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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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見出し パソコンを読む 4・5・6

【パソコンを読む】4 《パソコンから情報化社会を考える》 (1999.6)

§1《情報化社会ってなんだ?》
 私事で恐縮であるが、3週間にわたって病獄に暮らした。たかだか20日を超す程度の欠勤で、「再起不能説」やら「死亡説」などが流されたいたらしいのだから、この高度情報化社会なるものの、いかがわしさを思い知らされた。なにしろその手のデマゴギーを流している部分に限って、小生の見舞いに来るわけでもなく、人づてに聞いたに過ぎぬ断片的な病舎の小生の姿を、勝手に思い込みで情報加工しバケツリレーのようにデマに仕立て上げていくのだから、何をかいわんやである。いずれにしろ、そうしたデマ分子には等価報復の権利を得たこと満腔の怒りを持って宣告しておこう。
 それにしてもベットの上でパソコン抜きで暮らしていると、案外パソコンなんて、いらないのかな、という感じになる。普段なら1、2時間はキーボードに向かうのだが、それが全く関心の外の事になるのだ。取り敢えず、パソコンなんてなくたってちっとも困らない。インターネット。そんなもの、からっぽの洞窟だわさ。なんてね。一番の関心事は古いメディアのテレビであった。折しも、米軍を中心としたNATO軍による民衆を省みない全く手前勝手なユーゴ空爆・誤爆が激しくなっていたこともあり、小生の反米感情は極限に達していた。次第に妄想が拡大した。
 アメリカが他国に「世界標準」を押しつける時、その背後には必ず国際金融資本=ユダヤの影がある、ってのが、いわゆるユダヤ陰謀論である。これは少し考えればトンデモ論=デマゴギー以外のなにものでもないのだが、アバウトに言えばはずれてもいないだけに、精神的に疲労している人間には結構、説得力がある。
 たとえば、落ちぶれて久しいとはいえ、かの元ゲバリスタ氏は言う。
 「現在のコンピューターは、そもそもの発想の初めからユダヤ人のものであり、ユダヤ人(ノイマン)によって形を与えられ、ユダヤ資本(モルガン)によって育てられた。それは、全人類をユダヤ・タルムード(=教義の意味)の論理の土俵に引き入れた。/コンピューター(ノイマン型)本体(ハード)は、それだけでは単なる死んだ機械にすぎない。その中にソフトといわれる人工の情報システムを入れてやることでコンピューターが働き始める。そして、この情報システムづくり(プログラム)が、そっくりユダヤ的論理の枠組みの中にある」「コンピューター(ノイマン型、ユダヤ型)は、“万人に至福を約束するハイテクノロジー”というようなものでは決してないのである。/それは、人類を管理する5パーセント(超人)と、管理される九十五パーセント(畜群大衆)に、確定的、最終的に分離させる技術的装置である」
           (太田竜著「ユダヤ7大財閥の世界戦略」=日本文芸社)
 なるほど。
 コンピューターとは人類ゴイム(家畜化)計画の核なのか。確かに、コンピューターを始めてから、私も間違いなく漢字が書けなくなった感じがする。パソコンなどに熱中するということは、「世界標準」を強制し、日本文化を滅ぼそうとするユダヤ=アメリカの陰謀に乗せられているのかもしれんわいな。
 「なんでもユダヤ」と言ってしまう迷妄を除けば、太田のコンピューター論は技術革新万能論へのプリミティヴな懐疑として聞くことができる。
 私たちはコンピューターを軸とした情報化社会にどう向き合えばいいのか? ただ便利だから、という無反省な態度は捨てて、この辺で情報化社会についてまともに考えてみるべき時ではないのか。
 賢しく言えば、それがパソコンから引き離された3週間の病獄で、私に与えられた宿題だったといえる。

