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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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勝手にweb書評REVIEW

勝手にweb書評8−7  57〜66

★★★
<57>喜多由布子『アイスグリーンの恋人』(集英社)
 オビに「札幌すすき野を舞台にレディースローンを営む元アイスホッケーの名選手と、そこに十万円を借りにくる、一途な眼差しのヒロイン、美里との出会い。テンポのいいみずみずしい文章はさまざまな人の心のひだに分け入り、強くたしかに北国の愛をつむぎだす」という渡辺淳一先生の推薦の言葉が載っている。それだけに、この新鋭作家への文壇の期待の大きさがわかる。しかも、この本のプロデュースをしたのは川端幹三氏。知る人ぞ知る講談社の名編集者で一世を風靡(ふうび)、現在は編集プロダクションをおこし、小泉首相も愛読したという本をも送り出した。
 さて。物語は交通事故で片腕を失い、同時に恋人も失って(逃げられて)、その補償金で水商売の女性相手に金を貸している男・堂島と、妹を火事で失い着物の仕立てで暮らし、おかまのいるクラブでまかないの手伝いをしている美里の純愛物語。おじさんと若い娘という組み合わせです。物語的には、こんな世間知らずの女の子がいるかどうか怪しいし、こんな純情な金貸しがいるかどうか。きっといないでしょう。だから、サスペンス的なリアリティーはまったくなく、メルヘンです。ファンタジーかな。
 もっとも、私はけなしているわけじゃなく、非常に面白く読みました。金曜の夜を過ぎた午前2時から読み始め4時まで一気にページをめくりました。こんなに興奮して本を読んだのは久しぶりです。実は喜多さんは、朝日のらいらっく文学賞出身だそうですが、故・いのうえひょう氏主宰の「黎」文学会にも顔を出していました。私も「黎」のお手伝いをしていた関係から、少しだけ喜多さんを知っているというわけです。個人的にはこんなに文章がうまいとは知りませんでした。まったく失礼ですが、「事務のお姉さん」という感じでしたので、その文学的力量を想像もしたことがなかったのです。今後は、知床を舞台にした作品を予定しているとか。久しぶりに北海道らしい雰囲気のある有望な作家と作品が登場しました。ひょっとしたら大化けします。ハルキの「風の歌を聴け」のようなもので(少しオーバーかなあ)、この作品はぜひとも読んでおくべきかもしれません。
★★★
<58>絲山秋子「沖で待つ」(文芸春秋社)
 天才、絲山秋子さんがついに第134回芥川賞をとりました。雑誌に掲載されたその作品を私は読んでいなかったので、期待いっぱいで本書を手に取りました。そして、感動しました。大変、絲山秋子さんらしくて、おもしろかった。単行本には受賞作の「沖で待つ」と、もう1編「勤労感謝の日」が収載されています。「絲山節」さく裂という破天荒ぶりでは、「勤労感謝の日」が圧倒的な迫力に満ちています。
 「何が勤労感謝だ、無職者にとっては単なる名無しの一日だ。それともこの私に、世間様に感謝しろ、とでも言うのか。冗談じゃない、私だって長い間働いて、税金もがっぽりとられて来たのだ」という書き出しから、気合が入っています。30代、「負け犬」の主人公の女性が世間の義理で見合いをするが、当然ながら、途中で飛び出してしまうというお話。「パンプスを鳴らしながら商店街に入るとクリスマスソングが聞こえた。サンタクロースなんていないってみんな十歳やそこらで判るのに、なんで残りの人生七十年間サンタクロースなんだろう。夢がある? 夢なんか見てる暇あるか。サンタクロースよ、もし存在するならば世界中の職安を回って、失業者達の親指に穴のあいた靴下に片っ端から条件のいい仕事を入れて回ってくれ」なんてタンカの切り方に作者なのか主人公なのかのキャラクターが爆発しています。
 「沖で待つ」は突然の事故で亡くなった同僚の秘密を守ってあげるために、パソコンのハードディスクを壊すという女性の物語。だけども、アナログな、というよりドジな同僚は「俺は沖で待つ 小さな船でおまえがやって来るのを」なんてノートを家に残してしまっています。トホホ。そんな仕事を通じながら同僚の男女に紡ぎだされる友情みたいな何かをすくい上げています。第133回直木賞の候補になった精神病院を抜け出した男女のロードムービー風の「逃亡くそたわけ」(中央公論新社)に通じる面白さがありますね。
