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研究批評CRITIC

子母澤寛研究 1

二〇一八年の子母澤寛の方へ  ―流亡の果て、紡がれた無頼三代の夢―

§0

私たちは同じ事実に接していながらも、全く違った世界を感じることがある。たとえば戦争がそうだ。「終戦」という現実の前には勝者と敗者がいる。戦争は民衆の誰にとっても悲惨な結果しか招かないが、幻想とはいえ勝者の側には一瞬でも昂揚感が訪れるのに対し、敗者の側にはすべてを失った痛みが相乗的に襲来するだけだろう。

同じ風景ならどうか、と転想する。飛び交うフクロウやうろつきまわるヒグマやオオカミがいる未踏の森林や水辺があるとすれば、そこは開墾されるべき原野なのか、それとも人間を含む生命体系の豊かさを育む場所として映るものなのか――。私たちはその時、知里幸恵『アイヌ神謡集』(郷土研究社、一九二三)の序文を思い浮かべてみる。

「其の昔此の廣い北海道は、私たち先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活してゐた彼等は、眞に自然の寵児、何と云ふ幸福な人だちであつたでせう」―この牧歌的に見える言葉が紡ぎ出しているのは時間と空間の隘路を抜け出す可能性の想像力ではなかろうか。

二〇一八年は「北海道命名」一五〇年である。だが、その「数字的」「節目」は近代日本という国家システムのなかの事実であって、遙か以前から長くその地に自由に暮らし、アジア大陸や北方の島々、ヤポネシアと交流交易してきた人々にはあまりにも短い「節目」である。

北海道百年記念塔というモニュメントがある。これは未来への希望を示す「北海道百年」のシンボルとして、約半世紀前に建てられた遺産なのであるが、老朽化の進む現在、その尖塔に幻視されるのは無残な記憶の墓碑のようなものである。私たちはすでに父祖らが血と汗を流した「開拓」「開基」という言葉の持つ晴れやかさの一方の暴力性への反省が不可避な場所にいる。大切なのは現実から離れた数字を肥大化させず、多様な視点を失わないで考えていくこと―――。

§1

 子母澤寛(しもざわ・かん、一八九二~一九六八、本名・梅谷松太郎)は『新選組始末記』『勝海舟』『行きゆきて峠あり』といった幕末・維新もの、『国定忠治』『弥太郎笠』『すっ飛び駕』『遺臣伝』といった股旅・侠客・剣客ものなどを数多く書いた時代小説家である。

彼が惹かれているのは勝者よりも敗者である。時流に乗った成功者や主役ではなく、社会の片隅に取り残されながらも頑固に自らの姿勢を貫き通す脇役たちである。がんじがらめの制度から逸脱して流浪の道を生きながら義を重んじた遊俠の人々である。だから、この作家を考えることは直線的に礼賛し、回顧される「明治一五〇年」的なものに覚える違和感に対して補助線を引くことである。

「勝てば官軍という言葉がある。その通りで(志士やお仲間達は)自分達の野心を遂げようという大ばくちが当って、さてそうなると、自分達の悪い事、不都合な事はみんな抹殺し、日本の歴史というものを、みんな自分達に都合のいいように書き替えて終っている」(『新選組挽歌 鴨川物語』)と言うように、子母澤寛の文学営為の根っ子には明治維新史観・官軍史観的なものへの痛烈な批判がある。

 そうした発想に至ったのは「徳川御家人」であり、明治新政府軍に最後の最大の戦いを挑んだ榎本武揚総裁率いる「蝦夷共和国軍戦士」であった祖父・梅谷十次郎の影響抜きには考えられない。

その梅谷十次郎は伊勢藤堂藩藩士の四男に生まれた。下町の江戸っ子として義に厚い侠客の顔も持っていた。幕末の激動期には彰義隊に参加、上野の山で戦ったが、敗れる。その後、北走する榎本武揚軍に参加するも箱館戦争で、またも敗れる。箱館の実行寺などに囚われた後、士分を解かれて札幌に移される。そこで円山一帯の土地供与と引き換えに開拓従事を求められるが、これを潔しとせず、同志六人とともにやむなく流れ着いたのが秘境ルーランの地、石狩国厚田村であった。

 北の大地への移住の多くは希望に燃えての「入植」などではなく、関係によって強いられたものであったことを忘れてはならない。ニシン漁場であり、アイヌの人達の暮らしてきたその土地で、十次郎の仲間たちはやがて風の唄を聞きながら叶わぬ思いだけを残し死んでいく。流浪者を襲うのは孤愁だ。だが、そこに母に捨てられ、残された一人の幼子がいた。十次郎にはこの幼子こそが希望であったろう。膝の上に抱いては、自らの武勇伝、義に生きた御家人・侠客たちの世界、江戸っ子の心意気を夜昼となく語り聞かせた。この「祖父に抱かれる幼児」という親密な関係性は「子母澤寛に抱かれる愛猿・三ちゃん」として、後に反復されることとなる。

