本文へスキップ
北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています
。
シン・たかお=うどイズム β
Private House of Hokkaido Literature & Critic
電話でのお問い合わせは
TEL.
〒
勝手にweb書評
REVIEW
勝手にweb書評8−4 29〜35
<文学者の集まりはエキサイティング>
18日の夜、札幌全日空ホテルで北海道新聞文学賞の授賞式が行われました。私は今は市民ニュースを扱う札幌圏部長をしておりますが、数年前は文化部で文学賞担当次長(デスク)をしておりました。そんなご縁で、もはや門外漢同然になりましたが、晴れの舞台の歓びをご相伴させていただこうと見学にうかがった次第であります。
ちなみに、第39回北海道新聞文学賞の創作・評論部門は、佐藤梅子「すすきの六条寺町通り」、高橋駘「イタドリ」がともに佳作でした。同・詩部門は、金太中『わがふるさとは湖南の地』が本賞を得ています。第20回短歌賞は堀井美鶴『火裏の蓮華』が本賞、福本東希子『鳥より碧き』が佳作でした。同俳句賞は金箱戈止夫『梨の花』が本賞を受賞しています。皆さん、おめでとうございます。
実はどなたの作品も読んでいないのに、図々しくも授賞式、さらには懇親会に一人前の顔で出ておりました。でも、人間、長く生きているといろいろなご縁ができるものです。詩部門受賞の金太中氏は、私が1977年から79年にかけて勤務していた室蘭支社時代に遭遇しているのです。とりわけ私の妻は古い知人ですので、そんなことに触れながら挨拶させていただきました。金太中さんもすぐ思い出してくれて、妻のことを含め懐かしげに挨拶してくださいました。別れ際にはがっちり握手もしていただきました。
金太中さんは在日の方ですから、戦中・戦後の時間と空間を生き抜いてこられる間にはさまざまな屈折した思いがあると思いますが、詩はそうした思いを感情に走ることなく、まさに見事にうたっているとのことです。金太中さんを囲んで、東大時代からの友人で、高名なポーランド文学者の工藤幸雄さんも駆けつけおりました。さらに、道立文学館の平原一良学芸副館長、ロシア文学の工藤正広さんらも集い、難しくて楽しそうな会話が弾んでおりました。ちなみに、工藤正広さんは挨拶の中で金太中さんの詩を朗読されました。
会場には現代の北海道文学を語るにおいては、欠かすことのできない研究者の木原直彦さん、「北方文芸」の沢田誠一さん、さらに道産子作家の小檜山博さん、加藤多一さんもいます。「残響」で北海道文学賞を取られている田中和夫さんもいらっしゃいました。私は歌人や俳人には詳しくないのですが、それぞれ有名な方々ばかりで、やや気後れしました。私が担当していた時に短歌賞を取られている歌人の野田紘子さんとも久しぶりにお会いしましたが、元気そうでとてもうれしく思いました。
私が目標も定まらぬチンピラ時代にお会いした文学者の皆さんは、一層立派になり、そして少しおトシを召されていました。人間は鏡を持って生まれてくることができませんから、他人を鏡にするしかありません。すると、私は自分もまたトシを取っているのだろうと改めて思わされました。そして、問題は私が多くの文学者のように成熟しているかどうかです。私は相も変わらず無内容で、ミーハーのままです。しっかりしろ、谷口! そう心に言い聞かせましたが、文学者とのエキサイティングな夜は反省も多い夜でした。
☆☆☆★
<29>工藤正広『片歌紀行』(未知谷)
建部綾足って知ってますか? 私はほとんど知りませんでした。
では。略歴をカバーから引き写します。
建部綾足(たけべ・あやたり) 1719〜74年。江戸中期の国学者・俳人・画家・読本作者・紀行作家・伝奇小説家。雅号多数。津軽家老の次男だが出奔し、志田野坡に俳諧を学び、賀茂真淵に入門。各地に遊歴漂泊し、長崎で画を学び、片歌を提唱した。
マルチな人ということだけはわかりますね。で、「片歌」ってなんでしょう。
これは俳句が575の17文字なのに対して、577という19文字の短詩です。2文字多いのです。なぜかというと、俳句は短歌の575/77の発句の575の部分をとった片歌なのに対して、577というのは旋頭歌の577/577の片方の部分をとったからなのです。短歌の洗練性に対して、旋頭歌のほうはおおらかな祝祭の歌です。これを賞揚したというわけです。俳句のように季語は不要。声に出して心が澄み渡る=言霊のようなものがいいというわけです。
