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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています
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シン・たかお=うどイズム β
Private House of Hokkaido Literature & Critic
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勝手にweb書評
REVIEW
勝手にweb書評8−5 36〜45
☆
<36>三浦展『下流社会 新たな階層集団の出現』(光文社新書)
この本も売れているそうだ。著者は1958年生まれ。一橋大学社会学部卒業。パルコ入社。マーケティング情報誌「アクロス」編集長を経て各種シンクタンクで研究活動を続けてきたようだ。本書もそれらの経験を十分に生かした内容になっている。この本を読んで、「下層」の増加をまともに論じている人も少なくないようだ。
日本はこれまで「中流社会」と言われてきたが、三浦さんは「下流社会」に向かっていると指摘する。「所得格差が広がり、そのために学力格差が広がり、結果、階級格差が固定化し、流動性を失っている。あるいは『希望格差』も拡大している。こうした説が、ここ数年、多数発表された。/それは、日本が今までのような『中流社会』から『下流社会』に向かうということである。もちろん『下流社会』とは私の造語だ」と言う。
下流はもちろん中流ではないが、決して貧しいということと一致するものではない。暮らしぶりはそれなりでオタク的な家財はそろっている。しかし、彼らには所得以上に何かが足りない。「それは意欲である」と三浦さんは指摘する。物質的に豊かになろうとした戦後世代、団塊世代が産み落とした若者たちが積極的な社会変革も生活変革も意図しない下流社会層であるというわけだ。
三浦さんは別段、現状を肯定しているわけではない。「少数のエリートが国富を稼ぎ出し、多くの大衆は、その国富を消費し、そこそこ楽しく『歌ったり踊ったり』して暮らすことで、内需を拡大してくれればよい、というのが小泉−竹中の経済政策だ。つまり、格差拡大が前提とされているのだ」。階層の固定を避けるため、「機会悪平等」を三浦さんは指摘する。
大変面白い本だった。しかし、一応、私も世の中のことを数十年考えてきたので、自分なりの感想を述べておきたい。私たちは、おそらく広い意味の団塊世代に属している。その世代の中の、もっともラディカルな部分は定職を持たず、今風に言えばフリーター然として暮らしてきた人が少なくない。私の知人にも、日本では住み込みで働き、小金がたまると東南アジアでヒッピー然と暮らしている者がいる。彼は別に下流社会人だとも思っていないし、機会均等を求めてもいない。世捨て人のようであるが、世の中の仕組みを変えたいという意欲はないわけでもない。マーケティングの手法で、いかにその「お客」を増やすかの視点で、階層固定化社会を批判しても、いささか胡散臭い。中流幻想は崩れたとしても、購買力的なものではなく、もっと深いレベルのものだ。社会に潜勢している新たな共同体の可能性は想像力によって剔出するしかないのではないかと思われる。
★
<37>藤原正彦『国家の品格』(新潮社)
父親は『八甲田山死の彷徨』の新田次郎、母親は『流れる星は生きている』の藤原ていという作家夫婦の二男として旧満州に生まれた著者は数学者にしてエッセイストである。異郷から戻った人間にあるナショナリズムの血が60歳を過ぎて噴出しつつある。本書も売れているらしい。やはり、『さおだけ屋…』や『下流社会』もそうだが、新書サイズはベストセラーにつながりやすいのだろうか。