 実際のところ、零落して北の大地へと移住したのは十次郎だけではない。「ここは植民地だった。すべてはこの事実から始まる」(池澤夏樹「日本文学史の中の北海道」、「北方文芸」2017)のである。「集団で入った元下級武士、流刑囚、左遷されて戻れなかった官僚、食い詰めて、あるいは起死回生を夢みて移住した貧民たち。日本列島の余り者。そして侵略され土地と文化を奪われた側の先住民」(同前)などなど――。無数の「十次郎」が厳しい自然と大地に「根を張る」べく足掻いていたはずである。彼らの醸し出すイマジネーションの合力こそが「日本」の中の北海道の文化の特異性であり卓越性なのである。

特権的な為政者や御用機構の官許的事跡ではなく、多くの蒼氓たちの肉体に刻まれた書かれぬ思いこそが豊かさの源泉である。これらへのアプローチは小池喜孝による秩父困民党と井上伝蔵の足跡掘り起こし、囚人、タコ部屋労働、朝鮮人・中国人、アイヌやウイルタなどの先住民への非人道的な諸施策の実態解明を先駆として、森山軍治郎の炭鉱長屋などの民衆精神史研究に受け継がれて成果を上げてきた。

 子母澤寛に戻ろう。愛情と期待のすべてを注ぎ込んでくれた祖父・十次郎は再び零落する。漁場を持ち料理旅館を営んでいた顔役であったのも束の間、ニシンが獲れなくなるに従いすべてを失い、厚田村から夜逃げ先となった札幌で寂しく亡くなる。子母澤寛、時に十九歳。天涯孤独となる。

その彼を助けてくれたのが、生き別れた母・三岸イシの連れ合い橘巖松である。橘巖松もまた十次郎同様に見事な刺青を入れた無頼の徒であり、故郷を捨てた流浪の人であった。そして、ただ勝つことよりも「敗ける」ことのできる天才博徒だった。私見では「座頭市物語」の盲目の居合の達人、市には巖松の天才が投影されている。

この巖松に学資を助けられ、子母澤寛は上京し、明治大学で法律家を目指す。しかし、弁護士試験にはあえなく失敗。勤めた横須賀の地方紙はつぶれ、夢も生活もすべてを失って、北海道に舞い戻ってくる。自分もまた敗残の徒なのだ、という無頼三代の痛苦な自覚が孤独とともに彼を襲ったことだろう――。

挫折続きの人生には寂しく死んだ祖父・十次郎の無念の思いが重なった。遊郭の用心棒に身をやつしながらも、優しく支えてくれた義父・巖松も二十四歳の時に亡くなる。出口の見えない生活が続く中、二年後の一九一八年(大正七年)、子母澤寛は近代の北海道に生まれた多くの青年がそうであったように、新規まき直し、津軽海峡を渡る。

負けてなお心だけは屈しない〈侠(おとこ)〉たち―無頼三代―の夢が、子母澤寛の背中を押す。江戸へ東京へ、還ろう――。

§2

 子母澤寛の文学の原点にあるのは「語り」である。十次郎の昔語り寝物語り。それを聞く子母澤寛がいる。「あぐらの中で年寄りの繰り言の如きものを聞かされたわけで」「年寄りと話をすることが非常に楽しいんですよ」と、子母澤寛は司馬遼太郎との対談で聞き書きの楽しさを語っている。この時、司馬は開口一番「『新選組始末記』がどうしても越えられない」と子母澤寛の文業を称えている。新しい国民作家は子母澤寛の仕事から出発したのだと知ることができる。

子母澤寛は明治大学に入ってからも大衆読み物の赤本原稿を書く一方で、寄席や講談に通い耳を養うことが多かった(もっとも彼は子どもの頃の水遊びで右耳の聴力を失っているのだが)。

 再上京の年に読売新聞に入社し、一九二六年(大正十五年)に東京日日新聞(現・毎日新聞)に移って三三年(昭和八年)に退社するまで十五年間に渡って軟派もの記者として活躍する。政治や経済などの記事ではなく街ダネと呼ばれる市井の中のきらりと光る話題、あるいは芸能や学芸、生活にまつわるコラムに腕を振るう。

幼児期からの聞き役体験が記者時代にますます磨きがかかる。趣味として新選組関係者、旧幕時代の遺老の実歴談を尋ねていたが、次第に仕事でもインタビューが増える。グルメ本の元祖ともいうべき『味覚極楽』はさまざまな名士たちが漏らした食に関するこぼれ話を集めたもので、インタビューが生んだ副産物と言える。