§2《コンピュータ・ファシズムを撃つ−電脳拒否宣言》
 反ユダヤ主義的ドグマとは遠く離れた地平で、惑う私に原則的な一撃を下ろしたのが池野高理氏の「電脳拒否宣言」だった。
 池野氏は大阪経済大学の教員。「大学」「学問」の意味と実践にこだわってきた全共闘世代の学者である。氏は大学現場での産学協同の露骨な進行、単純作業の図書館職員への押しつけ、学問への問いかけが失われてしまう退廃を惹起せしめていることを丁寧に論証する。その上で、コンピューター社会が差別を孕み、たとえば「コンピューターに関心のない子は、学習意欲のない子」的な発想が横行し、さらに労働の差別的固定や現場・末端労働者のロボット化・分断などを生む、と指摘。「電脳拒否」を宣言するのだ。氏は言う。
 「情報社会という口あたりのよいネーミングの下で展開される苛酷な労働−−それはコンピューターの『陰』の側面といった程度の問題ではなく、それがあるからこそ『光』の側面があるのです。とするならば、コンピュータは単なる道具である、したがって重要なのは使い方であるという捉え方で、社会変革を待つという姿勢からは何もうまれません」
 つまり、コンピューターにはよい面もあるから、それなりに使えばいいのだ、という誤謬を捨てよ、というわけだ。そして「ヤツラと違うワレワレ独自の『文化』(生活様式)」を対向的に構築していくべきだ、と主張するのである。
 さらに跋扈するインターネット、コンピュータ万能論に危険なものも見いだす。すなわち、「コンピュータ社会、情報社会は『時代の流れ』『必然』『世の趨勢』という宣伝が流され、これに異議を唱える者を排除するという『コンピュータ・ファシズム』が吹き荒れています」と言う。
 確かに、私もいささかうんざりしてる。たとえば、書店に行って見よ。パソコン関係の書架を見れば、バラ色のコンピューター社会論があふれかえり、あとはマニュアル本ばかりである。コンピューターが社会を変えていることは確かだろうが、それはそれほどに賛美すべきことばかりなのか? パソコンによって変わる人間的自然や有機的社会的諸関係のアンサンブルについて考究し、その上で私たちの生活にとってのパソコンとは何なのかを、位置づけ直すべきなのだ。
 「ME化、情報化、サーヴィス化という資本蓄積の新たな構造は、商品化された<労働力>の編制とその資本への包摂様式にも重大な変化をもたらした。構造的な意味での大きな変化は、第一に失業率の増加であり、第二に女性労働者、パート労働者の増加である。これに高齢化という要因が加わることによって、従来の日本の雇用制度の中心をなしていた終身雇用制が決定的な危機に陥ることは確実である/石油危機以来の失業率の上昇を一過性のものだと見るものはもういないだろう」
 「情報資本主義は、完全雇用も達成できず、倍々ゲームの賃上げも不可能となった帝国主義本国が、唯一延命しうる資本蓄積の社会的(社会的には傍点つき)戦略なのである。国家(行政)にとっても資本にとっても最終的な戦略目標は、固有名詞(コードネーム)をもった識別された個人の組織化である」(小倉利丸著「ネットワーク支配解体の戦略」=影書房、86年刊)

 この小倉氏の10年以上前の指摘を、今、否定できるのは脳天気な未来論者だけだ。
 情報化社会は新たな雇用を生んだと喧伝されている。たとえば、携帯電話の普及が民活の成功例のように語られたりするが、しかし、あれこそバブルではないのか。既にポケベル業界には倒産の危機が差し迫っている。女子高校生たちなどのユーザー利用料を支払うための小遣い不足で、さまざまなシノギに追い込まれようとしている。
 情報化社会では労働力の熟練が軽んじられる。経験豊富な者よりも、知識量の多い者が重宝される。労働者はますます不安定な身分に追い込まれ、それが世代間の争いに彩られて、資本と賃労働の本質的論議が後景化してしまう。「中年おやじは高い給料をもらっても、パソコンもうまく使えないんだぜ。早くやめてもらいたい」というように。その一方でテクノストレスは増大し、若年層を中心に生身の人間としっかりと向き合えないコミュニケーション不全症候群が進行している。そして情報ネットワークの首根っこは、組織犯罪対策を隠れ蓑にした<盗聴法>によって「電子武装した国体」「天皇制アンドロイド国家」が押さえようとしている。
 こんな社会が自然と言えるだろうか?
 池野−小倉両氏の「反電脳」論に比べると、パソコンユーザー自立のためのゲリラ情報誌と銘打たれ、先ごろ出版刊行された「電脳農奴解放ジャーナル」Vol.1もその過激なスタイルとは裏腹になんとも物足りなく見える。
 「覚醒せよ! 電脳農奴諸君」「学べ! 知識を農奴解放の武器とせよ」「立ち上がれ! 現状を打ち破る怒りを胸に」「団結の旗の下で−MS税からの脱出」。
 いさましく並んだスローガンも収束先は、賢いパソコンユーザーになって悪辣なマイクロソフトからの搾取を出来るだけ減らしましょう、というレベルに止まる。昔もいたな、掛け声だけはいさましいんだが、バリケードやっても尻抜けで、すぐお里が知れる□○諸君のような。消費者運動=市民主義者だな、これでは。
 「電脳農奴解放ジャーナル」はMSやメーカーに文句言いたい、なるべくムダ金を払いたくないという中間主義者には、それなりに役立つかもしれない。それだけだ。