さて、内容である。本のオビにポイントは要約されているので、行きます。「資本主義の勝利は幻想」「情緒の文明を誇れ」「英語より国語と漢字」「論理の限界を知る」「卑怯を憎む心、惻隠の情の大切さ」「跪く心を忘れない」「武士道精神の復興を」「古典を読め」「家族愛、郷土愛、祖国愛、人類愛」「国際貢献など不要「重要なのは『文学』と『芸術』と『数学』」「真のエリートを求める」。以上です。ちなみに、オビの表側には「すべての日本人に誇りと自信を与える画期的日本人論!」とあります。
大変読みやすく、しかもすんなり頭に入ります。言っていることは、いちいち「もっとも」なことが少なくありません。でも、私は一方で随分「違うな」と感じました。では、何が、と言いますと、<徳>だとか<品格>というあたりの言い方が非常に特殊だということです。著者は日本はアメリカ的な論理・実力・競争主義に対して、日本人は感性が異なるし「もののあわれ」を知り、惻隠の情を持つ民族・国家だと主張するのです。
これは世界的にも特異な論ですし、たぶん、そのような日本異質論は受け入れられないでしょう。天才論も変わっています。天才の出る風土は「美の存在」「跪く心」「精神性を尊ぶ風土」の3条件が必要で、日本はこれを見事に満たしているというのです。これなども、天才期待論としてユニークであるとともに、極めて情緒的な物言いです。著者も言うとおり、欧米的な合理主義から蹉跌して戻ってきた場所が武士道ニッポンということのようです。
中途半端な「国際貢献など不要」というのはわかりますが、「本気で世界に貢献したいのなら、『イラクの復興は、イスラム教にどんなわだかまりもない日本がすべて引き受けよう。そのために自衛隊を10万人と民間人を1万人送るから、他国の軍隊はすべて出て行け』と言えなきゃあ、というのは暴論を超えて漫画的です。そういう品格の国家になるというのは、また八紘一宇で行くということに似ています。理想と現実のギャップが日本の満州国でした。その悲劇を分かっているはずなのに! と思います。
☆
<38>渡邉恒雄『わが人生記』(中公新書ラクレ)
世の中には文庫や新書でも手強くて読み切るのに何日もかかる本もあれば、30分くらいで簡単に読めてしまう本もあります。まあ、どうでもいいことですが。
さて、日本を代表す大新聞のトップが書き下ろした自叙伝が本書です。各章のタイトルを見ても「新聞記者修業」「暗かった青春時代」「政治家と指導力」「プロ野球」「老夫婦の大病記」と、一貫性がなく、いささかまとまりにかけるのは著者のわがままなのか編集者が甘いのか不思議です。どんな原稿でもデスクがしっかりしないといけませんね。私のこの原稿もデスクが見ていないから、欠陥が多いのかな。
通称ナベツネさん。この方はコワモテのイメージが先行していますが、哲学青年であったということがよくわかりました。本人は言います。「終戦直後、私は共産党に入党し、マルクス、レーニンを耽読し、学生運動に走りながら、一方、哲学科でカントやヘーゲルの原書講読に取り組んだ。もちろん、カントとマルクスは両立するものではないが、私はその両立を試み、ベルンシュタイン流のマルクス修正主義に傾いた。(中略)私は東大共産党内で『主体性論争』を引き起こし、ついに除名される」とあります。すごい。私も戦後主体性論争を少し学びましたが、寡聞にしてナベツネさんの活躍は知りませんでしたが、ある歴史を感じます。特に、花田清輝との関係などには驚きました。
特オチの話は読み応えがあります。吉田首相の「抜き打ち解散」の場面。各社の記者が慌ただしく走り回っています。しかし「読売はといえば、キャップ以下一人も出勤していない。恐らく自宅で読売新聞しかとっておらず、『今日解散』の日経記事を読んでいなかったので、解散になったことを知らなかったのだろう」と青年・ナベツネさんは書いています。官邸の先輩もくそみそですね。もちろん、これは昔話です。念のため。このていたらくに呆れたナベツネさんは一念発起、大物政治家に食い込んでいくわけです。
