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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています
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シン・たかお=うどイズム β
Private House of Hokkaido Literature & Critic
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勝手にweb書評
REVIEW
勝手にweb書評8-6 46~56
★☆
<46>絓秀実『JUNKの逆襲』」(作品社)
文芸評論家である。「1968年革命」こそが20世紀の世界的な革命であったと叫びつづけている。1968年は確かにいろいろなことがあった。世界でスチューデント・パワーが吹き荒れていた。私はそれには乗り遅れているので、若干実感がわかないのだが、そう言いたい気持ちはよくわかる。大学の教授をしているらしいが、長く専門学校の先生をし、今は亡き書評紙「日本読書新聞」の編集長でもあった才人である。
学生時代の彼を知っている女性が私の知人におり、「スガ君はおとなしかったのに」とかなんとか言っていた。だが、疾風怒涛の時代に、なにやら顔面を殴打されたので現在の容貌になったという武勇伝もあるようだ。遠い昔にデビュー作の「砂のペルソナ」という花田清輝論を読んでいるが(内容はもう忘れてしまった。スミマセン)、いささか高踏に走り過ぎている印象を持ったような気がする。たぶん吉本隆明派の私であるから、点が厳しくなるのはスガさんのせいではない。
つまらない前置きが長くなったが、実は「ジャンクによる、ジャンクのためのジャンクな評論集!」という「JUNK批評」というスガさんの姿勢を見ると、そうしたトリビアな逸脱こそが大切に思えてしまうからだ。たとえば「村上龍の受賞にはじまり尾辻克彦によって決定的に名指されてしまった、資本主義の幽霊にどう応接するか。ここに、元号史観と世代論が機能しえなくなった時代の文学史をいかに記述するかという課題を解決する端緒が込められていることは間違いない。すでに誰もがうすうす感じとっているように、芥川賞自体が資本主義の幽霊にほかならないからである」といった文体、懐かしのアジテーション・スタイルに対して、どうも真面目に反応できないのである。
才能の過剰と、時代に対する憤怒が文体を規定しているというべきか。本書は文学に関する言及が圧倒的に多いが、しかし、扱っているのは<世界>である。そして、トリッキーでジャンク的ではあるが、才気煥発(かんぱつ)の文章にはこぼれ落ちるほどの啓示的な指摘があふれているが、残念ながら、いまだ局地戦を舞台にしている私たちの多くは彼のスピードに付いて行くことができないのである。
★★☆
<47>四方田犬彦『「かわいい」論』(ちくま新書)
テレビを見ていると、東京の原宿駅近辺の代々木公園前が出てきて、奇妙奇天烈なファッションをしている女の子たちを外国人観光客とおぼしき連中がビデオを撮っている姿がしばしば映し出される。そこでのキーワードが「かわいい」。なんでも、かわいい、は日本発の世界的な文化なんだそうだ。ほんまかいな。
そこで、硬派の論客、四方田先生登場。ばっさりと俗論を切ってもらいましょう。すると、先生曰く、イタリア・ボローニャの大学町でも「美少女戦士 セーラームーン」が大ブームでしたよ。あやややや。イタリアでも、月にかわってお仕置きよ、って。流行っているらしのだ。まさに日本のアニメはコソボ難民キャンプでも北京でもソウルでも大人気なのだ。「ひとたび『かわいい』という魔法の粉を振りかけられてしまうと、いかなる凡庸な物体でさえ、急に親密感に溢れた、好意的な表情をこちら側に向けてくれることになる」。これは、秋葉原系の「萌え~」ブームとかなりシンクロしている。
