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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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 パソコンを読む 13・14

【パソコンを読む】13 《生まれたところを遠く離れて》  (2000.9)

§1《希望という名のあなたを訪ねて》
 「69年」を激走して文壇に登場し、ドラッグandファックの世代として埴谷雄高をも驚かした村上龍はここ数年、総括の季節に入ったのか一段と何かに憑かれているかのように見える。日本経済のバブル崩壊による経済的損失・精神的荒廃という「失われた10年」を論じる時の姿をNHKテレビで見たが、使い回したマックのノートパソコンを背に、ひとつひとつの事象に触れていくスタイルにマテリアリズムというよりフェティシズム的なものをも感じた。正直なところそんなくだらないことにこだわらなくてもいいのになあ、というレベルの場所に村上はあえて踏み込んでいるように思えた。
 パソコン少年たちを描いた最近の話題作『希望の国のエクソダス』(文芸春秋、1571円)を読んでみた。僕の印象は変わらなかったというべきか。
 『希望の国のエクソダス』は素材的には、なかなか挑発的である。近未来の日本。パキスタン国境で日本の少年が負傷する事件が起きる。少年は「あの国には何もない、もはや死んだ国だ、日本のことを考えることはない」と語り、「ナマムギ・ナマゴメ・ナマタマゴ」と言い残して消える。これに影響を受け、中学生の日本脱出が相次ぐ。それが沈静化したかと思うと、全国で80万人もの中学生が学校を拒否し不登校する事態が生まれていた。彼らの中からはパソコンとインターネットに通じた「ナマムギ」なるグループが形成され、着実に影響力を強め、ひとつの物質力となっていく。少年たちは豊富なパソコンやソフトウェアの知識を生かし、ネットビジネスを成功させる。そして国会への革命的登場を果たし、世界的なチャンネルを獲得するに至るのだ。さらには円−アジア通貨危機を招来させるのだ。
 その後、どうするか。

「ASUNAROは現在約45万人の組織になっていて、全国に散らばっているんですが、その約半分でですね、つまり約30万人くらいで、北海道に集団移住しようと思っているんです」
 どうして?
「別にこれといった理由はないんだけど、土地が広くて気分がいいんじゃないかと思ったんです。(略)」(同書354頁)

 すなわち、このニューエイジたちは、北海道に集団移住し、自らが命名した「野幌市」を立ち上げ警察力と独自の通貨「イクス」を持つに至るのだ。当然のことながら、これは擬似国家への過渡である。民族が解放を求め国家を形成してきた近代の歴史は、歯車を進めてきた。すなわち国家はだんだん敷居を低くし、開かれ消えていくという方向に−。にもかかわらず、国家からの解放を求め、それを超えようとしている人間たちが新たな国家を形成してしまうという逆説を、僕らはこの小説で見せられていることになる。これは新世紀の悪夢というべきか。だが、決定的に発想が古いように思える。だれのか? もちろん作者たる村上の発想が、である。国家をいかに開くか、という方向にある現代の最前線の課題を、たかだかニュー・フロンティア思想のレベルに押し戻してはならないはずだろう、というのがこの話題作への僕の批判である。
 先を急ぐまい。興味深く思ったのは、北海道に国家を作るというアイデアだが、もちろん村上はここで、北海道は土地が広くて気分がいいということを語っているわけではない。北海道が外部からどう見られているかについて好個な認識を示してくれているのだ。

 5年前に拓銀が潰れて以来、北海道は日本経済の縮図のような状況が続いていた。そしていつの頃からかメディアは当たり前のことのように取り上げなくなった。北海道の失業率はすでに10パーセントを超え、苫小牧東開発公社が2001年に倒産すると、それまで全国平均の倍近くあった国家支援による公共事業はその規模が急速に減った。北海道は見殺しにされつつあった。国に頼る姿勢を改めないと北海道みたいになってしまう、というような他の自治体に対する一種の見せしめにもなっていた。(同書210頁)