これは読んでみましたが、好き嫌いがあります。心は優しいけれど、厳しさがないという印象でした。たぶん、兄嫁との「不倫」のようなもので、若い時に事件を起こしていますから、どこかで菩提心のようなものがあったのかもしれません。でも、綾足はエンターテーナーですから、一方で「本朝水滸伝」のようなスーパー伝奇小説も書いて、そこにアイヌ民族のヒーローを登場させたりしていて、本当のところは小さくまとまっていない人物なのです。
工藤さんの筆によって、この未知の人物の心の動き、自然との関わり、人間との出会いなどが、まるで生きているかのように伝わってきます。活写という筆ですね。ヤマトタケルへの思慕というのも心に沁みますね。
片歌よりも、芭蕉門下の志田野坡に会った時に、披露した句がいいですね。
「木は蝉にもたれかかりて夕日かな」
「昼の蚊の夢一筋いもの蔓」
すごいです。本当に!綾足の片歌は音韻律の定型詩から自由詩への脱構築という見方もできるそうです。これも面白いですね。工藤さんのスケッチも入って、この評伝が実際に綾足の後を追った追体験紀行であることもよくわかります。入手しずらい本かもしれませんが、読んで損はありません。
★★★☆
<30>加藤典洋『僕が批評家になったわけ』(岩波書店)
ご存知、『敗戦後論』の加藤典洋さんです。『アメリカの影』とか、日本の一国的な枠を超えた発想がこの人の特徴ですが、これは「カナダのフランス語系の大学の東アジア研究所というところで図書館員をやっていた」ということが影響しているのだということがよくわかりました。たとえば、柄谷行人の『隠喩としての建築』という我々にしてみれば結構難しい本も、種本のダグラス・R・ホフスタッター「ゲーデル、エッシャー、バッハ−あるいは不思議の環」は北米の書店ではどこでも山積みにされていた、という当たりになんか欧米型文化になじんだ知的人間の余裕のようなものを感じさせます。
加藤さんのすごいところは、本来そうした一級の知識人でありながら、わかりやすいところで発言していることでしょう。それは文中に出てくる元東大全共闘議長の山本義隆さんの『磁力と重力の発見』という本を評する時の姿勢に出ています。「この本を披いて頁を追っていくとわかるのは、彼が身過ぎ世過ぎのためについたかに見える大学受験予備校での経験が、そうではなく、この著作を、異様なまでに柔軟でしかも精緻なものにしている」と加藤さんは書きます。
吉田兼好の『徒然草』を随所に引きながら、批評とは何かを問います。批評とは何かをいろいろ言ってます。でも、「ことばでできた思考の神体」であり、「自分で考えること」というあたりが前提で、「平熱の『つきつめ』」だと言います。熱狂とか難解ということを排して、なるべく普通の人に届くこと、わからないことがあることも自然という発想も面白いです。
図書館学者らしく、いろいろな本棚が並んでいます。1970年代の本屋のシーンでは桶谷秀昭『近代の奈落』、磯田光一『殉教の美学』、村上一郎『浪漫者の魂魄』、谷川雁『原点が存在する』、橋川文三『日本浪漫派批判序説』、吉本隆明『言語にとって美とは何か』、秋山駿『無用の告発』、川村二郎『限界の文学』、高橋和己『わが解体』、柄谷行人『畏怖する人間』、内村剛介『流亡と自存』、埴谷雄高『幻視のなかの政治』、羽仁五郎『都市の論理』…。なんだか懐かしくなりましたね。文学青年だったおじさんたちはこれらの本をほとんど読んでいると思います。遠いところに来ちゃいましたね。
★★★☆
<31>司馬遼太郎『北海道の諸道』(朝日文庫)『オホーツク諸道』(同)
国民作家、司馬遼太郎の名著「街道をゆく」シリーズの第15巻、第38巻である。何かの理由で(なぜだろう?)、きちんと読み直そうと思い、北海道関連の2冊に挑戦したのだ。あらためて、読んで感じたのは、司馬さんの文章の平易さである。ぜんぜん肩に力が入っておらず、それでいて、勘所をきっちりと押さえている。天才ぶりがわかる。
たとえば、函館ハリストス正教会を紹介するくだりで次のように書く。「日本の観光ブームは、歴史的な異常現象といっていい。かれらは日常の猥雑のなかからのがれるために、秩序的な美しさをこいもとめている。日本の国内にわずかに遺されているそういう場所に殺到して荒らしつくしたあと、笹の実を食いつくした野ネズミが海にむかうように海外にまで進出して駆けまわっている」。なるほど。これはまったく現在にもあてはまる。