四方田先生は、かわいいという言葉の来歴をたずね、いまどきの大学生の感性を調べ、そして、実はかわいいものが「美とグロテスクの狭間に」あることを示す。確かに、E.T.にしてもトトロにしても、隣にいきなりやって来られたら、みんな「かわいい」とは言っていないはずである。最後に、アウシュビッツの「かわいい」壁画を見て、一つの結論を下す。「ナチスが遺した図像学はハリウッド映画からヘルスエンジェルの衣装、さらに秋葉原のコスプレまで、世界の津々浦々に不吉にして魅惑的なキッチュ記号を散布してきた。そこにあるのは美学的倒錯ともいうべき現象である。アウシュビッツの仔猫はそのはるか以前にあって、意図せざるキッチュを体現している」。ここで、四方田先生は、かわいいが孕む倒錯を見ているのだ。
「かわいい」の裏側にある残忍さとグロテスクの輪郭を明らかにするのだ。それは、映画「グレムリン2」の水溶ペットたちの氾濫と反乱を想起しつつ示される。私も、実はかわいいの軸が暗転した場所がグレムリンだな、ということを考えていたので、四方田先生の言っていることはよく理解できる。だが、それにしても、危機を抱えながら、「かわいい」は世界を席捲したままだ。時代の直面した病巣は深まっているのだ。
☆☆
<48>斎藤孝『「できる人」はどこがちがうのか』(ちくま新書)
「声に出して読みたい日本語」。ベストセラーでした。音読がいい、ことは間違いないが、それにふさわしくない日本語もあるわけで、必ずしもそれがすべてではないだろう。とはいえ、本書以降、類書が山のように出て、斎藤先生の先見の明、炯眼(けいがん)が立証されることとなった。
本書はイチロー、坂口安吾、棟方志功、村上春樹…。超一流の人たちの何がすごいのかを明快に分析してみせた。その上で、「〈まねる(盗む)力〉〈段取り力〉〈コメント力(要約力・質問力を含む)の三つの力を、文系/理系といった区分を超える普遍的な基礎力として設定することである」として教育の基本として提起する。さらに、古典として小話の読解に使われている「徒然草」を上達論の基本書であると示したところがすごい。吉田兼好は「その道の達人」を取り上げているが、専門性が生まれた家の職業に規定される時代にあって一つの道を究められないながら、達人にあこがれを持って接していった吉田兼好の卓越した才能を、斎藤先生は描き出している。
世の中には天才がいる。斎藤先生の文章を読んで、なるほどこの人はすごいと思った。個々のものの考え方では異を唱えるべき点も少なくないが、その視野と学識の広さにあらためて驚かされた。最近、思うところあって弁証法の本を読んでいるが、それは「対立物の統一に関する学問」であり、「物ごとの本質そのものにおける矛盾の研究」(以上、三浦つとむ)という流れからも、斎藤さんは弁証法的思考の達人と感じた。
★☆★
<49>鴨長明『方丈記』(角川ソフィア文庫)
古典を読むぞ! と宣言したものの、難しいぞ。だいたい歴史的仮名遣いも忘れたし、時代によって違う古語もピントはずれになってしまったのでわからない。そこで、岩波文庫じゃ、歯が立たないということで、本屋さんで探したのが、角川のシリーズ。これは親切だ。現代語訳と古文が二つながら載っており、わしのような無教養な人間にも結構、なんとかなりそうなのだ。
鴨長明さんの名著。あらためて読みましたが、これは面白い。昔の意固地な坊さんの生き方がよくわかる。「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」という有名な書き出しのリズムの良さ。「よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし」なんてあたりを読むと、マンションの偽装問題を鴨長明あたりは「だから言わないこっちゃない」なんて思うのだろうなあ、と想像してしまいます。