小泉首相論には哲学青年の顔がのぞいています。「小泉首相は、もとより超国家主義者ではないのだが(中略)ワンフレーズ政治を見ていると、『概念的体系』なしに『叫喚的スローガン』を連発しているような気がしてならない」。こういう手法は「有害無益」だと言うのです。これはヒトラー批判に通じています。もっとも、前立腺がんで入院中に厚生大臣の小泉氏が見舞いにきた場面(93、94頁)を読むと、ちょっと不満です。
自叙伝は基本的に本人本位で書かれていますから、客観的なフィルターで読み直さなければならないでしょう。でも、やはり才気ある人物の「素顔」は伝わってきます。ジャーナリストを志す人には反面教師的で役には立たないかも知れませんが、人間論に関心のある向きには示唆に富むところが多く、読んで損はないと思います。
★★★☆
<39>東野圭吾『容疑者Xの献身』(文藝春秋)
オビに「2005年度ミステリーの金字塔」、『このミステリーがすごい!』第1位など3冠達成!と晴れがましく謳われている。しかも、第134回直木三十五賞候補6作品の1つに選ばれた。そこで、まず1点買いで読むことにした。東野さんは1958年、大阪生まれ。99年には「秘密」で日本推理作家協会賞を得ている。「秘密」は第120回直木賞候補にもなっており、今回が6回目である。ちなみに、「秘密」は岸本加世子と広末涼子が出演し、映画でも話題になった。
さて、本作である。みなさんが絶賛し、その前提が頭に入っていた。そうした気負いで読むと、早めに犯罪の全貌も示され、名探偵も登場するので、なんだかつまんないぞ、と思ってしまう。しかしながら、作品の真骨頂は最後の謎解きである。そこで、ありゃりゃあ、という大どんでん返しが起こる。そして、物語のトリックが明らかにされる。つまり交わらない2つの線があることを示すのだ。そして、読み終わると、次第になるほど、というトリックの見事さと、なんていうか「献身」の半端じゃない大きさを知らされて、しみじみとした余韻が広がってやまないのである。
あらすじです。石神は高校の数学の教師。だが、本来なら大学の助教授にでもなっていてもおかしくない天才であった。今はおんぼろアパートと学校を、ホームレスの住む隅田川沿いの道を通う毎日。彼の唯一の楽しみは学校近くの弁当屋に立ち寄ること。石神はそこの従業員の靖子に密かに心寄せていたのだ。彼女はアパートの隣人でもあった。その靖子を別れた夫が訪ねてきて、娘の美里ともども事件になってしまう。殺人を隠すために、天才数学者・石神は完璧なアリバイをつくり、親子を守ろうとする。どんなにしても真犯人に至らない犯罪は可能か。可能である。そこに、だれにも真似できない「献身」による深い愛情があるならば。
しかし、この完全犯罪は石神のライバルの天才・物理学者の湯川によって真相が解き明かされる。素晴らしい頭脳を持った者がみな幸せになるとは限らないのである。交わらない2つの線とは犯罪のことであると同時に、2人の天才の運命でもある。しかも、恋することによって、天才も見た目を気にし、我が身を嘆かざるを得ない。靖子が心寄せる工藤への脅迫文が真相撹乱のための工作でありながら、石神の本心でもある。それらが、ひりひりと心に沁みてくるのである。ベスト作品であるかは門外漢の私には分からないが、心に残る傑作であることは間違いない。一読をオススメする。
(1月17日の直木賞選考会で、本作は第134回の同賞を得た)
★☆☆
<40>森達也『悪役レスラーは笑う』(岩波新書)
オウム真理教の素顔に迫るドキュメンタリーなどで活躍してきた森氏によるプロレス論である。サブタイトルに「『卑劣なジャップ』グレート東郷」とあり、団塊世代には懐かしい不思議な悪役レスラーを通じて、マージナルな世界へと越境する。
