に入っている行為のようです。本年二月、札幌を訪れた時の手土産に、思わず花屋でサイネリアの紫と薄桃色の鉢植えを買ったのを思い起こし、苦笑せずにはいられません。
加清蘭子「雪の降る日」(「北方文芸」一九七五年四月号)
昭和二十七年(一九五二年)三月。加清純子が一月に失踪してからまもない時期である。蘭子さんは花屋でカーネーションを買っているのだ。加清純子もやはり花屋でカーネーションを買って、恋人たちの家を回ったに違いない。
ちなみに、蘭子さんが花を買ったのも純子とほぼ同じ理由と言ってよいだろう。
私はネッカチーフをかぶり、数本の赤いカアネーションを抱き、儀式にのぞむ真剣さで目標の家に向かいました。文学青年の下宿の窓には明りがついています。一本のカアネーションを抜き取って窓辺に近寄りました。音楽が聞こえます。カーテンの隙間から覗き見しました。女の人がコーヒーを入れています。青年の落ちつきはらった横顔が目に入ったとたん、私は花を引き千切って窓辺の雪に叩きつけ、まろびながら走り去りました。そんなはずはないと怒りながら、私の身勝手な思いのやり場がなくて涙を流しました。
いい加減な人であることは承知の上で、そのいい加減さに結構魅力を感じていたのですが、さすがに辛かったのは、二本目のカアネーションを置きに行った時です。どうせこんな時間には帰って来ていないと解っていましたので、部屋が真暗だったのには失望しませんでした。優しい気持ちで窓辺の凍てついた雪にカアネーションをさして、さようならと言って帰りかけました。雪の中から聞きなれた懐かしい少女の声がします。その人は、私の妹と腕を組んで帰って来たのです。 (同前)
加清純子は昭和二十七年(一九五二年)三月には、もう阿寒山中の雪の下で眠っているのだから、蘭子さんが純子を見るはずがない。ここには無意識の創作があるか、時間の混同・記憶の揺らぎがあるのかもしれないと思う。確実なことは、姉の蘭子さんにとってもカーネーションは別れの儀式だったのだと知る。
加清姉妹にとって、なぜカーネーションだったかはわからない。
蘭子さんが書いた追悼詩「純」には次のような一節がある。
せめてその髪をなでつけ
くずれかけた頬にくちづけし
お前が生命のように愛した
くれないのカアネエションを抱かせて
加清純子の遺作小説「藝術の毛皮」にはカーネーションが恋人への愛を告げる花として、繰り返し登場している。「私、奇妙な趣味があるの。それはね、命がけの恋、貴男をのぞいてたった一度しかなかったけど……その恋の相手にカーネーシヨンの花を贈った事があるの。それからカーネーションが大好きになっちゃって、貴男のお部屋から見える所に、一杯カーネーションの種子をまきたいわ」
ラストシーンでは丸井デパートの屋上から飛び降りようとするのだが、結局思いとどまる。どうしたかと言えば、「何故か彼女は赤いカーネーションを一本、ひら〳〵と舞い落しただけで、後も見ずに、屋上から降りて学校へ向ってしまったのだ」。
カーネーションは彼女自身であり、彼女の身代わりと言える。エッセイ「花のいのち」でも同じである。「気が向くと私は複雑な思いで、今井の屋上から赤いカーネーションの花束を投げ落とした。ある時は人に拾われ、ある時は踏み躙られた。拾われた花は、どんな場所でひととき生きたのだろうか。私は落ちた花になってみたい、と本気で思ったこともある」。
加清純子にとって、カーネーションは愛と生命と死のシンボルであり、青春だったのだろう。それは渡辺淳一にも赤いカーネーション幻想として引き継がれたのではないか。
加清純子はアプレゲール(第二次世界大戦後の反権威世代)として走り続けた。できうるならば、肩の力を抜き重荷をおろせばよかったのに、と思う。「落ちた花」という加清純子の言葉から、現代歌人、福島泰樹の一九六〇年代の青春の一首を思い浮かべつつこの原稿を閉じよう。
愛と死のアンビヴァレンツ落下する花 恥じらいのヘルメット脱ぐ
(加清純子とこしえプロジェクト編『プレイバック加清純子』、2019年10月13日所収)
戦後まもない札幌の街をきらめく感性とたぐいまれな表現力でさっそうと駆け抜けた「天才少女画家」がいます。加清純子(かせい・じゅんこ、一九三三~五二)です。中学三年のときに油絵「ほうづきと日記」が道展に入選、十代でアンデパンダン女流画家協会展や自由美術展など中央画壇に活躍の舞台を広げました。多感で揺れる内面をシュールに描きあげる一方で、大胆な意想の小説「二重SEX」などを次々と発表し文学の分野でも注目を集めました。まさに表現の未踏の領野を目指した戦後反権威世代(アプレゲール)のヒロインの一人と言えます。しかし、十八歳の冬、阿寒山中で姿を消し、唐突に生涯を閉じてしまいました。
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