 こうした北海道論はおそらく間違ってはいまい。確かに北海道はこの数年、この国の政治・経済システムから手ひどい措置を受け続けている。このことを的確に村上が指摘しているのは評価してよい。北海道独立論がニューエイジたちの夢とシンクロするのかどうか。この小説については、そうした視点からの議論もあり得るだろう。
 村上の探求心と博識がこの小説の持ち味であるが、実はそれが弱点でもある。村上は小説の中で、日本社会の陥っている状況やら経済論を、レクチャーでもするように延々と繰り返すのだが、その部分がリポートを読まされているような印象を与えることが少なくないのだ。昔、町内のオヤジが散髪をしてもらいながら、「最近の政治はなってないやねぇ」などとやるのを「床屋政談」と言った。村上の主人公は恋人と懐石料理などを食いながら状況論をあれこれやるのだ。「これからどうなるんだ?」「国が破産するのよ」などと。さしずめ「めしや政談」と言うべきか。もっとも昔のグルメ漫画が食材に固執して、あれこれとウンチクを披露し合うのに対し、村上は軽やかにそのレベルを自明としているところが、時代の歯車が一歩動いたあらわれだろうか。
 さて村上がこの小説でこだわっているのは社会のコミュニケーション不全ということである。建前ではもう話が通じない、常識なんてとっくに崩壊しているという当たり前の場所に人々=少年がいるにもかかわらず、そのことを隠蔽しようとしているメディア=大人たちへの不信である。だが、その少年たちが擬制を次々と終焉せしめた果てに、たどりつくむき出しの世界が果たして、心休まる場所なのか。村上は懐疑的姿勢を崩してはいない。
 「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」と中学生たちのリーダーは語る。そのために彼らが作った擬似的な国家を訪ねて主人公は「この快適で人工的な町に希望はあるのだろうか、と考えた。もし希望があるとしても、実現に向けてドライブしていく動力となるのは欲望だろう」と思うのである。そこに村上の世代的な判断があるといえる。
 閉塞的な日本の状況に愛想を尽かした少年たちがパソコンに走る。そこで勝ち得た透明な物質力によって、希望を夢見る−。
 この構図から、僕らがまず思い浮かべるのはオウム真理教だろう。彼らもまた閉塞的な社会に見切りをつけ、自らの内面に向かい、そこから反転して擬似共産主義的な宗派へと形成していった。その際、ヨガとパソコンは解脱のために欠かせぬアイテムであった。ヨガは自我を解体し、パソコンはニュートラルなコミュニケーション装置であった。そうした脱中心化したはずの平穏な組織の中心に、強力なリーダーが居座る時、その組織は容易に前近代的な家父長集団、そして擬似国家へと変質していくことを、オウム真理教の経験は教えた。この小説の「ナマムギ」(ASUNARO)グループもまた、そうした雰囲気を漂わせているのはいうまでもない。
 主人公の恋人は「パソコンさえあればどこでも仕事ができるから」という理由で野幌市への移住を考えている。本当にそうだろうか。パソコンさえあれば、仕事ができるというのは、中学生グループ同様の錯誤でないのか。パソコンなど、ただの道具でしかない。「精神的交通手段」の技術的発展の成果でしかない。中心には生産力にして労働力たる人間が位置せざるを得ないのである。
 コミニュケーション不全の時代に希望をつくる集団を形成すること。そこには時代錯誤な国家顔貌と透明なファシズムの臭いが漂っている。そのことを十分承知の上で村上がどこまで進むのか。実際の社会ではなく、小説という想像力の世界で、どこまで描ききれるのか。良くも悪くも大変刺激的な作品ではある。
 (ちなみに、『希望の国のエクソダス』にはオフィシャルサイト http://www.Ryu-Exodus.com が開設されている。こちらは小説としてはいささか場違いな印象を与えたリポート作品の舞台裏をしらせる力作だ)

§2《何もない場所から》
 ついでながら村上龍が選考委員に加わった第123回芥川賞に町田康「きれぎれ」と松浦寿輝「花腐(くた)し」が決まった。村上は選評で面白いことを書いている。

 候補作を読んでの感想を一言で言うと、何もない、ということだった。英語で言うと nothing ということになる。(中略)『きれぎれ』には nothing 以外にはモチーフがない。『きれぎれ』の文体は、作者の「ちょっとした工夫」「ちょっとした思いつき」のレベルにとどまっている。(月刊「文芸春秋」9月号)