§3《マルクス主義と情報社会》
 たれにも聞かれないが、私がマルクス主義者だったことは、かつても今も一度もない。だが、優れたマルクス主義者や党派には常に敬意をはらってきた。
 私の師匠たる故・三浦つとむ氏は名著「マルクス主義と情報化社会」(三一書房、71年刊)で次のように情報化社会を喝破している。即ち唯物史観から見れば「情報革命」は「交通(Verker)の分野における技術革新」なり、と。
 「現実的生活においてはつねに生産が決定的な契機であって、生産から生まれるところの交通は第二義的な契機でしかない。けれども交通はまた生産に反作用をおよぼすのである。技術革新は生産にも交通にもあらわれる。生産手段の革新は交通手段の革新をもたらすが、交通手段の革新はまた生産手段の革新に反作用する。この側面も、やはり第二義的なものであるが、この側面での技術革新が華々しい成果を目の前にくりひろげると、これが社会の発展にとって決定的な契機であるかのように錯覚する者もあらわれる」
 つまり、現在のコンピューター万能論・賛歌は、交通手段の技術的革新に目を奪われて、生産力の総合関係を無視した議論にほかならない、と見ている。
 「技術革新は古い熟練を葬るとともに新しい知識や技能を要求する。物質的ならびに精神的な交通手段における技術革新が、生産・交通の全面にわたる変化と発展をもたらし、またここから労働力に対する要求ないし政策も大きな変化と発展をもたらし、またここから労働力に対する要求ないし政策も大きな変化を示しつつあるところに、現代の特徴がある」
 30年近く前に書かれた文章にもかかわらず、全く古びていない。現在の労働と労働者をめぐる混乱は的確に指摘されている。
 三浦つとむは技術革新と労働力の質的転換を的確に押さえた上で、その解決法についても明らかにしている。端的に言えば、「労働に対する分配の平等」を実現することが基本だ、と。労働と富は社会的なものであるとの前提に立って、分業の止揚には「あらゆる教育を無料化」し、賃金を労働の種類によって格差を設けず、仕事の変容にダイナミックに対応すれば、差別は解消する。労働差別を固定化し、能力に応じた高給をなどという近年の賃金自由化論とは畢竟「物質的刺激こそ労働者の生産意欲をかり立てる最上の方法だという、スターリン以来の物とり主義的労働者観」にほかならないと考える。ここでも、資本主義とスターリニズムという対立物の相互浸透という弁証法が貫徹されていることを知る。
 高野氏はたとえば大学教員と図書館職員、さらに工場労働者の差別的労働のあり方を指摘し、その上でそうした状況を招き寄せる「電脳社会」を拒否すると主張した。だが、三浦つとむ風に言えば、その「労働差別・選別」は決して固定的なものではなくなる。「対象化された労働としての生産力のシステムを活用しうる能力を持ち、しかもその部署のいかんが何ら物質的な特権を保障するものでないならば、能力のない者が大きな責任を負わねばならぬ指揮者の地位にしがみつかねばならない理由はなくなってしまう。指揮者と被指揮者との社会的な固定をもたらす条件は、能力的にも経済的にも消滅してしまう」のだから。
 情報化社会は知識が富を生むなどと思うのではなく、精神的・物質的交通分野での技術革新に過ぎないと冷静に捉え返せばよい。そして、その発展する物質力を現在的に抑圧的であるからと拒否するのは歴史の流れから不可能であると私は考える。
 パソコンの高度な演算能力・表現技術が私たちの生活に役立つならば、常に功罪を理解した上で活用していけばいい。その一方で、たとえば、パソコンが勝手に漢字を打ってくれるとしても、手書きによる漢字の習得訓練は必修であり、同時にその実用的・美的表現法である習字や書道は必要に応じて学ぶべきであるのだ。
 ここまで書いて、私はいささか気が重い。実は三浦つとむが示した差別の止揚論は「資本」が決定的な支配力を持つ高度な国独資社会ではなく、「労働」が主体の社会主義社会のあり方として提起したものであるからだ。高野氏らの問いかけに、本当は答えきっていないのだ。
 だから本稿の最後で、私は次のように問いかけ直さねばならない。
 国家を超えつつある社会的生産力はいかに国家を死滅させることができるか? 


【パソコンを読む】5 東芝ビデオ騒動・「わが闘争」そして教訓 (1999.8)

§0《はじめに》
 パソコンは宗教である。とにかく、一度、その世界の洗礼を受けると、たえまなく寄進を求められる。山根一眞さんの「モバイル書斎の遊技術」(小学館、本体価格1500円)を読んで、つくづくそう思った。マック教徒である山根さんはオフィスに10台を超えるマッキントッシュ・パソコンを備えている。その上、デジカメ、ビデオ、ワープロなど電脳グッズはとどまることを知らず「日本で最も無節操に情報機器に手を出してきた」人間にふさわしい。その寄進した金額は半端ではない。いやあ、えらい。でも同書には山根さんのアマゾンからの原稿送信の苦労話などユニークな実践例があふれており、モバイラーを目指す、われわれ貧乏人にも参考になるだろう。
 実は同じ時期に、林晴比古さんの「はじめてのパソコン書斎整理術」(ソフトバンク、同1980円)を読み、「オレもパソコンで優雅にデータベースをつくるのだ」と胸を膨らませた。同書は整理術としては「データと検索方法は単純なほうがいい」など優れた実践方法を提起している。しかも、山根本ほどの散財は必要ない。パソコン1台あれば、十分である。しかし、実際にはそれなりの書斎スペースと地道なファイリングをしなければパソコンも生きてこないのが欠点。こちらの本は真面目な人向きである。
 さて、マック教徒の山根さんが窓陣営に一瞬色気を示したことがある。それは我が「リブレット20」という東芝の超小型パソコンが登場した時である。だが、当然ながら長続きしていない。「『リブレット20』を月賦で買い始めたとたん、性能アップの機種が続々と出てめげている数多くのユーザーの救済くらい、東芝さん、やってあげてくださいね」というのが、山根さんの三行半である。「東芝はユーザーに結構気をつかっているのに」と思っていたら、とんでもない事件が起きた。

