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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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 パソコンを読む  1・2・3  1998〜2000

「読書北海道」web版に1998年から2000年にかけて、パソコンとパソコン関連の書籍などについてのコラムを執筆した。もう20年以上前の話である。高度情報化が進み、大半の内容が現在にはそぐわないが、コンピュータがパーソナルなものになり、ワープロ専用機からDOS/Vパソコンが普及し始め、パソコン通信が一般化し、ニフティーサーブなどにつくられ各種フォーラム(BBS)が若者の新しい広場になった。世界の終わりが来るような2000年問題やら、DOS/V系のWindows対Mac対決などが華やかとなり結局はMac的な世界観が逆転勝ちするわかだが、今さらと思いつつ読んでいくと、ひとつのインターネット興隆直前のユーザーの現在進行形のルポだったと言える。新聞よりも圧倒的にネットが情報入手の中心となり、スマホやタブレットがあたりまえの情報ツールとなっている年若き人たちにも何かの参考になれば嬉しい。


【パソコンを読む】1 <孤独な私のマックは使えるか>  (1998.12)

§1《流行には乗るのがミーハーの基本》
 いまさら−ではあるが、マックユーザーの仲間を入りした。「何を酔狂な」というなかれ。何せ志の低い谷口のことである。きょうびPCの定番といえば、もちろん<iMac>。本当に売れているらしい。あのブルーのスケルトンボーイは若い娘が「キャワイイ」と叫ぶほどの大人気との噂を聞いて、物欲中年ミーハーのさもしいサガが動いたのだ。風桶的な短絡方程式は次の通り。
 <iMac>は若い娘にモテる。
 <情報>を共有できれば話題に参加できる。
 おじさんにもモテるチャンス発生。
 そろばんパチパチ(パソコン・かちゃかちゃ)。
 答え一発(ちょっと古いか?)。
 当然<iMac>は買いでしょ。
 17万8000円で<私>に<愛>が手に入るのですから。
 パソコン・フェチにふさわしい思考と実践の典型かな。やっぱ。

 貯金はたいて即購入。やはりメモリーは64M増設してもらう。あれれ、持ち帰るには結構重いし箱もでかいなあ。でました。やはりブルーのボディがカッコイイ。しかも一発で立ち上がる。Windowsほど初期設定をしつこく聞いてこないのが気に入った。でもキーボードは貧弱だな。オールインワンとはいうが、実用ソフトはクラリスワークスだけか。オフィスぐらいは入れておいてほしい。だけどポストペットが入っているのは泣ける。まずまず期待は大だな。
 てな具合に購入・開梱が進行。
 それで肝心の機械の使い心地ですか? インターネットをやるには簡単ですね。マック初心者にもすいすい。とりあえず。しかし……。

§2《原稿書くならWin機でOK》
 僕は元々東芝のダイナブックを軸としたMS−DOS系ノートパソコンのユーザーであり、WindowsがVer4.1ともいうべき98になっても、相変わらずDOS流でファイル管理している人間である。アイコンがどんなに可愛くても、ファイルネームに拡張子が付いていないと不安なのである。そんな僕のような人間から見ると、マックは謎が多い、というのが素朴な印象である。そりゃ、使うのは簡単。コマンドを打てとまでは言わないけれど、簡単に発生するフリーズを含めてなんでそうなるの、という感じだ。古くからのユーザーには今さらというか、当たり前のことかもしれないが。
 実はWindowsもそうだが、ブラック・ボックスが多すぎるような気がしている。MS社の最近のアプリケーション・ソフトを見ていると、まさに横暴の一言に尽きよう。インストールすると、勝手にシステムは変えるし、それならばとアンインストールしようとすれば凄く面倒だし、わんさか虫もいるし。それに重たいし。OSはシンプルであって欲しい。
 一番いいのはUNIXということだろうが、素人にはちょっと難しすぎる。(とはいえ現在、休眠の時間が増えた東芝ダイナブックSS433改にLinuxインストールを試みており=苦戦中、その報告は別の機会に譲る)
 Windowsも少し飽きたことだし、<iMac>購入はまさに渡りに船の気分転換でもあったのだ。ところが、簡単すぎるのが怖いのはともかく、マックには今なお宗教団体的熱狂的信者が多いのには呆れた。初心者として勉強のためにネットや書籍を覗くと、ファンダメンタリストが「マックが一番!」「異端者は地獄に堕ちるぞ」的発想で、いまだに偽GUI=Windows陣営を痛罵しているのだから、怖い!
 別にWindowsになじみが深いから言うわけじゃないが、一般的な使用感ではWinもマックも大して差はないと思う。Winはダサくてマックは洗練されているということは今やない。にもかかわらずマック教徒は自分が優れている、正しいと信じている。Winはリブレットをはじめとして1キロ前後のポケットサイズを実現しているにもかかわらず、マックはノートでもいまだバカでかいマシンが主役だ。純血第一で互換機がないのも古風というか第2次大戦を起こした選民主義的な思想を感じさせる。これも今さらか。うーむ。やっぱり、マック信者はシェアを20%くらいまで持たせないと、まともにならないのではないか。言い過ぎかな。
 Windowsとマックと言うが、普通の人がパソコンで一番使う機能って、やはり、ワープロだろう。原稿書き。これはエディタが一番いいのだが、それじゃ、ワープロ専用機に負けてしまうので、一太郎だのワードだの使っているわけね。これってOSにこだわるよりはまあ使い慣れたソフトにこだわるわけ。ならば、日本語ワープロソフトといえば一太郎だったわけですから、DOS−Windowsでいいわけ。あえてマックにする必要はない。あと、PIMソフトはおまけでついてますから、結局はWin機で用は足りてしまう。衝動買いに走った人間には、使い分けの大義があるかどうかが、今後ボディブローのように効いて来るような気がする。