★★
<59>山口文憲「団塊ひとりぼっち」(文春新書)
 団塊世代論がにぎやかだ。とりわけ「2007年問題」なぞがあって、大量定年に伴う人と資金の行方に注目が集まっている。だが、そんなの大げさに考えるなよ、いつも団塊世代は多様に生きてきたんだからさ、放っておいてくれてもなんとかやるよ、っていうお話だな、これは。
 山口さんはその昔の「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)の活動家。反戦米軍兵士の脱走にかかわったり、新宿西口のフォークゲリラに参加したりしている。文才あり、朝日ジャーナル(なんかレトロですね)に原稿を書いたりしているうちに、本当の作家になって、香港ものなどの著作がある。
 「団塊ひとりぼっち」のタイトルは「太平洋ひとりぼっち」の堀江謙一さんを思い出しますね。なぜ、ひとりぼっちかというと、〈1〉他の世代に比べ、人口数が突出している〈2〉信条として戦後民主教育を受けた、素朴で純なリベラリスト・個人主義者ということ〈3〉ライフスタイルからは、自分から望んでひとりぼっちの人生を送っている人間が結構いるということだ。本書はその3つの「ひとりぼっち」を分析して、シングルらしい自立へと流れていくようだ。
 一番気に入ったのは団塊世代を代表する歌人、「無援の抒情」の道浦母都子さんの男と父と歌に関する論だ。彼女のきまじめな「釈放されて帰りしわれの頬を打つ父よあなたこそ起たねばならぬ」の名歌から、つねに父との緊張感のある関係を彼女がたどっていることを示す。詳しく書かないが、面白かった。山口さんは「神田川」にも異論を書いているが、彼の感性と共鳴できない人たちのスタイルが面白い。名前を挙げるのははばかられるが、要するに、感性の受苦と解放をきまじめに求めた人たちが嫌いなのだ。やっぱりベ平連だよなあ。
 個人的には団塊から1、2歳ずれている私は団塊派が嫌いである。兄や姉たちの世代を先輩に持ってしまったから、結構いじめられたというか、パシリをさせられたからな。しかも、数が多い。老人世代になってもなお、同じように威張ったりしないでほしいな、というのがひそかな願いである。
★★
<60>村上春樹編訳「バースデイ・ストーリーズ」(中央公論新社)
 「村上春樹翻訳ライブラリー」というシリーズの一冊。カフカ賞も取ってしまった春樹さんですから、次はノーベル賞となるのでしょうか。自分の小説を書く合間に、翻訳をしているのがすごいところです。本書はその名のとおり、誕生日をテーマにした短編小説を13編集めて、まとめたアンソロジーだ。アメリカの作家たちの練りに練った意匠を凝らした作品だけに、非常に面白い。しかも、濃密なので、長編では結構斜め読みをするのだけれど、手抜きがしづらいので、ページ数こそ少ないのですが、結構疲れました。
 誕生日の話って言うと、まあハッピーというのが相場ですが、小説家のほうは意地悪らしくて、どこかにトゲがあります。「ダンダン」なんてのは麻薬中毒者の世界で軽いタッチで、誕生日に薬やって友人を撃って殺してしまうというとんでもないお話です。それから「風呂」なんてのも子供が誕生日にひかれてドタバタの中で病院から抜け出し風呂にはいっちゃうというもの悲しい話です。そんな中で、ちょっといいなと思うのは、年老いた女性と中年男とがひょんな場所で情事を思い出す「ムーア人」でしょうか。人間なんて、結構、忘れた思い出の中に生きていますよね。ちなみに、この本は東京の小娘さんからもらったものです。読むのを忘れていました。
 さて、一番良かったのは編者の村上春樹さんの「バースデイ・ガール」であるのは申すまでもありません。ある女の子の20歳の誕生日。アルバイト先で出会う「あなたの願いをなんでも一つかなえてあげよう」というなぞの老人。で、その願いはかなったのかどうか。不思議な世界に引き込まれます。春樹さんは20歳の誕生日のことを覚えているそうです。1969年1月12日。「冷え冷えとした薄曇りの冬の日で、僕はアルバイトで喫茶店のウェイターをやっていた。休みたくても、仕事を代わってくれる人が見つからなかったのだ。その日は結局、最後の最後まで楽しいことなんか何ひとつなかったし、それからの僕のそれからの人生全体を暗示しているみたいに(そのときには)感じられた」そうです。小説家らしいですよね。

<61>山本祐司「毎日新聞社会部」(河出書房新社)