§1《東芝ビデオデッキ騒動の衝撃》
 東芝のビデオデッキ修理をめぐるユーザーと東芝顧客応対担当者の交渉に端を発した騒動がそれである。同事件はインターネット史上最大の反響を呼んだ騒動として後世に記録されるだろう。
 会社員の男性顧客は東芝のビデオデッキを2台購入した際、その不具合に気づき、修理を依頼することになった。その過程で若干のやりとりがあり、東芝の渉外監理室の社員から「おたくさんみたいのはクレーマーっちゅうの」などと徹底的な暴言を浴びた。そこで、会社員はキレる。その暴言テープをインターネットのホームページにアップロードする。それが各所のインターネット掲示板で反響を呼び、加速度的にアクセス数が増加する。実にその数、2ヶ月弱で600万件を超す。ちなみに小生のホームページは同じニフティに開設しているが、、オープン半年を超えても500件にも達しない。まあ、それは例外にしても、人気のあるホームページでも、なかなか100万件を超せない。それ故この会社員の「たったひとりの反乱」が招き寄せたアクセス数は破格である。さらには関連のリンク・ページも次から次へと立ち上がって重層的な反東芝包囲網が形成されたことが今回の騒ぎの特徴である。
 大手日刊新聞をはじめとした活字メディアが、この騒動を興味本位で書き立てたこともアクセス数を増加させた一因であろう。しかし、数百万の数のインターネット利用者がひとつの問題に、なんらかの意思表示、もしくはのぞき見のために参集するのはただごとではない。もちろん、謀略論的に見れば、ある種の反東芝勢力がイメージダウンのために、これを利用しただろうことは十分にありうる。
 だが、興味本位であろうと、義憤であろうと、悪意であろうと、この情況からわかることは、インターネット空間が大手新聞に匹敵する大衆を動員しうるメディアに成長しているという現在の姿である。この事実はもはや不可逆的である。
 ある者は「匿名性による批判は卑怯だ」というが、大衆とは所詮、匿名的存在以外の何ものでもない。またある者は「法的整備(ルール)が必要だ」という。確かに、そうした問題はあるだろう。しかし、この新しい情報社会は基本的には逸脱を特徴としており、常に<外部>からの洗礼を避けることはできない。神戸の酒鬼薔薇事件の時、少年Aの実名をマスコミは伏せたが、インターネットでは堂々と流通した。国内のプロバイダが削除しても、アメリカのミラーサイトを利用しての海賊版ホームページがゲリラ的に誕生したことを想起すればよい。まさにネット空間が物質力として登場している限り、その戦場から逃げることは不可能だと考えたほうがいい。デマや中傷はどんな事態が招来しようと徹底的に無視し続けるか、さもなくば徹底的にディベートして思想表現の準位を形成する以外にないのである。大衆民主主義とはそういうまどろこしいものなのだ。
 その社会は一見、大衆リンチを助長するかに見えるが、「見えざる手」=良識=が必ずや発動されると信じて良い。すなわち、ネット空間はバーチャル世界であるが、その実、私たちの大衆社会の成熟度によって支えられているのだ。むしろ自立した大衆が情報を発信しバトルロイヤルする点こそ、現実社会を超えた新しさなのだ。
 そして熱狂的な東芝批判は永続的なものではあり得ないし、事実、不十分ながら東芝が謝罪することで、会社員側にも終息へ新しい対応が生まれている。
 私が東芝ファンであるせいか、今回の騒ぎを冷ややかに見ている部分から同情的に「東芝は運が悪かった」という声を聞くが、残念ながら私はその意見に反対である。なぜなら、私もまた、「クレーマー」だった経験があるからである。

§2《プレイバック・わが東芝糾弾闘争》
 私はある時、ノートパソコンのダイナブックSS433を、CPUとハードディスクをアップグレードするという東芝推薦の改造を申し込んだ。ところが、案の定、東芝の対応がいい加減だったので、私も怒ってしまったのである。今更、古証文を出すのは気が引けるが、ユーザー対企業をめぐる問題の根深さを考える参考に、手元に残っているログの一部を再録する(レスを含め若干の部分を省略)。
 キレた私はパソコン通信(BBS)に文章を書いてアップロードした。