§3《周辺環境整備が大変だ》
 で<iMac>。 これはネットワーク・マシンです。何しろ周辺機器はUSBでしかつながらない。旧来のシリアルもパラレルポートもPCカードスロットもない。Windowsマシンとの接続は、プリンターは、フロッピーは、バックアップはどうするねん? もし、スケルトンキーボードが壊れたり、音のうるささで定評のあるCDドライブが故障したらソフトのインストールは?
 結論。
 スタンドアローンでは、どうにもなりません。既存部品は在庫なし状態(最近は大分出回って来つつあるようだが)。慎重に大切に使うべしだ。とにかく新たにUSB対応装置をそろえなければまともな環境は作れません。隣にWindows関係機器があっても全く使えません。FDDから始めてプリンター、Zip、MOなど環境整備が必要でしょう。うーむ。<愛>は孤独だ。ネットを組むか、ノートマシン購入が不可欠か。
 ついでながらマック派なら悪貨は良貨を駆逐するというかもしれないが、Windows系に対して、マック系は、パッケージソフトがめちゃ高い。シェアの差かもしれないが、正直、これからマック・ユーザーになる人は、よほどのお金持ちでなければならないだろう。まあ昔からマックはデザイナーなど自由人とお医者さんなどのエリートがユーザーの主流だったしなあ。
 MSはマックを飼い殺しにするかのように手を結び、オフィスソフトを遅れ気味に出す一方、ネスケではなくインターネットブラウザを狡猾にバンドルしている。マックとは肌が合わないとはいえ、店頭で一太郎はまだバージョン5が売られているというのにはあきれてしまう。
 誤解ないように言っておけば、Windowsだマックだ、という優劣論争には全く興味はない。問題は<iMac>がどれほど大衆ユーザーの期待に応えているかどうかである。
 ここで原則論。ハイパー空間で<自立派>を気取るのもいかがなものかと思うが、少数の前衛よりも大衆の利益に価値の基準を置くというのが、自立派の基本である。大衆的動向から孤立しないこと。情報帝国主義社会においても大衆の自立こそがキーワードである。まさにその指示向線から、パソコンを巡る現象を読み解いていくことこそを、ハイパー自立派の要諦としたい。
 <iMac>に論じる価値があるとすれば、新たな大衆装置だからだこそである。

§4《結局はインターネット》
 使い始めてわかったのだが、多勢に無勢というか、<iMac>は出るのはいかにも遅すぎたような気がしている。マックが得意とする音楽やグラフィックなどのために使うには、<iMac>のスピーカーやモニターではいささか貧弱である。五月雨的に導入されたMACOS8.5もバグがあるとかないとか。お絵かきやゲームなど、たぶん家庭などで親子がパソコンの楽しさを知るにはもってこいかもしれないが、ビジネス用とは言い難い。
 Windows陣営が遅ればせにGUIを通信機能を強化して躍進しているのをよそに、マックの経営者は唯我独尊、そろばんをはじくのと内紛にあけくれていたという話を聞いたことがある。ビジネスユーザーを取り戻し、そのツケを払うことは1台の魅力的なマシンだけでは難しい。
 さて我が愛しの<iMac>である。これからどうしようか? 僕のようにブームに乗ってしまい(自業自得であるが)、Windowsユーザーで、初めてのマックパソコンが<愛>ちゃんという方々が、どんな使い方をしているのか興味深い。
 人気沸騰の<iMac>は使えるか?
 使えるが、限界が多いというのが、僕の答えである。
 だからとりあえず、インターネット。電脳版「読書北海道」を読むには便利だ。ニフティ以外のBBSのパソコン通信をやるには別途ソフトが必要なのはつらい。Win機と同じことをやるならWin機で十分。それ以外の使い道を考えているなら魅力的だということだ。
 そしてトレンディーな風潮に乗り遅れず、女の子にモテたい人にはやはり話題のタネになるから、購入しておくのは一興だろう。いろいろいじりまわしとりあえず、楽しむ。飽きたら、見栄えのするインテリアの一つにする。
 最終結論。
 <iMac>は、金に余裕があるなら迷わず買うべき逸品。だが、Windowsユーザーは果てしない試練が待っていることを覚悟すべきだろう。オススメ度75点。