 確かに、松浦の作品には擬古的なほのめかし以外に、ほとんど動かされるものがなかった。これに対して町田康の作品『きれぎれ』(文芸春秋、1143円)には「ちょっとした工夫」以上のものを感じた。だが、村上龍は町田康には文体のアレンジしかなく、切実なリアリティのようなものがない、と見ているのだろう。確かに今の村上には「現代を巡る絶望と希望を書き尽くす」というモチーフが漲っている。しかし、町田にはそれがないと言えるのだろうか。
 町田の小説を読んで僕は、野坂昭如を思いだした。あの焼け跡闇市派には語ろうとすれば黙すか、饒舌を押さえきれず吃音者的にならざるを得ない切実さがあった。町田にはそれを感じた。
 町田のその破天荒な文体は生活破綻者特有のリズムを持っている。吉本隆明的に言えば、<話体>となろう。この手の文体は、世の中を捨てたり、そうした場所から世の中を照射する力を持っている。現代に於ける<話体>とは広がりすぎた高度資本主義社会のもたらすものを周縁から捉え返そうとしているものだ。
 町田が撃とうとしている時代は、『希望の国のエクソダス』の少年たちが見ている場所とそう違わない。落ちこぼれの道楽息子。ほんとうに落ちぶれて。人一倍の劣等感。それゆえの逸脱行動。反権威を装いながら世渡り上手に成功していく友人への鬱屈した思い。それらが、感覚の断片を積み重ねたような文体で記されていく。
 自分の場所がない。それを希望がないと言い換えてもいい。町田の主人公のいる場所は、そういう場所だ。
 少年たちがパソコンネットワークでそこから逸脱しようとしているのに対して、町田の主人公はランパブを這い回るようにして社会への異和を表現しているわけだ。そして彼は小賢しくないから「この国には希望だけがない」などというセリフを吐かないだけだ。

 新田富子はうつろな表情で窓の外を眺め始め、新田富子の母親は気が狂ったような目で仲人を睨みつけ、仲人は周章狼狽の挙げ句、おほほほ、と笑って場を取り繕おうとして失敗し、母親はひゅうひゅう死にそうな息をした。俺はとどめだとばかりに、「やはり鰻はこうやってちゅるちゅる吸って食うのがいちばん旨いですね」と云い、膳の上にあった鰻重に顔を伏せ、鰻の蒲焼きをちゅるちゅる吸った。          (『きれぎれ』33頁)

 こうした<話体>に村上が反応しないのは判るが、町田の感性が届いていてもおかしくはない。村上がちょっとデコレーションしすぎの場所にいることの反動があるように僕には思える。文学の裾野は村上が考えている以上に広いのではないか、というのが逸脱者への密かなシンパシーを抱き続けている僕の感想である。

§3《旅のつれづれに》
 7月に仕事が変わって、全国各地を放浪することが多くなった。東芝リブレットはますます必須になった。PHSカードも「どこでもインターネット」に役立っている。もっともパソコンなんてなくてもやっていけるぜ、っていう気分も相変わらずである。
 旅先に携行するにはやはり「小さな本=リブレット」がいい。そこでオススメが「吉本隆明資料集」である。これは高知の吉本主義者の若頭をやっている松岡祥男が猫々堂(高知市)という発行所をつくり、散逸している吉本隆明の対談・討論記録を発掘整理している気の長い仕事である。9月10日付けで第6集(1000円)まで漕ぎ着けた。1960年に行われた「トロツキストと云われても−共産主義者同盟に聴く」(島成郎・葉山岳夫・吉本隆明)など懐かしい座談記録が収録されている。80頁程度の冊子なので気軽に持ち歩け、結構、読み応えがある。ニャンコのシンボル・マークは第6集からハルノ宵子さんが描いている。ばななほどメジャーじゃないが、こちらも吉本隆明の娘さんである。巻末には試行出版部のコピー広告もあり、いわば吉本隆明公認の資料集となりつつあるようだ。
 第7集では60年安保闘争渦中のものを収載すると予告されている。いずれ、まとめられれば最もラディカルな吉本隆明発言集となるだろう。そんな期待を抱きながら1集1集読んでいくのは楽しい。吉本嫌いの人にはどうでもいいだろう。嫌いな時もあるが、気になるという人にはぜひ読んでもらいたい。とりあえず宣伝ではあるが、言うまでもないが、僕も身銭を払って予約購読している。読者の支持だけが支えという「試行」の原則がここでも味わうことができるというわけだ。


【パソコンを読む】 14 《重層的な非決定状況》  (2000.10)