プロレスは不思議な世界である。つまり「真剣勝負」というスポーツの精神を平然と逸脱している。ルールはあるが、きわめて曖昧だ。たぶん、殺人行為にならない限りは何をやってもいいのだ。そのギリギリのところで、「必殺技」を応酬して観衆をうならせる。八百長であって八百長でない。そのファンタジーに多くの人が見せられてきた。もちろんかつての馬場派的なショースタイルと猪木派的なストロングスタイルの違いなど、熱狂的に語るほど、プロレスという魔界に入り込んでしまうだけだった。
さて、森氏が語るのは第2次大戦が終わって間もなく、卑劣な日本人の代名詞「東条」を名乗ったが、あまりの過激さに今度は日露戦争の英雄の「東郷」をとってリングネームとした日系人レスラーの出自のなぞである。森氏は最終的に3つの問題提起をする。1つは東郷が熊本県出身の日系人夫婦の子であるか。2つは母親が中国人であるか。3つは熊本出身であるが、もともとコリア系であったか。まさに1人の人間が抱えてしまった日本、米国、中国、韓国・朝鮮という国家の確執の問題として示すのだ。補助線は在日朝鮮人であった力道山がなぜ、嫌われ者のグレート東郷を厚遇したかである。
もちろん、結論は出ない。だから、タイトルのように「ユーはユーね」と悪役レスラーは笑っているのである。民衆は空手チョップで「大和魂」の再現を感じたが、それを演じたのはコリア出自の力道山である。そして怪しげな日系人、「原爆頭突き」を得意技とする日本名のコリア系、沖縄出身らしい謎のレフリーなどがリング上を駆けめぐり、そしてリング外では在日を含む裏社会の大物と右翼・保守政治家が利権を漁っているのだ。それが60年代のプロレス構造である。今は? 語るまい。リング上では世界の対立や政治状況がドラマツルギーとして取り込まれる。日本人は海外ではヒールであるが、日本ではベビーフェイスであるように。グレート東郷が演じたのは、世界の戯画化であり、生身の人間に押しつけられたナショナリズムの脱構築であったというべきか。私たちはプロレスでナショナリズムを鼓舞されつつも同時にナショナリズムの虚妄を見ていたことになる。
★★★
<41>あべ弘士『どうぶつ友情辞典』(クレヨンハウス)
旭川の「独酌三四郎」のおかみ・西岡美子さんから12月25日のプレゼントとしていただいたサイン本です。「なんだ、その独酌三四郎は」、って? はい、旭川を代表する独酌愛好家向きの居酒屋です。もっとも、カウンターには顔見知りの独酌者がいっぱいいまして、一人で飲めなくなるのが玉に傷ではあります。一説には独酌者の多くは日本酒学講師でもあるおかみさんのファンだそうで、みな自分が一番親しいと勘違いしているのは言うまでもありません。
かくいう私もその一人で、カウンターの隅に座って(この席を確保するのが本当はとても難しいのですよ)、まず日本酒の熱燗をいただきますね。2本くらいで酔います。おかずには手作り豆腐やマスターの得意のウナギの蒲焼きなどをいただきます。季節の漬け物なんかもあります。次に「西神楽夢民村」の農業者たちが、自分で作っている酒造好適米「吟風」を原料に地元の酒蔵で醸造してもらっている「風のささやき」というお酒を冷やでいただきます。このお酒はとってもすっきり飲めるので悪酔いしません。
そうこうしていると、本書の著者のあべ弘士さん夫妻やら「夢民村」の島さんがやってきます。さらに地元新聞社の工藤さんやら通信社の野口さんやら東京の新聞社の小野さんやら成田さんやら、うるさ型がそろいます。私はなるべくひっそりと飲んでいましたが、やむなくみなさんとお話しをしたりします。2年4カ月の旭川時代。この店がなかったらば、人間関係は広がらなかったでしょうね。あべさん作の「どうぶつ友情辞典」はそんな懐かしさを感じさせてくれます。旭山動物園が有名ですが、大人の方は動物園を見た後、ぜひ「独酌三四郎」を訪ねると、よいと思います。ちなみに、「谷口からの紹介で」と言っても、割り引きはまったくありません。念のため。