 他社ながら、私は毎日新聞の報道には敬意を払っている。近年の「旧石器発掘ねつ造スクープ」や大治朋子記者の防衛庁関連の2年連続スクープの新聞協会賞には圧倒された。大新聞だからできた側面もあるが、個々の記者の頑張りイズムが実った結果だ。
 もちろん、どこの新聞にもある種の傾向があり、なんでこんな歯医者の広告まがいの記事が平然とニュース面のはずの社会面に載っているのだ、とか疑問を持つことがないわけではない。しかし、取材力はすごい。昔のことであるが、「宗教を現代に問う」シリーズは勉強になった。
 その原動力たる社会部部長を務めた筆者によるクロニクルが本書である。毎日新聞の記者の独立自尊の活躍が実名で記録されている。とにかく、有名人がずらりである。読んでいて、昔の記者たちはすごいなあ、と思った。特に正義感の強さ、その一方で、平気でばくちをし、地下鉄の竹橋駅を政治力で作っちゃうあたり、新聞記者の常軌を逸した情熱が伝わってくる。終戦直後の「下山事件」「松川事件」「三鷹事件」など、他殺説と自殺説、共産主義者犯行説と謀略説などをしっかりと腑(ふ)分けし、まさに地どり調査取材で真相に迫っていく。さらに、西山事件の政治部と社会部との温度差、田中角栄への肉薄なども興味深かった。
 山本さんは、当事者じゃないはずの出来事も見てきたかのように再現していく。もっとも、そのほとんどは他の記者のエッセーなどからの引用で、昔の新聞記者にありがちな問題傾向もしっかり体現している。今なら、他人の文章を自分の文章と区別しないで引用すると、世間の批判を浴びてしまいますね。毎日新聞東京本社の社会部の配置表(昭和61年)には、環境庁担当に鈴木とあり、私もその鈴木さんと一緒に担当していたことを思い出しました。本書は誤植も多いし、いろいろ配慮不足や問題点だらけなのですが、「面白い生涯だった。生まれ変わったら無頼派の特ダネ記者になって国家の謀略とたたかいたい」と書く筆者の記者魂には、私たち後輩も学ばなければならないと思った。
★★★☆
<62>渡辺淳一「エ・アロール」(角川文庫)
 今回は私が執筆にかかわった作品2冊です。
 東京・銀座の「ヴィラ・エ・アロール」。赤いネオンの輝く一見、華やかなビル。レストランかマンションのようだが、実は高齢者のための施設である。「エ・アロール」とはミッテラン大統領が隠し子問題を尋ねた新聞記者の質問に対して応えた言葉で、「それがどうしたの?」という意味だそうです。つまり、仕事や世間の枠から解放されて自由になった高齢者が気ままに生活し、人生を楽しんでもらおうという願いを込めて、この施設は造られたということです。高齢者は世間体など気にせずに、自由に生きるべきだという主張が込められている小説が「エ・アロール」ということです。そんなわけで、本の帯にも「年甲斐(がい)のない人になりたい」とあります。
 いきなりヘルス嬢を部屋に呼んで、興奮した男性が死んでしまうというショッキングというか挑発的な展開で、物語はスタートする。その後、プレイボーイやらプレイガールやらプレイタイムなど、およそ高齢者の常識を超えた姿が提示されていきます。これを読んだ人はお年寄りはもっとつつましくあるべきだと反発するか、年を取ればこんなふうに自由に生きていいんじゃない、と考えるか。大きく分かれてしまうことは間違いありません。私としては、世間のしがらみを超えた世代なのだから、もう則を超えていいという著者の立場に賛同したいと思っています。
 初稿は2002年4月から12月まで北海道新聞に連載されました。私の新聞三社連合に出向時代に、渡辺先生が執筆した作品だけに思い出深いものがあります。登場人物がどちらかと言えば、富裕層に属しているので、一般人としては「そうはいかないよなあ」という感じを抱くかもしれませんが、ある種の理想を描いたものとして読めばいいと思います。物語の中では、親が亡くなった場で、遺産をめぐって争う姿も描かれています。渡辺先生は、あるとき「親は子供に財産を残すことはない。一人で生きられる教育を与えるだけでいい」と仰っていたのが印象的です。私もそのとおりだと思います。
 高齢者施設と言えば、地価が安いからと、人里はなれた姥捨て山同然の場所に建てられがちであるが、一番便利な都市のど真ん中にこそ高齢者施設を、と渡辺先生は主張する。この先駆的な指摘と実践もまた本作の魅力と思われます。
★★★☆
<63>内田康夫「化生の海」(講談社)
 内田康夫さんの著作はもう130冊を超えているそうです。その多くは、名探偵・浅見光彦シリーズです。その多作な内田さんが「もし僕が、生涯の自作ベストテンを選ぶとしたら『化生の海』を躊躇(ちゅうちょ)なく挙げるだろう」と言っています。それほどの充実した内容が本書には詰まっています。