考えさせられる預言も多い。
「もし幕府第一号の巨艦開陽丸がホイヘンス大佐の忠告どおりに鉄製艦になっていたとすれば、幕府瓦解前後の混乱はさらに大きかったにちがいない」とか「(条件的に同じ程度にもかかわらず)北海道はデンマークの経済や文化をもつことができないのである。決定的なことは、ヨーロッパ史と、2千年の稲作という単純な基盤−それがわるいというのではなく−の上に成立してきた極東の孤島の歴史のちがいであるといっていい」などと言った表現は示唆に富んでいる。
歴史でもなければ研究でもない不思議な読み物である。文章をうんぬんするのはおそれ多いが、さまざまな人物が陰影をもって語られるあたり、朝日新聞が得意とする「人国記」によく似ていると思った。遺跡調査の紹介では多くの学者・研究者の名前を並べ、「ときに野村崇氏は明治大学在学中ながら参加し、ほかに考古学を専攻した斉藤傑、森田知忠、雪田孝といったOBも参加した」というくだりを読み、旭川でお世話になった知人の名前を発見して驚くという具合である。
司馬史観というものがあるらしいが、私は不勉強でよくわからない、ただ、北海道論にしても狭い日本主義にならず、東南アジア、北東アジア、さらにアイヌ民族をはじめとした北方諸民族を射程に入れた国家像をイメージしているところが、素晴らしいとあらためて思った。創作活動に並行して書かれた膨大な作品群を思うと、作家の大きさに圧倒されるのであった。
★★★
<32>竹内洋『丸山真男の時代 大学・知識人・ジャーナリズム』(中公新書)
丸山真男がブームなのだそうだ。日本を代表する正統派の政治学者。『現代政治の思想と行動』所収の「超国家主義の論理と心理」という論文の影響力の大きさ。その一方で、私どものように大学とは名ばかりの農場に通った有象無象には、せいぜい『日本の思想』や鼎談(ていだん)『現代日本の革新思想』などでしか知らないままで過ごしてきた。
むしろエピソード的には全共闘学生の振るまいに対して、君らのような蛮行はナチス(右翼)ですらしなかった、と言い放ったという特権的な発言を聞き、なんだか嫌な感じを抱いたことを覚えている程度である。それは私たちの世代では政治学者・丸山真男よりは圧倒的に文学思想家・吉本隆明のほうを愛読していたのであり、影響力に違いがあるのは当然であった。
本書はそうした対立軸をもきっちりと押さえて、丸山真男の位相を浮かび上がらせようとした力作である。著者の竹内洋氏は1942年生まれ。京大教育学部、大学院を出ているが、丸山に傾倒した時期がある学者であるという。さらに、全共闘運動の華やかなりしころは大学院生として全共闘学生の「蛮行」を見聞きしていたそうである。その竹内氏の今回の著作は大学教授職の停年に合わせて企画されたというから、時代は本当に遠くまで来たものである。
さて、この著書のユニークさは丸山真男論であると同時に、その対極に日本版の赤狩り(マッカーシー)思想家の蓑田胸喜を置いたことである。蓑田は戦前、自由主義的な学者にレッテルを張っては糾弾、排斥に狂奔した人物だそうだ。残念ながら、その人物をイメージできないが、本書によって民間右翼ともいうべき蓑田イズムが正統派国家官僚の右傾化の露払いをしたこと、さらに、蓑田的なファナチズムが現代の学生にも存しているということを浮かび上がらせる。さらには過剰とも言える丸山の全共闘学生への反応には、津田左右吉糾弾などの戦前右翼の姿が記憶されている故だというのだ。
丸山がアカデミズムをホームグランドとしつつ、効果的にジャーナリズムに登場して、相乗的に自らの権威を高めていったこと、法学部的知と文学部的知を交叉させて絶妙なポジションを獲得したことなどをを見事に解き明かす。そして、大衆的知識人の時代ともいうべき現代が、丸山的なトリックスターの極北であるのかを最後に問うてみせる。丸山真男とは何かを知る的確な入門書であろう。私たちは依然として丸山的なものを好きにはなれないが、それでも多くのことを理解することができるだろう。
★☆
<33>子安宣邦『本居宣長とは誰か』(平凡社新書)
本居宣長に関する思い出がある。仕事の旅の途中、三重・松阪に立ち寄ったのである。私は偏食であるから、松阪牛などには無関係。ひとえに「伊勢・松阪の人である」という本居宣長の軌跡に近づくべく記念館を訪ねたのである。当たりも落ち着いて、とてもいい記念館でした。一見の価値があります。