【パソコンを読む】2 《サイバースペースからの挑戦状》 (1999.2)

§1《インターネット規制の大合唱》
 インターネットを巡る情勢が急を告げている。
 年末年始からの青酸化合物宅配事件・女性への暴行を呼びかける嫌がらせ書き込み問題などを中心に「顔の見えないメディア」犯罪がクローズアップされ、明らかに、権力とそのお先棒担ぎらが「規制を強化しなければダメだ」と叫び始めている。電子メールの盗聴の法案はもとより、すでに民間反革命宗派集団(ちょっと左翼っぽい言い方で恐縮だが)の一部は<有害>サイトを見つけては、プロバイダにチクり・恫喝をかけて掲示板などの削除を働きかけたり、警察権力にタレこむという活動を始めているともいわれる。事実、エロサイトといわれるいくつかのホームページに対して公権力が摘発に動いたり、プロバイダが掲示板の削除を強制する事態が引き起こされている。マスコミに取り上げられては営業的にマイナスというプロバイダ業界の事なかれ主義が事態の悪化に拍車をかけるのに反比例して、これらの動きに対するネットワーカーの声はほとんど封殺され、よくて「自主ルール」論が取り沙汰される程度の反撃に止まっている。
 自由なメディアであるはずの(厳密な意味ではこれ自体、もちろん幻想でしかないが)インターネットが集中砲火を浴びる事態は、管理社会のサイバースペースへの浸透として注視すべきテーマである。本来的にアナーキーなリゾーム型メディアであるインターネットに対して、これを商売として成立させようと考えている部分は、当然ながら管理強化・運用の制限を主張する。確かに、電子バンクを中心とした商取引に於いて、不法なアクセスがはびこればその商売が破綻してしまうことは明らかだ。だからといって、一部の経済的利害のために介入が強化されてよいのか。
 僕の見るところでは、インターネットに対するイメージダウン作戦は意識的であるかどうかは別にして2つの方向から展開されている。
 1つは1997年に日本でも出版されたクリフォード・ストールの「インターネットはからっぽの洞窟」(原題「Silicon Snake Oil」、草思社刊、2200円)に代表される冷水的主張である。すなわちインターネットはプラス面ばかり強調されがちだが、実際には今ある社会のいいところをだめにしてしまう。たとえば考える力や好奇心を失わせる。顔のないネットワークは対立や敵対心を増幅させる。デジタル化で図書館は巨費をつぎ込んだ挙げ句に機能を失っていまう。などなど。<シリコンの蛇油>は万能薬のような顔をしているが、落とし穴がいっぱいだというわけだ。確かに情報は膨大に流れているが、肝心のものは少ない、あるいは探し出すのに時間を食う。そのようなメディアは情報の海に人間を溺れさせるだけだ、という考えだ。
 これは日本で最初にデータベースを活用した著書を出した作家といわれる広瀬隆の「地球の落とし穴」(NHK出版、1998年、1500円)にも通じる主張である。広瀬隆は「インターネットは幸せをもたらすか」と自問し、人間はタイプライターをたたく猿ではない、と結論づける。そして、広瀬は自らの仕事に関してインターネットなどのデータベースよりも、きちんとした書類を利用した執筆の方を選ぶ、ちょっとした便利さのために50年間覚えていた文字を忘れることを、思考力を失わせることを恐れる、コンピュータを使ったつもりでも単にソフト屋に踊らされているだけだ、インターネット中毒症に特徴的な傾向はほかの手段でもできることをインターネットだからできたと勘違いしていることにある、などとばっさりと斬ってみせる。
 ここには確かにブームに対する批評として傾聴に値する指摘が少なからずあろう。
 しかし、現在声高に響いているもう1つの主張はインターネット自体の可能性を封じ込めようとするものだ。この主張の中軸には2つのキャンペーンが据えられている。
 1つはハッカーの問題。
 2つは反社会的・有害ホームページの問題である。
 最初の問題はつまり大学や企業、研究機関のイントラネットに本来参加できない人間がファイアウオールの壁を破って侵入し、データを勝手に持ち去るか破壊する行為は許されないとする批判である。もう1つのほうは、たとえばエロサイトや毒物、薬物などの情報提供サイトが青少年に悪影響を与える、というものである。だからネットワーカーを取り締まれ、という短絡的な結論がはびこることになるのだ。
 これら2つの問題は<反社会的>という意味では確かにその通りである。だが、一般的には正しいと思われる結論も、仔細に見ていけばその正当性は極めて危うい。
 たとえば、ハッカー自体はむしろネットのシステムに精通した人間が良い意味でも悪い意味でも主役であり、だからといって管理強化を一般レベルまで広げるなんの理由にもならない。ハッカーの取り締まりは口実であり、無制限に拡張解釈される危険性を持っている。ネットワーク自体がハッキングを前提に成立していることは、技術者には常識ではないのか。本来、技術の問題を制度の問題にすり替えるべきではないのだ。
 一方、不愉快な・反社会的なホームページが存在することは事実であろう。しかし、これを制限して抹殺することはまさに人間的自然に対して抑圧的である。少なくともネットワークはオカルト的超能力を持っているわけではないから、直接的に人間を殺すことも悪を為すうこともない。媒介的な意志の問題を誤解してはならない。インターネットは極めて主体的なメディアである。まさしくネットワークする人間が善も悪も見分けていく姿勢が欠かせないのである。
 ネットワークもまた1つの社会であるとすれば、そこの住人にはさまざまな人がいる。彼らが社会を直接的に破壊するとすれば問題であるが、少なくとも自分のホームページで何を主張しようと自由である。そのページを見るものはそれ相応の代償を支払わなければならないだけだ。
 インターネットは当初、軍事的な目的が背景にあっても、実際的には民間転用によって新しい可能性を開いた。それを支えたのはハッカーやプログラマーや無数の熱心なユーザーである。技術力のアップとともに、試行錯誤の積み重ねが今日の興隆を招来せしめたのである。
 インターネットは自由な意志が選択して、参加することで初めて成立するメディアである。未熟なメディアであっても、その質に関して言えば明らかにユーザーの成熟度が問われるメディアなのだ。このことは矛盾である。しかし権力によって解決できる矛盾ではないことを確認せねばならない。