§1《ITという呪文》
 もうたくさんだ!、とみんなが思っているのではないだろうか。地道にパソコンという電脳機械につきあい、その性能のアップに期待し身銭をきって育ててきた人間たちは。なにしろ、ついこの間まで情報技術を「イット」と呼んで失笑を買っていた太っちょのスケベオヤジが、行政府の長としての所信表明演説で「IT革命」なるものを22回(たぶん)も連呼して、日本はその分野で世界一を目指すとかなんとか言い始めた日には、もうそのIT革命なるものも最低の鞍部で消費され尽くした証拠である。本当にオヤジが知ったかぶりで何かを語ったつもりでいるときこそ、世は末である。
 書店を回れば、IT革命やらEコマース、ネットバンキングやらのハウツー本が書棚を埋め尽くしている。どうせIT革命を言うなら、古くさい活字本メディアで稼ぐなどと言うさもしい根性を捨てて、インターネットで電脳出版したらどうなんだ、と嫌みの一つも言ってやりたい気分になるわさ。それはバブル期に防衛庁への影響力を誇示し、株屋的発想でイケイケの旭日論をぶって見事に破綻した人物の、またぞろ、人権だの金融だのデフレやらのはやりの言葉をダシにゴミ本を売って糊口をしのいでいる姿と同様、うらさびしいものがある。
 日本の言論界、出版界はこんなものなのか。世界の水準からはとても相手にされないだろうな、というやりきれないおもいがよぎるのだ。
 だが、そんな日本とて、一級の批評家がいないわけではない。吉本隆明と立花隆。この二人に対して、全く立場こそ違うが僕はいつも畏敬を持って見守ってきた。吉本隆明については今更、語るまでもあるまい。もう一人の立花隆については、彼の真の出発が脚光を浴びすぎてしまったいわゆる田中角栄論ではなく、思考法に先駆的にエコロジカルな手法を入れたことであったことに魅力を感じてきた。その延長線でのしなやかな視点での『同時代を撃つ』シリーズに代表される状況論には原発問題、公安警察批判、対米関係問題などで啓発されるところが多かった。
 以前なら彼らの著書を読み「その通り」と膝を打ち、首肯することが普通だったろう。しかし、今はどうだろう。その二人に対して、「その通り」と思う半面、「それは違うだろう」ということが増えてしまったことに驚く。
 今回、俎上に挙げることになる吉本隆明『超「20世紀論』」上下(アスキー、いずれも本体価格1600円)、立花隆ほか『新世紀デジタル講義』(新潮社、本体価格1600円)の両著もそのような本であった。
 かつて吉本隆明は『重層的な非決定へ』という趣旨の思想を述べたことがあった。それは価値観が解体するなかで、つまりは先験的な思いこみにも似た決定論的発想はすべてチャラになったよ、という状況への決意表明であったろう。言い換えれば、世の中単純にはいかんよ、となろうか。その重層的な非決定状況を前に、「和して同ぜず」というべきか、なんともうまく言えないが、今の僕の立場もそのようなものに近いものがあるかもしれない。

§2《立花隆の物神論的越境》
 近年、すっかりパソコンおやじというか電脳使徒になってしまった感のある立花隆は『新世紀デジタル講義』の中の「サイバーユニバーシティの試み」「情報原論」という2つの講演でこんなことを述べている。

 》とにかく、これからの時代はワープロで文章を書けるかどうかが最低限のリテラシーになる、これは日本語の作文を原稿用紙に書くのと同じくらいに本当に常識的な技術になる、今直ちにそれを身につけるかつけないかで圧倒的な差がつく。(同書26頁)
 》今後も英語の重要性は変わらないどころか、ますます重要性を増していくと思いますが、ただこれからは、英語のリテラシーが唯一最大の知的基本ツールではなくなってくる。これからは、英語と同等あるいはそれ以上の重要性が、コンピュータ・リテラシーに置かれてくる。情報教育がかつての英語教育と同じような重要性を持ってくる。そういう時代になったんだと思います。(同書38頁)
 》コンピュータ・リテラシーがあって、英語で受信も発信もできる人だったら、すぐにでもそういうグループに入って世界の第一線の人たちと対等に語り合うことができるんです。インターネットは国境の壁を取り去っただけでなく、専門家と非専門家の壁、玄人と素人の間の壁を取り去ったみたいなところがあって、発信能力がある人なら、どんな世界にでもどんどん入っていくことができます。(同書43頁)