UM- -R.DATE- -R.TIME- -SENDER- -CONTENTS-
03343 95/12/16 01:32:43 ******** 切れました(長文多謝)
それにしても、東芝(ダイナブック工房)には頭にきています。
不誠実ですし、やはり末端ユーザーをなめているとしか思えません。
8日(金)にSS433のアップグレードを頼みました。
9、10日は土、日なので作業はできないかもしれないが、
11、12日(13日はテクノセンタ休日)には終わり
14日には出来る約束になっておりました。
ところが、14日になっても何の連絡もなし。
こちらは夜勤仕事を無理して早起きして引き取りにいくつもりだったので、
やむなく電話をしたら、担当者がいないので後で返事をする、とのこと。
しかし、当日は待てど暮らせど、なしのつぶて。勤労者のつらさがわからないんだ。
15日になって電話がきたら、来週になるとか。
来週のいつ頃になるか、と聞くと、また担当者がいない、でおしまい。
仕事でいなかったが、部品がどうのこうの家人に言ったきりで結局、
いつ出来るのかはわからないまま。
会社の連絡先も書いてあるんだから、そちらに電話をくれるきもないんだ。
電話に出るのは、がきのつかいじゃないんだからさ。
ダイナブック工房のパンフには「翌営業日中に作業完了」と書いているはず。
しかも先払いの料金だけは、しっかり受け取ってさ。
ぼくはSS433のほか、SX021、無印SX、壊れたSS001
のユーザーであり、かつてはSS002、EZ486も所有していた。
それだけでも、東芝を信頼していることはわかっていただけると思う。
しかし、今回は切れました。

 以上が私のチャランケ文(抄)。今では温厚な人間として誰もに認められている私にして、この時は我ながら恥ずかしいほど逆上しているのがよくわかる。この文章は東芝ユーザーの多い2つのパソコン通信にアップロードした。するといくつかの反応があった。たとえばこうだ。

02824 95-12-16 01:43:29 ******** うえ
消費者の権利は最大限主張しましょう (^-^)。
相手が法人だろうが、個人だろうがビジネスでやっている以上、
遅延に対する責任は追及するべきでしょうし。(^-^;
私だったら泣き寝入りだな(^^;

02825 95-12-16 07:27:08 ******** ふむ(T_T)
別に事実は、事実だから、公表するのは良いけど、
結果のフォローも御願いしますね。
なんか、1人のボケ社員のために、他の一生懸命働いてる
人達の努力が無駄になるようで、ちょっとそう思ったのだな。
中間管理職が働かないのは、お客さんにとって、無駄なコストを
かけるけど、わからないから、怒られないけど。
末端が、サボったり、風邪引いたりすると、
直接迷惑かけるから、怒りの鉄拳くうのね。
担当者の状況把握したら、東芝の社長宛に手紙だしたほうが、
きくと思うけどなぁ(^^;
でも、風邪引いてやすんで、回りのひとも、あんまりきにしてなかった
ってような事で、怒りの鉄拳くって、社長から、問い合わせ
がきたりするのは、あんまりかわいそうな気がするけどなぁ

 ネット上の発言は、おおむね好意的だった。もちろん不愉快な部分もあっただろうし、「別に事実は、事実だから、公表するのは良いけど、結果のフォローも御願いしますね」と、私は釘をさされてもいる。そんな書き込みがいくつか行われた後、1日足らずで、状況は急展開。前向き対応の電話がかかってきた後、公式回答となる。

-NUM- -R.DATE- -R.TIME- -SENDER- -CONTENTS-
03354 95/12/16 21:24:06 STAFF003 Re03353 お詫び
  ダイナブック工房ハードウェアアップグレードについて(お詫び)
 ハードウェア・アップグレードについて谷口様には大変ご迷惑をおかけし、
申し訳ありませんでした。
 今回、谷口様ご依頼のSS433CPU・HDDのハードウェアアップグレー
ドにおいて、受付時の条件の伝達ミスなどがあり、お約束の14日に完了するこ
とができませんでした。
 電話対応の不備についてはスタッフに徹底するようにいたしましたのでご容赦
願います。
 工房開設時には、パンフレットにありますように、ご予約をいただいた場合に
はスケジュールを調整して、翌営業日に完了するような方式(出来上がり済み基
板とユニット交換)で行っておりましたが、その後の、メニューの増加・準備の
煩雑さなどから現在では翌日対応が困難な状況となっております。
 特に、バックアップを含むハードディスクのアップグレードは作業時間がかか
ります。また、技術的な相談などの電話により予約をしようと思っても電話がつ
ながらないなど、ご迷惑をお掛けしているのが現状です。
 そこで、代案として予約なしでも受付可能として1週間をめどに完了するよう
に変更いたしました。パンフレットの内容については現状とそぐわないので、翌
営業日に完了の表現を削除されていただきました。
 新規メニューの追加など、今後もできるだけお客様のご要望にお答えできるよ
う努力いたしますので、今後とも東芝パソコンをご哀願いただきますようよろし
くお願いいたします。               *****
 
 少し補足すると、私自身は問題が解決方向に動いた時点で、オリジナルの発言を削除した。所期の目的が果たせた以上、感情的な部分がいつまでも残るのは避けたかったからである。すでに状況は認知され、東芝自体が「反省」を示しているわけで、なおも追撃する必要も感じなかったからである。
 この一連のやりとりで、東芝関係者やBBSの参加者は極めて冷静で、建設的であったと思っている。ユーザーの訴えに対して、企業のメンテナンス担当者が当初の混乱をわび、前向きに解決策を示している。正直言って、私自身は東芝ユーザーとしてパソコンに関しては一層信頼を深めたといってよい。