記念館のホームページから宣長の略歴を引用します。「享保15年5月7日(1730・6・21)〜享和元年9月29日(1801・11・5)。18世紀最大の日本古典研究家。伊勢国松坂(三重県松阪市)の人。木綿商の家に生まれるが、医者となる。医業の傍ら『源氏物語』などことばや日本古典を講義し、また現存する日本最古の歴史書『古事記』を研究し、35年をかけて『古事記伝』44巻を執筆する。主著は他に『源氏物語玉の小櫛』、『玉勝間』、『うひ山ふみ』、『秘本玉くしげ』、『菅笠日記』など。鈴と山桜をこよなく愛し、書斎を「鈴屋」と呼び、また山室山にある奥墓には山桜が植えられている」とあります。
宣長は書斎を「鈴屋」と号したように、鈴が好きだったらしく、私も憂き世の澱を祓う一助になれば、と鈴を買ってきました。もっともお土産の常で、その鈴も今はどこにあるのやら不明でありますが。
さて、「物のあわれを知る心」の再発見が宣長の真骨頂です。子安先生の指摘によれば「事に触れ、物に触れることの多い人間の生活においてさまざまに動く心のあり方」を言うのだそうです。先験的なものではなく、現象学的な言い方が宣長の特徴です。
そして、『古事記伝』。「漢意(からごごろ)」を排して「やまとごころ」を読み込むわけですね。子安さんは「漢字借り物観」として、「純粋固有なやまと言葉が存在すると考えるものにとって、漢字は中国という異言語世界からの借り物」だという考えが宣長から始まったと指摘しています。でも、その「国学」はファナチズムと近似的です。上田秋成との「日の神」論争を見ると、どう見ても秋成がまともです。宣長は「皇国こそが万国の宗国であり本国」という考えですから、神国日本の天皇制イデオロギーに与します。
死生観も神道を徹底化するとすごいですよ。普通の宗教では人間は来世で天国に行くのですが、宣長によれば「人は死ねば善人も悪人も」「きたなく悪しき黄泉(よみ)の国」へ行くのだと言っているそうです。論理的帰結とはいえ、寒々しいペシミズムの光景が広がっていますね。それで、彼は遺書を書くのですが、自分の葬儀をまさに唯物論的に指示したものなのです。きっちり死んだというのが透徹しています。
子安さんは宣長を真っ向からは全然批判していませんが、「物のあわれ」にしても「やまとごごろ」も何か病的に見えます。ちなみに、宣長の師匠の賀茂真淵は宣長の歌を見て「いう言葉もない。これは歌ではない、俳諧だ。こういう歌を好むのなら、もう万葉についての質問はお止めなさい」と厳しく叱ったそうです。その本居宣長の歌は、還暦に自ら詠じた「敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂う 山桜花」が有名です。これって、美しいけれど、なにかニヒルですね。窪塚洋介君の映画「凶気の桜」の世界ですね。嫌いじゃないけれど、何かに「憑かれている」。そのデモーニッシュな衝動がダークサイド(暗黒面)に落ちていくようで、とても興味深いですね。
☆
<34>大江健三郎『さようなら、私の本よ!』(講談社)
大江健三郎! 昔は読んだけどなあ。その後、読まなくなってしまったな。ノーベル賞作家ですよね。しかし、なんか縁遠い。なぜかというと、この人の政治姿勢とナーバスなところがこちらの感性とまったくマッチしなかったのだと思う。つまり戦後民主主義者のある種の煮ても焼いても食えないところが。僕らはたぶん吉本隆明の影響を多く受けているので、彼の「ヒロシマ論」にしても、結局はどうも本当の弱い大衆の根源的な怒りのようなものに通底していなかったのではないかという疑念があるのである。
今回、どう魔が差したものか。『さようなら、私の本よ!』という本書を買ってしまった。正直参った。「老人の愚行」をテーマに(あるいは題材に)した作品は、内容の深刻さに比べて極めて多弁なユーモア小説然としている。そして、随所にエリオットやドストエフスキーやナバコフやらの引用が登場して、まったくもって教養小説とはこういうものかという具合に展開していくのである。
さらに困ったことに、登場人物の長江古義人(コギト!)はまさしく大江健三郎本人らしいし、その取り巻きは実際に彼の周辺に存在する人物らしいのだ。別に私は大江さんの交友関係にまったく興味がないが、自殺した映画監督や障害のある子どもやら、それが虚実ないまぜて登場するから、困ってしまうのだ。一種の私小説の選民文学かと思った。