 ちょっと待てよ。
 ワープロが使えないこと、コンピュータが使えないことが、本当にその人間の未来を左右する決定的な条件なのか!
 コンピュータを使えれば既に何かを為しうる場所にいるとでもいうのか! 
 この種の俗論を聞くとき、僕は本当に情けなくなる。ここで言うべきコトはせいぜいパソコンを使えるほうがいろんな仕事をするときに有利だし、世界を考えたとき役にたつだろうというレベル以上でも以下でもないことどもだ。確かに英語はできるにこしたことはないだろう。だけど、英語を話せるが、日本のことがさっぱりわからないバイリンギャルの増殖が、何か思想に新たな地平をもたらしたとでもいえるのだろうか。パソコンとて同じことだろう。それを立花隆は決定論的に語ってしまう。この人の柔軟性、エコロジカルなトポスが崩壊してしまっている。なぜ必要なことと、十分なことの差異がわからないのか? 
 この種の強迫観念こそ、いつもこの国の近代を支配してきた上昇志向のエトスの最悪のカリカチュアであることに気づかないのか。僕はそう思う。
 立花隆はもうコンピュータに魂を売った俗物だというのはやさしい。問題は立花隆ほどの優秀な人間が、取り憑かれてしまうコンピュータの魔力である。

 》いってみれば、コンピュータは情報の錬金術を可能にする機械なんです。古代の錬金術は、オカルティックな物質転換の秘法としてありましたが、実は探求の対象にとどまり現実の秘法は作れませんでした。現在のサイエンスは、錬金術では実現できなかったことを、化学として、原子レベル、分子レベルの物質入れかえで本当に物質変転換を可能にしてしまったわけです。(同書79頁)

 なるほど錬金術か。それは魅力的なものだ。現代の錬金術機械・コンピュータはなんでもできるらしい。それは数学同様、ある前提の上での話だろう。その限界を説かずして、その超越性もどきに没入する至福と恍惚の時間を立花は味わっているかに見える。だが、夢から醒めたとき、彼が見るのは依然として変わらぬ人間の生物としての自然だろう。遺伝子工学などに対する原則性の喪失に傾斜しつつある彼の思考のエコロジカルな復権の日は来るのだろうか? 僕はだんだん状況からずれていく立花の嗜好に現実からの復讐を感じるのだ。

§3《老エンゲルス的逸脱》
 さて、わが吉本隆明である。彼は『超「20世紀論』」下巻の中で「インターネットを撃つ!」という一項目を設けている。
 
 》情報科学や情報工学の主たる任務は、コミュニケーションの拡大だとすると、インターネットはコミュニケーションを単に直線的、平面的に拡大するのではなく、異質なもの同士を連結して次元を拡大できるというところに本質があります。つまり、「交通」に次元が加わったものがインターネットだといえます。(同書24頁)
 》ところが、情報科学や情報工学の専門家たちは、もっと踏み込んだいい方をしていて、人間の感覚を拡大させ、多様化させることが、自分たちの主たる任務だといているんです。(中略)さらに踏み込んで、情報科学や情報工学は人間の精神や心をも発達させるものだと主張しています。そこが一番の問題点で、そこまでいっちゃうと、明らかに領域の逸脱だと僕は思います。(同書24頁)
 》情報科学や情報工学が発達していけばいくほど、人間の精神や心も発達していくというのはウソです。(中略)確かに、情報科学や情報工学の発達によって、感覚を拡大することは可能です。でも、いくら感覚が拡大しても、人間の精神や心はギリシャ・ローマ時代とちっとも変わってねえよという面があるんです。(同書25−26頁)

 吉本隆明がさすが、と見えるのはこんな文章に出会った瞬間である。交通論の領域としてインターネットを捉えた上で、その特質を剔りだす胆力! 
 交通論として情報化社会を捉えよ、というのは、これまで三浦つとむを援用して私がこのシリーズで指摘してきたことの核心である。三浦つとむは、唯物史観から見れば「情報革命」は「交通(Verker)の分野における技術革新」なり、と喝破した。そして、「現実的生活においてはつねに生産が決定的な契機であって、生産から生まれるところの交通は第二義的な契機でしかない。けれども交通はまた生産に反作用をおよぼす」「技術革新は古い熟練を葬るとともに新しい知識や技能を要求する。物質的ならびに精神的な交通手段における技術革新が、生産・交通の全面にわたる変化と発展をもたらし、またここから労働力に対する要求ないし政策も大きな変化と発展をもたらし、またここから労働力に対する要求ないし政策も大きな変化を示しつつあるところに、現代の特徴がある」と『マルクス主義と情報化社会』(三一書房)で述べた。「IT革命を」などと回らぬ舌で叫んでいる政府首脳が、労働者と経営者に要求していること、そして立花隆が近代主義者に転落して叫んでいることとは、古い労働を葬りされ、新しい労働について来られない層を切り捨てよ、ということである。
 だが吉本隆明はIT革命なんかやっても、人間は変わらないことを見抜いている。