§2《マスコミかインターネットか》
 こうしたインターネットを取り巻く否定的状況に対して、ネットワーカーの側はただ手をこまねいているだけか。しかし、僅かながら新しい芽も生まれている。
 ここにインターネットをやっている人にはぜひ読んでいただきたい本が出たので紹介する。タイトルは「サイバースペースからの挑戦状」(雷韻出版刊、1998年、1400円)である。著者代表は河上イチローさん。自らきわめてユニークなホームページ「デア・アングリッフ」を開いているが、その情報発信活動の素晴らしさから、神戸の小学生殺傷事件の真相を究明していると称するグループからCIAのエージェントだ、外国人だ、犯人だと、「誤爆」された人物である。(もちろん、河上氏はその「誤爆」には無慈悲なほどの完膚無きまでの反論を展開して、そのグループは情けないことにインターネット利用者の前に恥をさらしただけに終わったらしい)
 挑発的な、その本の内容全体をここに記すわけにはいかないが、インターネットの基礎知識から始め、マスメディアとインターネット、インターネット事件簿、陰謀論の世界などがネットのホームページ主催者たちとの対談などを幅広く展開している。酒鬼薔薇事件をめぐって一部で話題になった表現の自由を標榜する朝日新聞がネット・プロバイダに圧力をかけたとの風評が流れた問題についても丁寧に分析されている。
 河上さんが言っていることを要約すれば、次のようになる。
 「インターネットの世界は玉石混淆である。情報の宝庫である掲示板を上手に利用しよう。インターネットは便所の落書きではない。誤った情報を真実のように垂れ流しているのは、むしろマスコミである」
 これは、マイナーとはいえマスコミの端くれで禄を食んできた人間にとっては、結構ショッキングな主張ではある。
 河上さんが「テレビ真理教」「マスコミ真理教」(阿修羅さん命名?)に比べて、インターネットが情報の精度で優れていると考えるのは次のような理由からである。
 テレビや新聞はそれぞれに情報を発信する。たとえば「読書北海道は発行人がインフルエンザのため一週間休んだ」とA紙が報道するとする。しかしB紙は「読書北海道は経営がおもわしくないので休刊した」と書いているとする。ふつう一般の人は一つの新聞しか取っていないから、相反するそれぞれの新聞の記事を真実と思ってしまう。どちらが本当か? 「マスコミ」だけではわからない。
 これに対してインターネットはアナーキーなメディアであるから、A紙の報道を誰かが紹介すると、たぶん間髪を入れず別の誰かによってB紙の報道も紹介される。そのうち、路地裏を徘徊している情報通から「読書新聞は偽装休刊して、ライターの総入れ替えを図るらしいゾ」「いや、週刊から隔週刊に移行するらしい」「拠点を北海道からNYに移して<読書世界>と名前を変えるらしい」「代表は引退するらしい」などと、次から次に真相めいた話が流される。もちろん大半が「便所の落書き」である。しかし、多くの情報には必ず批判・反論・補遺が加わる。それがかなり重層的にしつこく行われるわけだから、「トンデモ」情報は一時的に耳目を集めても結果的には次第に淘汰されていく。最終的に真実が何か明確にはわからないとしても、おぼろげながらのアウトラインは見えてくる。そこが双方向的なメディアとしてのインターネットの特徴である。
 その間、テレビや新聞は一方的な情報を流したまま、Aが正しいのかBが正しいのか対応はないのが普通である。最終的に代表が出てきて「さまざまなオプションはあったが、現在の体制を継続する」と記者会見して、マスコミはようやく軌道修正するという次第である。(注意・以上はあくまで「たとえ話」である。本当の話ではない!)
 つまり、情報の多様性からも速報性からも問題提起性から見ても、さらには非権威的であることを含めて、マスコミよりもインターネットのほうが、勝っている。もちろんインターネットが新聞などのマスコミに取って替わることはできないが、その偏狭さを補うゲリラ的メディアとして共存する可能性があるというわけだ。