§3《ユーザーの権利と企業姿勢》
 今回のビデオデッキ問題に関して、繰り返すが「東芝は運が悪かった」という一部の考え方を僕はとらない。どうみても、東芝側の対応のほうがおかしいのだ。
 7月28日の道新(サンケイ)スポーツに「東芝ホームページ事件の深層」というコラムが掲載されている。それは極めてまっとうな内容であった。
 すなわち「この問題では、ホームページが企業攻撃、あるいは企業告発の有力な手段となったという面ばかりが強調されているが」「ドスのきいた強圧的な口調で言っているのが、総会屋対策などを担当する『渉外管理(=監理)室』の社員だったことを忘れてはならない」と指摘している。「東芝は警察の天下りを受け入れて、総会屋対策を強化していた。ゆえに、しつこく抗議したというこの男性会社員を東芝は、総会屋扱いしたのである」「うるさい客は警察(OB)に、という発想そのものが、間違っていたのである」とコラムは結んでいる。
 まさにその通りだと思う。うるさい客は警察OBに脅してもらおうという東芝の姿勢こそが問題なのだ。期待して商品を購入した客が、不運にも不良品を掴まされることは十分にありうる。今回も会社員は製品を交換することは仕方ないと思っていた。それなのにくだんの東芝の「渉外管理室」の警察OB氏は「お宅さん、業務妨害だからね」と脅したのである。ショックを受けた会社員が逆上してテープを公開したとしても文句は言えない。その時点でなんらかの収拾策を取るべきなのに、東芝は社内から誹謗メールを流すことはあっても、まっとうな対応をなおざりにしたのだ。
 私はいかなる形であれ消費者の抗議を支持する。企業は抗議には誠意をもって対応すべきである、という考えを支持する。だが不買運動的な便乗論は全く支持しない。
 「弁証法を無視したら罰なしにはすまされない」と三浦つとむは言ったが、高度情報化社会を無視したら、罰なしにはすまされないのだ。そこではいささか徒労であっても事態の核心に垂鉛をおろし、公明正大に向き合うことこそ悪貨を駆逐する原則であることを今回の事件は改めて教えていると思う。


【パソコンを読む】6 
    《トラブルからの脱出あるいはネバーエンディング・ストーリー》
(1999.9)

§1《パソコンはナマモノか》
 実はちょっと怒っている。パソコンの値段についてである。5月の中旬に最新鋭のノートパソコンを買った。税込み約30万円。ちょっと高かったが、2キロを切る重さでCD−ROMドライブを搭載し、12.1インチTFT、CPUは333MHz、56Kモデム内蔵、メモリー64メガ、ハードディスク6.4ギガ。取り敢えずマルチメディアを楽しみながらモバイルに耐えるもの、という当方の希望にあったスペックを十分に実現している。豊富なIOポートを持ち、古いプリンターやZip、デジカメや携帯接続が簡単にできるのも魅力だった。大型店で一代前の型落ち品を購入しようと思っていたのだが、店頭展示品でも値段は27万円近かった。これでは最新鋭を買うのがトクだろう。液晶は当然ながらぐんときれいになっている。そこで決断した。
 うん、買ってよかった。
 しかし、喜びも束の間。このノートPC、1ヶ月もたたぬうちに、オフィス2000対応の後継機が登場、一挙に転落の運命をたどる。最近の売値は23万円台である。バーゲンの目玉の時には20万円を切ることもある。つまり、1ヶ月2−3万円ずつ値が下がったことになる。ちなみに、後継機のほうも今や25万円台。
 これじゃ投げ売り状態。おいおいおい、である。
 別に売る訳じゃないから、価格暴落にも「いいじゃないの、幸せならば」と、我が心を平静に保っていた。が、なんと、自慢のCD−ROMドライブが壊れて動かなくなってしまったのだ。最大のピンチ! 幸いにも数日でマシンは無事直って戻ってきて、事なきを得た。だが、その後もシステムやハードディスクの原因不明の暴走やフリーズなどが続発、なんとも波乱含みの毎日が続いている。
 さて、こんな身辺雑事を書いて何を言いたかったかというと、
 「パソコンの値段はあってないようなもの」
 「パソコンにはトラブルがつきもの」
ってことだ。
 そんな私の思いにシンクロするように、このところ「パソコン困った」「パソコンどうして」本が相次いで出版されているのが目に付いた。
 因俊郎著『パソコントラブル・西へ東へ三千里』(毎日新聞社、本体価格1500円)はマック専門のメンテナンス屋さんを営む筆者の、朝から夜までトラブル解決に走り回る「汗・涙・笑いの奮戦記」。で、悩める小生が最も気に入った一節を。

 「調べてみると、とんでもない事実が判明した。私が見積もった時期と、相見積もりを出した会社が見積もった時期には一週間ほどのタイムラグがあったのだが、なんと、その間に店頭価格が十万円以上も下がっていたのである。事情を聞くと『新製品が出るので価格が下がった』ということではなく、『メーカーの方針で店頭価格が変わった』とのこと。/もちろん、安くなることはいいことなのだが、ここまで極端な価格の変更をするのは、ユーザーの信用を失ってしまうことにつながるのではないだろうか。十万円も安く売ることのできるものなら、最初の価格設定は何だったのか、ということになるのではないか」
                 (「どうなっちゃってるんだパソコンの値段」)