 「シベリアの高気圧が寒気を運んできたのか、けさは急に冷え込んだ。」という緊張感にあふれた書き出しでスタートすると、ニッカ余市工場に勤める三井所園子をヒロインになぞの死を遂げた父・剛史のルーツを追って松前、石川・加賀、福岡・津屋崎へと北前船航路をたどるように物語は展開します。そして、大女優・深草千尋の秘められた過去を明らかにしつつ、一気に核心に迫ります。
 もともとは2003年1月から10月まで北海道新聞、東京=中日新聞、西日本新聞に掲載されました。「エ・アロール」の次の新聞小説です。それで、余市や松前、加賀、津屋崎というふうに道新はじめ各新聞の配布エリアが物語の舞台として選ばれました。しかも、各新聞の部長や記者も登場するおまけつきです。ちなみに、北海道新聞は「函館報道部長・木谷洋史」が大活躍します。
 私は連載開始の2カ月間、新聞三社連合で本作の担当者をしていました。内田先生とは事前に何度か取材旅行に一緒しました。小説は主人公が浅見光彦、北前船をモチーフにすることが決まっていたのですが、そのほかは全く白紙でした。それが一気に動きだしたのが、2002年11月19日19時3分上野発の寝台特急「北斗星3号」での北海道取材旅行でした。
 それぞれの席に乗り込んだ取材スタッフは19時半から食堂車「グランシャリオ」に全員集合して、ミーティングをすることになっていました。その席で内田先生が「タイトルが決まりました」と言って、ナプキンにさらさらと「化生の海」と書いたのです。「けしょうと読みます。おばけのような魔物のようなものですね」と説明しました。そんなふうに意外な形で、タイトルが知らされたのでした。翌朝、函館に着いた私たちは舞台となる道内各地をジャンボタクシーでめぐって取材したものです。
 私は3月に北海道に戻ったので、作品との縁は切れたのですが、新潮社から単行本が出てまもなく、私が旭川報道部長をしていた縁で、北海道を訪れた内田先生と富良野で再会でき、会食したことが懐かしく思い出されます。本作にはブロック紙のエリアを見事に舞台化した構成力がみなぎっています。そして、作家の取材の目のすごさも一緒に歩いた者としては教えられます。
★★
<64>窪島誠一郎「雁と雁の子」(平凡社)
 作家・水上勉氏の遺児で、信濃デッサン館ならびに無言館の館主が著す「父・水上勉との日々」である。実は、2005年末に畏友(いゆう)の山本伸夫君を訪ねてきたのを機に、ご一緒させていただき懇談した折に、もらったサイン本であります。もったいなくて、というのはもちろんウソで根っからの怠け者のためベッドの横に置いておいた本を、このGWにようやく読んだ次第であります。
 確かに60歳を過ぎた息子から亡き父へのラブレターのようなものですから、いろいろな感慨を覚えます。添えられた写真を見ていると、いかにも雁と雁の子のようにそっくりな風貌(ふうぼう)が見て取れます。そして、生き別れた58歳の父を探し当てた35歳の息子の情熱とそれを冷静に見る目が伝わってきます。「仮に僕に孤独というものがあったにしても、実は気づかぬところで同行者があったんだな」という水上勉の言葉に「一つの孤独を親子で分け合っていた」と息子が感じるわけで、2人の心がつながっているのが良く分かります。親子は男として尊敬しあうライバルなのです。
 一方で、正直に言わせてもらうと、父子は別れた妻(実母)には極めて冷淡ですし、子は育ててくれた養父母には感謝を述べつつも極めて機械的です。たぶん文章では書かれぬ以上の恩讐(おんしゅう)があるのかもしれませんが、一読者として、どうもそこが「冷たいなあ」と思わずにはいられないのです。葬式と墓参りをめぐるエピソードにそんなことを感じます。実母というのは三里塚闘争の土着農民闘士であった加瀬勉さんのおばさんであった(!)というのも驚きでした。墓参りを勧めるまっとうな妻に「この女には金輪際、自分の気持ちなんかわかるもんか」と思う男の姿は極めて私小説的ではありますが、どこかに歪(ゆが)みも感じます。孤高の親子と言えばそれまでですが、奥さんの言葉のほうに普通の庶民の声を聞き、頑な著者には孤独と言うかなにかデモニッシュな心性を感じたというと失礼でしょうか。
★★
<65>吉本隆明「老いの超え方」(朝日新聞社)
 帯にいわく。「今年83歳になる戦後思想の巨人は糖尿病をかかえ、白内障と腸がんの手術をし、歩くことも本を読むこともままならない。そんな不自由をどのように生きるのか?」とあります。なんだか、認知症が少し入ってきても「陽気暮らし」というのか楽しそうです。毎日、机に向かってものを書きつづけてきたことによる体にしみついた身体知みたいなものはまったく衰えていないのがすごいですね。