基本的にはホームレス的なメンタリティーの人ですから、住宅問題に厳しいのは当然でしょう。のみならず、彼の場合は、世の中の欲や執着に対して、極めてシニカルなのである。だから、「さりがたき妻、をとこ持ちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ。その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、まれまれ得たる食ひ物をも、かれに譲るによりてなり」と言うのも、なかなかです。要するに、妻や夫を愛情深く思うほど、その人間は自分は食べずに相手に食べ物をやってしまうために先に死んでしまう、というのです。貧乏な時代背景はありますが、なんかせつなくなりますね。
★★★★
<50>吉田兼好(卜部兼好)『徒然草』(角川ソフィア文庫)
角川書店編のビギナーズ・クラシックス。斎藤孝さんが「上達論」として『徒然草』を読むと面白いというので、読んでみました。確かに、それもありますが、読んで見ると、執筆者の卜部兼好という人物のなまぐささ=人間くささみたいなものがでていて、エンターテインメントとしても楽しめますね。
この人は女性嫌いですよね。はっきり言うと、差別意識ありありです。でも、それは女性に対してのみならず、男性に対しても、たぶん、「アホ」「バカ」と叫んでいた人じゃないか、と思います。要するに、自分の美意識から判断して、だめなものを罵倒(ばとう)するタイプの人物だとわかります。
私が気に入ったのは次のような文章です。「世の人の心惑わすこと、色欲にはしかず。人の心は愚かなるものかな。匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣裳に薫き物すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり」という当たりか。男は簡単に女性にだまされてしまう。特に、匂いくらいで参ってしまうというのは困ったものとはいえなかなかの真実のようです。これは女が悪いというよりは、男が悪いのか。
「雪の頭をいただきて盛りなる人に並び、いはむや、及ばざることを望み、かなはぬことを憂へ、来たらざることを待ち、人に恐れ、人に媚ぶるは、人の与ふる恥にあらず」。これなんてのも痛いですよね。白髪になった私にすれば、結構、若い者に負けるものか、と思っていますが、そりゃあ、恥知らずだよ、と言われているようで堪えます。
古典・名作というのはいずれにしろキャパシティーがある。引き出しが広い。どのようにでも読めますが、とにかく考えさせられます。
★★
<51>清水博子『vanity』(新潮社)
第134回芥川賞候補作。「OL画子とマダムの優雅で苛烈(かれつ)な闘いの物語」とオビにある。芥川賞は予想通り大本命の絲山秋子さんの『沖で待つ』が受賞しました。だが、私はひそかに佐川光晴さんと清水博子さんという本道にかかわりの深い2人の作家の受賞も期待していました。特に、旭川出身の清水博子さんとは『処方箋』で野間文芸新人賞を取られた時にお会いした縁で、なんの役にも立たないが心の中で応援していたのである。しかし、実は佐川さんを含め、文芸誌に載った候補作を読んでいない憾みがあった。そんな折、新潮社から単行本が送られてきてので、早速読ませていただいた。
隣室の小火(ぼや)で東京・早稲田鶴巻町のアパートを追い出された外資系OLの画子32歳。米国留学中の恋人のススメで神戸・六甲の恋人の母親(マダム)の元で暮らすことになった。六甲の家は歴史のある邸宅で、マダムは株式の売買とお茶会の日々。そして画子のプライバシーを乱していく。同居生活は行儀見習だった。「故く商家では他所からやってきた娘に行儀作法を指導鞭撻するならわしがあり、跡取り息子の妻となる十五歳ほどの娘が上女中として婚家にむかえいれられ、姑となる夫人にしごかれるしきたりを∧女中奉公∨と呼んだらしい」。すなわち、悲喜劇は当然のように起こる。