§3《参加型メディアの魅力と可能性》
 僕がパソコン通信を始めてから約10年経つ。
 始めた当時は草の根ネットが全盛だった。パソコン通信の雑誌を購入すると、全国各地の草の根ネットが掲載されており、その中から自分に適いそうなネットを探し、登録して参加したことを覚えている。ネットの構成はだいたいシスオペがいて、掲示板(BBS=bulletin board system service=電子掲示板システム)と4つか5つくらいのフォーラムが設けられている。たとえば、読書とか映画とか。そこで自分の趣味にあったところに参加して、発言をしたり読んだりする。
 たぶんそこは60年代のラジオの深夜放送のような世界に似ていた。フォーラムという広場に特に革命的な何かがあるわけではなかった。だが、日常をちょっと超えたところで、集い語り合っていた。誰かが問題提起する。それに次から次とコメントが付く。そのうちキレる人間や人格攻撃や錯乱する人間がでてきて、バトルロイヤルが始まる。まさに収拾がつかなくなると、シスオペが出てきて、仕切り直す。不穏当な発言は削除される。そうすると、それをめぐって横暴だ当然だと、また論議がぶり返す。そして再びシスオペ登場。そんなことが延々と続いていた。なにか熱い叫びのようなものがあった。それがパソコン通信の魅力だった。
 パソコン通信が家内工業的な同心円的メディアとすれば、インターネットは大量生産的かつ分散的なメディアである。だが、どちらも参加型であることに変わりはない。しかし、インターネットでは、パソコン通信のように密集したある種の共同参加による熱狂はもはや持ち得ないだろう。拡散する宇宙のように情報だけが垂れ流しにされる。とすればやはりインターネットは情報洪水のからっぽの洞窟なのか。
 僕は違うと思う。
 かつてのラジオの深夜放送やパソコン通信の白熱の掲示板の再現は難しいだろう。だが、インターネットの持つ情報量の膨大さは明らかに武器である。多くの石の中から自分に合った玉を探し出せばよい。それを基本に利用すれば、新しい表現の広場は作り出せるのではないかと思っている。
 では、何をすれば?
 とりあえず自分のホームページを創ることが第1歩であると言おう。
 インターネットの双方向性を活用したいならば、ホームページを立ち上げることが不可欠だと思う。実際にやればわかるが、内容やレイアウトの問題はさておけば半日でホームページはできる。本当に決して面倒なことではない。(個人的にはIBMのホームページビルダーをオススメする。安価でハイパーテキストを知らなくても簡単にページが作れ、送信できる。僕は読書北海道に触発されて、自分のホームページを早速立ち上げた)
 ホームページはかつて掲示板や一枚のはがきが果たしていた役割を担う。そこでは単発的な発言ではなく、重層的な表現が可能である。さまざまな人のホームページの掲示板で発言する一方で、自分のホームページに他人を引き込む。ネットワークという特性を生かし、相互に自分の主張をリンクさせるのである。それによって、新しい共同の場は可能であると思っている。
 たとえば、「サイバースペースからの挑戦状」でも紹介されているが、「マルチメディア共産趣味者連合」というホームページがある。いわゆる左翼オタクのページだが、これを軸に「現代古文書研究会」「遊撃インターネット」「国際共産趣味ネット」などがリンクを張っている。これらは横断的関係にあり、どちらが上位というわけではない。そこに面白さがある。もちろんゴミはゴミであるが、ネットワークは従来のコミニュケーションのヒエラルキーを解体し得る一例である。
 百花斉放のホームページに対し「管理強化を」「倫理綱領が必要」「電子メールを盗聴せよ」と叫ぶ人たちに、僕らはどうこたえようか。自分たちのホームページが安全であり、それが公序良俗に反しないと考えるのは傲慢である。このことに鈍感なネットワーカーと代行主義者たちが世論をフレームアップしていることに現在の危機がある。この教訓はたとえば西義之「ヒットラーがそこへやってきた」(文芸春秋、1983年新装版刊、1000円)を読むとよくわかる。絶叫せず微笑する全体主義は時をはかるようにやってくるのだ。僕たちは規制の動きには断固反対の声をあげるとともに、自分たちのホームページの輪を大胆に広げていくことが重要だろう。
 僕たちは既に「批判の武器」を手に入れている。初めて世界性を獲得しうるメディアの登場と獲得という情況を後退させてはならないのだということを肝に銘じておくべきだろう。