 》文学者を言葉の専門家と呼ぶならば、彼らがパソコンやインターネットを拒否するというのは、それなりにわかります。というのは、インターネット、マルチメディアは言葉の機能の半分にしか、かかわらないからです。(中略)情報科学、情報工学は、情報を“記号”として扱い、その目的はコミュニケーションの拡大と多様化にあります。言葉の「指示表出」の機能は、インターネットや情報科学、情報工学と同じ発展の方向を向いているんです。(中略)一方、「自己表出」というのは心の表現です。(中略)言葉が持つこの「自己表出」の機能は、インターネットや情報科学、情報工学の発達とはほとんど関係がないといっていいんです。(同書29−30頁)
 》インターネットが“草の根民主主義”を促進するツールだなんて、変なことをいう人たちがいるものですね。信念じゃなく、おかしな宗教を持っている人ですよ。/科学的な事柄や技術的な事柄についての発達は、基本的には、なんら倫理的な問題とは結びつかないし、結びつくなんてことはありえないと僕は思っています。(同書48頁)

 『言語にとって美とはなにか』で明確にした「自己表出」「指示表出」の2つの原理概念から、インターネットは文学の根基にある「自己表出」とは、なんの関係もない、と断言するのだ。インターネットで産み出され続ける膨大なコミュニケーションはまさに、ただの現在でしかない。吉本隆明はそう言っているのだ。原理的にインターネットの限界を、ここまで言い切った発言を僕は聞いたことがない。
 だが、その吉本隆明は相変わらず老エンゲルスの如く、言わずもがなの事柄に言及して僕らを混乱させるのだ。近年、吉本隆明の本を読むとき、僕らは複雑な思いにいつも突き落とされる。
 なによりも吉本隆明は技術者に対して、点が甘すぎるところがある。そして、本来ならば、感性や好悪の領域でしかないいくつかの事柄に対しても、いかにも原則論的な構えを持ち込み、それが的を外してしまうことが少なくない。

 》それは(茨城県東海村の放射性廃棄物再処理工場事故)、やはり追及する側にも問題があります。隠さざるをえないような追及の仕方をするからです。事故を起こした側は、「自分たちに責任はある。でも、皆さんが心配するほど大したことではない。事故がこの範囲内でとどまるということは、技術的に明瞭である。それだけの処置はしました」ということを、ちゃんといえばいいんです。そういことが率直にいえるような追及の仕方をすればいいんですけどね。/これは、市民社会の成熟度とも関係したことです。原子力発電にしても、本当に危険ならば、推進する側の技術者や研究者たちが真っ先に逃げ出すはずです。(同書上巻115頁)

 東海村の臨界事故に、こんな楽観的な床屋政談を吐いてしまうから、現場の人間から笑われてしまうのだ。あのJCOの事故の重大さは、原発推進の勢力すら認めざるを得なかった。最前線では「処置はしました」などというレベルでは語れない、特攻隊さながらの現場突入が図られ、彼らの犠牲と偶然性の上で、かろうじて深刻な被害の拡大が避けられたのだ。
 危険があれば逃げ出すほど人間は自由ではない。逃亡を選ぶにしろ殉職を選ぶにしろ、彼らの存在を決めるのはただ、関係の絶対性だけだ。初期・吉本隆明ならそう語るだろう。「マチウ書試論」の問うた人間と存在の核心を、吉本が語らないから、僕が初期・吉本主義者として、語らざるをえないのは悲しいことだ。

 》あの人はいい感じですね。徳光和夫は「ズームイン!!朝!」(日本テレビ 平日朝7時〜)の司会をしていましたが、その司会のやり方は好きでした。“知的でない司会のやり方”がいいんです。あの人の“知的でない司会のやり方”は、そうした司会のやり方の先駆けになったと思います。(同書上巻221頁)

 いい意味で吉本隆明的啖呵が魅力のテレビ文化人評定も、なんとも成功しているとは言い難い。徳光和夫の司会が「知的でない」というのは「還相」の視点からはわかりやすい。だが、それが成功しているか、どうかは怪しい。その「無知」をいいことに、夜郎自大に居直る司会が、吉本隆明が言うほど評価できるかどうか怪しい。まさしく「好き」というレベルのことだろうと思う。そこを先駆者だと、持ち上げるのはいかがなものか。
 僕は、初期・吉本隆明にならって「老エンゲルスはいわなくてもいいことをいって失敗している」と呟かざるを得ないのだ。悲しいことだ。

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