なるほど、関西弁の独特なリズムは関東人には寝汗のように映るかもしれない。そして容赦ない打撃の連続。
お暇をいただきたいのですが。
いいけど、どこへ行くの。
画子は返事ができなかった。マダムがよそゆきの笑顔をつくった。
あなたねえ、休暇をとっただけで会社を辞めていないことなんてとうに知っているわよ、ばればれです。もうじきお盆ですし、主人の十三回忌もありますし、歯のほうもまだ終わっていないのだから、しばらくおやすみしなさい。
なかなか苛烈である。だが、2人の言葉と行動のガチンコ勝負が読者にはユーモラスに浮かび上がってくる。清水さんの作品はどちらかというと神経質な印象があったが、本作はどこか突き抜けた印象があって、とてもよかった。芥川賞の選評で山田詠美さんが「どうせなら、もっとあざといまでに虚飾(ヴァニティ)を極めて欲しかった」と書いているが、それは極論であろう。
★★★
<52>北海道新聞取材班『実録・老舗百貨店凋落』」(講談社文庫)
北海道新聞は2005年4月23日、道内ナンバーワンの老舗デパート「丸井今井」が大手百貨店(伊勢丹)の傘下に入ることを1面トップでスクープした。道民はもとより全国の流通関係者を驚かせた百貨店再編の裏側で何が進行していたかを北海道新聞の報道と取材ノートに基づき余すところなく明らかにした著作である。
私は2005年10月28日の「部長のつぶやき」内の【いまさら探検隊】〈17〉で「丸井今井」の紹介をしています。「昔むかし。道民から『さん』付けで呼ばれていた企業がありました。さて? それが丸井さんです。札幌の老舗と言えば、丸井さん。本店前を市電が走り、待ち合わせにもってこい、今でいうランドマークのような場所でした」と書きました。さらに10月23日に閉店した苫小牧店と小樽店の最後のセールを訪れた印象も記しておきました。私にとっても道民にとっても丸井今井は大切な店です。
その丸井が衰退したのはなぜか。本書の指摘を整理すると、一つは北海道固有の問題として、北海道拓殖銀行の破たんが挙げられます。メーンバンクがバブル崩壊とともにあっさりと姿を消したダメージが丸井をも襲ったということです。二つは経営陣の拡張主義の失敗です。若手ボンボン経営者の多くが身の丈に合わぬ野望をいだき本業以外の事業に手を広げ負債を重ねて詰め腹を切らされた全国のケースと同じことが丸井でも起こりました。三つはイオンに代表されるショッピングセンターの侵攻で、百貨店が優位性を失ったことです。都市中心部に位置する百貨店が、マイカー主体の北海道の購買習慣に追いつめられ、さらにブランド優位性も発揮できなくなりました。四つは札幌においてはJR札幌駅前の再開発が進み、丸井の位置する南一条エリアの地盤沈下が挙げられます。本丸の地盤沈下が苦戦する地方店が重荷となり、切り捨てざるを得なくなったのです。五つは百貨店業界の淘汰(とうた)が進み、地方の有力店も系列に入らなければ、激戦に対応できないところに追い込まれたということです。
丸井が縮小することで、北海道の地方都市の中心街も縮小します。その事態に、詰め腹を切らされた前社長は「丸井は長い間、道民に育ててもらった。四店閉鎖は地方の切り捨てだ。(中略)地方が百貨店文化を失い、衰退してしまう」と述べています。それはその通りですが、自分の責任を棚上げにした無責任な印象も否めません。新聞記者のまとめた本らしく、大変わかりやすく、一気に読み切ることができます。私見を述べておけば、出版社の意図もあるかもしれませんが、タイトルがやや手厳しすぎる感じがしました。
★
<53>竹内一郎『人は見た目が9割』(新潮新書)
楽しく読めて、ちょっと使えるお手軽本だな。いや、悪口を言っているわけじゃなく、最初からまじめな研究本だなんて考えてもいなかったし。第一、タイトルに「人は見た目が9割」とあるだけで、十分「名は体を表して」います。要は豊富な実例をもとに、言葉だとか中身だとかが人間関係を決定すると考える傾向に冷や水を浴びせているのだ。