戊辰戦争(一八六八年)から六十年の戊辰の年である一九二八年(昭和三年)には記者として「戊辰物語」を執筆・刊行、一方で聞き書き調査の成果として『新選組始末記』を出版する。現在まで百花繚乱の新選組作品も、もとをたどれば子母澤寛の聞き書きに始まると言われるのは、司馬遼太郎の賛辞を引くまでもない。

「戊辰物語」に先立つ一九二五年(大正十四年)には国定忠治七十五年祭を取材。大衆のヒーローとして美化するだけではない遊俠の世界の実相に関心を深めたことも活動の幅を広げることになった。

 「聞き書き」を基本にした文章は、子母澤寛の作品に自在さと重層感を与えている。普通は語りの地の文と会話で作品は構成されるが、子母澤寛では入れ子のように「原田左之助未亡人まさ女談(昭和四年一月十八日)」といった新しい語り手が突然登場する。さらには客観的な描写の中に、「あ、私の祖父も行く。血刀を下げたままだ。どうして、早くあの刀を鞘へ納め、も少し目立たぬようにしないのか」(『蝦夷物語』)といった野球の実況応援のような主観が顔をのぞかせる。白眉は「八木為三郎老人壬生ばなし」といった完全なる語り書きである。

私たちは子母澤寛の作品から、効果的に編集されたドキュメンタリーの面白さを味わっているのだ。根っこにあるのは祖父の昔語り、そして講談の名人たちの話芸、それを踏まえた映像的な実験的な多重表現―ポリフォニー的世界―が、子母澤寛の表現の魅力である。 

§3

 子母澤寛が祖父・十次郎から教えられたものは「聞き書き」の楽しさであると同時に「脇役」たちが内包する輝きのようなものであった。

「維新の時、あの時にぱっと世の勢にのって出て来た人間よりは、置き残されて埋れて終った人達の方が、本当は人間として温い、そして純情なものではなかったかとよく思う。だから旗本や御家人の零落して全く市井に埋れた人達が妙に好きだ」(「消えた剣客」)という感性は子母澤寛が祖父・十次郎から得たもう一つの宝である。

子母澤寛は〈晩年〉になって故郷・厚田村に向けた物語を積極的に書き始める。「蝦夷物語」「南へ向いた丘」「厚田日記」という三部作がその典型である。もっとも、祖父・十次郎の〈侠客(おとこ)〉ぶりへの追慕は既に『父子鷹』の喧嘩無双・勝小吉や、『花の雨』の伴鉄太郎などに濃密に重ね合わされていた。あるいは、盲目で抜刀術居合の達人という座頭市。「物凄い程の勘で、ばくち場へ行っても、じっとしていてにやりと笑った時は、もう壺の内の賽の目をよんでいて、百遍に一度もそれが違ったことがなかった」という天才博徒のイメージは前にも記したが『無頼三代』に登場する義父・橘巌松に通じている。

 子母澤寛は祖父や義父、なにより故郷を思わなかったことはなかった。「桃も咲くし、白い梨の花も咲く。東の丘を越えれば、遙かな青い山を前にして何処までも何処までもつゞいてゐるやうな道の両脇にはまるで植ゑつけでもしたやうに山桜が並んでゐる。此桜の匂を背に負って丘へ立って見下ろした私の村」。この美しい村はしかし、思い出の中の風景―。再びその地を踏みしめた感動の記述はない。

その大きな理由は祖父・十次郎が「夜逃げ」して札幌へ出てきたということがあるだろう。子母澤寛もまた仁義の人であるとすれば、祖父が「国を売った」(故郷を棄てて、草鞋を履いた)以上、「はい、戻りました」と言う訳にはいかなかった。東京での「厚田会」で同郷の人々と語らいながらも―である。

子母澤寛は故郷を持たない、と言う。この言葉がちりちりと心に刺さるのは北海道の人たちだろう。自らを「海の捨児」と唄った伊藤整、あるいは故郷を「海炭市」と仮構せずにはおれなかった佐藤泰志。彼らの持つ故郷への違和感以上に、子母澤寛はあらかじめ帰ることを禁じられた「故郷喪失者」なのである。

 子母澤寛という一代の流行作家が照らし出すのは、「北海道」と名づけられた近代の蝦夷地がそうであったように、根を失い流亡の中にあって過酷な運命を生きなければならなかった民衆のこぼれ落ちる〈哀しみ〉の一断面であり、東京(江戸)という幻想の故郷を浮遊する近代人の見果てぬ夢の物語だったように思えるのである。

(公益財団北海道文学館編『子母澤寛 無頼三代 蝦夷の夢」、2018年4月20日所収)

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子母澤寛研究 2

「石狩ルーラン」の残響を追って
――河合裸石と子母澤寛・三岸好太郎メモ――
§0 はじめに
 北海道立文学館が特別展「没後五〇年 子母澤寛 無頼三代蝦夷の夢」を開催したのは二〇一八年春のことであった。・・・・・・

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