 その通り! 確かiMacでも色変わりの時、いきなりの価格変更があったなあ。
 いやいや。ウィンドウズマシンのほうが数が多いだけに無茶苦茶なことをやるメーカーが散見される。確かにより安く購入できるほうが利用者にとってはうれしいのだが、同じ型式のマシンが1週間の差で、損得感を与えるようではメーカーの姿勢に疑問を持たざるを得ないのは当然だろう。
 魚屋さんなどは、3匹1皿百円で売っていた魚を、夕方になるといきなり6匹百円にしたりすることがある。生ものを扱う店では売れ残ってしまったら商品価値がなくなるので、捨て値で捌いてしまう。とすれば、半導体のかたまりというべきパソコンも、ナマモノということなのだろうか。ちょっと虚しい。
 本書に戻ろう。因さんの見たパソコントラブル例は凄まじいものだ。
 ケーブル一本の配線ミスから始まって、ソフトのインストールとOSのバージョンの相性問題、いきなりの初期不良によるダウン、スクリーンセーバーのいたずらによるエラー、間違ってこぼした一杯の缶コーヒーによるキーボードの死、そして悪質なウイルス感染とデータ破壊、マックとウィンドウズのフォーマットの違いによるデータの断絶、メールの肥大化によるアプリケーションエラーetc.。
 だれもが、1つ2つは思い当たるものがあるはずだ。因さんは、本当に西へ東へ大忙しだ。だが、それを好奇心いっぱい楽しんでいるのが本書の魅力だろう。
 もちろん、基本的にはハードやソフトの機械的=物理的問題がトラブルを引き起こしている。だが、因さんは言う。「パソコンのメンテナンスをやっていると、見えてくるものがある。そのパソコンを使っている人の人間性だ」
 この姿勢はいい。本当にパソコンを単なる仕事のための道具とだけ考えていたら、こんな非人間的な装置はないだろう。しかしながら、パソコンはもっとも人間性を露出するさせる機械だと因さんは思っている。
 「『人柱』が育てる、日本のパソコン文化」と述べる因さんは、「メーカーと一緒にトラブルを解決してやろうという姿勢が、現代のパソコンユーザーに求められるのではないだろうか」と強調する。あきれるほど前向きな建設的な発想だ。
 だが、因さん、ちょっと待って欲しい。こんな積極的なユーザーに対し、メーカーはそれに十分応えているのかどうか。それを問うて欲しいと思うのだ。

§2《パソコンもうかりまっか》
 パソコンを利用するようになって何が便利になったのか。うーむ、考えるとよくわからないところがある。それにずばり答えている本がある。
 『まついなつきのパソコンこんなんできまっせ』(朝日新聞社、本体価格1000円)である。おや、この人もマック使いだ。因さんが1950年北海道生まれなのに対して、まついさんは60年東京生まれだが、16歳まで北海道で過ごしたそうな。北海道はパソコン関係者が多いのか。たまたまだろうけど。まついさんは漫画家にしてエッセイスト。本書は「ぱそ」なるパソコンビギナー雑誌に5年間にわたり連載された人気コラムの単行本化である。
 この本の面白さは全くの初心者(ワープロはやっていたらしい)が編集者に乗せられ、よちよち歩きから、いつしか立派なパソコンおばさんに成長していく今はなき教養小説というか立身出世の自叙伝的趣きがあることだ。
 昔、生物学で、個体発生は系統発生を繰り返すとか、なんとかありましたな。いやあ、この本を読んでいく楽しさは、「そう、そう」「オレもそんなドジやったよな」「当時はフロッピーがソフトをインストールするメディアだったんだよなあ」的な懐かしさが、じわーっと隠し味のように溢れてくることだ。
 まついさんは雑誌の記事を参考に結局、パフォーマ630をヨドバシカメラで購入した。お値段29万8000円。初体験の興奮の一瞬である。だが「店員さんが、あんがいあっさりしていたのは残念だった。酉の市みたく3本〆してくれとは言わないが、電池1パック買うのと、あまり変わらない態度なのでちょっとガッカリ」。そうなんだ。パソコンを初めて買ったときのワクワク感。それをまついさんは実にうまく表現している。この本に溢れているのは、そうした等身大の感覚である。
 さあ、買った。使うぞ。と思ってみたものの実は意外にパソコンは難しく、使えないことを知る。数はあれど、どれもこれも意味不明のマニュアルは何のためにあるとの落胆。なにより電源ひとつ落とすことにさえナーバスになってしまう自分−。
 本当に、うまいなあ。このコラムが人気になった理由がよくわかります。一緒にパフォーマ買った主婦の方も多いのじゃなかろうか。「パソコンの使い手は初心者に対してとても優しいのが特徴のような気がする。ゆえに百冊のマニュアルより、詳しい友人1人といわれていたりするわけで」なんてくだりも、名言というか実感がこもっている。そして、パフォーマからパワーブック・ユーザーになり、iMacに溺れ家庭崩壊の危機に直面したり、メールソフトの「ポストペット」にはまったり、と歴戦の記録は愉快に続いていく。本当は試行錯誤こそパソコンの一番の楽しみなのだ−と本書は教えてくれている。
 さてパソコンでなにをトクしたのか。ずばり答えてもらおう。はい、まついさん。