そして、9・11NYテロで舞い上がった建築家は「ジュネーヴ指令」やらを持ち出して、国家の暴力に対する個人の暴力を対置することを妄想して、建物爆破を夢想するのだ。もちろんそれは尻すぼみで終わる。そして、それは、かの三島由紀夫の市ケ谷自衛隊決起とのアナロジーとなるようなのだ。本作で石原らしき人物は俗物そのものであるが、三島は伝説を秘め、生き延びていれば、さらにラディカルになり得る人物として描かれているのが極めて象徴的で、三島オマージュのようにも読めた。
私の印象に残ったのは次のような部分だ。「今日は自分が死ぬ日だとわかっている朝、新聞を隅から隅まで読んで、核廃絶の気配はないと観念して、ワーワー泣く」夢を見るのだそうだ。なんという現実乖離! こういうところが、わが吉本隆明が、丸山真男や大江健三郎らの戦後民主主義知識人を嫌う感性的な根拠であると思った。私はと言えば、この作品をなんとか読み終えて一種の諧謔(かいぎゃく)劇画と読んでしまったのである。
★★★☆
<35>島泰三『安田講堂 1968―1969』(中公新書)
そうか。全共闘運動のエポックとなった東大安田講堂防衛戦から、もう37年になるのか。時の流れはいかにも速い。日本中を騒然とさせた連合赤軍のあさま山荘事件ですら33年を過ぎている。それらはもう歴史の世界に静かに近づきつつある。とりわけ団塊の世代にとって、それらの出来事は青春に重なっているから、思い複雑なものがあろう。
その世代も老年期を控え、会社勤めの者は前線を引退しつつあるし、ある者は早い死を迎えつつある。とすれば、今まで内奥に封印していた事実のいくつかを語り始めるのもむべなるものがある。島泰三氏による本書もそうした「秘録」の一種と言える。
島氏は東大全共闘の占拠する安田講堂で「本郷学生隊長」として、機動隊との攻防戦の経験者だ。逮捕され2年の懲役刑を受けている。その後、動物学者としてニホンザルの研究者として一家をなし、国内外で活躍していることが経歴で分かる。静かな生活を送ってきた島氏が本書を執筆する動機をまとめると次の3点が挙げられる。1つは安田講堂ろう城組に東大生が少なかったという風説の誤りを指摘すること。2つはなぜ当時の学生が闘争に決起したかの根拠を示すこと。3つは同世代の死者たちが増える中で、真相を明らかにすることが歴史的な責任と考えたことである。
新書であるがボリュームはかなりのものだ。しかも、トリヴィアルな部分が当時者ならではの詳しさがある。伝わってくるのは安田講堂決戦参加が自由意志であったということと、それでいて闘わざるを得ないのはある種の必然であったということである。「歴史の中の個人」の存在意義を考えさせられた。対米追随の日本政府がいかに国民感情を無視したものであるか。アメリカのベトナム戦争がいかに大義なき非道であるか。学生の先駆的戦いが多くの支持を得ながら、青年らしい純粋さゆえに思いつめ、大人はそうした若者を包容できなかったか。いくつもの「もし」とともに崇高な思いが伝わってきた。
内容について、批判的な立場の人からはバイアスがかかっているとの指摘が出るだろうと思う。さらに著者の政治哲学的な傾向を反映してか、任侠的な義を重んじ、さらに勲(いさお)しに感性的な価値を見いだしていることも、やや消えぬ血気として違和を覚えることもある。たとえば、三島由紀夫に対する評価にそれは出ている。それでも、時間が過ぎれば過ぎるほど見えてきた戦いの正当性に揺らぎはないことが分かる。オビに道浦母都子の「無援の抒情」の一首が飾られているのが、本書の情熱のありかを示している。
明日あると信じて来たる屋上に旗となるまで立ちつくすべし
勝手にweb書評5
へ
勝手にweb書評6
へ
■
トップページに戻る
このページの先頭へ
ナビゲーション
トップページ
top page
庵主漫録
DIARY
タイソン広場
DIARY
青空文学集
COMPLETE
文学美術網
LA-PORTAL
文学年史
HISTORY
何を読んだか
NEWBOOKS
バナースペース
2
Link
k 2
shop info
店舗情報
Private House of Hokkaido Literature & Critic
【闘病記】その1
大下血で緊急入院
【闘病記】その2
悪性リンパ腫発症
抗癌剤+放射線治療
ご意見はこちらへ
■
サイト内の検索ができます
passed