【パソコンを読む】3 
     《マイクロソフト帝国あるいはハイテク過食症からの脱出》
(1999.3)

§1《盛り上がる反マイクロソフト機運》
 パソコンをめぐる現下の状況を象徴的に示すものはなんであろうか。それは、過去幾たびも繰り返されては失敗してきたことではあるが、反マイクロソフト機運がそれでも今回こそはかなりの真実味を持って語られていることであろう。
 OS/2を巡ってマイクロソフトに離反されGUI的OSの主導性確保の闘いでマイクロソフトに完敗したIBMが、フリーOSのLinuxへ明確に肩入れを開始したこと。それに連動して、旧来、ウィンドウズ陣営の申し子であるNECやインテルなどの企業がLinuxに積極的な関心を示し始めたこと。さらに抱き合わせ販売を巡ってワープロソフトの首座をマイクロソフトのワードに奪われた一太郎のジャストシステムがATOKのLinux対応版を開発し、Linuxの弱点といわれた日本語利用強化の促進を明らかにしていること。そして、ネットワークの世界でもJavaのサン・マイクロシステムズやオラクル、AOL、ネットスケープ・コミニュケーションズなどがウィンドウズNT・IE(インターネット・エクスプローラ)を挟撃しつつあることなどをあげられる。
 逆説的に聞こえるが、かろうじてマイクロソフトを支持しているのはIEのバンドルを認め、IE4.5をデモンストレーションで搭載して見せたかつての宿敵マックくらいかもしれない。それにしても、マイクロソフトはさまざまなレベルで米政府の連邦取引委員会に訴えられて敗色が濃厚であるし、自らもOS部門とアプリケーションソフト部門を軸とした4分社化を口にせざるを得なくなっている。マイクロソフトの未来は必ずしも明るくない。
 危うしビル・ゲイツ。
 ただ、ここで明確に指摘しておきたいことは1点だけである。仮にマイクロソフトがいかに反民主的・排他的市場支配をしているにしても、それはマイクロソフトだけの問題ではないということである。IBMはOSを巡る闘いで明らかにOS/2で主導権を握ろうとして失敗しただけであり、彼らもまた体質的にはマイクロソフトなのである。シリコンバレーの成金たちは常に消費的大衆をコントロールすること、その利権をいかに自らのものするかに腐心してきたのである。UNIXをコンパクトにしたLinuxがフィンランドの学生によってフリーOSとして提供され、多くのボランティアの手によって配布され改良されてきたが、今日のIBMその他の介入姿勢はどうみても、マイクロソフトから主導権を奪い新たな利権を奪回しようという企業的戦略に発しているということである。付和雷同企業もまた同床異夢を見ているだけである。
 そしてこれに対する私たちのスローガンも1つだけである。パソコンもまた消費者こそが決定権を握る世界であることを企業に自覚させること。「消費者大衆の意志を無視した製品戦略にはレッドカードを、リコールを」。まさしく自立派の原則を突きつける姿勢を堅持していくことこそ前提である。