 1・Eメールが使える
 2・インターネットで買い物したり調べ物が便利
 3・住所録の整理がかんたん

 あれ。こんなもんかな。
 いや。こんなもんです。
 ワープロができるのは当たり前でしょうから、除外。ゲームもたぶん除外。CDを見たり聞けたりするのを挙げるのはちょっと恥ずかしい。漫画はパソコン系の絵ではないから、これもない。だから結局、データベースとインターネットなんですよね。
 私もワープロ、データベース、インターネットがパソコンの使用の基本です。あとは、そのアレンジですね。
 最後に、まついさんのメッセージを。
 「一番うれしい読まれ方は、少し前にパソコン買ったけど、あんまり使えていない、ようするにこの本の前半状態の自分に似た人が、もう一度電源を入れてみようかなと思ってくれることかな」
 「永遠のビギナー」らしい言葉。
 本書はパソコンが単なる電気箱に見えている人に勇気を与える伝導書ということか。ここでもパソコンは極めて人間的な存在である。

§3《パソコンはオヤジもすなる》
 主婦が「なんでも見てやろう」とパソコンに挑戦するのは微笑ましいが、50過ぎたオヤジが20代のアンチャン、ネエチャンに小馬鹿にされて、ワンフィンガーでキーボードをたたき、表計算やらメールを書いていたりする姿は侘びしいものがある。
 でもね。「電子メール、みんなで渡ればこわくない」。じゃなかった。『み〜んな悩んで電子メール』(日経BP社、1400円)と情報化社会に生きるオヤジの羅針盤たらんとしているのが宮本紘太郎さんだ。宮本さんはアサヒビールの社内電子メールの構築担当者だそうな。
 社内LANを先駆的に導入した企業の体験を踏まえて、本書では電子メールをめぐるトラブルの実践例を紹介している。そして、ここでもパソコン・ネットワークの問題はハードウェアではなく、大部分は極めて人間的領域で発生していることが、はからずも示されている。
 すなわち、回線の太さ・速度を考えずに数百キロバイトの画像や表を添付した大容量ファイルのメールを送る人間、誤ってメールを削除してシステム管理者にバックアップの責任を迫る人間、オフラインモードのまま何十通ものメールを送信したと勘違いして到着しないことをいぶかる人間−などなど。読んでいると本当に、システム管理者が気の毒になってくる。
 もっとも本書の一番の面白さは、電子メールトラブル集の間に記されているコラムである。生活の現場におろした2000年問題の具体的イメージなど、大変分かり易い。特に秀逸なのは、ソフト使用契約をめぐる消費者不在の論理を批判した一節である。宮本氏は代表的ソフトの契約書の文章を例に、その傲慢ぶりを問うてみせる。
 「本ソフトウェアおよび関連文書の使用または使用不能に起因するすべての間接的な特別な偶発的なまた結果として発生したあらゆる損害について……そのような損害を賠償する責任は一切負いません。当社の責任はいかなる場合においても本ソフトウェアの市場価格に相当する金額を超えるものではありません」という表現に触れ、
 「これもまたすごい文章が書かれています。つまりこのソフトを使ったためにファイルが壊れたり、バグのためにビジネス上の損害が出ても一切責任は取りませんというものです。/我々はこんな契約をさせられてパソコンやソフトを使っているのです。パソコン業界以外のメーカーがこういう対応をしたら市場から駆逐されるのは目に見えています。」
 宮本さんの怒りが目に浮かぶようだ。
 本当に! ここを見る限り、メーカーには製造物責任という感覚が一切ないことはあきらかだろう。供給者側が一方的に消費者を拘束し、そして責任を取らない。そのような形で我々のマルチメディア社会は原始的蓄積をしているというわけだ。搾取されているのはいうまでもなく、消費者である。
 ここで私は冒頭の怒りに戻っていく。メーカーが勝手に仕切り値を決め、勝手に一斉に価格破壊をする。これは決してサービスではなく、裏切りである。
 そしてバグをなくしただけで、バージョンアップと称して消費者の財布を狙い、使用に伴うトラブルには問答無用とばかり、聞く耳を持たぬソフトメーカー。
 これがマルチメディア社会の末端消費者が味わわされている現実である。「人柱」になるだけでは済まないのである。
 ではどうするか。
 市場の論理を徹底化すること、そして情報公開を推進すること−それがポイントである。
 「クレイマー」と言われようとどうしょうと、「人柱」として新しい技術の魅力に絶え間なく投資してきた我がパソコンユーザーこそ、裏切りのネバーエンディング・ストーリーを続けるハードとソフトメーカーに対して、怒りの声を挙げることが依然として必要である。大衆がリコール権を持つことこそ、高度資本主義社会の権力解体の新たな原則である、と吉本隆明は喝破した。同じように消費者がメーカーによる怪しげな電脳搾取を許さないためには、ここでも同じ原則が問われているのである。

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