 次のような言葉に、すべては象徴されているようです。
 「老人になると医者が言うように運動性は鈍くなるし足腰は痛くなる。(中略)確かに感覚器官や運動器官は鈍くなります。でも、その鈍くなったことを別な意味で言うと、何かしようと思ったということと実際にするということとの分離が大きくなってきているという特性なんですよ。だから、老人というのは『超人間』と言ったほうがいいのです」
 吉本さんは「新語」好きです。ですから、意識と実際の行動が乖離(かいり)した老人のあり方を「超人間」というのです。普通は、じいちゃん、トシだから不自由になったね。で済むところを定義づけずには済まないのですね。そんなわけで、医者と看護師の対応などに独自の体験を語っていきます。臓器移植の問題についても、もうどうでもいいや、と思っているのですが、「僕も、自分の子供や奥さんで、自分は一つ取ってももう一つあるというのであればそうするだろうと思います」「(他人の臓器でもいい)いいのではないでしょうか」と言い、精神的なケアが不足していることに不満を述べるという具合です。
 私は吉本さんががんばって生きている姿に感動するのですが、言っていることは、やはり何か老いの繰言に似ているように思います。難しいことを言おうとしないで、すでに往相から還相にいるのだから、「てやんで、毎日やってらんねえよ」みたいな江戸っ子じいさんに戻ってほしいですね。まだ、理に走っている姿はちょっと痛々しい。
★★
<66>高橋敏夫「周五郎流 激情が人を変える」(NHK出版)
 正直な話、時代物は苦手である。きちんと読んできませんでした。なぜだろうか。よくわからないのだが、「サービスとしての大衆読み物」という意識が私の中にあったのだろうことは想像できます。恥ずかしいことだが、私は純文学主義者であったから、そうした<話体>によって、感動(涙を誘う)物語は通俗的であると思ってきたのです。まあ、若気の至り、って言えばみもふたもないが、夜郎自大のアホだったのであります。昔の左翼風に言えば、前衛主義者、党物神主義者と変わらない世間知らずであったのです。情けない。
 今は少し藤沢周平あたりを読んで、すごいなと思い始めているレベルであるが、山本周五郎は走り読みを若干した程度に止まっております。今回、高橋敏夫の本を読んで、周五郎流のすごさがちょっとだけわかった気がします。大体において、高橋敏夫という著者が私の知っている人物ならば、どちらかと言えば左翼系雑誌に書いていた評論家だったはず。(人違いならばコメンナサイね)。その人が周五郎はいいというわけです。
 「社会の下方へ、そして人間の下方へ、さらに下方へ、無数の不幸がおりかさなる。生の『きわみ』にまで物語は降りていき、そこでさまざまな感情を爆発的に生成させる。(中略)いいかえれば、生の『きわみ』に直面した者の、新しい、ゆたかな『人間』生成の物語にして『人々』発見の物語。これが『周五郎流』である」
 でも、この高橋敏夫さんの文章って、やっぱり左翼調ですね。私なんかは、これって谷川雁の「原点が存在する」という有名な評論のアナロジーとして読んでしまいました。ちなみに雁は書いています。
 「『段々降りてゆく』よりほかないのだ。飛躍は主観的には生れない。下部へ、下部へ、根へ根へ、花咲かぬ処へ、暗黒の満ちるところへ、そこに万有の母がある。存在の原点がある。初発のエネルギイがある」
 どうですか。谷川雁の発見した前プロレタリアート民衆の世界を、高橋さんは周五郎論に持ち込んでいるんですね。大衆文学は実はプロレタリア文学なのかもしれません。山本周五郎は決して「死」を称賛しなかったそうです。死を言祝(ことほ)がず、生きることに固執したそうです。これもまた、谷川雁の引用で恐縮ですが、雁は「ぎなのこるがふのよかと(残った奴が運のいい奴)」という言葉を残しています。
 剣豪と言えば、時代小説には欠かせませんが、周五郎は「よじょう」という作品で、見えっ張りであった宮本武蔵を徹底的に揶揄(やゆ)しているそうです。英雄豪傑より庶民大衆の生きざまの「きわみ」こそがメーンテーマだったのでしょう。映画「雨あがる」を見て感じた下層民衆への共感もまた周五郎に貫かれた熱い思いだということを知りました。

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