著者によれば、本書は「ノンバーバル(非言語)コミュニケーション」について言及した本だそうだ。竹内氏はアメリカの心理学者アルバート・マレービアン博士の実験結果をもとにして自説を述べる。
「(人が他人から受けとる情報の割合では)話す言葉の内容は七%に過ぎない。残りの九三%は、顔の表情や声の質だというのである。実際には、身だしなみや仕草も大きく影響するだろう。ついついコミュニケーションの『主役』は言葉だと思われがちだが、それは大間違いである。演劇やマンガを主戦場としている私は、人は能力や性格もひっくるめて『見た目が九割』といっても差し支えないのではないかと考えている」
漫画の原作を書いているというだけあって、漫画を例に引いた話に説得力がある。「女性の結婚詐欺師の間では、『潤んだ瞳』は基本的なテクニックであるらしい」とか「『可愛い女の子』のポーズの第一の特徴は、快活に足を広げている時も、膝は内側を向いているというものである」「(ラブコメ漫画の)ヒロインは男の憧れを象徴した存在として描かれる。で、ヒロインが読者に語りかける手法が使われる」とかは、なるほどである。それから「女が嘘をついた時は、相手をじっと見つめて取り繕おうとする」から女の嘘は見破れないというのも、まあわかるな。でも、なんだか全体に男の論理が前面に出すぎだぞ。
私個人としては「自分の席から離れない上司」の項で「縄張りの中にずっと居たがる人物は自信がない」「仕事に自信を持っているリーダーは、スッと部下の席まで行く。縄張りの中で自分の権威を衛より、部下の能力を引き出そうとする人物なのだ」ってあたりに「これはまずいなあ」と思いましたね。どちらかと言えば、わしは声も高いし。でも、見た目だけで、すべてがうまく行くとは限りませんて。問題はあと1割のほうでしょう。それも大事か。
★★
<54>佐藤優/聞き手・宮崎学『国家の崩壊』(にんげん出版)
「外務省のラスプーチン」に「突破者」が聞く現代ソビエト・ロシア史である。佐藤氏は一級の情報屋らしく、当時のソ連・ロシアのクレムリンの奥の院まで入り込み情報を得ている。そして、独自の政治感覚でバランスをとろうとしている。いわゆる「疑惑の総合商社」と批判された鈴木宗男議員の事件に連座する形で、国策捜査のわなに落ちたのは、いささか残念であるとあらためて思う。
さて、「米ソ対立」に象徴される戦後世界政治体制は、1991年12月のソ連邦崩壊で実質的に幕を下ろした。一時は世界の進歩勢力、民主主義勢力を後押しし、圧倒的な存在感を維持してきた超大国・ソ連がなぜあのように簡単に消滅したのか-。あれから15年たつ今も明快な説明がなされない。ペレストロイカの始まりから国家崩壊までの期間、現場で情報収集と分析にあたってきた著者は「ゴルバチョフが権力に就いたとき、すでにソ連は崩壊していたんだ」とエリツィン側近のブルブリス元国務長官に語らせる。「自己崩壊だよ。1991年8月のソ連共産党守旧派によるクーデター未遂事件は、いわば政治的チェルノブイリ(原発事故)だ。ソ連という国家の最中心部の原子炉が炉心融解を起こし、爆発してしまったということさ。ゴルバチョフはゴミだ」という言葉もなかなかのものである。
戦争は政治の延長であるが。「奴(やつ)は敵である。敵は殺せ」というのが埴谷雄高を引かずとも政治の究極の選択であるとすれば、ソ連のそれはまさに現実である。著者は権力中枢の人間たちの死闘をリアルに再現してみせる。その上で、ロシアの伝統や底流にある西欧派とスラブ派(ユーラシア主義)の精神、連邦解体の引き金となった複雑な民族対立にも十分な目配りをした上で、日本の問題にひきつけて指導者はいかにあるべきかの資質を問うのだ。力作である。
☆☆
<55>『枕草子』(清少納言、角川ソフィア文庫)『老子・荘子』(同)