§2《敵失が造ったマイクロソフト帝国という妖怪》
 それにしてもマイクロソフトとは何故かくまでも同業他社に忌み嫌われるのか。
 そうした疑問に答えるものとして登場したと思われるのがウェンディ・ゴールドマン・ローム著、倉骨彰訳「マイクロソフト帝国 裁かれる闇」上・下(草思社、各冊本体価格1700円)である。
 著者のウェンディ・ゴールドマン・ロームはハイテクジャーナリスト。略歴によれば、マイクロソフト社の反トラスト法違反捜査を司法省や各州政府が行っていることを「シカゴ・トリビューン」で最初に報道したことで知られ、ウィンドウズ3.1の「クリスマスベータ」に組み込まれたと言われる他社OS使用時のエラーメッセージ表示の問題を最初に指摘した人物だそうである。
 本書の執筆のために何千時間ものコンピュータ業界関係者とのインタビュー、5年間にわたる連邦政府関係者への取材がなされたという。まさに凄まじいエネルギーの産物というべき著書。当然ながらデータは膨大である。
 だが、マイクロソフト帝国の闇は本当に明かされたか?
 ロームはマイクロソフトが競合他社を徹底的にたたきつぶし、市場を支配してきたケースを具体的に指摘する。しかし、この本は奇妙なことに彼女がビル・ゲイツとマイクロソフトの掠奪的姿勢を書けば書くほど、対抗企業のアホさぶりが暴露されるという構造になっている。たとえばゲイツの出発点の問題指摘からが、逆説の陥穽の中にある。
 「もちろんゲイツは、OSについて何一つ知らなかった。しかし、彼は、シアトル・コンピュータ・プロダクツ社と交渉して、同社のQ−DOSというオペレーティングシステムを自分にライセンス供与させる契約を結んでいる。ずる賢いことにゲイツは、シアトル・コンピュータ・プロダクツには自分がIBMと取引していることは話さず、Q−DOSを手に入れるや、間髪をいれずそれをIBMに売ったのだった。また、オペル(=IBMの最高経営責任者)は、ドジにドジを重ね、IBMとマイクロソフトで共同開発したOS、つまり後のMS−DOSのロイヤリティをゲイツが独り占めできるようにさせてしまった。DOS(ディスク・オペレーティングシステム)がパソコン用OSの標準となった理由はいろいろあるが、最大の理由はIBMの後押しがあったからである。MS−DOSが業界標準になってからの話は広く知られている。ゲイツはやがてウィンドウズもものにし、それとともにIBMを完全に蚊帳の外に追い払ったのだ」(上巻31頁)
 これはゲイツの批判なのか賛美なのか、IBM批判なのか。さっぱり分からない。「ずる賢い」という形容がゲイツにつけられている1点を除けば、まさにマイクロソフトは利潤を追求する企業として当然のことをしているまでだ。逆にパーソナルコンピュータ市場でアップルに追いつくために、ビル・ゲイツを利用したIBMのとんまぶりこそが笑われてしかるべきではないのか。
 そしてマイクロソフトがライバルたたきに動いている時、彼らは何をしていたか。消費者大衆の利益のために動いていたのか? とんでもない!
 「同じ週の前半、マイクロソフトの最大の競争相手、ノベル、ロータス、ボーランド、サン・マイクロシステムズ、そしてタリジェント各社は、FTC(=米連邦取引委員会)でロビイ活動に励んでいた」(上巻206頁)
 「当時、ロータスのアンディ・バーグとトム・レンバーグは、他社の企業弁護士たちに交じり、マイクロソフトの調査範囲を拡大するよう求めるロビイ活動を、ラッセルやミラーのグループ相手に猛烈に展開していた」(上巻235頁)
 著者はアメリカ人だから、本当に鈍感で気づいていないのだが、このロビイ活動こそがアメリカの「正義」が、いかに公平さとは無縁の政治的妥協の産物を示すものであることの証明である。要するに、消費者大衆とは無縁のところで、彼らは自分たちにも利益を配分せよと、政治力によるマイクロソフト封じを画策していただけであることを暴露されているのである。
 さて、先ごろ日本にもやってきたパソコンの教祖はどうだったか。
 「ジョブズはまた、アップルを動かして、マイクロソフトの《インターネット・エクスプローラ》とマイクロソフト版Javaへの乗り換えを実現させようとしていた。(中略)ジョブズは変わり身が早く、アップルコンピュータ社の創立者だったかと思えば、ゲイツの味方と言われる立場に立ってアップルの著作権侵害訴訟からマイクロソフトを救い出し、まるで円を一回りしたかのようにまたアップルに戻ってきて、今度はマイクロソフトの技術に依存しようとしている」(下巻161頁)
 これが愛マック(本稿第1回参照)を引っ提げ復帰した救世主スティーブ・ジョブズの姿である。錯乱しているのは、ゲイツかジョブズか、いずれであるかは明瞭ではないか。