閑話休題。本書の著者のあべさんは画家ですが、旭山動物園で飼育係をしていました。あべさんと言えば映画になっているベストセラー「あらしのよるに」の挿絵を担当しています。で、本書はあべさんが見てきた動物と人間たちの観察エッセーです。おもしろいことこの上ないのですが、そこにユーモアと無常観(ちょっと違うかな。でも生あるものは必ず死ぬし、この世には食物連鎖があり、その上に人間が君臨しているという事実を正視しているのです)が貫かれています。味わい深い内容を紹介するのは大変です。「象印のカボチャ」で笑いました。でも、やはりこれは買って読んでもらうのが一番ということで、手を抜きますね。
★★★
<42>ドストエーフスキイ作、米川正夫訳『悪霊』(岩波文庫、上下巻)
自慢じゃないが、読書力ありませんね、私って。それは自慢じゃなくて恥だろうが、って突っ込み入れてください。恥ずかしながら、2005年末から2006年初めにかけて私はこのドストエーフスキイの大作「悪霊」1200頁を悪戦苦闘しながら読んでおりました。重ねて恥ずかしながら、このトシまで「悪霊」読んでおりませんでした。反省してもしょうがありませんが、今年は岩波文庫にお世話になり、世界の古典的名作をしっかりと読み直していきたいと思っています。
さて、人間、何かに憑かれるということがあります。宗教とか政治的イデオロギーとかがその代表でしょう。そこで「善」とか「真」とか「正義」とかが絶対的価値観として浮上して、その崇高な価値観に反するものは悉く否定されます。邪魔者は消されてしまいます。近いところではオウム真理教の事件がありました。さらに、少し古くは新左翼宗派間の内ゲバなんてのもありましたね。
幸か不幸か、私は相対主義者ですから、そのようなファナチックな思想には否定的ですが、問題はこうした思想は個人ではなく、集団の問題、関係の問題として問われるわけで多くの人間はその重力から逃れることはできません。内ゲバを同時代的に見てきた者としては、本来そうした非道とは無縁の優秀な若者たちがその渦中に沈んでいったことが慚愧の念に堪えません。
さて、本作はそうした「悪霊」に憑かれた者たちのロシアでの錯乱ぶりを描いた傑作です。スタヴローギンとピョートル(ネチャーエフ)らの哲学問答にみっちり付き合い、そうした「正義」に「隠謀」が加わることの恐ろしさ−それこそスターリニズムの淵源でしょう−に、本書を読みながら滅入ってしまいました。そして、私たちの周囲に「悪霊」は復活しないことはない、とも思ったのでした。
それにしても、「悪霊」をこの岩波文庫で多くの人が読んだと思いますが、差別語はいっぱいですし、悪文ももっといっぱいで、いささか辟易しました。登場人物も「それってあんたなの?」ってくらいに、いろんな名前で出てきます。素人にはさっぱりわかりません。後で、「ああ、ピョートルのことか」って分かったりします。これは辛い。だれか、新訳を出さないのでしょうか。
★★
<43>姫野カオルコ『ハルカ・エイティ』(文藝春秋)
姫野さんは1958年8月、滋賀県生まれ。青山学院大学の文学部卒業で、在学中から作家デビューしているそうですから、すごいですね。作風は多彩だそうですが、私は正直読んだことがありませんでした。先日テレビを見ていたら、姫野さんの作品を絶賛しておりまして、それならば、と読み始めた次第です。ちなみに、本作も第134回の直木賞候補作でした。
これは大正生まれのモダン・ガールのハルカさんの痛快な物語。彼女は80歳を過ぎてなお、若い人をその姿態で惹き付ける魅力あふれた女性なのです。作者の伯母さんがモデルのようですが、本当に読んでいて、その若々しさ、かわいさが伝わってきました。
姫野さんの文体というか作者の書きぶりが結構ユニークです。たとえば、「結婚相手と会って三度目の、時節がら簡素きわまりない祝言の儀式であろうとも、姑に対するこのカンがまちがっていなかったことが、この結婚への最大の餞(はなむけ)であった。おそらく、200×年の結婚であっても、最高の餞だろう」というあたりです。さらに、昭和の時代と社会、風俗模様も適宜盛り込まれていて、それに実在の著名人らしき人物も登場してきます。