角川書店編のビギナーズ・クラシックス。本当に簡単に古典を読めるようになった。もっともダイジェストだけれど、エッセンスでも十分です。
あらためて読んでわかったけれど、清少納言ってのは、プライドの高さが常識を超えた人だったんだなあと思います。友達にはなれないな。時の中宮の権威を後ろ盾にしているけれど、あれはいいこれはダメとずけずけ言っているのは、普通の人間にはできないことである。読む年代や時期、メンタルな状況で印象も変わって来るだろう。そこが古典のすごいところだ。今回、私が気に入ったのは次のようなところです。
(すさまじきもの)除目に司得ぬ人の家。今年は必ず、と聞きて、はやうありし者どものほかほかなりつる、田舎だちたる所に住む者どもなど、皆集り来て、出で入る車の轅も暇なく見え、もの詣でする供に我も我もと参り仕うまつり、物食ひ酒飲み、ののしりあへるに、果つる暁まで門たたく音もせず、「あやしう」など、耳立てて聞けば、前駆追ふ声々などして上達部など皆出で給ひぬ。
期待外れでしらけるもの。人事異動の時期に任官できなかった人の家。決まる前は宴会をしたり大騒ぎしたりしているのに、人事の連絡がないとだれもいなくなる。結構、つらいよなあ、と読みました。
『老子・荘子』は東洋人の常識の宝庫です。「小国寡民」「上善は水のごとし」「大器晩成」「大道廃れて仁義あり」「天網恢恢、疎にして失わず」とか老子はすごいですね。一方、荘子はお話のうまさ、スケールの大きさが身上。「魚は江湖に相忘る」「蝸牛角上の争い」「君子の交わりは淡きこと水のごとし」「胡蝶の夢」「無用の用」「明鏡止水」とか、こちらも名言が多い。ついでながら、老子は比喩(ひゆ)に女性の生命力を使うようで、これは農耕文明の影響でしょうか。今なら、セクハラとか女性差別と怒られそうな気もします。
★★★
<56>梯久美子『散るぞ悲しき』(新潮社)
サブタイトルに「硫黄島総指揮官・栗林忠道」とある。すなわち、米軍と日本軍の戦略拠点・硫黄島争奪の攻防で、日本側の総指揮を執った栗林の人間像がていねいに描かれている。栗林は軍国主義者というよりは米国留学の経験もある、開明的合理的な人物として描かれている。その彼がいったん局地戦を迎えては本土・東京の攻撃を遅らせるため単純に自滅するのではなく米軍を徹底的に痛めつけ最後の最後まで相手を倒すために全力を投入する戦術を採った。合理的であるがゆえに、なんとも痛ましい。栗林の硫黄島派遣の背景には「指揮能力を評価されてのことだったというのが定説だが、一方で、彼のアメリカ的な合理主義が嫌われ、生きて還れぬ戦場に送られたとする見方もある」という。なんとも日本軍の発想の愚かさが浮かぶ。その彼にして2万の兵士はほぼ玉砕している。指揮官としての優秀さはわかるが、戦後60年、個々の人間の素晴らしさとは別に、戦争の非人道性を痛感する。
著者は1961年熊本県生まれ。札幌で育ち、北大出身の新鋭ライター。吉本隆明『ひきこもれ』『超恋愛論』(大和書房)の聞き書きを担当しているそうである。
最初の大きな仕事が形になり、社会的に評価されるというのは簡単にはできないことですし、本当に素晴らしいことです。梯さん、おめでとうございます。お祝いの電話をしてみましたら、北海道新聞東京支社の記者が取材して道新に載っていることを知っておられ、とても喜んでいました。札幌に戻るときに、あらためてお祝いを言うことにしました。
また、疎遠になっていた作家志望だった女性が東京の大手出版社から小説本を出すとも書きましたが、それが、今回のコラムの「きょうの本」の『アイスグリーンの恋人』の喜多由布子さんです。こちらもご本人と名編集者の川端さんから連絡をいただき、出版を楽しみに待っていました。詳しい書評は下記を読んでいただくことにして、この調子で書ければ、売れっ子作家になるかもしれません。早く道新本紙でも取り上げてほしいと思っています。
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