§3《強迫神経症からの脱出は可能か》
 この「マイクロソフト帝国 裁かれる闇」から教えられる点は、要するにビル・ゲイツはまさに自らの帝国を築くための一貫し徹底した企業意志の持ち主であるということである。このゲイツの方法がOSの優位性の確保、優位性をテコにしたハード企業への支配的影響力の行使、アプリケーションソフトの抱き合わせによるソフトメーカーの排除、そして独占支配下での価格コントロールというものである。実はロームに言われるまでもなく、これらは既に私たちが身を持って知っていることがらである。
 問題は現下のウィンドウズ98を例にとるまでもなく、マイクロソフトは全く無責任きわまりない形で、OSのバグ解消のごときアップデート=バージョンアップを繰り返し、その経費と時間を消費者大衆に負わせていることである。
 そして、競争原理が排除されてしまったに等しい環境下で、果たしてウィンドウズが最適なOS=アプリケーションであるか否かが全く評価の対象外に追われていることだ。だから、UNIXのパーソナル化されたLinuxが相対的に評価されるていのだ。
 かつてパソコンはソフトがなければただの箱と言われ、自分でMS−DOSをインストールし、パッケージソフトを選ばなければならなかった。だが、現在はウィンドウズ98がプリインストールされ、マイクロソフトオフィスなどがバンドルされている。自分でバッチファイル(BAT)やコンフィグシス(CONFIG)を書き、メモリーをいかに有効に活用するか、という知恵を働かせる必要は全くなくなった。だが、ウィンドウズは完全にブラックボックス化しインストールするソフトがOSを書き換えている実態が全く分からなくなってしまった。メモリーは1メガ、2メガで悩んでいたのが、今や32メガから64メガは当たり前、96やら128メガの時代になってしまった。代わりに、僅かなメモリーで軽くサクサクと動くDOSソフトの魅力はどこにもなくなってしまった。
 そんなことを思っている時、次のような書物に出くわした。
 デイヴィッド・シェンク著、倉骨彰訳「ハイテク過食症−インターネット・エイジの奇妙な生態」(早川書房、本体価格2200円)である。訳者はまたも倉骨彰氏。彼はこの方面ではずいぶん活躍している人物だが、最大の欠点は日本語がうまく伝わってこないことか。
 閑話休題。同書は本当に面白い。パソコン業界とユーザーの体質を鋭く指摘している。
 「サンダーバード問題(=フォード・サンダーバードがそうしたように年中行事のようなモデルチェンジの繰り返しのこと)は、その存在そのものが、ビジネス的なぼろ儲け手段として機能している。だから、この問題は、いつまでたってもなくならない。意図的に既存のハードウェアやソフトウェアが型落ち化されたりバージョン落ち化されることで、毎年、何十億ドルものお金がプログラマのもとに、製造業者のもとに、マーケティング業者のもとに、そして広告業者のもとに転がりこんでいる」(同書108頁)
 「あれだけ人気もあり、話題性もあったウィンドウズ95。それが1996年には、早くも昔のニュースになっていた。そして、それは自然にそうなったわけではない。それは、マイクロソフト社が意図的にそうしたから、つまり、マイクロソフト社が次バージョンのニュース性を高めるために、ウィンドウズ95を意図的に旧バージョン化させたから、結果的に古いニュースになったのである」(同書110頁)
 シェンクは「情報業界が売っているのは情報技術ではなく、情報不安心理である」とテーゼ化している。誤解のないように言っておけば、マイクロソフトだけが不安を掻き立てているのではない。シェンクは典型的な「マックな人」であり、2年たらずで自分のマックをアップグレードしてきたという。そしてオラクルも同様である。
 考えてみれば私もダイナブックはSS002からスタートして、SX021、EZ486、FV486、SS433、SS475、Libretto20、Satelite305を使い、そのほかIBMのTPD220やらFMVデスクパワーSX、i−Macなどを使ってきた。これらにメモリーやハードディスク、プリンタ、アプリケーションソフト類を加えると、パソコン業界に支払った金は半端でない。
 シェンクは言う。「われわれが追いかけているものは、果たして追いかけるに値するものなのだろうか?」
 確かに、われわれは情報産業に踊らされている。だが、悔しくもアップグレードしなければ取り残されるし、快適なパソコン環境は作れない(と思っている)。
 「ハイテク過食症」が明らかにしているのは、情報過多のアメリカ社会(情報スモッグ社会)が、もはや人間的自然にそむく事態に直面しており、それから「ダウンテッキング」(意識的により単純な機械を使うこと・よりベーシックな技術に回帰していくこと)が必要であるということである。彼は情報スモッグからの脱出策を提言する。
 「テレビのスイッチを切る」「ポケベルや携帯電話を持たない」「電子メールの使用は最低限にする」「アップグレードやバージョンアップに熱中しない」「情報ダイエットで、摂取量を調整する」ETC.
 これらは、いずれも傾聴に値する。完全には実行できないが。さてウィンドウズからLinuxの切り替えは新たなハイテク過食症への道なのか否か。よくわからない。
 去るも地獄、残るも地獄か。コンピュータ中毒への完全なる処方箋はない。それでも自分の身の丈に合わせたコンピュータとの付き合い方。それを哲学として考える時機に私たちが来ていることは間違いない。

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