セックスに対する妙な気取りがありません。そこが、とても自然体のおもしろさになっています。ハルカさんに会ってみたいなあ、そんな気持ちになりました。
★★☆
<44>前田菜穂子『ヒグマが育てる森』(岩波書店)
前田さんは登別温泉にあるのぼりべつクマ牧場ヒグマ博物館の学芸員である。北大を出てから、クマ牧場に入り、飼育係として活躍してきた。私も登別市担当記者時代にお目にかかったことがある。本当に、クマの中に飛び込むように飼育に取り組んでいたのを覚えている。
本書はそうした「クマのお母さん」前田さんの半生記であり、ヒグマとの共生に向けた提言の書でもある。とりわけ、今回初めて知って驚いたのは、前田さんが技師の父の仕事の事情で、旭川アイヌのコタンのある近文地区で育ったこと、大学時代にヒッピーとして世界を放浪していたということであった。私どもの世代にはドメスティックな制約を破り、国際社会に身をもって乗り出す傾向があった。新左翼運動の世界同時革命論や、きわめて漫画的結果に終わったが赤軍派のよど号乗っ取り事件などもその1つの表れだったと言えよう。前田さんもまた放浪先のネパールで子どもを産んでいるのだそうで、それには結構、驚いた。どこか筋金入りの精神を知らされた。
ヒグマが生息数を保全しながら、人との共存を実現するためにどうするべきなのか。前田さんの取り敢えずの結論はこうである。「根本解決としてはヒグマの本来の生息地である自然生態系の場所にその生態系の自然林を復活させること、ヒグマの被害防止対策、ヒグマ教育の3点」であるという。クマの住める森づくりのススメというところか。
前田さんは本書と前後して、萱野茂さんとの共著、稗田一俊写真の『よいクマわるいクマ』(北海道新聞社、本体2400円)も出している。こちらはキムン・カムイ(山の神様)であるヒグマと、問題を起こすウェン・カムイ(悪い神)のヒグマをしっかりと知ろうという実用書の体裁を取っています。もっとも前書とその精神においては変わりありません。
☆
<45>和田由美『さっぽろ喫茶店グラフィティー』(亜璃西社)
女傑(死語?か。いまや団結じゃなかった男傑のほうが珍しい時代ですものね)の和田由美さんの「青春プレイバック・レビュー」です。
喫茶店というのは若い日の思い出いっぱいですものね。私もよくわからないのですが、ピー缶を抱えたクロカン小僧の先輩(本当にタバコが好きだったのか疑問です)に呼び出されて、「谷口君、どうかね、世界情勢は大変なことになっているんだよ。学生の主体性が問われているんだ」とかなんとかオルグされておりました。私は昔も今と同じく「そんなもんですかあ」なんて煮え切らない返答をしておりましたから、のちに「現代のナチス」とか批判されるこの党の先輩との間にムダに時間が過ぎたものでした。最近は私も腰が落ち着かないので、一杯180円なんていうコーヒー屋さんで用を済ましていますので、なんか喫茶店には特別な感情がなくなりましたね。
本書で紹介されている北大正門付近の喫茶店やらにはいささかの思い出がありますし、ジャズ喫茶系にも少し懐かしいものを覚えました。でも、そこまでだな。この本にある文化サロン的発想が私はあまり好きじゃないわけですね。たとえば、街へ出たものの行くところがなくなって過ごしたススキノの深夜喫茶や同伴喫茶、あるいはデモに連れ出された電車通りでいつも目にするドイツ語の名前の店やらのほうが、気にかかりましたね。
たぶん、札幌だけじゃなく東京や旭川や室蘭や、いろんなところで同じような思い出の場所があるに違いありません。で、僕はそのことを記録することの大切さを思いながらもその場所が今どういうふうになっているかのほうに関心があります。あ、本書はとても良い喫茶店の物語であることは言うまでもありません。
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